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黒田如水134

时间: 2018-11-16    进入日语论坛
核心提示:草履片方・下駄片方三 その年の冬から翌年の正月にかけては、彼はまた、親のそばにも姫路にも侍《じ》していなかった。めずらし
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 草履片方・下駄片方
 
 その年の冬から翌年の正月にかけては、彼はまた、親のそばにも姫路にも侍《じ》していなかった。めずらしく私的な旅行をして歩いていた。
 治内の視察か、敵状の検察《けんさつ》か。それのみではないらしい。彼はしきりと、
「旧主小寺政職《まさもと》どのには、今どこにおられるか」
 を、あらゆる知縁をたどって、諸国に探しあるいていた。
 御着を離散して後、小寺政職が備後に亡命したことだけは聞き得ていた。しかし漂泊《ひようはく》して行く先々の人情はすでに政職の頼りに考えていた知己とは違っていた。そのうちに連れていた僅かな召使もみな離れ、鞆《とも》の津《つ》に病んで、間もなくそこで歿したということが知れた。
「——それにしても、ご子息の氏職《うじもと》どのや奥方はまだおられるにちがいない」
 官兵衛はいちど立ち帰って、秀吉の了解《りようかい》を得、自身、鞆の津へ出向いた。
 しかし鞆へ行っても、その居所はなかなか知れなかった。いかに零落《れいらく》しても、かつては一城の主、なお若党小者の三、四人はいる暮しと考えていたからである。——ところが、ようやく知れた住居へ行ってみると、ひどい路地裏の長屋住居で、変り果てた氏職が手内職をしているし、政職の夫人は、氏職の子を負うて、子の襁褓《むつき》を自ら濯《すす》いでいるという有様だった。
「——官兵衛か。お許《もと》に会わせる顔はない」
 氏職も政職の夫人も、彼の突然な訪れに会うと、穴にも入りたいばかり詫びて泣いた。官兵衛も実に暗然とした。そして一歩踏み外《はず》したがさいご、人の姿も家門のかたちも、かくまで急に転落するものかと、社会の仮借《かしやく》なさに愕《おどろ》かれた。
「ともあれ、それがしと共に、ご帰国なされまし。決して決してご危害の及ぶようなご心配はありません」
 家臣に命じて、一切を支度させ、旧主の夫人、遺子、その孫までを伴って、官兵衛は御着へ帰った。
 そして秀吉を通じて信長へ、
「何とぞ、お怒りを解かれて、小寺家の跡目を、その遺子に相続なすべきことを、ご聴許《ちようきよ》下しおかれますように」
 と、再三願い出たが、どうしても信長の許すところとならなかった。秀吉もまた、このことだけは、余り熱心にならなかった。なぜならば、いまや随所に、大小の旧地方豪族を取潰《とりつぶ》している最中だった。殊に、小寺政職の一たんの離反は余りにも悪質であり、これに家名の再興をゆるしてはと、政治的にもおもしろからずと考えられたからである。
 しかしなお旧恩を思う官兵衛は、氏職たちを離さなかった。わがうけた采邑《さいゆう》の一部を割いてこれを禄し、以後、黒田家の客分として、礼遇《れいぐう》も落とさず、その子孫を世々養ってゆくこと、官兵衛一代だけでなく、明治維新の時にまで及んでいる。
 その年、彼は更にまた一万石を加えられ、山崎の一城をも附せられた。官兵衛はさっそく、老父の宗円をその方に住まわせた。宗円もよろこんで、これで初めて、余生の家を得た気がするといった。
 同時に、このときを記念して、彼は、黒田家を象徴《しようちよう》する軍旗と馬簾《ばれん》などを新たに制定した。旗幟《はたのぼり》の印には、永楽通宝《えいらくつうほう》を黒地に白く抜き出した。また従来の家紋は、橘《たちばな》であったが、それも更《か》えて、藤巴《ふじどもえ》とした。
 山崎城内の神前で、軍旗祭の執り行われた日、秀吉はわざわざ出向いて来て、
「勇壮勇壮。官兵衛もまだ壮年、秀吉も壮年。やがてこの旗幟が、どれほど敵また敵の中を次々に分けて進むか、官兵衛一代にかけて見ものであろう」
 と、祝辞をのべて、後、酒宴のとき、
「家紋は滅多《めつた》に更えるものではないと申すが、何で藤巴にあらためたのか」
 と、いぶかしげに訊ねた。
 すると官兵衛は杯を下において、この夜初めて秀吉に伊丹城中一年の苦しみを述懐したとのことである。そして座にいあわせた母里太兵衛や、栗山善助などの家臣をもかえりみて、
「これらの者の忠節をわすれぬ為と、身にとっては、喉元すぎると熱さを忘れるの喩《たと》えもありますから心に驕《おご》りの生じたときは、すぐ伊丹の獄窓を思い出すように、と希《ねが》う心からでござります。——あのころ、日々、仰ぎ見ては、心に銘じた獄窓の藤花こそ、申さば官兵衛の生涯の師であり、家の吉祥《きつしよう》でもありますので」
 と、答えたという。
 もういちどここで彼の年齢を指折ってみよう。とき天正九年、彼は三十六歳であった。
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