忠平はよく肥っている。ぶよぶよな餅肌《もちはだ》だった。そこで、小一条の左大臣は、夏まけのお質《たち》といわれ、宮中の定評にもなっている。当人もそれをよいことにし、よほどな政務でもないかぎり、真夏の参内はめったにしない。
しかし、小一条の館の管絃は、毎晩のようであった。宴楽には、倦《う》むことを知らないらしい。もっとも、加茂川の上流から三十六峰は庭のうちのようだし、泉殿や釣殿の下には、せせらぎを流して、ここでは、暑さをいう遑《いとま》もあろうはずはない。殊に、紫陽花《あじさい》の壺は、対《たい》ノ屋《や》から長い渡り廊下をへだて、内裏の弘徽殿も及ばない構造といわれている。
むかし、河原左大臣源融《みなもとのとおる》は、毎月二十石の潮水を尼ケ崎から運搬させ、その六条の邸にたたえ、陸奥の塩釜《しおがま》の景をうつして、都のたおやめを、潮汲《しおく》みの海女《あ ま》に擬し、驕奢の随一を誇ったというが、忠平には、それほどばかな衒気《げんき》もない。むしろ、実質主義である。紫陽花の壺には、たったひとりの佳人しか、かくまっていない。
佳人の名は、壺(庭、建物の称)の名をとって、紫陽花の君とよばれている。天皇をはじめ、総じて、一夫多妻はあたりまえな慣いとされている世なので、この君が、忠平にとって、何番目の夫人というべきかなどは、詮索のかぎりでない。けれど、いぶかるべきは、かりにも、時めく大臣の愛人であるものが、いつのまにか、いつからここに住むようになったのか、邸内でも知る者がないのだった。それのみか、氏素姓を何よりやかましくいう階級において、この君の身元についても、誰知る者もないのである。
この不審が、もっとも露骨にささやかれているのは、下司《げす》の陰口といわれる通り、何といっても、下部《しもべ》の仕え人《びと》たちである。
「……見たか」と、いい、「……いや、見ぬ」といい。
「おれは、ちらと、垣間《かいま》見たぞ」というのがあれば、「じゃあ、おれも何とか、いちどは覗いてみなくては」と、秘苑の花に妄想をもつのであった。なべて、高貴な上淫に異様な、妄念にこがれるのは凡下《ぼんげ》のつねで、そのささやきは、餓鬼が壁をへだてて、隣の食物のにおいに美味を想像するのと異ならない。声こそヒソヒソだが、凄《すさま》じいの何の、いうばかりもない。
その紫陽花の壺へは、老家司の臣賀のほかは、庭掃除の舎人でも、男は、ゆるしなくは入れぬことになっているが——麗人を見たという幸運なる一人の雑色のはなしによると、「お年ごろは思いのほか、二十四、五に見られたが、それはもう、この世のひととは思えない。夏なので、白絹《すずし》にちかい淡色《うすいろ》の袿《うちぎ》に、羅衣《うすもの》の襲ね色を袖や襟にのぞかせ、長やかな黒髪は、その人の身丈ほどもあるかとさえ思われた。櫛匣《くしげ》をおき、鏡にむこうておられたのを、なかば捲かれた御簾《みす》ごしに見たのだが……」などと、乏しいかれらの形容詞ではなかなかいいきれない程に、艶《えん》なるさまを、説明して聞かすのであった。
小次郎も、それは幾たびか耳にして、ひとしい物好みの血を、彼も人知れず掻《か》きたてられていた。ところが、はからずも——それは、短夜も明け遠い気がするほど寝ぐるしかった土用の真夜半、おもいがけなく、紫陽花の君のすがたを、あらわに、しかも目《ま》のあたりに見得るような、一つの事件にぶつかったのであった。
彼は時々、こっそりと、館の裏へ抜け出して、加茂川の中に身を沈め、独りジャブジャブと夜を水に遊ぶ習慣をもっていた。からだの垢や汗を流すばかりでなく、自然なる水の意志や生気と戯れあって、本来の野性と、若い体熱に、思いのままな呼吸をさせる楽しさが、何ともいえぬよろこびだった。
これは、彼ひとりでなく、他の多くの下部でも、たそがれ過ぎには、皆やる水浴であった。しかし彼のばあいは、蚤虱《のみしらみ》に寝もだえる夜半だの、未明の頃に限っていた。人知れず、寝どこを抜け出し、加茂川と一天の涼夜をわがもの顔に、河鹿《かじか》と共にあることが、ひそかな愉悦であったのである。
——その晩も。いや、もう五更《こう》の頃であった。例のごとく、まっ裸になって、清流に身をなぶらせていると、対岸の糺《ただす》ノ森の下《しも》あたりから、一群の人影が川原の方へ降りて来た。うち七、八名は、浅瀬をこえて、こっちへ渡って来る様子。——はてな? と見ているまに、それらの者の影は、小一条の館の裏手に、ふたりほどの見張をのこし、あとはみな、紫陽花の壺の築土をこえて、中へ掻き消えてしまったのである。……小次郎は、終始、眼をまろくして見ていたが、やがて、愕然と、気がついた。
「あっ……。群盗だ。……とうとう、ここへもやって来た」