「ここは通れませぬ」——彼女は好意のある注意を与えてほほ笑んだ。「何か、御用ですの? ……。木戸を間違えたのじゃありませんか」
親しげにこう訊かれて、将門は、また、どぎまぎした。理由のない羞恥を、自分では、見ッともないと思いながら、思うほど、なお、顔を赤くした。
「いえ、水です。水を一ぱい、欲しいと思って」
「お飲《あ》がりになる水ですか」
「ええ。朝から、草息《くさいき》れの道を、馬で乗り通して来たので、ここにつくと急に、のどの渇きを覚えたところへ、そこらに、水音が聞えたものですから」
「ホホホホ。それなら、こちらへ来て、おあがりなさいませ。おやすいことです」
彼女は、壺の木の間を縫い、そこの瀟洒《しようしや》な家の水屋へかくれた。
器に水をたたえ、こんどは、廊の妻戸から立ち現われて、将門の前へすすめた。将門は、簀《す》の子(縁)の端に腰かけた。そして、予期しなかった落着きにつつまれたように、あたりのたたずまいを見まわした。
「こうしていると、どこか、都のお住居のようですな」
「都。……あの平安の都を、あなたは、ごぞんじなのですか」
「え。永いこと、あちらへ、行っておりました」
「まあ」と、女性は、大げさな程、なつかしむ表情をして「都は、どちらに、おいででしたの」
「小一条の左大臣家にもおりましたし、後に、御所の滝口にも、勤めたりなどして」
「では、あなたは、豊田の御子の、将門様ではありませんか」
「そうです。小次郎将門です」ようやく、彼は彼女を正視することができて——「私を、御存知ですか」と、心の距離を急にのぞいた。
「いいえ。お会いするのは、初めてですが、おうわさは、聞いていました。それに私も、元は、都の者ですから」
「そうですか。どうも、そうではないかと思いました」
「どうしてです?」
「どこやら、都の風《ふう》がおありになるし、こんな、土も粗い風も荒い東国の果てに、あなたのような美しい人が……と」
「あれ、あんなことを、仰っしゃって」
彼女は、耳のあたりを、ぱっと染めて、自分の顔を、自分の肩のうしろへ隠した。からだの姿態につれて、長やかな黒髪もやさしい曲線を描いた。将門は、彼女の袿衣《うちぎ》の襟あしから、久しくわすれていた都人の白粉の香を嗅ぎとって、何もかも、忘れていた。
すると、さっき奥へ取次にはいった良兼の家人たちに違いなかった三、四人の声がして、しきりに将門を探し廻っていた。そしてふと、中の一人が、ここの廂の下を、木の間ごしに窺って、
「や。いたわ。ここにおる。玉虫どのの局に来て、話しこんでいるわ」
と、あきれたように、ほかの者を、呼びたてた。
将門は、弾《はじ》かれたように、縁を離れて、自分から家人たちの方へ、歩みだした。良兼の家人たちは、彼と玉虫のすがたを、等分に見くらべて、瞬間、妙な顔をしていたが、
「豊田の小殿《ことの》。——良兼様が会うてやると仰せられた。こちらへ、渡られい」
と、先に立った。そしてもとの広前に戻り、そこから館の内へ、案内して行った。