足立郡司判官代武芝のやしきは、後世、江戸時代には三田聖坂といった芝の高台にあった。
古文書には、武芝はまた、竹柴村とも書かれ、あの辺の高地は、すぐ断崖の真下を、打寄せる東海の波が洗っていた。
そして、磯を、武芝ノ浦とよび、牟邪志乃国造以来の豪族——武蔵《むさしの》大掾《だいじよう》武芝は、見晴らしのよい山の上に、宏壮な居館をかまえていた。
当時。
ここから、彼の管領している武蔵一国を、鳥瞰《ちようかん》してみるならば——。
まず、いまの東京都の下町一帯は、ほとんど、海であったと観てよい。
浅草の森、根津、本郷辺の原始林、そして、太やかな大河が、高地の鬱林の間から、海へ吐け出し、その河辺に沿って、所々、自然に土砂が溜って出来た洲が彼方此方に葭や芦を生い茂らせていたであろう。(それらの洲や沼や自然なる泥土が、後の千代田区、中央区などである)
武蔵は、江戸時代で二十二郡といわれたが、中古では、武蔵十郡に分れていた。そして、その内の中武蔵は、北を豊島郡といい、南を荏原《えばら》郡と称し、芝の赤羽川をその境界としていたのである。
で、武芝の居館は、時代的に観ると、やはりその頃にあっては、領下の荘園を管理するに都合のいい枢要地にあったものにちがいない。
そして、彼は折々、ここから、多摩の府中にある国府ノ庁へ、通っていた。
「近頃、都から、右馬允貞盛が来て、経基の館に、逗留しているようです。——いちど、お訪ねなされてはどうでしょう」
武芝の家人は、市で聞いて来た噂というのを、主人につたえて、そう勧めた。
「ばかをいえ、おれから出向くことがあるものか」
武芝は、武蔵の国主をもって、自ら任じていたので、
「——右馬允風情が、来たからとて、なにもおれから膝を曲げて、御機嫌伺いに出向くことはない。用があるなら、彼の方からやって来るさ」
と、ほとんど、眼もくれていなかった。
ところが、やはり気には懸るので、内々、入れてある密偵をよび寄せて、探らせてみると、貞盛の滞在中、興世王も加わって、たびたび、密議がひらかれ、また、ひそかに、兵備も進められているらしいという。
「……はてな?」
と、武芝が、警戒し出した時は、もう遅かったのである。ある日の早暁、約二千ほどの兵が、ここを急襲して来た。
武芝には、応戦の備えがなかった。
彼は、伝来の家宝や財を、そっくり居館に残したまま、妻子を、磯から船で落し、自分は、わずかな郎党をつれて、丘づたいに、多摩河原を辿って、調布にのがれ、府中の国庁には、異変はないと知ったので、府中へ逃げて行った。
しかし、翌日にはもう、府中へも、興世王と経基の兵が襲せて来ると聞えたので、
「よし。国庁にたて籠って、さいごまで、戦おう」
と、俄に、戦備を触れ出したが、庁の地方吏たちは、日頃から彼の暴慢を憎んでいたし、領民もまた、多年、武芝に反感をいだいていたので、進んで、彼と共に、難に当ろうという者もない。
「ええ、ふがいない奴らだ。今に見ておれ」
と、捨てぜりふを残して、ぜひなく、武芝はまた、そこを落ちのびた。そして、はるか多摩の西北地方——狭山《さやま》の辺りに、身を隠した。狭山には、彼の別邸があったらしい。
興世王と経基の示威運動は成功した。
二人は、武芝の居館の財物を没収し、国府に君臨して、訓令を発し、武芝に代って、新たに時務を執った。
「うぬ。どうして、くれよう」
武芝は、鬱憤やる方なく、日夜、報復を考えた。
国庁の内には、なお彼の方へも、二股かけて、色気をもつ小吏も多い。
それらを操って、内部の時務を怠らせ、外部からは、流言や放火やさまざまな不安を起して、攪乱《かくらん》を計った。武芝のこの逆戦法も成功した。結局、国庁は蜂の巣のような存在になり、貞盛が意図した筑波への出兵などは、到底、望みもされないてんやわんやに陥ち入ってしまった。