野営、幾夜。
甲軍は、大門峠を越え、小県《ちいさがた》から長久保へ出た。
千曲の水を見る日頃には、味方の海津城から連絡して来る伝令の騎馬が櫛の歯をひくように敵状を知らせて来る。
「……うむ。うウむ」
とのみで、信玄は次第に無口になって、帷幕《いばく》の人々との対談でも、伝令の報告を聞くのでも、ただ頷《うなず》きを以てするようになっていた。
千曲川の左岸をとって、更級郡《さらしなぐん》の塩崎あたりまで来た頃には、甲府発向のときより目立って兵力も増加していたし、将士の面も、曠野の秋風に吹き研《と》がれて、どことなく鳥肌になっていた。
「……冷たいぞ。越後から吹いてくる風だ」
と、誰かがつぶやく。
下伊奈の下条兵部とその兵が、ここで馳せ参じた。着陣帳の到着順を見るに、日頃の味方は、一郷一村のさむらいも、殆ど余すところなく参陣したかに思われる。
——が、総体の士気はなお、どこか寒々と見えた。その原因を、士《さむらい》大将のひとり小山田弥三郎信茂《のぶしげ》は、
「ここへ来てから、いつにないお館の念入りな御思案ではある。こんどに限って、なぜ電撃な御命令が出ないのか」
と、みな怪訝《いぶか》っているという点にある——と称していた。
信茂の不審は、あながち彼だけの不審ではなかった。甲府発向はあのように一刻をも争いながら、この広大な盆地に臨んでからの信玄は、あたかもわざと道草でもするように、犀川《さいがわ》に沿い、千曲《ちくま》の急流を測り、山に拠ってみたり、丘を擁して兵馬を休めてみたり、容易に、その拠《よ》るところの全陣地が定まらないもののように見えた。
二十四日に至って、漸く信玄はその本陣を、
「ここ」
と、決意したらしい。
それは更級郡の一部、信里村《のぶさとむら》の一丘。茶臼山《ちやうすやま》と土地の者の呼んでいる高地である。
武田家の軍旗、一丈八尺の紺地に、
疾如レ風。 徐如レ林。
侵掠如レ火。不レ動如レ山。
と、金色《こんじき》の文字を二行にしるしたものと、一丈三尺の真っ赤な幟《のぼり》に、
南無諏訪南宮法性上下大明神
と一行に書かれてあるものとがそこに立てられた。
信玄は、その旌旗《せいき》の鳴りやまぬ秋風の下に、床几をすえさせて、極めて、静かな眸をしていた。充分に眠りを摂《と》ったあとのように何の濁《にご》りもない眼であった。
「解《げ》せぬことである……」
彼の唇は、幾たびも、同じ呟きをもらしていた。
犀川、千曲川の二流を抱いている広茫な地域の彼方に、謙信の拠っている妻女山は見えている。
うららかに。静かに。
実に何の剣槍の気すらなく。
けれど、地形的に観るに、その妻女山の陣は、いかに信玄が多年の経験と兵法から推理しても、解きがたい謎であった。——まるで捨身《すてみ》のかまえとしか見えない。もし位置を更《か》えて、信玄がそれに拠るとしたら、信玄は決して晏如《あんじよ》としていられない気がする。
「死地。……好んで死地を陣にとるとは?」
智者はかえって智に溺《おぼ》れる——という。信玄は、誡めてみた。しかし、智を以てせずに、彼の智を観破《かんぱ》することはできない気もする。
「あ。——ここでもない。味方の陣は、ここでもまずい」
彼は、床几から身を捻《ひね》った。
うしろといわず、陣中につめ合っている面々をながめれば——嫡子太郎義信、弟の典厩信繁、また次弟の武田逍遥軒をはじめ、長坂長閑《ながさかちようかん》、穴山伊豆、飯富《おぶ》兵部、山県《やまがた》三郎兵衛、内藤修理、原隼人《はやと》、山本勘介入道道鬼など、誰を、眼に求めていいか、ちょっと惑《まど》うほどである。
山上山下の旗幟《はたじるし》を見ても。
甘利《あまり》左衛門尉《じよう》——小山田備中——馬場信春《のぶはる》——小畑《おばた》山城守——真田弾正一徳斎——小笠原若狭守——諸角豊後守《もろずみぶんごのかみ》——一条信秀——相木市兵衛——蘆田《あしだ》下野《しもつけの》守《かみ》——などそれぞれの陣旗がへんぽんと風に鳴りはためいて、馬のいななきや、兵の雑音とともに、天地の秋声をここに集めているようだった。
「陣払いせい。ここを去って、雨宮の渡しまで降れ。——千曲川を前に、北の岸、雨宮の渡しをとって、各、持場を取れ」
よほど急に思い立ったことと見えた。左右の老将や謀臣に諮《はか》ることもしなかったし、それを通じて下知《げち》する法もとらずに、彼自身、こう唐突に号令を出したのであった。
それとともに、信玄は、陣幕の中を歩き巡っていた。歩きつつもなおしきりに自己の智と闘っているふうだった。たとえば囲碁の名人が容易に下さない一石の前にも似ている。時に唇をむすんだまま足もとの地上を凝視《ぎようし》していたりした。直射する秋の日の下には、なおたくさんな蟻の穴に蟻が往来していた。