折敷の上の肴を見ると、この辺の川魚や蔬菜ではない。越後の海の物だ、また雪国の珍味だった。酒はもちろん清酒ではない。しかし甲斐や信濃のそれとは比較にならないほど香りが佳《よ》い。——こんなものまで携《たずさ》えているようでは、兵糧の荷駄にもおそらく莫大な量を積んで来ているにちがいない。
伝右衛門はすぐそんなことを考えめぐらしていた。そのうちに、鬼小島弥太郎が、ただ一人で接待に来た。
「ここでは、どうか御遠慮なく、おくつろぎ下さい」
弥太郎はまず自分から打解《うちと》けて見せた。そして、こうもいった。
「御主君には、往年、この弥太郎が、甲府の御城下にまぎれこんでいた時、あなたの為に、難なく国外へ出ることができたという——あの事を、てまえから聞いて、知っておられる。それ故、わざと御接待に出して、旧情を温めよとの、有難い思召しかと思われます。……改めてお礼をいう。あの節は、お見のがしにあずかって忝《かたじけの》うござった。お蔭に依って、以来越後に帰国、こうして御奉公しています」
「いやいや、お礼など、かえって迷惑じゃ。御辺《ごへん》はどう受け取っておられるか知らんが、伝右衛門としては、かりそめにも、敵方の間諜たる者を、見のがした覚えなどはない。——ただ貴公が、姿を変えて甲府の鍛冶の家に火土捏《ほどこ》ねをしていた姿は思い出される。けれど、そういう例は、敵味方、まま有りがちな事といえる」
「そうそう、その御一言で思い出した。あなたには、幾人の御息女がおありですか」
「むすめ共《ども》のことをお訊ねか」
唐突なのに愕《おどろ》いたのであろう。伝右衛門の眼にそんな光が見えた。この戦場の空、しかも使者として臨んでいる敵陣の中、五体のどこをさがしても全く無い憶《おも》いを、強いて求められた狼狽といえる。
「長女も次女もすでに他家へ嫁し、ほかに娘とよぶ者はおらぬが」
「いや、おられるでしょう」
弥太郎は、笑った口へ、杯の酒を含んだ。
「それがしが甲府にいたころ、そのころ、まだ十歳にもなられぬ愛くるしい御息女がたしかにおられた。町でも見、御社《みやしろ》の庭でも見、よく覚えておる。——ところがその後、年を経て同じおひとを、春日山の御城下に見た。何とそれが、上杉家の臣、黒川大隅家のやしきに召使となっておる。聞けば善光寺あたりからさる者の世話で、大隅家の一人娘の傅女《こしもと》として雇い入れたものという。……名は鶴菜《つるな》どの、左の唇のほとりに黒子《ほくろ》がある。そしてどこやらあなたの面ざしにも似かようておる」
「…………」
「伝右衛門どの、善光寺詣での折にでも、そうしたおむすめ御を道で落した覚えはありませぬか。もしお尋ねならば、いるところをお教え申したいが」
骨太い戦国武者のあらぎもが、この時もう伝右衛門の肚《はら》に甦《よみがえ》っていた。ふいに、杯の酒を手から揺りこぼして、笑い出したものだった。
「いや、そういわれて、伝右も思い出してござる。真《まこと》に数年前、善光寺辺で末娘をひとり見失い申した。それが越後に拾われて行ったのを、貴公がお見かけなされたとは、奇縁奇縁。さだめしよい年ばえになっていましょうな。さりとて、見たい気もいたさぬ。おる所にいさせて天意におまかせしておこう。元々《もともと》、迷い子にした子でござれば」
「さて、気づよい親御どのではある。そのお子が、いるところにおるなれば、それも宜《よろ》しかろうが、それがしの知るところでは、鶴菜どのはもう越後にいません。それもごく近日越後を脱して、親兄弟のいる空へ帰りかけた。だが、惜しいかなまだ甲州の地を踏まぬうちに、ここらあたりでまたはぐれたらしい。こんどは真《まこと》の親御の手に拾い上げられてほしいと念じていることであろう」
「なに、このあたりで——」と、伝右衛門は思わず杯を下に置いた。そのとたんにまた彼は人の子の父になっていた。断《た》っても断っても断ちきれないものに繋がれている自分をもがくように膝をすすめた。
「……ほんとでござるか、それは。いま仰せられたことは」
「何で、このような戯《たわむ》れを、この際に」
「ど、どうして、彼娘《あ れ》がこのあたりになど」
「仔細は存ぜぬ、しかし昨夕、千曲川の向う河原に、どこからともなく彷徨《さまよ》うて来た旅の女がいました。馬糧を刈っていた武田方の軍夫に道でもたずねているふうであった。常時、この妻女山に立っている物見は、武田方とみれば容赦はしません。四、五挺の鉄砲をならべて人夫共を撃ちました。その一発が、あわれ、鶴菜どののどこかに中《あた》った。——よう似ているがと、同じこの山から、それを凝視《ぎようし》していたそれがしがしまったと、かけ下りて来て、物見の足軽どもを止めた時はもう間にあわぬ。すぐ川を越えて、救いにと思ったが、待てと、考え当ったのは、ふたたび川の此方《こなた》へ連れ戻ることが、鶴菜どのにとって幸か不幸か、それでござった。——きょう夜があけてみれば仆《たお》れているすがたもない。足軽のはなしによれば、草刈人夫の百姓が、夕闇にまぎれて、遠くどこへやら担ぎあげて逃げて行ったという。……さては怪我はしても生命はあったものであろう。そんなことを、朝から思うていたところへ、折も折、あなたという対岸の敵陣からのお使者。偶然ではありません。善光寺如来のおひきあわせかも知れぬ。……御陣務、お暇はあるまいが、もし何ぞの御寸暇でもあったら、この川中島の界隈《かいわい》、遠からぬ百姓家に手当されておるかと察しられます。尋ねておあげなされ。いや如来の御手をさし伸べてあげなさい」
弥太郎は、銚子を取って、使者へ酌《つ》ぎ、また自分へ酌ぎ、しきりと杯をかさねた。
伝右衛門は、つと席を退がった。
「御芳情にあまえた。充分にいただきました。御君側へ、よろしくお伝え下さい」
「お帰りになられますか」
「ここは免《ゆる》されざる私の草くさ。長居は惧《おそ》れがあります。……なお、また、最前からの其許《そこもと》のお志には、何と申すべきか、お礼のことばも弁えぬ。甲冑を解けばそれがしとて、世の親とかわり無き者でござるが、確《しか》と、物の具を体している身には、たとえ眼の前に、親の死、妻の涙、子の血しおを見ようとも、何の覚えはありません。自身の合戦があるのみです。——従って、今よりお断り申しておくが、今日、ここに御辺と酌み交わして、明日犀川、千曲の流れの畔《ほとり》で、御辺と兵馬のあいだにまみえようとも、初鹿野伝右衛門が槍先は決して鈍るものではござらぬぞ」
「御念には及ばぬ。その儀なれば、鬼小島弥太郎とても」
ニコと笑って、彼も起った。
「——では、麓までお送りしましょう」