二
下界《げかい》をにらみつけるような大きな月が、人ひとり、鳥一羽の影さえない、裾野《すその》のそらの一|角《かく》に、夜の静寂《しじま》をまもっている。
その渺《びよう》としてひろい平野の一本杉に、一ぴきの白駒《しろこま》がつながれていた。馬は、さびしさも知らずに、月光をあびながら、のんきに青すすきを食べているのだ。
いっさんにかけてきた黒装束《くろしようぞく》は、白馬《しろうま》のそばへくるとぴッたり足をとめて、
「伊那丸《いなまる》さま、もうここまでくれば大じょうぶです」
と、あとからつづいてきた影へ手をあげた。
「ありがとうござりました」
伊那丸は、ほッとして夢心地《ゆめごこち》をさましたとき、ふしぎな黒装束の義人《ぎじん》のすがたを、はじめて落ちついてながめたのであるが、その人は月の光をしょっているので、顔はよくわからなかった。
「もう大じょうぶです。これからこの野馬《のうま》にのって、明方までに富士川《ふじがわ》の下までお送りしてあげますから、あれから駿府《すんぷ》へでて、いずこへなり、身をおかくしなさいまし、ここに関所札《せきしよふだ》もありますから……」
と、黒装束《くろしようぞく》のさしだした手形《てがた》をみて、伊那丸《いなまる》はいよいよふしぎにたえられない。
「そして、そなたはいったいたれびとでござりますぞ」
「だれであろうと、そんなことはいいではありませんか。さ、早く、これへ」
と白駒《しろこま》の手綱《たづな》をひきだしたとき、はじめて月に照らされた覆面《ふくめん》のまなざしを見た伊那丸は、思わずおおきなこえで、
「や! そなたはさっきの女子《おなご》、咲耶子《さくやこ》というのではないか」
「おわかりになりましたか……」涼《すず》しい眸《ひとみ》にちらと笑《え》みを見せて、それへ両手をつきながら、
「おゆるしくださいませ、父の無礼《ぶれい》は、どうぞわたしにかえてごかんべんあそばしませ……」と、わびた。
「では、そなたは小角《しようかく》の娘でしたか」
「そうです、父のしかたはまちがっております。そのおわびに鍵《かぎ》をそッと持ちだしておたすけもうしたのです。伊那丸さま、あなたのおうわさは私も前から聞いておりました、どうぞお身を大切にして、かがやかしい生涯《しようがい》をおつくりくださいまし」
「忘れませぬ……」
伊那丸は、神のような美少女の至情にうたれて、思わずホロリとあつい涙を袖《そで》のうちにかくした。
と、咲耶子はいきなり立ちあがった。
「あ——いけない」と顔いろを変えてさけんだ。
「なんです?」
と、伊那丸《いなまる》もその眸《ひとみ》のむいたほうをみると、藍《あい》いろの月の空へ、ひとすじの細い火が、ツツツツーと走りあがってやがて消《き》えた。
「あの火は、この裾野《すその》一帯の、森や河原にいる野伏《のぶせり》の力者《りきしや》に、あいずをする知らせです。父は、あなたの逃げたのをもう知ったとみえます。さ、早く、この馬に。……抜けみちは私がよく知っていますから、早くさえあれば、しんぱいはありませぬ」
とせき立てて、伊那丸の乗ったあとから、じぶんもひらりと前にのって、手ぎわよく、手綱《たづな》をくりだした。
その時、すでにうしろのほうからは、百足《むかで》のようにつらなった松明《たいまつ》が、山峡《やまあい》の闇《やみ》から月をいぶして、こなたにむかってくるのが見えだした。
「おお、もう近い!」
咲耶子《さくやこ》は、ピシリッと馬に一鞭《ひとむち》あてた。一声たかくいなないた駒《こま》は、征矢《そや》よりもはやく、すすきの波をきって、まッしぐらに、南のほうへさしてとぶ——