二
ただ見る——白い月の裾野《すその》を、銀の奔馬《ほんば》にむちをあげて、ひとつの鞍《くら》にのった少年の貴公子《きこうし》と、覆面《ふくめん》の美少女は、地上をながるる星とも見え、玉兎《ぎよくと》が波をけっていくかのようにも見える。たちまち、そらの月影が、黒雲のうちにさえぎられると、裾野《すその》もいちめんの如法闇夜《によほうあんや》、ただ、ザワザワと鳴るすすきの風に、つめたい雨気さえふくんできた。
「あ、折りがわるい——」
と、駒《こま》をとめて、空をあおいだ咲耶子《さくやこ》の声は、うらめしげであった。
「おお、雲は切れめなくいちめんになってきた。咲耶どの、もう駒《こま》をはやめてはあぶない、わしはここでおりますから、あなたは岩殿《いわどの》へお帰りなさい」
「いいえ、まだ富士川《ふじがわ》べりまでは、あいだがあります」
「いや、そなたが帰ってから、小角《しようかく》にとがめられるであろうと思うと、わしは胸がいたくなります。さ、わしをここでおろしてください」
「伊那丸《いなまる》さま、こんなはてしも見えぬ裾野のなかで、馬をお捨てあそばして、どうなりますものか」
いい争《あらそ》っているすきに、十|間《けん》とは離れない窪地《くぼち》の下から、ぱッと目を射てきた松明《たいまつ》のあかり。
「いたッ」
「逃がすな」と、八ぽうからの声である。
「あッ、大へん」
と咲耶子はピシリッと駒《こま》をうった。ザザーッと道もえらまずに数十|間《けん》、一気にかけさせたのもつかの間《ま》であった。たのむ馬が、窪地《くぼち》に落ちて脚《あし》を折ったはずみに、ふたりはいきおいよく、草むらのなかへ投げ落とされた。
「それッ、落ちた。そこだッ」
むらがりよってきた松明《たいまつ》の赤い焔《ほのお》、山刀《やまがたな》の光、槍《やり》の穂《ほ》さき。
ふたりのすがたは、たちまちそのかこみのなかに照らしだされた。
「もう、これまで」
と小《こ》太刀《だち》をぬいた伊那丸《いなまる》は、その荒武者《あらむしや》のまッただなかへ、運にまかせて、斬りこんだ。
咲耶子《さくやこ》も、覆面《ふくめん》なのを幸いに一刀をもって、伊那丸の身をまもろうとしたが、さえぎる槍や大刀に畳《たた》みかけられ、はなればなれに斬りむすぶ。
「めんどうくさい。武田《たけだ》の童《わつぱ》も、手引きしたやつも、片ッぱしから首にしてしまえ」
大勢のなかから、こうどなった者は、咲耶子《さくやこ》と知ってか知らぬのか、山大名《やまだいみよう》の根来小角《ねごろしようかく》であった。
時に、そのすさまじいつるぎの渦《うず》へ、突《とつ》として、横合いからことばもかけずに、無反《むぞ》りの大刀をおがみに持って、飛びこんできた人影がある。六部《ろくぶ》の木隠龍太郎《こがくれりゆうたろう》であった。一閃《いつせん》かならず一人を斬り、一気かならず一|夫《ぷ》を割る、手練《しゆれん》の腕は、超人的《ちようじんてき》なものだった。
それとみて、愕然《がくぜん》とした根来小角は、みずから大刀をとって、奮《ふる》いたった。
と同時に、一足《ひとあし》おくれて、かけつけた忍剣《にんけん》の鉄杖《てつじよう》も、風を呼んでうなりはじめた。
空はいよいよ暗かった。降るのはこまかい血の雨である。たばしる剣《つるぎ》の稲妻《いなずま》にまきこまれた、可憐《かれん》な咲耶子《さくやこ》の身はどうなるであろう。——そして、武田伊那丸《たけだいなまる》の運命は、はたしてだれの手ににぎられるのか?