三
大津《おおつ》の町の弓道家《きゆうどうか》、山県蔦之助《やまがたつたのすけ》は、このあいだ、日吉《ひよし》の五重塔《ごじゆうのとう》であやしいものを射損《いそん》じたというので、かれを今為朝《いまためとも》とまでたたえていた人々まで、にわかに口うら返して、さんざんに悪い評判《ひようばん》をたてた。
それをうるさいと思ってか、蔦之助は、以来ピッタリ道場の門をとざして、めったにそとへすがたを見せず、世間の悪口もよそに、兵書部屋《へいしよべや》へこもり、ひたすら武技《ぶぎ》の研究に余念がなかった。
その日も、しずかに兵書をひもといていた蔦之助《つたのすけ》は、ふと町にあたって、ガヤガヤという人声がどよみだしたので、文字から目をはなして耳をそばだてた。とそこへ、下僕《しもべ》の関市《せきいち》が、あわただしくかけこんできてこういう。
「旦那《だんな》さま旦那さま。まアはやくでてごらんなさいまし、とてもすばらしい大鷲《おおわし》が、比叡《ひえい》のうしろから飛びまわってまいりました。お早く、お早く」
「鷲?」
と蔦之助は部屋《へや》から庭へヒラリと、身をおどらして大空をあおぐと、なるほど、関市のぎょうさんなしらせも道理、かつて話に聞いたこともない黒鷲《くろわし》が、比叡の峰《みね》の背《せ》からまッさかさまに大津《おおつ》の空へとかかってくるところ。
「関市! 張《は》りの強い弓を! それと太矢《ふとや》を七、八本」
「へい」と関市《せきいち》が、大あわてで取りだしてきた節巻《ふしまき》の籐《とう》に|くすね引《ヽヽヽび》きの弦《つる》をかけた強弓《ごうきゆう》。とる手もおそしと、槇《まき》の葉鏃《はやじり》の太矢《ふとや》をつがえた蔦之助《つたのすけ》は、虚空《こくう》へむけて、ギリギリとひきしぼるよと見るまに、はやくも一の矢プツン! と切る、すぐ関市が代《かわ》り矢を出す。それを取ってさらに射《い》る。その迅《はや》さ、あざやかさ、目にもとまらぬくらい。
しかしその矢は、二どめからみな宙《ちゆう》にあがって二つにおれ、ハラリ、ハラリと地上に返ってくる。てっきり鷲《わし》の上には何者かがいる! 蔦之助ももとより射《い》おとすつもりではない。そのふしぎな人物をなんとかして地上へおろしてみたら、あるいは、日吉《ひよし》の塔《とう》の上にいた、奇怪《きかい》な人間のなぞもとけようかと考えたのであった。
矢数《やかず》はひょうひょうと虹《にじ》のごとく放《はな》たれたが、時間はほんの瞬間《しゆんかん》、すでに大鷲《おおわし》は町の空を斜《なな》めによぎって、その雄姿《ゆうし》を琵琶湖《びわこ》のほうへかけらせたが、なにか白い物をとちゅうからヒラヒラと落としさった。それを見て、
「よしッ」
ガラリと弓を投げすてた蔦之助は、紙片《しへん》の落ちたところを目ざして、息もつかさずにかけだした。
飛ぶがごとく町はずれをでたかれは、一|念《ねん》がとどいて、ある原へ舞《ま》いおちたものをひろった。
手にとって開《ひら》いてみれば、芭蕉紙《ばしようし》ぐるみの一通の書面。
加賀見忍剣《かがみにんけん》どのへ知らせん この状《じよう》を手にされし日 ただちに錫杖《しやくじよう》を富士の西裾野《にしすその》へむけよ たずねたもう御方《おんかた》あらん 同志《どうし》の人々にも会い給《たま》わん
かしん居士《こじ》