三
鼻かけ卜斎《ぼくさい》の越前落《えちぜんお》ちに、とちゅうまでひっぱられていった蛾次郎《がじろう》が、木隠龍太郎《こがくれりゆうたろう》の行軍《こうぐん》のなかにまぎれこんで、うまうま逃げてしまったのは、けだし、蛾次郎近来の大出来《おおでき》だった。
かれはまた、その列のなかから、いいかげんなところで、ぬけだして、すたこらと、白旗《しらはた》の森《もり》のおくへかけつけてきた。
見ると、そこに焚火《たきび》がしてあり、鷲《わし》もはなたれているが、竹童《ちくどう》のすがたは見えない。
蛾次郎は、しめた! と思った。今だ今だ、菊池半助《きくちはんすけ》にたのまれているこの鷲をぬすんで、徳川家《とくがわけ》の陣中へ、にげだすのは今だ、と手をたたいた。
「これが天の与えというもんだ、あんなに資本《もと》をつかって、おまけに、竹童みたいなチビ助に、おべっかをしたり、使いをしたりしてやったんだもの、これくらいなことがなくっちゃ、埋《う》まらないや、さ、クロ、おまえはきょうからおれのものだぞ」
ひとりで有頂天《うちようてん》になって、するりと、やわらかい鷲の背なかへまたがった。
蛾次郎は、このあいだ、竹童とともにこれへ乗って、空へまいあがった経験もあるし、また、この数日、腹にいちもつがあるので、せいぜい兎《うさぎ》の肉や小鳥をあたえているので、かなり鷲にも馴《な》れている。
竹童《ちくどう》のする通り、かるく翼《つばさ》をたたいて、あわや、乗りにげしようとしたとたん、頭の上から、
「やいッ」
するすると木から下りてきた竹童、
「なにをするんだッ」
いきなり鷲《わし》の上の蛾次郎《がじろう》を、二、三|間《げん》さきへ突きとばした。不意をくって、尻《しり》もちついた蛾次郎は、いたい顔をまがわるそうにしかめて、
「なにを怒《おこ》ったのさ、ちょっとくらい、おれにだってかしてくれてもいいだろう。命《いのち》がけで、いくさのもようをさぐってきてやったんだぜ、そんな根性《こんじよう》の悪いことをするなら、おれだって、なんにも話してやらねえよ」
「いいとも、もうおまえになんか教えてもらうことはない。おいらが木の上から、およそ見当《けんとう》をつけてしまった」
「かってにしやがれ、戦《いくさ》なんか、あるもんかい」
「ああ、蛾次公なんかに、かまっちゃいられない、こっちは、今夜が一生一度の大事なときだ」
竹童は、二十本の松明《たいまつ》を、藤《ふじ》づるでせなかへかけ、一本の松明には焚火《たきび》の焔《ほのお》をうつして、ヒラリと鷲《わし》のせへ乗った。
「やい、おれも一しょにのせてくれ、乗せなきゃ、松明をかえせ、おれのやった松明をかえしてくれえ」
「ええ、うるさいよ!」
「なんだと、こんちくしょう」
と、胸をつつかれた蛾次郎《がじろう》は、おのれを知らぬ、|ぼろ鞘《ヽヽざや》の刀をぬいて、いきなり竹童に斬りつけてきた。
「なにをッ」
竹童は、焔《ほのお》のついた松明《たいまつ》で、蛾次郎の鈍刀《なまくら》をたたきはらい、とっさに、鷲《わし》をばたばたと舞いあげた。蛾次郎はそのするどい翼《つばさ》にはたかれて、
「あッ」
と、四、五|間《けん》さきの流れへはねとばされたが、むちゅうになって、飛びあがり、およびもない両手をふって、
「やーい、竹童、竹童」
と、泣き声まじりに呼びかけた。
けれど、それに見向きもしない大鷲《おおわし》は、しずかに、宙《ちゆう》へ舞《ま》いあがって、しばらく旋回《せんかい》していたが、やがて、ただ見る、一|条《じよう》の流星か、焔《ほのお》をくわえた火食鳥《ひくいどり》のごとく、松明《たいまつ》の光をのせて、暗夜《あんや》の空を一文字《いちもんじ》にかけり、いまや三角戦《さんかくせん》の|まっ《ヽヽ》最中《さいちゆう》である人穴城《ひとあなじよう》の真上まで飛んできた。