これは新約聖書の「マタイによる福音書」にある、「山上の垂訓(すいくん=説教)」の一節です。英訳では "Blessed are the poor in the mind" となります。ここで心の貧しい人々とは何でしょうか。心において貧しい、つまり心が満たされていない者ということでしょう。具体的には、弱かったり、失望していたり、絶望していたりする、ということでしょうか。そういう人が幸せなのだ、祝福されているのだということです。
しかし、そうするとちょっと奇妙に思われます。普通私たちは万事に満ち足している人、事柄が思うように進んでいる人、つまり心において満ち足りている人、そういう人を幸せとよびます。にもかかわらずここでは、そうではなくて、弱かったり、絶望したりしている人が幸せなのだというのです。ここには一つの逆説があります。
なぜこの逆説がなりたつのかといえば、第一に神様はまさしくそういう人々のために存在するものだから、ということです。そのことによってこそ神様の存在が確認できるわけです。第二には満ち足りた人が幸せならそれは当り前で、そのために特別な事柄は不要です。幸せでない人が幸せになりたいとするなら、そこに逆説が必要になります。
実は宗教の基礎にはこのような逆説があります。ですからこういう逆説を必要としない人には宗教は無縁ということになります。そうすると宗教は少数の人々だけのものかと思われますが、よく考えてみれば、見てくれがいかに幸せに見えても、それはそう見えるだけのもので、厳密な議論をしたときに本当に満たされているといいきれる人が何人いるでしょうか。とすれば我々は皆心の貧しいものであるともいえます。実はそのことの自覚がもう一つ宗教の基礎にあるのですが、とすれば人はすべて逆説を必要とすることになり、宗教はすべての人に必要なものになります。
また、「心の貧しき人々」を、貧しければ足りないものを自覚して真剣に求めることになりますから、真剣に求める人々の意味にもできます。すると、これは真剣に求めるものには神様はきっと与えてくれるのだという励ましにとることもできます。