これは禅の言葉です。通常の解釈によれば、白い白鳥(はくちょう)が白い蘆の花のなかに入ると、白鳥も蘆も共に白いから区別がつかない、自己と環境が一つに溶け合っている境地を示すなどとされます。禅の言葉はなかなか機知に富んでいて、「銀椀に雪を盛る」「明月に蘆を隠す」なども同じ様な意味です。
私はこの句を初め、下村湖人の『次郎物語』で感銘深く知りました。そこでの説明は、あるとき白鳥が一面の白い蘆の花のなかに静かに降りた。白い花のなかに白い鳥であるから、それが降りたことが、周辺にもほとんど分からない。にもかかわらずあの大きな羽がふわっとくるから、周辺の蘆は静かに揺れる。つまり白鳥は目立たないけれども確実に周辺に影響を与えていく、人間についてもそういったあり方が望ましいのだ、そういうことでした。この解釈のほうが面白いように思います。
これを、集団ないしは仲間のなかでの個人のあり方という観点から考えてみます。今の時代は自分をアッピールしなければいけないなどといわれて、内容のあるなしよりも目立つことが奨励されたりします。この例でいえば、赤い服を着て白い蘆のなかに騒々しく入って行け、それがいいことだというのです。確かに目立ちます。しかしそのことが何らかの効果をもつのは、えてしてその時だけのことです。それよりも、仲間のなかで、ほとんどいるかいないか分からないほど目立たないが、しかしその集団のなかで確実にある役割を果たしており、周辺に抜きがたい影響を与えている、しかしそれがいかにも自然体であるから誰にも分からないほどである。あるいは作意的でないから自分にすら分かっていない、こんなあり方のほうが素晴らしいもののように思われるのです。
われも、われも、と皆が目立ちたがる、自分が自分であるとは目立つことに外ならないとうような現今の世の中で、こういった生き方を目指すのもいいではないかということなのです。