何年か前、アメリカで話題になった裁判があった。いわゆるO.J.シンプソン事件で、判決の是非をめぐって論議があったが、これをもってこの制度への関心が高まった。この文では陪審員制度の意義と日本への導入について考察する。
陪審員制度の起源は古代ギリシャで見られる。そして現代は欧米諸国で行われていて、特にアメリカで発展している。歴史的背景から色々な意義が見つけられる。まず、古代ギリシャの場合では、政治をはじめるにあたって、社会の重大事に市民が参加して、結論を出すという直接民主主義がこの制度に残っている。あと、アメリカの場合、この制度は国家権力に対抗して生まれたのである。ここでは裁判を国家権力ではなくて一般市民が行うのであるから、自らの権利を持てるという国民主権主義が見られる。 もちろんどんな制度も完璧なものはありえまい。市民たちで構成された陪審員から前述した意義が生じるが、それがため、様々な問題も指摘されている。その中で何よりも裁判の公正が言われる。被告への程度がすぎた寛容とか、事件以外の要素、たとえば社会的問題となっている性、人権問題などが判決に影響を与えるおそれがあると言われている。前に述べたO.J.シンプソン事件がそのその代表的な例である。
これから見るとこの制度の日本への導入は慎重に考えなければならない。この制度の成否は陪審員の資質と社会的風土にかかっているからだ。他人の意見―たとえそれが多数だとしても―に揺れない確固たる価値観をそなえるのが市民たちに、そして自由な討論文化がその社会に要求される。だがそんな面が日本社会では足りないとよく言われている。自己の主張より周りとの融和を重んじてきた日本の社会的風土から、この制度が元来の効果を出せるかどうかは疑問だ。
ここまで陪審員制度の意義と欠陥について考えてみた。色々な問題を持っているが、市民が裁判に参加するのだから、従来の法律に従属されてきた感じ、法とか裁判を敬遠して来たという意識も変えられる可能性を、この制度は持っている。この点はまだ国家権力の優位、権威主義等が残っているアジア諸国に必要なのだと考えられる。
社会的与件の造成と制度的補完―たとえば現在ヨーロッパで行われている陪審員と裁判官の合議制―が成立すれば、この制度の導入はのぞましいものだと考えられる。
(韓国、男性)
教師より
韓国の大学の日本語科三年に在籍中で、日本に短期留学生として来ている人の文章です。言葉も知識も古いものが多いのですが、日本に対する好奇心と造詣の深さは並大抵ではありません。教師も必死で勉強させられています。