特に中国人にとっては常に聞く国名だ。「日本」、私はそれだけではなく、人とはまた少し違った経験を持っている。
台北にいる祖父母に会う為、七才の私は(大陸から)父母と共に日本へ来た。1983年のことである。東京の中野区で普通の小学校に入り、「外国人」として少しずつ日本語を学び、日本の習慣を知り、日本に近づいていった。国籍や民族の問題でいろいろあったが、確かに違和感はどんどんなくなっていった。そこで台北に行き、また中国人の間で暮らす事になった。その過程で、私はずっと「我是中国人、我愛中国」や「愛国」の様な観念を抱き続けていた。
今年の四月、私は「留学生」の名目で再び東京へ来た。重い荷物を引きずりながら駅に迎えに来た学校の先生と待ち合わせし、疲れながらも懐かしい街の風景で心が一杯になってならなかった。「ああ、また来たんだ!」という気持ちの他に、やはり心のどこかに「あ、また帰って来たんだ!」と言う感じもあったのだと思う。私は日常会話程度の日本語は出来るものだから、それからの生活にあまり不便はなかった。十何年ぶりにもかかわらず、やはり昔と同じ様に、かなり自然に日本人の間で暮らしている部分があると思う。そこで私は思った。十年以上前に別れて、しかもたった三年半の生活経験しかないこの土地に対して、私はいったいどのような取り扱いをしているのか。幼い頃の、外国に対しての懐かしいと言う印象が、なぜこれほども早く、鮮明に、強烈に甦って来たのか。始めの頃は非常に不思議に思えた。
実は中国人とはいえども、台湾の台北市に「帰国」する時は「大陸人」「外省人」として入境し、その社会に入ったのだ。それから天津に「帰り」親戚を訪ねたら、今度はほとんど「台胞」(台湾同胞の略)と叫ばれる。その時期の私は、それを非常に悲しく寂しく感じた。
もちろん、この度も「外国人」として日本に入境した。だがその「外国」に対する定義は以前にも増して難しい。「ああ、留学生さんですか。ええと、どちらの国からいらっしゃったんですか?」と聞かれた時、私は答えに悩んだ。始めは「中国、台湾」と答えたが、「ええ?どっち?」と相手の顔にも混乱した表情が浮かびあがる。さんざん調整した後、「ああ、今回は台湾から来ました。」と言う様に、詳しく説明しないまでも、理屈上事実に反した点はまったく無いように答える事にした。最近はその悩みも捨てて、相手がどう思うにしろ、完全に相手にまかせている。疲れたからではない。前の自分が持っていたそのこだわりがばかばかしく思えてきたのだ。狭義の国籍や民族など、形式上の問題にだけ目を向けていたらいかん。もっと視野を拡大しなければならん。そう言った重要さを覚えた。
私は三つの違った民俗を持つ場所で暮らした事がある。国籍と関係なく、私は一人の人間、一匹の動物として、その三カ所からたくさんの物事を知らぬうちに吸収し、やがてどれに属するとも言えない人間になった。それをどんな語彙を使って形容すればいいのか。
今の私にとって、日本は地域であって、それを国家として見たくはない。もちろん、日本は国として政府を持ち、特有の歴史や文化を送ってきたのが現実で、実際に民族や法律などの問題でも大きく異なる事がある。だがそういった様々な既存の制限、法制の中で、より自由自在に生きたければ、根本的な価値観と自分自身の定位から改める他ないのだ。一人の某国人だけでなく、更に一人の地球人としてすべての人たちに接するしかないのだ。 今度の出国は、私にとって非常に重要な意義を持つ。なぜなら今回日本に来て、私は従来閉じていながら開けていたつもりの目を、少し本当に開けることができたからだ。
(中国、男性)
教師より
時々簡単な単語を知らなかったり、中国語に引きずられた表現をする他は、外国人であることを忘れてしまうような日本語を話す人です。かといって大陸から来た中国人でもなく、台湾人でもない国籍不明の雰囲気は、この作文を読むとよく納得できます。