僕が生まれたのは一九五一年の一月四日だ。二十世紀の後半の最初の年の最初の月の最初の週ということになる。記念的といえば記念的と言えなくもない。そのおかげで、僕は「始(はじめ)」という名前を与えられることになった。でもそれを別にすれば、僕の出生に関して特筆すべきことはほとんど何もない。父親は大手の証券会社に勤める会社員であり、母親は普通の主婦だった。父親は学徒出陣でシンガポールに送られ、終戦のあとしばらくそこの収容所に入れられていた。母親の家は戦争の最後の年にB29の爆撃を受けて全焼していた。彼らは長い戦争によって傷つけられた世代だった。
でも僕が生まれた頃には、もう戦争の余韻というようなものはほとんど残ってはいなかった。住んでいたあたりには焼け跡もなかったし、占領軍の姿もなかった。僕らはその小さな平和な町で、父親の会社が提供してくれた社宅に住んでいた。戦前に建てられた家でいささか古びてはいたが、広いことは広かった。庭には大きな松の木が生えていて、小さな池と灯寵まであった。
僕らが住んでいた町は、見事に典型的な大都市郊外の中産階級的住宅地だった。そこに住んでいるあいだに多少なりとも親交を持った同級生たちは、みんな比較的小綺麗な一軒家に暮らしていた。大きさの差こそあれ、そこには玄関があり、庭があり、その庭には木が生えていた。友だちの父親の大半は会社に勤めているか、あるいは専門職に就いていた。母親が働いている家庭は非常に珍しかった。おおかたの家は犬か猫かを飼っていた。アパートとかマンションに住んでいる人間を、僕はその当時誰一人として知らなかった。僕はあとになって近くの別の町に引っ越すことになったが、そこもだいたい同じような成り立ちの町だった。だから大学に入って東京に出てくるまで、通常の人間はみんなネクタイをしめて会社に通い、庭のついた一軒家に住んで、犬か猫を飼っているものだと僕は思い込んでいた。それ以外の生活というものを僕は、少くとも実感をともなって思い浮かべることができなかった。
大抵の家には二人か三人の子供がいた。それが僕の住んでいた世界における平均的な子供の数だった。少年時代から思春期にかけて持った何人かの友人の顔を思い浮かべてみても、彼らは一人の例外もなく、まるで判で押したみたいに二人兄弟か、あるいは三人兄弟の一員だった。彼らは二人兄弟でなければ、三人兄弟であり、三人兄弟でなければ二人兄弟だった。六人も七人も子供がいる家庭は稀だったが、一人しか子供がいない家庭というのはそれ以上に稀だった。
でも僕には兄弟というものがただの一人もいなかった。僕は一人っ子だった。そして少年時代の僕はそのことでずっと引け目のようなものを感じていた。自分はこの世界にあってはいわば特殊な存在なのだ、他の人々が当然のこととして持っているものを、僕は持っていないのだ。
子供の頃、僕はこの「一人っ子」という言葉がいやでたまらなかった。その言葉を耳にするたびに、自分には何かが欠けているのだということをあらためて思い知らされることになった。その言葉はいつも僕に向かってまっすぐに指をつきつけていた。お前は不完全なのだぞ、と。
一人っ子が両親にあまやかされていて、ひ弱で、おそろしくわがままだというのは、僕が住んでいた世界においては揺るぎない定説だった。それは高い山に登れば気圧が下がるとか、雌の牛は多量の乳を出すとかいうのと同じ種類の自然の摂理とみなされていた。だから僕は誰かに兄弟の数を訊かれるのが嫌でたまらなかった。兄弟がいないと聞いただけで人々は反射的にこう思うのだ。こいつは一人っ子だから、両親にあまやかされていて、ひ弱で、おそろしくわがままな子供に違いない、と。人々のそういったステレオタイプな反応は僕を少なからずうんざりさせ、傷つけた。しかし少年時代の僕を本当にうんざりさせ傷つけたのは、彼らの言っているのがまったくの事実であるという点だった。そのとおり、僕は事実あまやかされて、ひ弱で、おそろしくわがままな少年だったのだ。
僕の通っていた学校では、兄弟を持たない子供は本当に珍しい存在だった。小学校の六年間を通じて、僕はたったひとりの一人っ子にしか出会わなかった。たったの一人だ。だから僕は彼女(そう、それは女の子だった)のことをとてもよく覚えている。僕は彼女と親しい友だちになって、二人でいろんな話をした。心を通いあわせたといってもいいだろう。そして僕は彼女に愛情を抱きさえしたのだ。
彼女の名前は島本さんといった。彼女もまた一人っ子だった。そして生まれてすぐに患った小児麻痺のせいで左脚を軽くひきずっていた。それに加えて彼女は転校生だった(島本さんが僕らのクラスにやってきたのは、五年生の終わりごろだった)。そんなわけで、彼女は僕なんか比べ物にならないくらい大きな精神的な重荷を背負っていたとも言える。しかし、おそらくより大きな重荷を背負っているぶんだけ、彼女は僕よりはずっとタフで自覚的な一人っ子だった。彼女は誰に対しても弱音をはかなかった。口に出さないだけではなく、顔にも出さなかった。何か嫌なことがあっても、彼女はいつも微笑みを浮かべていた。むしろ嫌なことがあればあるほど、彼女はその微笑みを浮かべるようにさえ思えた。それは素敵な微笑みだった。それはある場合には僕を慰めたり、あるいは励ましたりもしてくれた。「大丈夫よ」と彼女の微笑みは語っているように見えた、「大丈夫よ、ちょっと我慢すればこれも終わるんだから」。おかげでそのあとずっと、僕は島本さんの顔を思い浮かべるたびに、その微笑みを思い出すことになった。
島本さんは学校の成続も良かったし、他人には概して公平で親切だった。だから彼女はクラスの中でも常に一目置かれる存在だった。そういう意味では彼女は同じ一人っ子といっても僕とはずいぶん違っていた。でも彼女が級友たちに無条件で好かれたかというと、それは疑問だった。みんなは彼女を苛めたりからかったりはしなかった。でも彼女には、僕を別にすればということだが、友だちと呼べるような相手は一人もいなかった。
彼女はおそらく彼らにはクールで自覚的に過ぎたのだろう。それを冷たくて傲慢だと取るものだって中にはいたかもしれない。でも僕は島本さんのそうした外見の奥に潜んでいる温かく、傷つきやすい何かを感じ取ることができた。それはかくれんぼをしている小さな子供のように、奥の方に身を潜めながらも、いつかは誰かの目につくことを求めていた。そういうものの影を、彼女の言葉や表情の中に僕はふと見いだすことがあった。
島本さんは父親の仕事の関係で何度も転校を繰り返していたということだった。彼女の父親がどんな仕事をしていたのか僕は正確には覚えていない。彼女が僕に一度詳しく説明してくれたのだが、まわりのおおかたの子供がそうであったように、僕は誰かの父親の職業になんてほとんど興味を持たなかった。たしか銀行とか税務署とか会社更生法とかそういうものに関係のある専門的な仕事だったと記憶している。彼女の越してきた家は社宅とはいってもかなり大きな洋風の家で、家のまわりには腰まである立派な石垣が巡らされていた。石垣の上には常緑樹の生け垣がついていて、ところどころにあいた隙間から、芝生の庭をのぞくことができた。
彼女は大柄で目鼻だちのはっきりした女の子だった。背丈は僕とほとんど変わらないくらいだった。それから何年かを経たのちには、彼女は人目を引かずにはおかないような見事な美人になる。でも僕が彼女と最初に出会ったとき、島本さんはまだ彼女自身の資質に合致した外観を獲得してはいなかった。その当時の彼女にはどことなくアンバランスなところがあって、そのせいで、多くの人々は彼女の容貌をそれほど魅力的だとは考えなかった。たぷんそれは、彼女の中の大人に相応しい部分と、彼女の中のまだ子供でありつづけようとする部分とがうまく連動して進んでいなかったからだと思う。そのような種類のバランスの悪さは時として人を不安にさせてしまうのだろう。
家が近かったせいで(彼女の家は僕の家の文字通り目と鼻の先だった)、彼女は最初の一カ月間、教室で僕の隣の席を与えられた。僕は学校生活に必要な細かい手順をひとつひとつ彼女に教えた。教材のことや、毎週のテストのことや、それぞれの授業に必要な道具や、教科書の進み具合や、掃除や給食の当番のことなんかだ。いちばん近所に住んでいる生徒が転校生の最初のケアをするというのが学校の基本的な方針だったし、とくに彼女の場合は脚が悪かったので、先生は僕を個人的に呼んで、最初のうちしばらくは島本さんの面倒をよく見てあげなさいと言ったのだ。
初めて顔を合わせた十一歳か十二歳の異性の子供たちがだいたいそうであるように、最初の何日かの僕らの会話はぎこちなく気詰まりなものだった。でも自分たちがどちらも一人っ子であるとわかってからは、僕らの会話は急速にいきいきとした親密なものに変化していった。彼女にとっても僕にとっても、自分以外の一人っ子と出会ったのはそれが最初だったからだ。だから僕らは一人っ子であるというのがどういうことかについて、ずいぶん熱心に話し合うことになった。僕らはそれについては言いたいことをいっぱい抱えていた。毎日というのではないけれど、僕らは顔をあわせると二人で一緒に学校から家まで歩いて帰った。そして一キロちょっとの道をゆっくりと歩きながら(彼女は脚が悪かったからゆっくりとしか歩けなかった)いろんな話をした。話をしてみると、僕らの間にはずいぶんたくさんの共通点があることがわかった。僕らは本を読むのが好きだった。音楽を聴くのが好きだった。猫が大好きだった。他人に対して自分の感じていることを説明するのが苦手だった。食べることのできない食品のいくぶん長いリストを持っていた。好きなことを勉強するのはちっとも苦痛ではなかったけれど、嫌な科目を勉強するのは死ぬほど嫌いだった。僕と彼女とのあいだに何か違いがあるとすれば、それは彼女が僕よりはずっと意識的に自己を護るための努力を行っているということだった。彼女は嫌な科目でも熱心に勉強してかなり良い成績を取っていたし、僕はそうではなかった。彼女は嫌いな食物が給食に出てきても我慢して全部食べたし、僕はそうではなかった。言い換えれば、彼女が自分のまわりに築いていた防御の壁は、僕のものよりはずっと高く強かった。しかしその中にあるものは、驚くほどよく似ていた。
僕は彼女と二人でいることにすぐに馴れてしまった。それはまったく新しい体験だった。僕は彼女と一緒にいても、他の女の子といるときのようにそわそわと落ちつかない気持ちにはならなかった。僕は彼女と一緒に家まで歩いて帰るのが好きだった。島本さんは左脚を軽く引きずるようにして歩いた。途中で公園のベンチに座ってちょっと休むこともあった。でもそれを迷惑に感じたことは一度もなかった。むしろ余分に時間がかかることを楽しんだくらいだった。
我々はそんな風によく二人で一緒に時間を過ごすことになったのだが、そのことでまわりの誰かにからかわれたという記憶はない。その当時はとくに気にもとめなかったのだが、今考えてみるとちょっと不思議な気がする。その年頃の子供というのは、仲の良い男女をからかったり、はやしたてたりするものだからだ。おそらくそれは島本さんの人柄によるものだろうと僕は思う。彼女の中にはまわりの人々に軽い緊張感を呼び起こす何かがあったのだ。要するに「この人に向かってはあまりつまらないことは言えない」というような雰囲気が彼女にはあったということだ。先生でさえ彼女に対してはときどき緊張しているように見えた。あるいは彼女の脚が悪かったこともそれに関係しているのかもしれない。いずれにせよ島本さんをからかったりするのはあまり適切なことではないとみんなは考えていたようだし、結果的にはそれは僕にとってはありがたいことだった。
島本さんは脚が悪いせいで体操の授業にはほとんど出なかった。ハイキングや山登りの日には学校を休んだ。夏の水泳の合宿みたいなものにも来なかった。運動会の日にはいささか居心地が悪そうだった。でもそのような場合を別にすれば、彼女はごく普通の小学生の生活を送っていた。彼女が自分の悪い脚を話題にすることはほとんどなかった。僕の覚えているかぎりではたぶん一度もなかった。僕と一緒に下校するときでも、「歩くのが遅くて御免なさい」というようなことは決して口にはしなかったし、顔にも出さなかった。しかし彼女が自分の脚について気にしていること、気にしているからこそ触れないようにしているのだということは僕にはよくわかっていた。彼女は他人の家に遊びに行くことをあまり好まなかったが、それは玄関で靴を脱がなくてはならないからだった。彼女の靴は右と左で少しかたちや底の厚さが違っていて、彼女はそれを他人の目にさらすのが嫌だったのだ。おそらくそれは特別に作られた種類の靴なのだと思う。僕がそれに気づいたのは、彼女が自分の家に帰ると、何よりも先に靴をすぐに下駄箱にしまいこむのを目にしたときだった。
島本さんの家の居間には新型のステレオ装置があって、僕はそれを聴くためによく彼女の家に遊びに行った。それはかなり立派なステレオ装置だった。もっとも彼女の父親のレコード・コレクションはその装置ほどには立派なものではなく、そこにあったLPレコードの数はせいぜい十五枚くらいだったと思う。そしてその大半は初心者向けのライト・クラシック音楽だった。でも僕らはその十五枚ほどのレコードを何度も何度も繰り返して聴いた。だから僕はそれらの音楽を今でも、それこそ隅から隅までくっきりと思い出すことができる。
レコードを扱うのは島本さんの役だった。レコードをジャケットから取り出し、溝に指を触れないように両手でターンテーブルに載せ、小さな刷毛でカートリッジのごみを払ってから、レコード盤にゆっくりと針をおろした。レコードが終わると、そこにほこり取りのスプレーをかけ、フェルトの布で拭いた。そしてレコードをジャケットにしまい、棚のもとあった場所に戻した。彼女は父親に教えこまれたそんな一連の作業を、ひとつひとつおそろしく真剣な顔つきで実行した。目を細め、息さえひそめていた。僕はいつもソファーに腰掛けて、彼女のそのような仕種をじっと眺めていた。レコードを棚に戻してしまうと、島本さんはやっと僕の方を向いていつものように小さく微笑んだ。そのたびに僕は思ったものだった。彼女が扱っていたのはただのレコード盤ではなく、ガラス瓶の中に入れられた誰かの脆い魂のようなものではなかったのだろうかと。
僕の家にはレコード・プレーヤーもレコードもなかった。僕の両親はとくに熱心に音楽を聴くタイプではなかったのだ。だから僕はいつも自分の部屋で小さなプラスティックのAMラジオにかじりついて音楽を聴いていた。ラジオでは僕はいつもロックンロールやその類の音楽を聴いていた。でも島本さんの家で聴くライト・クラシック音楽も僕はすぐに好きになってしまった。それは「別の世界」の音楽だったし、僕がそれに引かれたのはおそらくその「別の世界」に島本さんが属していたからだろうと思う。週に一度か二度、僕と彼女はソファーに座って、彼女のお母さんの出してくれた紅茶を飲みながら、ロッシーニの序曲集やベートーヴェンの田園交響曲や『ペール・ギュント』を聴いて午後の時間を送ったものだった。僕が家に遊びに来ることを、彼女の母親は歓迎してくれた。転校したばかりの娘に友だちができたことを彼女は喜んでいたし、僕がおとなしくていつもきちんとした身なりをしていたことも気に入ったのだと思う。もっとも正直に言って、僕は彼女の母親のことがどうも好きにはなれなかった。何か具体的な嫌なことがあったわけではない。彼女は僕に対していつも親切だった。でも彼女の喋り方の中にはちょっとした苛立ちのようなものが感じられることかあって、それがときどき僕を落ちつかなくさせた。
彼女の父親のレコード・コレクションの中で僕がいちばん愛好したのはリストのピアノ・コンチェルトだった。表に一番が入り、裏に二番が入っていた。僕がそのレコードを気に入ったのには二つの理由がある。ひとつにはレコード・ジャケットがとても美しかったからであり、ひとつには僕のまわりにいる人間でリストのピアノ・コンチェルトというものを聴いたことがある人間が誰ひとりとして——もちろん島本さんを別にしてだが——いなかったからだ。それは本当に胸がわくわくするようなことだった。僕はまわりの誰もが知らない世界を知っている。それはいわば僕だけが中に入ることを許されている秘密の庭園のようなものだった。僕にとっては、リストのピアノ・コンチェルトを聴くことは、人生のひとつ上の段階に自分を押し上げることに他ならなかった。
そしてまた、それは美しい音楽だった。最初のうち、それは大仰で、技巧的で、どちらかといえばとりとめのない音楽のように僕の耳には響いた。でも何度も聴いているうちに、まるでぼやけた映像がだんだん固まっていくみたいに、その音楽は僕の意識の中で少しずつまとまりのようなものを持ちはじめた。目を閉じてじっと意識を集中していると、その音楽の響きの中にいくつかの渦が巻いているのを見ることができた。ひとつの渦が生まれると、その渦からもうひとつ別の渦が生まれた。そしてその渦はもうひとつの渦と結びついていった。それらの渦は、もちろん今になって思うことなのだけれど、観念的で抽象的な性質を持つものだった。僕はそのような渦の存在をなんとか島本さんに伝えたかった。でもそれは日常的に使っている言葉で他人に説明できる種類のものではなかった。それを正確に表現するためには、もっと違った種類の言葉が必要だったが、僕はそのような言葉をまだ知らなかった。そしてまた僕の感じているそういうものごとが、あえて口にして他人に伝えるだけの価値を持ったものなのかどうかもわからなかった。
リストの協奏曲を演奏していたそのピアニストの名前は残念ながら忘れてしまった。僕が覚えているのは、カラフルで艶やかなジャケットと、そのレコード盤の重みだけである。レコードはミステリアスなまでにずっしりと重く、分厚かった。
クラシック音楽の他に、島本さんの家のレコード棚にはナット・キング・コールとビング・クロスビーのレコードが混じっていた。僕らはその二枚のレコードも本当によく聴いた。クロスビーの方はクリスマス音楽のレコードだったが、僕らは季節には関係なくそれを聴いた。あれだけ何度も聴いてよく飽きなかったものだと、今でも不思議に思う。
クリスマスも近い十二月のある日、僕は島本さんと二人で、彼女の家の居間にいた。僕らはいつものようにソファーの上でレコードを聴いていた。彼女の母親は何かの用事で外出していて、家には僕らの他には誰もいなかった。それはどんよりと曇った暗い冬の午後だった。太陽の光は、重く垂れ込めた雲の層をようやくくぐり抜けてくるあいだに、細かい塵に削りおろされてしまったように見えた。目に映る何もかもが鈍く、動きを失っていた。時刻はもう夕暮れに近く、部屋の中は夜のようにすっかり暗くなってしまっていた。電灯はついていなかったと思う。ストーブのガスの火がほんのりと赤く部屋の壁を照らしているだけだった。ナット・キング・コールは『プリテンド』を歌っていた。英語の歌詞の意味はもちろん僕らにはまったく理解できなかった。それは僕らにとってはただの呪文のようなものだった。でも僕らはその歌が好きだったし、あまりにも何度も繰り返して聴いたので、始めの部分を口真似で歌うことができた。
ブリテンニュアパピーウェニャブルウ
イティイズンベリハートゥドゥー
今ではもちろんその意味はわかる。「辛いときには幸せなふりをしよう。それはそんなにむずかしいことではないよ」。まるで彼女がいつも浮かべていたあのチャーミングな微笑みのような歌だ。たしかにそれはひとつの考え方ではある。でも時によってはそれはとてもむずかしいことになる。
島本さんは丸首の青いセーターを着ていた。彼女は何枚か青いセーターを持っていた。たぶん青い色のセーターが好きだったのだろう。あるいはいつも学校に着てきた紺のコートには青いセーターが合っていたからかもしれない。白いブラウスの襟が首のところから出ていた。そして格子柄のスカートに、白いコットンの靴下をはいていた。柔らかな生地のぴったりとしたセーターは、彼女のささやかな胸の膨らみを僕に教えていた。彼女は両足をソファーの上にあげて、腰の下に折り込むようにして座っていた。そして片手の肘をソファーの背もたれに載せ、遠い風景を見ているような目で音楽を聴いていた。
「ねえ」と彼女は言った。「一人しか子供のいない両親はあまり仲が良くないっていうのは本当だと思う?」
僕はそのことについて少し考えてみた。でも僕にはその因果関係かよく理解できなかった。「どこでそんなことを聞いたの?」
「誰かが私にそう言ったのよ。ずっと前に。両親の仲が良くないから一人しか子供ができないんだって。それを聞いたときは、とても悲しかったわ」
「ふうん」と僕は言った。
「あなたの家のお母さんとお父さんは仲がいいの?」
僕はそれにはすぐに答えられなかった。考えたこともなかったからだ。
「うちの場合は、お母さんの体があまり丈夫じゃなかったんだ」と僕は言った。「よく知らないけれど、子供を産むには体の負担が大きすぎて、それで駄目なんだって」
「自分にもし兄弟がいたらって思うことある?」
「ないよ」
「どうして? どうして思わないの?」
僕はテーブルの上のレコード・ジャケットを手に取って眺めた。でもそこに印刷された字を読むには、部屋はあまりにも暗すぎた。僕はジャケットをもう一度テーブルの上に戻し、手首で何度か目をこすった。僕は以前、母親に同じ質問をされたことがあった。そして僕がそのときに返した答えは母親を喜ばせも悲しませもしなかった。母親は僕の答えを聞いて、不思議そうな顔をしただけだった。しかしそれは、少なくとも僕自身にとってはきわめて正直で誠実な答えだった。僕の答えはとても長い答えだった。そして僕はそれを要領よく正確に表現することができなかった。でも僕が言いたかったのは結局のところ、「ここにいる僕はずっと兄弟なしで育った僕なんだし、もし兄弟がいたとしたら、僕は今と違う僕になっていたはずだし、だからここに今いるこの僕が兄弟かいたらって思うことは、自然に反していると思う」ということだった。だから僕はその母親の問いをなんだか無意味なもののように感じたのだ。
僕はそのときと同じ答えを島本さんに対しても返した。僕がそう言うと、島本さんはじっと僕の顔を見ていた。彼女の表情には、何かしら人の心を引くものがあった。そこには——これはもちろんあとになって思い返してみてそう感じたわけだが——人の心の薄い皮を一枚一枚優しく剥いでいくような、そういう官能的なものがあった。表情の変化に伴って細かく形を変える薄い唇と、瞳のずっと奥の方でちらちらと見えかくれする仄かな光のことを僕は今でもよく覚えている。その光は、細長い暗い部屋の奥の方で括れている小さな蝋燭の炎を僕に思い起こさせた。
「あなたの言ってること、なんとなくわかるような気がする」と彼女は大人びた静かな声で言った。
「そう?」
「うん」と島本さんは言った。「世の中には取り返しのつくことと、つかないこととがあると思うのよ。そして時間が経つというのは取り返しのつかないことよね。こっちまで来ちゃうと、もうあとには戻れないわよね。それはそう思うでしよう?」
僕は頷いた。
「ある時間が経ってしまうと、いろんなものごとがもうかちかちに固まってしまうのよ。セメントがパケツの中で固まるみたいに。そしてそうなると、私たちはもうあと戻りできなくなっちゃうのよ。つまりあなたが言いたいのは、もうあなたというセメントはしっかりと固まってしまったわけだから、今のあなた以外のあなたはいないんだということでしよう?」
「たぶんそういうことだと思う」と僕は不確かな声で言った。
島本さんはしばらく自分の手を見つめていた。「私ね、ときどき考えるのよ。自分が大きくなって結婚したときのことを。そうしたらどんな家に住んで、どんなことをしようかって。そして何人子供を作ればいいかというようなことも考えるの」
「へえ」と僕は言った。
「あなたは考えない?」
僕は首を振った。十二歳の少年がそんなことを考えるわけがない。「それで何人子供が欲しいの、君は?」
彼女はそれまでソファーの背もたれにかけていた手をスカートの膝の上に置いた。その指がスカートの格子柄をゆっくりとなぞるのを僕はぼんやりと眺めていた。そこには何かしら神秘的なものがあった。その指先から透明な細い糸が出て、それが新しい時間を紡ぎだしているように見えた。目を閉じると、その暗闇のなかに渦が浮かぶのが見えた。幾つかの渦が生まれ、そして音もなく消えていった。ナット・キング・コールが『国境の南』を歌っているのが遠くの方から聞こえた。もちろんナット・キング・コールはメキシコについて歌っていたのだ。でもその当時、僕にはそんなことはわからなかった。国境の南という言葉には何か不思議な響きがあると感じていただけだった。その曲を聴くたびにいつも、国境の南にはいったい何があるんだろうと思った。目を開けると、島本さんはまだスカートの上で指を動かしていた。体の奥の方に僕は微かな甘い痒きを感じた。
「不思議なんだけれど」と彼女は言った。「どういうわけか子供がひとりいるところしか想像できないのよ。自分に子供がいるというのはなんとなく想像できるの。私がお母さんで、私の子供がいるんだということが。でもその子供に兄弟がいるというのがうまく想像できないの。その子には兄弟はいないの。一人っ子なの」
彼女は間違いなく早熟な少女であり、間違いなく僕に対して異性としての好意を抱いていた。僕も彼女に対して異性としての好意を抱いていた。でも僕はそれをいったいどう扱えばいいのかわからなかった。島本さんの方にだってたぶんわからなかっただろう。彼女は一度だけ僕の手を握ったことがある。どこかに案内するときに
「こっちに早くいらっしゃいよ」という風に僕の手を取ったのだ。手を取りあっていたのは全部で十秒程度だったのだけれど、僕にはそれが三十分くらいにも感じられた。そして彼女がその手を放したとき、僕はそのままもっと手を握っていてほしかったと思った。僕にはわかっていた。彼女はとても自然に僕の手を取ったのだけれど、彼女も本当は僕の手を握ってみたかったのだということが。
そのときの彼女の手の感触を僕は今でもはっきりと覚えている。それは僕が知っている他のいかなるものの感触とも違っていた。そして僕がそのあとに知ったいかなるものの感触とも違っていた。それは十二歳の少女のただの小さくて温かい手だった。でもその五本の指と手のひらの中には、そのときの僕が知りたかったものごとや、知らなくてはならなかったものごとがまるでサンプル・ケースみたいに全部ぎっしりと詰め込まれていた。彼女は手を取りあうことによって僕にそれを知らせてくれたのだ。そのような場所がこの現実の世界にちゃんと存在することを。僕はその十秒ほどのあいだ、自分が完璧な小さな鳥になったような気がした。僕は空を飛んで、風を感じることができた。空の高みから遠くの風景を見ることができた。あまりにも遠すぎて、そこに何があるのかまではっきりと見届けることはできなかった。でも僕はそれがそこにあるのだということを感じた。僕はいつかその場所に行くことになるだろう。その事実は僕の息を詰まらせ、胸を震わせた。
僕は家に戻ってから、自分の部屋の机の前に座って、島本さんに握られたその手を長いあいだじっと見ていた。僕は島本さんが僕の手を取ってくれたことをとても嬉しく思った。その優しい感触はそのあと何日にもわたって僕の心を温めてくれた。でもそれと同時に僕は混乱し、惑い、切なくなった。その温かみをいったいどのように扱えばいいのか、どこに持っていけばいいのか、それが僕にはわからなかったのだ。
小学校を出ると、僕と彼女は別の中学校に進んだ。いろんな事情があって、僕はそれまで住んでいた家を出て、違う町に移った。違う町とはいっても電車の駅ふたつぶんの距離しか離れていなかったので、僕はそのあとも何度か彼女のところに遊びに行った。越してから三カ月のあいだに三度か四度は訪ねていったと思う。でもそれだけだった。やがて僕は彼女に会いに行くのをやめてしまった。その頃僕らは、非常に微妙な年齢を通り抜けようとしていた。中学校が違って、駅ふたつぶんの距離があいているだけで、自分たちの世界がすっかり変わってしまったように僕には感じられたのだ。友だちも違えば、制服も違ったし、教科書も違った。僕自身の体つきも声も、いろんなものごとに対する感じ方も、急激に変化を遂げつつあったし、僕と島本さんのあいだにかつて存在した親密な空気も、それにつれてだんだんぎこちないものになっていくようだった。というか、彼女の方が肉体的にも精神的にも僕よりはもっと大きな変化を遂げつつあるように思えたのだ。そしてそれは僕をなんとなく居心地の悪い気持ちにさせた。それから僕は彼女の母親がだんだん僕のことを奇妙な目で見始めているように感じたのだ。
「どうしてこの子はいつまでもうちに遊びに来るのかしら。もう近所に住んでもいないし、学校も別なのに」と。あるいは僕は感じすぎていたのかもしれない。でもとにかく当時、僕はその母親の視線が気になってしかたなかった。
そのようにして、僕の足はだんだん島本さんのところから遠のくようになり、そのうちに会いに行くことをやめてしまった。でもそれはおそらく(おそらくという言葉を使うしかないだろう。結局のところ、過去という膨大な記憶を検証して、そのうちの何が正しくて何が正しくないかを決定するのは僕の役目ではないのだから)間違ったことだった。僕はそのあともしっかりと島本さんと結びついているべきだったのだ。僕は彼女を必要としていたし、彼女だってたぶん僕を必要としていた。でも僕の自意識はあまりにも強く、あまりにも傷つくことを恐れていた。そしてそれ以来、ずいぶんあとになるまで、僕は彼女と一度も顔を合わせなかった。
僕は島本さんと会わなくなってしまってからも、彼女のことをいつも懐かしく思い出しつづけていた。思春期という混乱に満ちた切ない期間を通じて、僕は何度もその温かい記憶によって励まされ、癒されることになった。そして僕は長いあいだ、彼女に対して僕の心の中の特別な部分をあけていたように思う。まるでレストランのいちばん奥の静かな席に、そっと予約済の札を立てておくように、僕はその部分だけを彼女のために残しておいたのだ。島本さんと会うことはもう二度とあるまいと思っていたにもかかわらず。
彼女と会っていた頃、僕はまだ十二歳で、正確な意味での性欲というものを持たなかった。彼女の胸の膨らみや、彼女のスカートの下にあるものに対して漠然とした興味を持つようになってはいた。しかしそれが具体的に何を意味するのかを知らなかったし、それが僕を具体的にどのような地点へ導いていくのかということも知らなかった。僕はただじっと耳を澄ませ、目を閉じて、その場所にあるはずのものを思い描いていただけだった。それはもちろん不完全な風景だった。そこにあるすべてのものごとは霞がかかったように漠然としていて、輪郭はぼやけて滲んでいた。でも僕はその風景の中に、自分にとってとても大事な何かが潜んでいることを感じ取っていた。そして僕にはわかっていたのだ。島本さんもまた僕と同じような風景を見ているのだということが。
おそらく僕らは、自分たちはどちらもが不完全な存在であり、その不完全さを埋めるために僕らの前に、新しい後天的な何かが訪れようとしているのだということを感じあっていたのだと思う。そして僕らはその新しい戸口の前に立っていたのだ。ぼんやりとした仄かな光の下で、二人きりで、十秒間だけしっかりと手を握りあって。