翌日の月曜日の講義にも緑は現れなかった。いったいどうしちゃったんだろうと僕は思った。最後に電話で話してからもう十日経っていた。家に電話をかけてみようかとも思ったが、自分の方から連絡するからと彼女が言っていたことを思い出してやめた。
その週の木曜日に、僕は永沢さんと食堂で顔をあわせた。彼は食事をのせた盆を持って僕のとなりに座り、このあいだいろいろ済まなかったなと謝まった。
「いいですよ。こちらこそごちそうになっちゃったし」と僕は言った。「まあ奇妙といえば奇妙な就職決定祝いでしたけど」
「まったくな」と彼は言った。
そして我々はしばらく黙って食事をつづけた。
「ハツミとは仲なおりしたよ」と彼は言った。
「まあそうでしょうね」と僕は言った。
「お前にもけっこうきついことを言ったような気がするんだけど」
「どうしたんですか、反省するなんて?体の具合がわるいんじゃないですか?」
「そうかもしれないな」と彼は言ってニ、三度小さく肯いた。「ところでお前、ハツミに俺と別れろって忠告したんだって?」
「あたり前でしょう」
「そうだな、まあ」
「あの人良い人ですよ」と僕は味噌汁を飲みながら言った。
「知ってるよ」と永沢さんはため息をついて言った。「俺にはいささか良すぎる」
*
電話かかかっていることを知らせるブザーが鳴ったとき、僕は死んだようにぐっすり眠っていた。僕はそのとき本当に眠りの中枢に達していたのだ。だから僕には何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。眠っているあいだに頭の中が水びたしになって脳がふやけてしまったような気分だった。時計を見ると六時十五分だったが、それが午前か午後かわからなかった。何日の何曜日なのかも思い出せなかった。窓の外を見ると中庭のボールには旗は上っていなかった。それでたぶんこれは夕方の六時十五分なのだろうと僕は見当をつけた。国旗掲揚もなかなか役に立つものだ。
「ねえワタナベ君、今は暇?」と緑が訊いた。
「今日は何曜日だったかな?」
「金曜日」
「今は夕方だっけ?」
「あたり前でしょう。変な人ね。午後の、ん―と、六時十八分」
やはり夕方だったんだ、と僕は思った。そうだ、ベッドに寝転んで本を読んでいるうちにぐっすり眠りこんでしまったんだ。金曜日――と僕は頭を働かせた。金曜日の夜にはアルバイトはない。「暇だよ。今どこにいるの?」
「上野駅。今から新宿に出るから待ちあわせない?」
我々は場所とだいたいの時刻を打ち合わせ、電話を切った。
DUGに着いたとき、緑は既にカウンターのいちばん端に座って酒を飲んでいた。彼女は男もののくしゃっとした白いステン・カラー・コートの下に黄色い薄いセーターを着て、ブルージーンズをはいていた。そして手首にはブレスレットを二本つけていた。
「何飲んでるの?」と僕は訊いた。
「トム・コリンズ」と緑は言った。
僕はウィスキー・ソーダを注文してから、足もとに大きな革鞄が置いてあることに気づいた。
「旅行に行ってたのよ。ついさっき戻ってきたところ」と彼女は言った。
「どこに行ったの?」
「奈良と青森」
「一度に?」と僕はびっくりして訊いた。
「まさか。いくら私が変ってるといっても奈良と青森に一度にいったりはしないわよ。べつべつに行ったのよ。二回にわけて。奈良には彼と行って、青森は一人でぶらっと行ってきたの」
僕はウィスキー・ソーダをひとくち飲み、緑のくわえたマルボロにマッチで火をつけてやった。「いろいろと大変だった?お葬式とか、そういうの」
「お葬式なんて楽なものよ。私たち馴れてるの。黒い着物着て神妙な顔して座ってれば、まわりの人がみんなで適当に事を進めてくれるの。親戚のおじさんとか近所の人とかね。勝手にお酒買ってきたり、おすし取ったり、慰めてくれたり、泣いたり、騒いだり、好きに形見わけしたり、気楽なものよ。あんなのピクニックと同じよ。来る日も来る日も看病にあけくれてたのに比べたら、ピクニックよ、もう。ぐったり疲れて涙も出やしないもの、お姉さんも私も。気が抜けて涙も出やしないのよ、本当に。でもそうするとね、まわりの人たちはあそこの娘たちは冷たい、涙も見せないってかげぐちきくの。私たちだから意地でも泣かないの。嘘泣きしようと思えばできるんだけど、絶対にやんないもの。しゃくだから。みんなが私たちの泣くことを期待してるから、余計に泣いてなんかやらないの。私とお姉さんはそういうところすごく気が合うの。性格はずいぶん違うけれど」
緑はブレスレットをじゃらじゃらと鳴らしてウェイターを呼び、トム・コリンズのおかわりとピスタチオの皿を頼んだ。
「お葬式が終ってみんな帰っちゃってから、私たち二人で明け方まで日本酒を飲んだの、一升五合くらい。そしてまわりの連中の悪口をかたっぱしから言ったの。あいつはアホだ、クソだ、疥癬病みの犬だ、豚だ、偽善者だ、盗っ人だって、そういうのずうっと言ってたのよ。すうっとしたわね」
「だろうね」
「そして酔払って布団に入ってぐっすり眠ったの。すごくよく寝たわねえ。途中で電話なんかかかってきても全然無視しちゃってね、ぐうぐう寝ちゃったわよ。目がさめて、二人でおすしとって食べて、それで相談して決めたのよ。しばらく店を閉めてお互い好きなことしようって。これまで二人でずいぶん頑張ってやってきたんだもの、それくらいやったっていいじゃない。お姉さんは彼と二人でのんびりするし、私も彼と二泊旅行くらいしてやりまくろうと思ったの」緑はそう言ってから少し口をつぐんで、耳のあたりをぼりぼりと掻いた。「ごめんなさい。言葉わるくて」
「いいよ。それで奈良に行ったんだ」
「そう。奈良って昔から好きなの」
「それでやりまくったの?」
「一度もやらなかった」と彼女は言ってため息をついた。「ホテルに着いて鞄をよっこらしょと置いたとたんに生理が始まっちゃったの、どっと」
僕は思わず笑ってしまった。
「笑いごとじゃないわよ、あなた。予定より一週間早いのよ。泣けちゃうわよ、まったく。たぶんいろいろと緊張したんで、それで狂っちゃったのね。彼の方はぶんぶん怒っちゃうし。わりに怒っちゃう人なのよ、すぐ。でも仕方ないじゃない、私だってなりたくてなったわけじゃないし。それにね、私けっこう重い方なのよ、あれ。はじめの二日くらいは何もする気なくなっちゃうの。だからそういうとき私と会わないで」
「そうしたいけれど、どうすればわかるかな?」と僕は訊いた。
「じゃあ私、生理が始まったらニ、三日赤い帽子かぶるわよ。それでかわるんじゃない?」と緑は笑って言った。「私が赤い帽子をかぶってたら、道で会っても声をかけずにさっさと逃げればいいのよ」
「いっそ世の中の女の人がみんなそうしてくれればいいのに」と僕は言った。「それで奈良で何してたの?」
「仕方ないから鹿と遊んだり、そのへん散歩して帰ってきたわ。散々よ、もう。彼とは喧嘩してそれっきり会ってないし。まあそれで東京に戻ってきてニ、三日ぶらぶらして、それから今度は一人で気楽に旅行しようと思って青森に行ったの。弘前に友だちがいて、そこでニ日ほど泊めてもらって、そのあと下北とか竜飛とかまわったの。いいところよ、すごく。私あのへんの地図の解説書書いたことあるのよ、一度。あなた行ったことある?」
ない、と僕は言った。
「それでね」と言ってから緑はトム・コリンズをすすり、ピスタチオの殻をむいた。「一人で旅行しているときずっとワタナベ君のことを思いだしていたの。そして今あなたがとなりにいるといいなあって思ってたの」
「どうして?」
「どうして?」と言って緑は虚無をのぞきこむような目で僕を見た。「どうしてって、どういうことよ、それ?」
「つまり、どうして僕のことを思いだすかってことだよ」
「あなたのこと好きだからに決まっているでしょうが。他にどんな理由があるっていうのよ?いったいどこの誰が好きでもない相手と一緒いたいと思うのよ?」
「だって君には恋人がいるし、僕のこと考える必要なんてないじゃないか?」と僕はウィスキー・ソーダをゆっくり飲みながら言った。
「恋人がいたらあなたのことを考えちゃいけないわけ?」
「いや、べつにそういう意味じゃなくて――」
「あのね、ワタナベ君」と緑は言って人さし指を僕の方に向けた。「警告しておくけど、今私の中にはね、一ヶ月ぶんくらいの何やかやが絡みあって貯ってもやもやしてるのよ。すごおく。だからそれ以上ひどいことを言わないで。でないと私ここでおいおい泣きだしちゃうし、一度泣きだすと一晩泣いちゃうわよ。それでもいいの?私はね、あたりかまわず獣のように泣くわよ。本当よ」
僕は肯いて、それ以上何も言わなかった。ウィスキー・ソーダの二杯目を注文し、ピスタチオを食べた。シェーカが振られたり、グラスが触れ合ったり、製氷機の氷をすくうゴソゴソという音がしたりするうしろでサラ・ヴォーンが古いラブ・ソングを唄っていた。
「だいたいタンポン事件以来、私と彼の仲はいささか険悪だったの」と緑は言った。
「タンポン事件?」
「うん、一ヶ月くらい前、私と彼と彼の友だちの五、六人くらいでお酒飲んでてね、私、うちの近所のおばさんがくしゃみしたとたんにスポッとタンポンが抜けた話をしたの。おかしいでしょう?」
「おかしい」と僕は笑って同意した。
「みんなにも受けたのよ、すごく。でも彼は怒っちゃったの。そんな下品な話をするなって。それで何かこうしらけちゃって」
「ふむ」と僕は言った。
「良い人なんだけど、そういうところ偏狭なの」と緑は言った。「たとえば私が白以外の下着をつけると怒ったりね。偏狭だと思わない、そういうの?」
「うーん、でもそういうのは好みの問題だから」と僕は言った。僕としてはそういう人物が緑を好きになったこと自体が驚きだったが、それは口に出さないことにした。
「あなたの方は何してたの?」
「何もないよ。ずっと同じだよ」それから僕は約束どおり緑のことを考えてマスターペーションしてみたことを思いだした。僕はまわりに聞こえないように小声で緑にそのことを話した。
緑は顔を輝かせて指をぱちんと鳴らした。「どうだった?上手く行った?」
「途中でなんだか恥ずかしくなってやめちゃったよ」
「立たなくなっちゃったの?」
「まあね」
「駄目ねえ」と緑は横目で僕を見ながら言った。「恥ずかしがったりしちゃ駄目よ。すごくいやらしいこと考えていいから。ね、私がいいって言うからいいんじゃない。そうだ、今度電話で言ってあげるわよ。ああ……そこいい……すごく感じる……駄目、私、いっちゃう……ああ、そんなことしちゃいやっ……とかそういうの。それを聞きながらあなたがやるの」
「寮の電話は玄関わきのロビーにあってね、みんなそこの前を通って出入りするだよ」と僕は説明した。「そんなところでマスターペーションしてたら寮長に叩き殺されるね、まず間違いなく」
「そうか、それは弱ったわね」
「弱ることないよ。そのうちにまた一人でなんとかやってみるから」
「頑張ってね」
「うん」
「私ってあまりセクシーじゃないのかな、存在そのものが?」
「いや、そういう問題じゃないんだ」と僕は言った。「なんていうかな、立場の問題なんだよね」
「私ね、背中がすごく感じるの。指ですうっと撫でられると」
「気をつけるよ」
「ねえ、今からいやらしい映画観に行かない?ばりばりのいやらしいSM」と緑は言った。
僕と緑は鰻屋に入って鰻を食べ、それから新宿でも有数のうらさびれた映画館に入って、成人映画三本立てを見た。新聞を買って調べるとそこでしかSMものをやっていなかったからだ。わけのわからない臭いのする映画館だった。うまい具合に我々が映画館に入ったときにそのSMものが始まった。OLのお姉さんと高校生の妹が何人かの男たちにつかまってどこかに監禁され、サディスティックにいたぶられる話だった。男たちは妹をレイプするぞと脅してお姉さんに散々ひどいことをさせるのだが、そうこうするうちにお姉さんは完全なマゾになり、妹の方はそういうのを目の前で逐一見せられているうちに頭がおかしくなってしまうという筋だった。雰囲気がやたら屈折して暗い上に同じようなことばかりやっているので、僕は途中でいささか退屈してしまった。
「私が妹だったらあれくらいで気が狂ったりしないわね。もっとじっと見てる」と緑は僕に言った。
「だろうね」と僕は言った。
「でもあの妹の方だけど、処女の高校生にしちゃオッパイが黒ずんでると思わない?」
「たしかに」
彼女はすごく熱心に、食いいるようにその映画を見ていた。これくらい一所懸命見るなら入場料のぶんくらいは十分もとがとれるなあと僕は感心した。そして緑は何か思いつくたびに僕にそれを報告した。
「ねえねえ、凄い、あんなことやっちゃうんだ」とか、「ひどいわ。三人も一度にやられたりしたら壊れちゃうわよ」とか、「ねえワタナベ君。私、ああいうの誰かにちょっとやってみたい」とか、そんなことだ。僕は映画を見ているより、彼女を見ている方がずっと面白かった。
休憩時間に明るくなった場内を見まわしてみたが、緑の他には女の客はいないようだった。近くに座っていた学生風の若い男は緑の顔を見て、ずっと遠くの席に移ってしまった。
「ねえワタナベ君?」と緑が訊ねた。「こういうの見てると立っちゃう?」
「まあ、そりゃときどきね」と僕は言った。「この映画って、そういう目的のために作られているわけだから」
「それでそういうシーンが来ると、ここにいる人たちのあれがみんなピンと立っちゃうわけでしょ?三十本か四十本、一斉にピンと?そういうのって考えるとちょっと不思議な気しない?」
そう言われればそうだな、と僕は言った。
二本目のはわりにまともな映画だったが、まともなぶん一本目よりもっと退屈だった。やたら口唇性愛の多い映画で、フェラチオやクンニリングスやシックスティー・ナインをやるたびにぺちゃぺちゃとかくちゃくちゃとかいう擬音が大きな音で館内に響きわたった。そういう音を聞いていると、僕は自分がこの奇妙な惑星の上で生を送っていることに対して何かしら不思議な感動を覚えた。
「誰がああいう音を思いつくんだろうね」と僕は緑に言った。
「あの音大好きよ、私」
ペニスがヴァギナに入って往復する音というのもあった。そんな音があるなんて僕はそれまで気づきもしなかった。男がはあはあと息をし、女があえぎ、「いいわ」とか「もっと」とか、そういうわりにありふれた言葉を口にした。ベッドがきしむ音も聞こえた。そういうシーンがけっこう延々とつづいた。緑は最初のうち面白がって見ていたが、そのうちにさすがに飽きたらしく、もう出ようと言った。僕らは立ち上がって外に出て深呼吸した。新宿の町の空気がすがすがしく感じられたのはそれが初めてだった。
「楽しかった」と緑は言った。「また今度行きましょうね」
「何度見たって同じようなことしかやらないよ」と僕は言った。
「仕方なしでしょ、私たちだってずっと同じようなことやってるんだもの」
そう言われて見ればたしかにそのとおりだった。
それから僕らはまたどこかのバーに入ってお酒を飲んだ。僕はウィスキーを飲み、緑はわけのわからないカクテルを三、四杯飲んだ。店を出ると木のぼりしたいと緑が言いだした。
「このへんに木なんてないよ。それにそんなふらふらしてちゃ木になんてのぼれないよ」と僕は言った。
「あなたっていつも分別くさいこと言って人を落ちこませるのね。酔払いたいから酔払ってるのよ。それでいいんじゃない。酔払ったって木のぼりくらいできるわよ。ふん。高い高い木の上にのぼっててっぺんから蝉みたいにおしっこしてみんなにひっかけてやるの」
「ひょっとして君、トイレに行きたいの?」
「そう」
僕は新宿駅の有料トイレまで緑をつれていって小銭を払って中に入れ、売店で夕刊を買ってそれを読みながら彼女が出てくるのを待った。でも緑はなかなか出てこなかった。十五分たって、僕が心配になってちょっと様子を見に行ってみようかと思う頃にやっと彼女が外に出てきた。顔色はいくぶん白っぽくなっていた。
「ごめんね。座ったままうとうと眠っちゃったの」と緑は言った。
「気分はどう?」と僕はコートを着せてやりながら訊ねた。
「あまり良くない」
「家まで送るよ」と僕は言った。「家に帰ってゆっくり風呂にでも入って寝ちゃうといいよ。疲れてるんだ」
「家なんか帰らないわよ。今家に帰ったって誰もいないし、あんなところで一人で寝たくなんかないもの」
「やれやれ」と僕は言った。「じゃあどうするんだよ?」
「このへんのラブ・ホテルに入って、あなたと二人で抱きあって眠るの。朝までぐっすりと。そして朝になったらどこかそのへんでごはん食べて、二人で一緒に学校に行くの」
「はじめからそうするつもりで僕を呼びだしたの?」
「もちろんよ」
「そんなの僕じゃなくて彼を呼び出せばいいだろう。どう考えたってそれがまともじゃないか。恋人なんてそのためにいるんだ」
「でも私、あなたと一緒いたいのよ」
「そんなことはできない」と僕はきっぱりと言った。「まず第一に僕は十二時までに寮に戻らないといけないんだ。そうしないと無断外泊になる。前に一回やってすごく面倒なことになったんだ。第二に僕だって女の子と寝れば当然やりたくなるし、そういうの我慢して悶々とするのは嫌だ。本当に無理にやっちゃうかもしれないよ。」
「私のことぶって縛ってうしろから犯すの?」
「あのね、冗談じゃないんだよ、こういうの」
「でも私、淋しいのよ。ものすごく淋しいの。私だってあなたには悪いと思うわよ。何も与えないでいろんなこと要求ばかりして。好き放題言ったり、呼びだしたり、ひっぱりまわしたり、でもね、私がそういうことのできる相手ってあなたしかしないのよ。これまでの二十年間の人生で、私ただの一度もわかままきいてもらったことないのよ。お父さんもお母さんも全然とりあってくれなかったし、彼だってそういうタイプじゃないのよ。私がわがまま言うと怒るの。そして喧嘩になるの。だからこういうのってあなたにしか言えないのよ。そして私、今本当に疲れて参ってて、誰かに可愛いとかきれいだとか言われながら眠りたいの。ただそれだけなの。目がさめたらすっかり元気になって、二度とこんな身勝手なことあなたに要求しないから。絶対。すごく良い子にしてるから」
「そう言われても困るんだよ」と僕は言った。
「お願い。でないと私ここに座って一晩おいおい泣いてるわよ。そして最初に声かけてきた人と寝ちゃうわよ」
僕はどうしようもなくなって寮に電話をかけて永沢さんを呼んでもらった。そして僕が帰寮しているように操作してもらえないだろうかと頼んでみた。ちょっと女の子と一緒なんですよ、と僕は言った。いいよ、そういうことなら喜んで力になろうと彼は言った。
「名札をうまく在室の方にかけかえておくから心配しないでゆっくりやってこいよ。明日の朝俺の部屋の窓から入ってくりゃいい」と彼は言った。
「どうもすみません。恩に着ます」と僕は言って電話を切った。
「うまく行った?」と緑は訊いた。
「まあ、なんとか」と僕は深いため息をついた。
「じゃあまだ時間も早いことだし、ディスコでも行こう」
「君疲れてるんじゃなかったの?」
「こういうのなら全然大丈夫なの」
「やれやれ」と僕は言った。
たしかにディスコに入って踊っているうちに緑は少しずつ元気を回復してきたようだった。そしてウィスキー・コークを二杯飲んで、額に汗をかくまでフロアで踊った。
「すごく楽しい」と緑はテーブル席でひと息ついて言った。「こんなに踊ったの久しぶりだもの。体を動かすとなんだか精神が解放されるみたい」
「君のはいつも解放されてるみたいに見えるけどね」
「あら、そんなことないのよ」と彼女はにっこりと首をかしげて言った。「それはそうと元気になったらおなかが減っちゃったわ。ピツァでも食べに行かない?」
僕がよく行くピツァ・ハウスに彼女をつれていって生ビールとアンチョビのピツァを注文した。僕はそれほど腹が減っていなかったので十二ピースのうち四つだけを食べ、残りを緑が全部食べた。
「ずいぶん回復が早いね。さっきまで青くなってふらふらしてたのに」と僕はあきれて言った。
「わがままが聞き届けられたからよ」と緑は言った。「それでつっかえがとれちゃったの。でもこのピツァおいしいわね」
「ねえ、本当に君の家、今誰もいないの?」
「うん、いないわよ。お姉さんも友だちの家に泊りに行ってていないわよ。彼女ものすごい怖がりだから、私がいないとき独りで家で寝たりできないの」
「ラブ・ホテルなんて行くのはやめよう」と僕は言った。「あんなところ行ったって空しくなるだけだよ。そんなのやめて君の家に行こう。僕のぶんの布団くらいあるだろう?」
緑は少し考えていたが、やがて肯いた。「いいわよ。家に泊ろう」と彼女は言った。
僕らは山手線に乗って大塚まで行って、小林書店のシャッターを上げた。シャッターには「休業中」の紙が貼ってあった。シャッターは長いあいだ開けられたことがなかったらしく、暗い店内には古びた紙の匂いが漂っていた。棚の半分は空っぽで、雑誌は殆んど全部返品用に紐でくくられていた。最初に見たときより店内はもっとがらんとして寒々しかった。まるで海岸打ち捨てられた廃船のように見えた。
「もう店をやるつもりはないの?」と僕は訊いてみた。
「売ることにしたのよ」と緑はぽつんと言った。「お店売って、私とお姉さんとでそのお金をわけるの。そしてこれからは誰に保護されることもなく身ひとつで生きていくの。お姉さんは来年結婚して、私はあと三年ちょっと大学に通うの。まあそれくらいのお金にはなるでしょう。アルバイトもするし。店が売れたらどこかにアパートを借りてお姉さんと二人でしばらく暮すわ」
「店は売れそうなの?」
「たぶんね。知りあいに毛糸屋さんをやりたいっていう人がいて、少し前からここを売らないかって話があったの」と緑は言った。「でも可哀そうなお父さん。あんなに一所懸命働いて、店を手に入れて、借金を少しずつ返して、そのあげく結局は殆んど何も残らなかったのね。まるであぶくみたいい消えちゃったのね」
「君が残ってる」と僕は言った。
「私?」と緑は言っておかしそうに笑った。そして深く息を吸って吐きだした。「もう上に行きましょう。ここ寒いわ」
二階に上ると彼女は僕を食卓に座らせ、風呂をわかした。そのあいだ僕はやかんにお湯をわかし、お茶を入れた。そして風呂がわくまで、僕と緑は食卓で向いあってお茶を飲んだ。彼女は頬杖をついてしばらくじっと僕の顔を見ていた。時計のコツコツという音と冷蔵庫のサーモスタットが入ったり切れたりする音の他には何も聞こえなかった。時計はもう十二時近くを指していた。
「ワタナベ君ってよく見るとけっこう面白い顔してるのね」と緑は言った。
「そうかな」と僕は少し傷ついて言った。
「私って面食いの方なんだけど、あなたの顔って、ほら、よく見ているとだんだんまあこの人でもいいやって気がしてくるのね」
「僕もときどき自分のことそう思うよ。まあ俺でもいいやって」
「ねえ、私、悪く言ってるんじゃないのよ。私ね、うまく感情を言葉で表わすことができないのよ。だからしょっちょう誤解されるの。私が言いたいのは、あなたのことが好きだってこと。これさっき言ったかしら?」
「言った」と僕は言った。
「つまり私も少しずつ男の人のことを学んでいるの」
緑はマルボロの箱を持ってきて一本吸った。「最初がゼロだといろいろ学ぶこと多いわね」
「だろうね」と僕は言った。
「あ、そうだ。お父さんにお線香あげてくれる?」と緑が言った。僕は彼女のあとをついて仏壇のある部屋に行って、お線香をあげて手をあわせた。
「私ね、この前お父さんのこの写真の前で裸になっちゃったの。全部脱いでじっくり見せてあげたの。ヨガみたいにやって。はい、お父さん、これオッパイよ、これオマンコよって」と緑は言った。
「なんでまた?」といささか唖然として質問した。
「なんとなく見せてあげたかったのよ。だって私という存在の半分はお父さんの精子でしょ?見せてあげたっていいじゃない。これがあなたの娘ですよって。まあいささか酔払っていたせいはあるけれど」
「ふむ」
「お姉さんがそこに来て腰抜かしてね。だって私がお父さんの遺影の前で裸になって股広げてるんですもの、そりゃまあ驚くわよね」
「まあ、そうだろうね」
「それで私、主旨を説明したの。これこれこういうわけなのよ、だからモモちゃんも私の隣に来て服脱いで一緒にお父さんに見せてあげようって。でも彼女やんなかったわ。あきれて向うに行っちゃったの。そういうところすごく保守的なの」
「比較的まともなんだよ」と僕は言った。
「ねえ、ワタナベ君はお父さんのことどう思った?」
「僕は初対面の人ってわりに苦手なんだけど、あの人と二人になっても苦痛は感じなかったね。けっこう気楽にやってたよ。いろんな話したし」
「どんな話したの?」
「エウリビデス」
緑はすごく楽しそうに笑った。「あなたって変ってるわねえ。死にかけて苦しんでいる初対面の病人にいきなりエウリビデスの話する人ちょっといないわよ」
「お父さんの遺影に向って股広げる娘だってちょっといない」と僕は言った。
緑はくすくす笑ってから仏壇の鐘をちーんと鳴らした。「お父さん、おやすみ。私たちこれから楽しくやるから、安心して寝なさい。もう苦しくないでしょ?もう死んじゃったんだもん、苦しくないわよね。もし今も苦しかったら神様に文句言いなさいね。これじゃちょっとひどすぎるじゃないかって。天国でお母さんと会ってしっぽりやってなさい。おしっこの世話するときおちんちん見たけど、なかなか立派だったわよ。だから頑張るのよ。おやすみ」
我々交代で風呂に入り、パジャマに着がえた。僕は彼女の父親が少しだけ使った新品同様のパジャマを借りた。いくぶん小さくはあったけれど、何もないよりはましだった。緑は仏壇のある部屋に客用の布団を敷いてくれた。
「仏壇の前だけど怖くない?」と緑は訊いた。
「怖かないよ。何も悪いことしてないもの」僕は笑って言った。
「でも私が眠るまでそばにいて抱いてくれるわよね?」
「いいよ」
僕は緑の小さなベッドの端っこで何度も下に転げ落ちそうになりながら、ずっと彼女の体を抱いていた。緑は僕の胸に鼻を押しつけ、僕の腰に手を置いていた。僕は右手を彼女の背中にまわし、左手でベッドの枠をつかんで落っこちないように体を支えていた。性的に高揚する環境とはとてもいえない。僕の鼻先に緑の頭があって、その短くカットされた髪がときどき僕の鼻をむずむずさせた。
「ねえ、ねえ、ねえ、何か言ってよ」と緑が僕の胸に顔を埋めたまま言った。
「どんなこと?」
「なんだっていいわよ。私が気持よくなるようなこと」
「すごく可愛いよ」
「ミドリ」と彼女は言った。「名前をつけて言って」
「すごく可愛いよ、ミドリ」と僕は言いなおした。
「すごくってどれくらい?」
「山が崩れて海が干上がるくらい可愛い」
緑は顔を上げて僕を見た。「あなたって表現がユニークねえ」
「君にそう言われると心が和むね」と僕は笑って言った。
「もっと素敵なこと言って」
「君が大好きよ、ミドリ」
「どれくらい好き?」
「春の熊くらい好きだよ」
「春の熊?」と緑はまた頭を上げた。「それ何よ、春の熊って?」
「春の野原を君が一人で歩いているとね、向うからビロードみないな毛並みの目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。そして君にこう言うんだよ。『今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんか』って言うんだ。そして君と子熊で抱きあってクローバーの茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。そういうのって素敵だろ?」
「すごく素敵」
「それくらい君のことが好きだ」
緑は僕の胸にしっかり抱きついた。「最高」と彼女は言った。「そんなに好きなら私の言うことなんでも聞いてくれるわよね?怒らないわよね?」
「もちろん」
「それで、私のことずっと大事にしてくれるわよね」
「もちろん」と僕は言った。そして彼女の短くてやわらかい小さな男の子のような髪を撫でた。「大丈夫、心配ないよ。何もかもうまくいくさ」
「でも怖いのよ、私」と緑は言った。
僕は彼女の肩をそっと抱いていたが、そのうちに肩が規則的に上下しはじめ、寝息も聞こえてきたので、静かに緑のベッドを抜け出し、台所に行ってビールを一本飲んだ。まったく眠くはなかったので何か本でも読もうと思ったが、見まわしたところ本らしきものは一冊として見あたらなかった。緑の部屋に行って本棚の本を何か借りようかとも思ったがばたばたとして彼女を起こしたくなかったのでやめた。
しばらくぼんやりとビールを飲んでいるうちに、そうだ、ここは書店なのだ、と僕は思った。僕は下に下りて店の電灯を点け、文庫本の棚を探してみた。読みたいと思うようなものは少なく、その大半は既に読んだことのあるものだった。しかしとにかく何か読むものは必要だったので、長いあいだ売れ残っていたらしく背表紙の変色したヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を選び、その分の金をレジスターのわきに置いた。少くともこれで小林書店の在庫は少し減ったことになる。
僕はビールを飲みながら、台所のテーブルに向って『車輪の下』を読みつづけた。最初に『車輪の下』を読んだのは中学校に入った年だった。そしてそれから八年後に、僕は女の子の家の台所で真夜中に死んだ父親の着ていたサイズの小さいパジャマを着て同じ本を読んでいるわけだ。なんだか不思議なものだなと僕は思った。もしこういう状況に置かれなかったら、僕は『車輪の下』なんてまず読みかえさなかっただろう。
でも『車輪の下』はいささか古臭いところはあるにせよ、悪くない小説だった。僕はしんとしずまりかえった深夜の台所で、けっこう楽しくその小説を一行一行ゆっくりと読みつづけた。棚にはほこりをかぶったブラディーが一本あったので、それを少しコーヒー・カップに注いで飲んだ。ブラディーは体を温めてくれたが、眠気の方はさっぱり訪ねてはくれなかった。
三時前にそっと緑の様子を見に行ってみたが、彼女はずいぶん疲れていたらしくぐっすりと眠りこんでいた。窓の外に立った商店街の街灯の光が部屋の中を月光のようにほんのりと白く照らしていて、その光に背を向けるような格好で彼女は眠っていた。緑の体はまるで凍りついたみたいに身じろぎひとつしなかった。耳を近づけると寝息が聞こえるだけだった。父親そっくりの眠り方だなと僕は思った。
ベッドのわきには旅行鞄がそのまま置かれ、白いコートが椅子の背にかけてあった。机の上はきちんと整理され、その前の壁にはスヌーピーのカレンダーがかかっていた。僕は窓のカーテンを少し開けて、人気のない商店街を見下ろした。どの店もシャッターを閉ざし、酒屋の前に並んだ自動販売機だけが身をすくめるようにしてじっと夜明けを待っていた。長距離トラックのタイヤのうなりがときおり重々しくあたりの空気を震わせていた。僕は台所に戻ってブラディーをもう一杯飲み、そして『車輪の下』を読みつづけた。
その本を読み終えたとき、空はもう明るくなりはじめていた。僕はお湯をわかしてインスタント・コーヒーを飲み、テーブルの上にあったメモ用紙にボールペンで手紙を書いた。ブラディーをいくらかもらった、『車輪の下』を買った、夜が明けたので帰る、さよなら、と僕は書いた。そして少し迷ってから、「眠っているときの君はとても可愛い」と書いた。それから僕はコーヒー・カップを洗い、台所の電灯を消し、階段を下りてそっと静かにシャッターを上げて外に出た。近所の人に見られて不審に思われるんじゃないかと心配したが、朝の六時前にはまだ誰も通りを歩いてはいなかった。例によって鴉が屋根の上にとまってあなりを睥睨しているだけだった。僕は緑の部屋の淡いピンクのカーテンのかかった窓を少し見上げてから都電の駅まで歩き、終点で降りて、そこから寮まで歩いた。朝食を食べさせる定食屋が開いていたので、そこであたたかいごはんと味噌汁と菜の漬けものと玉子焼きを食べた。そして寮の裏手にまわって一階の永沢さんの部屋の窓を小さくノックした。永沢さんはすぐに窓を開けてくれ、僕はそこから彼の部屋に入った。
「コーヒーでも飲むか?」と彼は言ったが、いらないと僕は断った。そして礼を言って自分の部屋の引き上げ、歯をみがきズボンを脱いでから布団の中にもぐりこんでしっかりと目を閉じた。やがて夢のない、重い鉛の扉のような眠りがやってきた。
*
僕は毎週直子に手紙を書き、直子からも何通か手紙が来た。それほど長い手紙ではなかった。十一月になってだんだん朝夕が寒くなってきたと手紙にはあった。
「あなたが東京に帰っていなくなってしまったのと秋が深まったのが同時だったので、体の中にぽっかり穴をあいてしまったような気分になったのはあなたのいないせいなのかそれとも季節のもたらすものなのか、しばらくわかりませんでした。レイコさんとよくあなたの話をします。彼女からもあなたにくれぐれもよろしくということです。レイコさんは相変わらず私にとても親切にしてくれます。もし彼女がいなかったら、私はたぶんここの生活に耐えられなかったと思います。淋しくなると私は泣きます。泣けるのは良いことだとレイコさんは言います。でも淋しいというのは本当に辛いものです。私が淋しがっていると、夜に闇の中からいろんな人が話しかけてきます。夜の樹々が風でさわさわと鳴るように、いろんな人が私に向って話しかけてくるのです。キズキ君やお姉さんと、そんな風にしてよくお話をします。あの人たちもやはり淋しがって、話し相手を求めているのです。
ときどきそんな淋しい辛い夜に、あなたの手紙を読みかえします。外から入ってくる多くのものは私の頭を混乱させますが、ワタナベ君の書いてきてくれるあなたのまわりの世界の出来事は私をとてもホッとさせてくれます。不思議ですね。どうしてでしょう。だから私も何度も読みかえし、レイコさんも同じように何度か読みます。そしてその内容について二人で話しあったりします。ミドリさんという人のお父さんのことを書いた部分なんて私とても好きです。私たちは週に一度やってくるあなたの手紙を数少ない娯楽のひとつとして――手紙は娯楽なのです、ここでは――楽しみにしています。
私もなるべく暇をみつけて手紙を書くように心懸けてはいるのですが、便箋を前にするといつもいつも私の気持は沈みこんでしまいます。この手紙も力をふりしぼって書いています。返事を書かなくちゃいけないとレイコさんに叱られたからです。でも誤解しないで下さい。私はワタナベ君に対して話したいことや伝えたいことがいっぱいあるのです。ただそれをうまく文章にすることができないのです。だから私には手紙を書くのが辛いのです。
ミドリさんというのはとても面白そうな人ですね。この手紙を読んで彼女はあなたのことを好きなんじゃないかという気がしてレイコさんにそう言ったら、『あたり前じゃない、私だってワタナベ君のこと好きよ』ということでした。私たちは毎日キノコをとったり栗を拾ったりして食べています。栗ごはん、松茸ごはんというのがずっとつづいていますが、おいしくて食べ飽きません。しかしレイコさんは相変わらず小食で煙草ばかり吸いつづけています。鳥もウサギも元気です。さよなら」
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僕の二十回目の誕生日の三日あとに直子から僕あての小包みが送られてきた。中には葡萄色の丸首のセーターと手紙が入っていた。
「お誕生日おめでとう」と直子は書いていた。「あなたの二十歳が幸せなものであることを祈っています。私の二十歳はなんだかひどいもののまま終ってしまいそうだけれど、あなたが私のぶんもあわせたくらい幸せになってくれると嬉しいです。これ本当よ。このセーターは私とレイコさんが半分ずつ編みました。もし私一人でやっていたら、来年のバレンタイン・デーまでかかったでしょう。上手い方の半分が彼女で下手な方の半分が私です。レイコさんという人は何をやらせても上手い人で、彼女を見ていると時々私はつくづく自分が嫌になってしまいます。だって私には人に自慢できることなんて何もないだもの。さようなら。お元気で」
レイコさんからの短いメッセージも入っていた。
「元気?あなたにとって直子は至福の如き存在かもしれませんが、私にとってはただの手先の不器用な女の子にすぎません。でもまあなんとか間にあうようにセーターは仕上げました。どう、素敵でしょう?色とかたちは二人で決めました。誕生日おめでとう」