翌週の月曜日の「演劇史Ⅱ」の教室にも小林緑の姿は見当らなかった、僕は教室の中をざっと見まわして彼女がいないことをたしかめてからいつもの最前列の席に座り、教師が来るまで直子への手紙を書くことにした。僕は夏休みの旅行のことを書いた。歩いた道筋や、通り過ぎた町々や、出会った人々について書いた。そして夜になるといつも君のことを考えていた、と。君と会えなくなって、僕は自分がどれくらい君を求めていたかということがわかるようになった。大学は退屈きわまりないが、自己訓練のつもりできちんと出席して勉強している。君がいなくなってから、何をしてもつまらなく感じるようになってしまった。一度君に会ってゆっくりと話がしたい。もしできることならその君の入っている療養所をたずねて、何時間かでも面会したいのだがそれは可能だろうか?そしてできることならまた前のように二人で並んで歩いてみたい。迷惑かもしれないけれど、どんな短い手紙でもいいから返事がほしい。
それだけ書いてしまうと僕はその四枚の便箋をきれいに畳んで用意した封筒に入れ、直子の実家の住所を書いた。
やがて憂鬱そうな顔をした小柄の教師が入ってきて出欠をとり、ハンカチで額の汗を拭いた。彼は脚が悪くいつも金属の杖をついていた。「演劇史Ⅱ」は楽しいとは言えないまでも、一応聴く価値のあるきちんとした講義だった。あいかわらず暑いですねと言ってから、彼はエウリビデスの戯曲におけるデウス・エクス・マキナの役割について話しはじめた。エウリビデスにおける神が、アイスキュロスやソフォクレスのそれとどう違うかについて彼は語った。十五分ほど経ったところで教室のドアが開いて緑が入ってきた。彼女は濃いブルーのスポーツ・シャツにクリム色の綿のズボンをはいて前と同じサングラスをかけていた。彼女は教師向かって「遅れてごめんなさい」的な微笑を浮かべてから僕のとなりに座った。そしてショルダー・バッグからノートを出して、僕に渡した。ノートの中には「水曜日、ごめんなさい。怒ってる?」と書いたメモが入っていた。
講義が半分ほど進み、教師が黒板にギリシャ劇の舞台装置の絵を描いているところに、またドアが開いてヘルメットをかぶった学生が二人入ってきた。まるで漫才のコンビみたいな二人組だった。一人はひょっろりとして色白で背が高く、もう一人は背が低く丸顔で色が黒く、似合わない髭を伸ばしていた。背が高い方がアジ・ビラを抱えていた。背の低い方が教師のところに行って、授業の後半を討論にあてたいので了承していただきたい。ギリシャ悲劇よりもっと深刻な問題が現在の世界を覆っているのだと言った。それは要求ではなく、単なる通告だった。ギリシャ悲劇より深刻な問題が現在の世界に存在するとは私には思えないが、何を言っても無駄だろうから好きにしなさい、と教師は言った。そして机のふちをぎゅっとつかんで足を下におこし、杖を取って足をひきずりながら教室を出ていた。
背の高い学生がビラを配っているあいだ、丸顔の学生が壇上に立って演説をした。ビラにはあのあらゆる事象を単純化する独特の簡潔な書体で「欺瞞的総長選挙を粉砕し」「あらたなる全学ストへと全力を結集し」「日帝=産学協同路線に鉄槌を加える」と書いてあった。説は立派だったし、内容にとくに異論はなかったが、文章に説得力がなかった。信頼性もなければ、人の心を駆りたてる力もなかった。丸顔の演説も似たりよったりだった。いつもの古い唄だった。メロディーが同じで、歌詞のてにをはが違うだけだった。この連中の真の敵は国家権力ではなく想像力の欠如だろうと僕は思った。
「出ましょうよ」と緑は言った。
僕は肯いて立ち上がり、二人で教室を出た。出るときに丸顔の方が僕に何か言ったが、何を言ってるのかよくわからなかった。緑は「じゃあね」と言って彼にひらひらと手を振った。
「ねえ、私たち反革命なのかしら?」と教室を出てから緑が僕に言った。「革命が成就したら、私たち電柱に並んで吊るされるのかしら?」
「吊るされる前にできたら昼飯を食べておきたいな」と僕は言った。
「そうだ、少し遠くだけれどあなたをつれていきたい店があるの。ちょっと時間がかかってもかまわないかしら?」
「いいよ、二時からの授業まではどうせ暇だから」
緑は僕をつれてバスに乗り、四ツ谷まで行った。彼女のつれていってくれた店は四ツ谷の裏手の少し奥まったところにある弁当屋だった。われわれがテーブルに座ると、何も言わないうちに朱塗りの四角い容器に入った日替わりの弁当と吸物の椀が運ばれてきた。たしかにわざわざバスに乗って食べにくる値打のある店だった。
「美味いね」
「うん、それに結構安いのよ。だから高校の時からときどきここにお昼食食べに来てたのよ。ねえ、私の学校このすぐ近くにあったのよ。ものすごく厳しい学校でね。私たちこっそり隠れて食べに来たもんよ。なにしろ外食してるところを見つかっただけで停学になる学校なんだもの」
サングラスを外すと、緑はこの前見たときよりいくぶん眠そうな目をしていた。彼女は左の手首にはめた細い銀のブレスレットをいじったり、小指の先で目のわきをぽりぽりと掻いたりしていた。
「眠いの?」と僕は言った。
「ちょっとね。寝不足なのよ。何やかやと忙しくて。でも大丈夫、気にしないで」と彼女は言った。「この前ごめんなさいね。どうしても抜けられない大事な用事ができちゃったの。それも朝になって急にだから、どうしようもなかったのよ。あのレストランに電話しようかと思ったんだけど店の名前も覚えてないし、あなたの家の電話だって知らないし。ずいぶん待った?」
「べつにかまわないよ。僕は時間のあり余ってる人間だから」
「そんなに余ってるの?」
「僕の時間をすこしあげて、その中で君を眠らせてあげたいくらいのものだよ」
緑は頬杖をついてにっこり笑い、僕の顔を見た。「あなたって親切なのね」
「親切なんじゃなくて、ただ単に暇なのさ」と僕は言った。「ところであの日君の家に電話したら、家の人が君が病院に行ったって言ってたけど、何かあったの?」
「家に?」と彼女はちょっと眉のあいだにしわを寄せて言った。「どうして家の電話番号がわかったの?」
「学生課で調べたんだよ。もちろん、誰でも調べられる」
なるほど、という風に彼女は二、三度肯き、まだブレスレットをいじった。「そうね、そういうの思いつかなかったわ。あなたの電話番号もそうすれば調べられたのにね。でも、その病院のことだけど、また今度話すわね。今あまり話したくないの。ごめんなさい」
「かまわないよ。なんだか余計なこと聞いちゃったみたいだ」
「ううん、そんなことないのよ。私が今すこし疲れてるだけ。雨に打たれた猿のように疲れているの」
「家に帰って寝たほうがいいじゃないかな」と僕は言った。
「まだ寝たくないわ。すこし歩きましょうよ」と緑は言った。
彼女は四ツ谷の駅からしばらく歩いたところにある彼女の高校の前に僕をつれていった。
四ツ谷の駅の前を通りすぎるとき僕はふと直子と、その果てしない歩行のことを思い出した。そういえばすべてはこの場所から始まったのだ。もしあの五月の日曜日に中央線の電車の中でたまたま直子に会わなかったら僕の人生も今とずいぶん違ったものになっていただろうな、と僕はふと思った。そしてそのすぐあとで、いやもしあのとき出会わなかったとしても結局は同じようなことになっていたかもしれないと思い直した。たぶん我々はあのとき会うべくして会ったのだし、もしあのとき会っていなかったとしても、我々はべつのどこかで会っていただろう。とくに根拠があるわけではないのだが、僕はそんな気がした。
僕と小林緑は二人で公園のペンチに座って、彼女の通っていた高校の建物を眺めた。校舎には蔦がからまり、張り出しには何羽か鳩が止まって羽をやすめていた。趣きのある古い建物だった。庭には大きな樫の木が生えていて、そのわきから白い煙がすうっとまっすぐに立ちのぼっていた。夏の名残りの光が煙を余計にぼんやりと曇らせていた。
「ワタナベ君、あの煙なんだかわかる?」突然緑が言った。
わからない、と僕は言った。
「あれは生理ナプキン焼いてるのよ」
「へえ」と僕は言った。それ以外になんと言えばいいのかよくわからなかった。
「生理ナプキン、タンポン、その手のもの」と言って緑はにっこりした。「みんなトイレの汚物入れにそういうの捨てるでしょう、女子校だから。それを用務員のおじさんが集めてまわって焼却炉で焼くの。それはあの煙なの」
「そう思ってみるとどことなく凄味があるね」と僕は言った。
「うん、私も教室の窓からあの煙を見るたびにそう思ったわよ。凄いなあって。うちの学校は中学・高校あわせると千人近く女の子がいるでしょう。まあまだ始まってない子もいるから九百人として、そのうちの五分の一が生理中として、だいたい百八十人よね。で、一日に百八十人ぶんの生理ナプキンが汚物入れに捨てられるわけよね」
「まあそうだろうね。細かい計算はよくわからないけど」
「かなりの量だわよね。百八十人ぶんだもの。そういうの集めてまわって焼くのってどういう気分のものなのかしら?」
「さあ、見当りもつかないよ」と僕は言った。どうしてそんなことが僕にわかるというのだ?そして我々はしばらく二人でその白い煙を眺めた。
「本当は私あの学校に行きたくなかったの」と緑は言って小さく首を振った。「私はごく普通の公立の学校に入りたかったの。ごく普通の人が行くごく普通の学校に。そして楽しくのんびりと青春を過ごしたかったの。でも親の見栄えであそこに入れられちゃったのよ。ほら小学校の時成績が良いとそういうことあるでしょう?先生がこの子の成績ならあそこ入れますよ、ってね。で、入れられちゃったわけ。六年通ったけどどうしても好きになれなかったわ。一日も早くここを出て行きたい、一日も早くここを出て行きたいって、そればかり考えて学校に通ってたの。ねえ、私って無遅刻・無欠席で表彰までされたのよ。そんなに学校が嫌いだったのに。どうしてだかわかる?」
「わからない」と僕は言った。
「学校が死ぬほど嫌いだったからよ。だから一度も休まなかったの。負けるものかと思ったの。一度負けたらおしまいだって思ったの。一度負けたらそのままずるずる行っちゃうじゃないかって恐かったのよ。三十九度の熱があるときだって這って学校に行ったわよ。先生がおい小林具合悪いんじゃないかって言っても、いいえ大丈夫ですって嘘ついて頑張ったのよ。それで無遅刻・無欠席の表彰状とフランス語の辞書をもらったの。だからこそ私、大学でドイツ語をとったのよ。だってあの学校に恩なんか着せられちゃたまらないもの。そんなの冗談じゃないわよ」
「学校のどこが嫌いだったの?」
「あなた学校好きだったの?」
「好きでもとくに嫌いでもないよ。僕はごく普通の公立高校に通ったけどとくに気にはしなかったな」
「あの学校ね」と緑が小指で目のわきを掻きながら行った。「エリートの女の子の集まる学校なのよ。育ちも良きゃ成績も良いって女の子が千人近くあつめられてるの。ま、金持ちの娘ばかりね。でなきゃやっていけないもの。授業料高いし、寄附もしょっちゅうあるし、修学旅行っていや京都の高級旅館を借り切って塗りのお膳で懐石料理食べるし、年に一回ホテル・オークラの食堂でテーブル・マナーの講習があるし、とにかく普通じゃないのよ。ねえ、知ってる?私の学年百六十人の中で豊島区に住んでる生徒って私だけだったのよ。私一度学生名簿を全部調べてみたの。みんないったいどんなところに住んでるだろうって。すごかったわねえ、千代田区三番町、港区元麻布、大田区田園調布、世田谷区成城......もうずうっとそんなのばかりよ。一人だけ千葉県柏っていう女の子がいてね、私その子とちょっと仲良くなってみたの。良い子だったわよ。家に遊びにいらっしゃいよ、遠くてわるいけどって言うからいいわよって行ってみたの。仰天しちゃったわね。なにしろ敷地を一周するのに十五分かかるの。すごい庭があって、小型車ぐらい大きさの犬が二匹いて牛肉のかたまりをむしゃむしゃ食べてるわけ。それでもその子、自分が千葉に住んでることでひけめ感じてたのよ、クラスの中で。遅刻しそうになったらメルセデス・ペンツで学校近くまで送ってもらうような子がよ。車は運転手つきで、その運転手たるや『グリーン・ホーネット』に出てくる運転手みたいに帽子かぶって白い手袋はめてるのよ。なのにその子、自分のことを恥ずかしがってるのよ。信じられないわ。信じられる?」
僕は首を振った。
「豊島区北大塚なんて学校中探したって私くらいしかいやしないわよ。おまけに親の職業欄にはこうあるの、〈書店経営〉ってね。おかげてクラスのみんなは私のことすごく珍しがってくれたわ。好きな本が好きなだけ読めていいわねえって。冗談じゃないわよ。みんなが考えてるのは紀伊国屋みたいな大型書店なのよ。あの人たち本屋っていうとああいうのしか想像できないのね。でもね、実物たるや惨めなものよ。小林書店。気の毒な小林書店。がらがらと戸をあけると目の前にずらりと雑誌が並んでいるの。いちばん堅実に売れるのが婦人雑誌、新しい性の技巧・図解入り四十八手のとじこみ付録のついてるやつよ。近所の奥さんがそういうの買ってって、台所のテーブルに座って熟読して、御主人が帰ってきたらちょっとためしてみるのね。それけっこうすごいのよね。まったく世間の奥さんって何を考えて生きているのかしら。それから漫画。これも売れるわよね。マガジン、サンデー、ジャンプ。そしてもちろん週刊誌。とにかく殆どが雑誌なのよ。少し文庫はあるけれど、たいしたものないわよ。ミステリーとか、時代もの、風俗もの、そういうのしか売れないから。そして実用書。碁の打ちかた、盆栽の育てかた、結婚式のスピーチ、これだけは知らねばならない性生活、煙草はすぐにやめられる、などなど。それからうちは文房具まで売ってるのよ。レジの横にボールペンとかそういうの並べてね。それだけ。『戦争と平和』もないし、『性的人間』もないし、『ライ麦畑』もないの。それは小林書店。そんなもののいったいどこがうらやましいっていうのよ?あなたうらやましい?」
「情景が目の前に浮かぶね」
「ま、そういう店なのよ。近所の人はみんなうちで本を買いにくるし、配達もするし、昔からのお客さんも多いし、一家四人は十分食べていけるわよ。借金もないし、娘を二人大学にやることはできるわよ。でもそれだけ。それ以上に何か特別なことをやるような余裕はうちにはないのよ。だからあんな学校に私を入れたりするべきじゃなかったのよ。そんなの惨めになるだけだもの。何か寄附があるたびに親にぶつぶつ文句を言われて、クラスの友だちとどこかに遊びにいっても食事どきになると高い店に入ってお金が足りなくなるじゃないかってびくびくしてね。そんな人生って暗いわよ。あなたのお家はお金持ちなの?」
「うち?うちはごく普通の勤め人だよ。特に金持ちでもないし、とくに貧乏でもない。子供を東京の私立大学にやるのはけっこう大変だと思うけど、まあ子供は僕一人だから問題はない。仕送りはそんなに多くないし、だからアルバイトしてる。ごくあたり前の家だよ。小さな庭があって、トヨタ・カローラがあって」
「どんなアルバイトしてるの?」
「週に三回新宿のレコード屋で夜働いている。楽な仕事だよ。じっと座って店番してりゃいんだ」
「ふうん」と緑は言った。「私ね、ワタナベ君ってお金に苦労したことなんかない人だって思ってたのよ。なんとなく、見かけで」
「苦労したことはないよ、べつに。それほど沢山お金があるわけじゃないっていうだけのことだし、世の中の大抵の人はそうだよ」
「私の通った学校では大抵の人は金持だったのよ」と彼女は膝の上で両方の手のひらを上に向けて言った。「それが問題だったのよ」
「じゃあこれからはそうじゃない世界をいやっていうくらい見ることになるよ」
「ねえ、お金持であることの最大の利点ってなんだと思う?」
「わからないな」
「お金がないって言えることなのよ。たとえば私がクラスの友だちに何かしましょうよって言うでしょ、すると相手はこう言うの、『私いまお金がないから駄目』って。逆の立場になったら私とてもそんなこと言えないわ。私がもし『いまお金がない』って言ったら、それは本当にお金がないっていうことなんだもの。惨めなだけよ。美人の女の子が『私今日はひどい顔してるから外に出たくないなあ』っていうのと同じね。ブスの子はそんなこと言ってごらんなさいよ、笑われるだけよ。そういうのが私にとっての世界だったのよ。去年までの六年間」
「そのうちに忘れるよ」と僕は言った。
「早く忘れたいわ。私ね、大学に入って本当にホッとしたのよ。普通の人がいっぱいいて」
彼女はほんの少し唇を曲げて微笑み、短い髪を手のひらで撫でた。
「君は何かアルバイトしてる?」
「うん、地図の解説を書いてるの。ほら、地図を買うと小冊子みたいなのがついてるでしょう?町の説明とか、人口とか、名所とかについていろいろ書いてあるやつ。ここにこういうハイキング・コースがあって、こういう伝説があって、こういう花が咲いて、こういう鳥がいてとかね。あの原稿を書く仕事なのよ。あんなの本当に簡単なの。アッという間よ。日比谷図書館に行って一日がかりで本を調べたら一冊書けちゃうもの。ちょっとしたコツをのみこんだら仕事なんかいくらでもくるし」
「コツって、どんなコツ?」
「つまりね、他の人が書かないようなことを盛りこんでおけばいいのよ。すると地図会社の担当の人は『あの子は文章は書ける』って思ってくれるわけ。すごく感心してくれたりしてね。仕事をまわしてくれるのよ。べつにたいしたことじゃなくていいのよ。ちょっとしたことでいいの。たとえばね、ダムを作るために村がひとつここで沈んだが、渡り鳥たちは今でもまだその村のことを覚えていて、季節が来ると鳥たちがその湖の上をいつまでも飛びまわっている光景が見られる、とかね。そういうエピソードをひとつ入れておくとね、みんなすごく喜ぶのよ。ほら情景的で情緒的でしょ。普通のアルバイトの子ってそういう工夫をしないのよ、あまり。だから私けっこういいお金とってるのよ、その原稿書きで」
「でもよくそういうエピソードがみつかるもんだね、うまく」
「そうねえ」と言ってみどりは少し首をひねった。「見つけようと思えば何とか見つかるものだし、見つからなきゃ害のない程度に作っちゃえばいいのよ」
「なるほど」と僕は感心して言った。
「ピース」と緑は言った。
彼女は僕の住んでいる寮の話を聞きたがったので、僕は例によって日の丸の話やら突撃隊のラジオ体操の話やらをした。緑も突撃隊の話で大笑いした。突撃隊は世界中の人を楽しい気持ちにさせるようだった。緑は面白そうだから一度是非その寮を見てみたいと言った。見たって面白かないさ、と僕は言った。
「男の学生が何百人うす汚い部屋の中で酒飲んだりマスターぺーションしたりしてるだけさ」
「ワタナベ君もするの、そういうの?」
「しない人間はいないよ」と僕は説明した。「女の子に生理があるのと同じように、男はマスタペーションやるんだ。みんなやる。誰でもやる」
「恋人がいる人もやるかしら?つまりセックスの相手がいる人も?」
「そういう問題じゃないんだ。僕のとなりの部屋の慶応の学生なんてマスターぺーションしてからデートに行くよ。その方が落ち着くからって」
「そういうのって私にはよくわからないわね。ずっと女子校だったから」
「そういうことは婦人雑誌の附録に書いてないしね」
「まったく」と言って緑は笑った。「ところでワタナベ君、今度の日曜日は暇?あいてる?」
「どの日曜日も暇だよ。六時からアルバイトに行かなきゃならないけど」
「よかったら一度うちに遊びに来ない?小林書店に。店は閉まってるんだけど、私夕方まで留守番しなくちゃならないの。ちょっと大事な電話がかかってくるかもしれないから。ねえ、お昼ごはん食べない?作ってあげるわよ」
「ありがたいね」と僕は言った。
緑はノートのページを破って家までの道筋を詳しく地図に描いてくれた。そして赤いボールペンを出して家のあるところに巨大な×印をつけた。
「いやでもわかるわよ。小林書店っていう大きな看板が出てるから。十二時くらいに来てくれる?ご飯用意してるから」
僕は礼を言ってその地図をポケットにしまった。そしてそろそろ大学に戻って二時からのドイツ語の授業に出ると言った。緑は行くところがあるからと言って四ツ谷から電車に乗った。
日曜日の朝、僕は九時に起きて髭を剃り、洗濯をして洗濯ものを屋上に干した。素晴らしい天気だった。最初の秋の匂いがした。赤とんぼの群れが中庭をぐるぐると飛びまわり、近所の子供たちが網を持ってそれを追いまわしていた。風はなく、日の丸の旗はだらんと下に垂れていた。僕はきちんとアイロンのかかったシャツを着て寮を出て都電の駅まで歩いた。日曜日の学生街はまるで死に絶えたようにがらんとしていて人影もほとんどなく、大方の店は閉まっていた。町のいろんな物音はいつもよりずっとくっきりと響きわたっていた。木製のヒールのついたサボをはいた女の子がからんからんと音をたてながらアスファルトの道路を横切り、都電の車庫のわきでは四、五人の子供たちが空き缶を並べてそれめがけて石を投げていた。花屋が一軒店を開けていたので、僕はそこで水仙の花を何本が買った。秋に水仙を買うというのも変なものだったが、僕は昔から水仙の花が好きだった。
日曜日の朝の都電には三人連れのおばあさんしか乗っていなかった。僕は乗るとおばあさんたちは僕の顔と僕の手にした水仙の花を見比べてにっこり笑った。僕もにっこりした。そしていちばんうしろの席に座り、窓のすぐ外を通りすぎていく古い家並みを眺めていた。電車は家々の軒先すれすれのところを走っていた。ある家の物干しにはトマトの鉢植が十個もならび、その横で大きな黒猫がひなたぼっこをしていた。小さな子供が庭でしゃぼん玉をとばしているのも見えた。どこかからいしだあゆみの唄が聴こえた。カレーの匂いさえ漂っていた。電車はそんな親密な裏町を縫うようにするすると走っていた。途中の駅で何人か客が乗りこんできたが、三人のおばあさんたちは飽きもせず何かについて熱心にあたまをつき合わせて話しつづけていた。
大塚駅の近くで僕は都電を降り、あまり見映えのしない大通りを彼女が地図に描いてくれたとおりに歩いた。道筋に並んでいる商店はどれもこれもあまり繁盛しているように見えなかった。どの店も建物は旧く、中は暗そうだった。看板の字が消えかけているものもあった。建物の旧さやスタイルからみて、このあたりが戦争で爆撃を受けなかったらしいことがわかった。だからこうした家並みがそのままに残されているのだ。もちろん建てなおされたものもあったし、どの家も増築されたり部分的に補修されたりはしていたが、そういうのはまったくの古い家より余計汚ならしく見えることの方が多かった。
人々の多くは車の多さや空気の悪さや騒音や家賃の高さに音をあげて郊外に移っていってしまい、あとに残ったのは安アパートか社宅か引越しのむずかしい商店か、あるいは頑固に昔から住んでいる土地にしがみついている人だけといった雰囲気の町だった。車の排気ガスのせいで、まるでかすみがかかったみたいに何もかもぼんやりと薄汚れていた。
そんな道を十分ばかり歩いてガソリン・スタンドの角を右に曲がると小さな商店街があり、まん中あたりに「小林書店」という看板が見えた。たしかに大きな店ではなかったけれど、僕が緑の話しから想像していたほど小さくはなかった。ごく普通の本屋だった。僕が子供の頃、発売日を待ちかねて少年雑誌を買いに走っていたのと同じような本屋だった。小林書店の前に立っていると僕はなんとなくなつかしい気分になった。どこの町にもこういう本屋があるのだ。
店はすっかりシャッターを下ろし、シャッターには「週刊文春・毎週木曜日発売」と書いてあった。十二時にはまだ十五分ほど間があったが、水仙の花を持って商店街を歩いて時間をつぶすのもあまり気が進まなかったので、僕はシャッターの脇にあるベルを押し、二、三歩うしろにさがって返事を待った。十五秒くらい待ったが返事はなかった。もう一度ベルを押したものかどうか迷っていると、上の方でガラガラと窓を開く音がした。見上げると緑が窓から首を出して手を振っていた。
「シャッター開けて入ってらしゃいよ」と彼女はどなった。
「ちょっと早かったけど、いいかな?」と僕はどなりかえした。
「かまわないわよ、ちっとも。二階に上ってきてよ。私、今ちょっと手が放せないの」そしてまたガラガラと窓が閉った。
僕はとんでもなく大きい音を立ててシャッターを一メートルほど押し上げ、身をかがめて中に入り、またシャッターを下ろした。店の中はまっ暗だった。僕はひもで縛って床においてある返品用の雑誌につまずいて転びそうになりながらようやく店の奥にたどりつき、手さぐりで靴を脱いで上にあがった。家の中はうすぼんやりと暗かった。土間から上ったところは簡単な応接室のようになっていて、ソファー・セットが置いてあった。それほど広くはない部屋で、窓からは一昔前のポーランド映画みたいなうす暗い光がさしこんでいた。左手には倉庫のような物置のようなスペースがあり、便所のドアも見えた。右手の急な階段を用心ぶかく上っていくと二階に出た。二階は一階に比べると格段に明るかったので僕は少ながらずホッとした。
「ねえ、こっち」とどこかで緑の声がした。階段を上ったところの右手に食堂のような部屋があり、その奥に台所があった。家そのものは旧かったが、台所はつい最近改築されたらしく、流し台も蛇口も収納棚もぴかぴかに新しかった。そしてそこで緑が食事の支度をしていた。鍋で何かを煮るぐつぐつという音がして、魚を焼く匂いがした。
「冷蔵庫にビールが入ってるから、そこに座って飲んでてくれる?」と緑はちらっとこちらを見て言った。僕は冷蔵庫からビール出してテーブルに座って飲んだ。ビールは半年くらいそこに入ってたんじゃないかと思えるくらいよく冷えていた。テーブルの上には小さな白い灰皿と新聞と醤油さしがのっていた。メモ用紙とボールペンもあって、メモ用紙には電話番号と買物の計算らしい数字が書いてあった。
「あと十分くらいでできると思うんだけど、そこで待っててくれる?待てる?」
「もちろん待ってるよ」と僕は言った。
「待ちながらおなかを減らしておいてよ。けっこう量があるから」
僕は冷たいビールをすすりながら一心不乱に料理を作っている緑のうしろ姿を眺めていた。彼女は素早く器用に体を動かしながら、一度に四つくらいの料理のプロセスをこなしていた。こちらで煮るものの味見をしたかと思うと、何かをまな板の上で素早く刻み、冷蔵庫から何かを出して盛りつけ、使い終わった鍋をさっと洗った。後ろから見ているとその姿はインドの打楽器奏者を思わせた。あっちのベルを鳴らしたかと思うとこっちの板を叩き、そして水牛の骨を打ったり、という具合だ。ひとつひとつの動作が俊敏で無駄がなく、全体のバランスがすごく良かった。僕は感心してそれを眺めていた。
「何か手伝うことあったらやるよ」と僕は声をかけてみた。
「大丈夫よ。私一人でやるのに馴れてるから」と緑は言ってちらりとこちらを向いて笑った。緑は細いブルージーンズの上にネイビ・ブルーのTシャツを着ていた。Tシャツの背中にはアップル・レコードのりんごのマークが大きく印刷されていた。うしろから見ると彼女の腰はびっくりするくらいほっそりとしていた。まるで腰をがっしりと固めるための成長の一過程が何かの事情でとばされてしまったじゃないかと思えるくらいの華奢な腰だった。そのせいで普通の女の子がスリムのジーンズをはいたときの姿よりずっと中性的な印象があった。流しの上の窓から入ってくる明るい光が彼女の体の輪郭にぼんやりとふちどりのようなものをつけていた。
「そんなに立派な食事作ることなかったのに」と僕は言った。
「ぜんぜん立派じゃないわよ」と緑は振る向かずに言った。「昨日は私忙しくてろくに買い物できなかったし、冷蔵庫のあり合わせのものを使ってさっと作っただけ。だからぜんぜん気にしないで。本当よ。それにね、客あしらいの良いのはうちの家風なの。うちの家族ってね、どういうわけだか人をもてなすのが大好きなのよ、根本的に。もう病気みたいなものよね、これ。べつにとりたて親切な一家というわけでもないし、別にそのことで人望があるというのでもないんだけれど、とにかくお客があると何はともあれもてなさないわけにはいかないの。全員がそういう性分なのよ、幸か不幸か。だからね、うちのお父さんなんか自分じゃ殆どお酒飲まないくせに、うちの中もうお酒だらけよ。なんでだと思う?お客に出すためよ。だからビールどんどん飲んでね。遠慮なく」
「ありがとう」と僕は言った。
それから突然僕は水仙の花を階下に置き忘れて来たことに気付いた。靴を脱ぐ時に横においてそのまま忘れてしまったのだ。僕はもう一度降りて薄暗がりの中に横たわった十本の水仙の白い花をとって戻ってきた。緑は食器棚から長細いグラスを出して、そこに水仙を生けた。
「私、水仙って大好きよ」と緑は言った。「昔ね高校の文化祭で『七つの水仙』を唄ったことあるのよ。知ってる、『七つの水仙』?」
「知ってるよ、もちろん」
「昔フォーク・グループやってたの。ギターを弾いて」
そして彼女は「七つの水仙」を唄いながら料理を皿に盛りつけていった。
緑の料理は僕の想像を遥かに越えて立派だった。鯵の酢の物に、ぽってりとしただしまき玉子、自分で作ったさわらの西京漬、なすの煮物、じゅんさいの吸物、しめじの御飯、それにたくあんを細かくきざんでゴマをまぶしたものがたっぷりついていた。味つけはまったくの関西風の薄味だった。
「すごくおいしい」と僕は感心して言った。
「ねえワタナベ君、正直言って私の料理ってそんなに期待してなかったでしょう?見かけからして」
「まあね」と僕は正直に言った。
「僕のためにわざわざ薄味で作ったの?」
「まさか。いくらなんでもそんな面倒なことしないわよ。家はいつもこういう味つけよ」
「お父さんかお母さんが関西の人なの、じゃあ?」
「ううん、お父さんはずっとここの人だし、お母さんは福島の人よ。うちの親戚中探したって関西の人なんて一人もいないわよ。うちは東京・北関東系の一家なの」
「よくわからないな」と僕は言った。「じゃあどうしてこんなきちんとした正統的な関西風の料理が作れるの?誰かに習ったわけ?」
「まあ、話せば長くなるだけどね」と彼女はだしまき玉子を食べながら言った。「うちのお母さんというのがなにしろ家事と名のつくものが大嫌いな人でね、料理なんてものは殆ど作らなかったの。それにほら、うちは商売やってるでしょう、だから忙しいと今日は店屋ものにしちゃおうとか、肉屋でできあいのコロッケ買ってそれで済ましちゃうとか、そういうことがけっこう多かったのよ。私、そういうのが子供の頃から本当に嫌だったの。嫌で嫌でしようがなかったの。三日分カレー作って毎日それを食べてるとかね。それである日、中学校三年生のときだけど、食事はちゃんとしたものを自分で作ってやると決心したわけ。そして新宿の紀伊国屋に行っていちばん立派そうな料理の本を買って帰ってきて、そこに書いてあることを隅から隅まで全部マスターしたの。まな板の選び方、包丁の研ぎ方、魚のおろし方、かつおぶしの削り方、何もかもよ。そしてその本を書いた人が関西の人だったから私の料理は全部関西風になっちゃったわけ」
「じゃあこれ、全部本で勉強したの?」と僕はびっくりして訊いた。
「あとはお金を貯めてちゃんとした懐石料理を食べに行ったりしてね。それで味覚を覚えて。私けっこう勘はいいのよ。理論的思考って駄目だけど」
「誰にも教わらずにこれだけ作れるって大したもんだと思うよ、たしかに」
「そりゃ大変だったわよ」と緑はため息をつきながら言った。「なにしろ料理なんてものにまるで理解も関心もない一家でしょう。きちんとした包丁とか鍋とか買いたいって言ってもお金なんて出してくれないのよ。今ので十分だっていうの。冗談じゃないわよ。あんなぺらぺらの包丁で魚なんておろせるもんですか。でもそう言うとね、魚なんておろさなくていいって言われるの。だから仕方ないわよ。せっせとおこづかい貯めて出刃包丁とか鍋とかザルとか買ったの。ねえ信じられる?十五か十六の女の子が一所懸命爪に火をともすようにお金を貯めてザルやら研石やら天ぷら鍋買ってるなんて。まわりの友だちはたっぷりおこづかいもらって素敵なドレスやら靴やら買ってるっていうのによ。可哀そうだと思うでしょう?」
僕はじゅんさいの吸物をすすりながら肯いた。
「高校一年生のときに私どうしても玉子焼き器が欲しかったの。だしまき玉子をつくるための細長い銅のやつ。それで私、新しいブラジャーを買うためのお金使ってそれを買っちゃったの。おかげでもう大変だったわ。だって私三ヶ月くらいたった一枚のブラジャーで暮らしたのよ。信じられる?夜に洗ってね、一所懸命乾かして、朝にそれをつけて出て行くの。乾かなかったら悲劇よね、これ。世の中で何が哀しいって生乾きのブラジャーをつけるくらい哀しいことないわよ。もう涙がこぼれちゃうわよ。とくにそれがだしまき玉子焼き器のためだなんて思うとね」
「まあそうだろうね」と僕は笑いながら言った。
「だからお母さんが死んじゃったあとね、まあお母さんには悪いとは思うだけどいささかホッとしたわね。そして家計費好きなもの買ったの。だから今じゃ料理用具はなかなかちきんとしたもの揃ってるわよ。だってお父さんなんて家計費がどうなってるのが全然知らないんだもの」
「お母さんはいつ亡くなったの?」
「二年前」と彼女が短く答えた。「癌よ。脳腫瘍。一年半入院して苦しみに苦しんで最後には頭がおかしくなって薬づけになって、それでも死ねなくて、殆ど安楽死みたいな格好で死んだの。なんて言うか、あれ最悪の死に方よね。本人も辛いし、まわりも大変だし。おかげてうちなんかお金なくなっちゃったわよ。一本二万円の注射ぽんぽん射つわ、つきそいはつけなきゃいけないわ、なんのかのでね。看病してたおかげて私は勉強できなくて浪人しちゃうし、踏んだり蹴ったりよ。おまけに――」と彼女は何かを言いかけたが思い直してやめ、箸をおいてため息をついた。「でもずいぶん暗い話になっちゃったわね。なんでこんな話になったんだっけ?」
「ブラジャーのあたりからだね」と僕は言った。
「そのだしまきよ。心して食べてね」と緑は真面目な顔をして言った。
僕は自分のぶんを食べてしまうとおなかがいっぱいになった。緑はそれほどの量を食べなかった。料理作ってるとね、作ってるだけでもおなかいっぱいになっちゃうのよ、と緑は言った。食事が終わると彼女は食器を片付け、テーブルの上を拭き、どこかからマルボロの箱を持ってきて一本くわえ、マッチで火をつけた。そして水仙をいけたグラスを手にとってしばらく眺めた。
「このままの方がいいみたいね」と緑は言った。「花瓶に移さなくていいみたい。こういう風にしてると、今ちょっとそこの水辺で水仙をつんできてとりあえずグラスにさしてあるっていう感じがするもの」
「大塚駅の前の水辺でつんできたんだ」と僕は言った。
緑はくすくす笑った。「あなたって本当に変ってるわね。冗談なんか言わないって顔して冗談言うんだもの」
緑は頬杖をついて煙草を半分吸い、灰皿にぎゅっとこすりつけるようにして消した。煙が目に入ったらしく指で目をこすっていた。
「女の子はもう少し上品に煙草を消すもんだよ」と僕は言った。「それじゃ木樵女みたいだ。無理に消そうと思わないでね、ゆっくりまわりの方から消していくんだ。そうすればそんなにくしゃくしゃにならないですむ。それじゃちょっとひどすぎる。それからどんなことがあっても鼻から煙を出しちゃいけない。男と二人で食事しているときに三ヶ月一枚のブラジャーでとおしたなんていう話もあまりしないね、普通の女の子は」
「私、木樵女なのよ」と緑は鼻のわきを掻きながら言った。「どうしてもシックになれないの。ときどき冗談でやるけど身につかないの。他に言いたいことある?」
「マルボロは女の子の吸う煙草じゃないね」
「いいのよ、べつに。どうせ何吸ったって同じくらいまずいだもの」と彼女は言った。そして手の中でマルボロの赤いハード・パッケージをくるくるとまわした。「先月吸いはじめたばかりなの。本当はとくに吸いたいわけでもないんだけど、ちょっと吸ってみようかなと思ってね、ふと」
「どうしてそう思ったの?」
緑はテーブルの上に置いた両手をぴたりと合わせてしばらく考えていた。「どうしてもよ。ワタナベ君は煙草吸わないの?」
「六月にやめたんだ」
「どうしてやめたの?」
「面倒臭かったからだよ。夜中に煙草が切れるときの辛さとか、そういうのがさ。だからやめたんだ。何かにそんな風に縛られるのってす好きじゃないんだよ」
「あなたってわりに物事をきちんと考える性格なのね、きっと」
「まあそうかもしれないな」と僕は言った。「たぶんそのせいで人にあまり好かれないだろうね。昔からそうだな」
「それはね、あなたが人に好かれなくったってかまわないと思っているように見えるからよ。だからある種の人は頭にくるんじゃないかしら」と彼女頬杖をつきながらもそもそした声で言った。「でも私あなたと話してるの好きよ。しゃべり方だってすごく変ってるし。『何かにそんな風に縛られるのって好きじゃないんだよ』」
僕は彼女が食器を洗うのを手伝った。僕は緑のとなりに立って、彼女の洗う食器をタオルで拭いて、調理台の上に積んでいった。
「ところで家族の人はみんな何処に行っちゃったの、今日は?」と僕は訊いてみた。
「お母さんはお墓の中よ。二年前に死んだの」
「それ、さっき聞いた」
「お姉さんは婚約者とデートしてるの。どこかドライブに行ったんじゃないかしら。お姉さんの彼はね自動車会社につとめてるの。だから自動車大好きで。私ってあんまり車好きじゃないんだけど」
緑はそれから黙って皿を洗い、僕も黙ってそれを拭いた。
「あとはお父さんね」と少しあとで緑は言った。
「そう」
「お父さんは去年の六月にウルグァイに行ったまま戻ってこないの」
「ウルグァイ?」と僕はびっくりして言った。「なんでまたウルグァイなんかに?」
「ウルグァイに移住しようとしたのよ、あの人。馬鹿みないな話だけど。軍隊のときの知り合いがウルグァイに農場持ってて、そこに行きゃなんとでもなるって急に言い出して、そのまま一人で飛行機に乗っていっちゃったの。私たち一所懸命とめたのよ。そんなところ行ったってどうしようもないし、言葉もできないし、だいいちお父さん東京から出たことだってロクにないじゃないのって。でも駄目だったわ。きっとあの人、お母さんを亡くしたのがものすごくショックだったのね。それで頭のタガが外れちゃったのよ。それくらいあの人、お母さんのことを愛してたのよ。本当よ」
僕はうまく相槌が打てなくて、口をあけて緑を眺めていた。
「お母さんが死んだとき。お父さんが私とお姉さんに向かってなんて言ったか知ってる?こう言ったのよ。『俺は今とても悔しい。俺はお母さんを亡くすよりはお前たち二人を死なせた方がずっとよかった』って。私たちは唖然として口もきけなかったわ。だってそう思うでしょう?いくらなんでもそんな言い方ってないじゃない。そりゃね、最愛の伴侶を失った辛さ哀しさ苦しみ、それはわかるわよ。気の毒だと思うわよ。でも実の娘に向かってお前らがかわりに死にゃあよかったんだってのはないと思わない?それはちょっとひど過ぎると思わない?」
「まあ、そうだな」
「私たちだって傷つくわよ」と緑は首を振った。「とにかくね、うちの家族ってみんなちょっと変わってるのよ。どこか少しずつずれてんの」
「みたいだね」と僕も認めた。
「でも人と人が愛しあうって素敵なことだと思わない?娘に向かってお前らがかわりに死にゃ良かっただなんて言えるくらい奥さんを愛せるなんて?」
「まあそう言われてみればそうかもしれない」
「そしてウルグァイに行っちゃったの。私たちをひょいと放り捨てて」
僕は黙って皿を拭いた。全部の皿を拭いてしまうと緑は僕が拭いた食器を棚にきちんとしまった。
「それでお父さんからは連絡ないの?」と僕は訊いた。
「一度だけ絵ハガキが来たわ。今年の三月に。でもくわしいことは何も書いてないの。こっちは暑いだとか、思ったほど果物がうまくないだとか、そんなことだけ。まったく冗談じゃないわよねえ。下らないロバの写真の絵ハガキで。頭がおかしいのよ。あの人。その友だちだか知りあいだかに会えたかどうかさえ書いてないの。終りの方にもう少し落ち着いたら私とお姉さんを呼び寄せるって書いてあったけど、それっきり音信不通。こっちから手紙出しても返事も来やしないし」
「それでもしお父さんがウルグァイに来いって言ったら、君どうするの?」
「私は行ってみるわよ。だって面白そうじゃない。お姉さんは絶対に行かないって。うちのお姉さんは不潔なものとか不潔な場所とかが大嫌いなの」
「ウルグァイってそんなに不潔なの?」
「知らないわよ。でも彼女はそう信じてるの。道はロバのウンコでいっぱいで、そこに蠅がいっぱい集って、水洗便所の水はろくに流れなくて、トカゲやらサソリやらがうようよいるって。そういう映画をどこかでみたんじゃないかしら。お姉さんって虫も大嫌いなの。お姉さんの好きなのはちゃらちゃらした車に乗って湘南あたりをドライブすることなの」
「ふうん」
「ウルグァイ、いいじゃない。私は行ってもいいわよ」
「それはこのお店は今誰がやってるの?」と僕は訊いてみた。
「お姉さんがいやいややってるの。近所に住んでる親戚のおじさんが毎日手伝ってくれて配達もやってくれるし、私も暇があれば手伝うし、まあ書店というのはそれほど重労働じゃないからなんとかかんとかやれてるわよ。どうにもやれなくなったらお店畳んで売っちゃうつもりだけど」
「お父さんのことは好きなの?」
緑は首を振った。「とくに好きってわけでもないわね」
「じゃあどうしてウルグァイまでついていくの?」
「信用してるからよ」
「信用してる?」
「そう、たいして好きなわけじゃないけど信用はしてるのよ、お父さんのことを。奥さんを亡くしたショックで家も子供も仕事も放りだしてふらっとウルグァイに行っちゃうような人を私は信用するのよ。わかる?」
僕はため息をついた。「わかるような気もするし、わからないような気もするし」
緑はおかしそうに笑って、僕の背中を軽く叩いた。「いいのよ、べつにどっちだっていいんだから」と彼女は言った。
その日曜日の午後にはばたばたといろんなことが起った。奇妙な日だった。緑の家のすぐ近所で火事があって、僕らは三階の物干しにのぼってそれを見物し、そしてなんとなくキスをした。そんな風に言ってしまうと馬鹿みたいだけれど、物事は実にそのとおりに進行したのだ。
僕らが大学の話をしながら食後のコーヒーを飲んでいると、消防自動車のサイレンの音が聞こえた。サイレンの音はだんだん大きくなり、その数も増えているようだった。窓の下を大勢の人が走り、何人かは大声で叫んでいた。緑は通りに面した部屋に行って窓を開けて下を見てから、ちょっとここで待っててねと言ってからどこかに消えた。とんとんとんと足早に階段を上る音が聞こえた。
僕は一人でコーヒーを飲みながらウルグァイっていったいどこにあったんだっけと考えていた。ブラジルがあそこで、ベネズエラがあそこで、このへんがコロンビアでとずっと考えていたが、ウルグァイがどのへんにあるのかはどうしても思い出せなかった。そのうちに緑が下に下りてきて、ねえ、早く一緒に来てよと言った。僕は彼女のあとを付いて廊下に突き当たりにある狭い急な階段を上り、広い物干し場に出た。物干し場はまわりの家の屋根よりもひときわ高くなっていて、近所が一望に見わたせた。三軒か四軒向うからもうもうと黒煙が上がり、微風にのって大通りの方に流れていた。きな臭い匂いが漂っていた。
「あれは阪本さんのところだわね」と緑は手すりから身をのりだすようにして言った。「阪本さんって以前建具屋さんだったの。今は店じまいして商売してはいないだけど」
僕も手すりから身をのりだしてそちらを眺めてみた。ちょうど三階建てのビルのかげになっていて、くわしい状況はわからなかったけど、消防車が三台か四台あつまって消火作業をつづけているようだった。もっとも通りが狭いせいで、せいぜい二台しか中に入れず、あとの車は大通りの方で待機していた。そして通りには例によって見物人がひしめいていた。
「大事なものがあったらまとめて、ここは避難したほうがいいみたいだな」と僕は緑に言った。「今は風向きが逆だからいいけど、いつ変わるかもしれないし、すぐそこがガソリン・スタンドだものね。手伝うから荷物をまとめなよ」
「大事なものなんてないわよ」と緑が言った。
「でも何かあるだろう。預金通帳とか実印とか証書とか、そういうもの。とりあえずのお金だてなきゃ困るし」
「大丈夫よ。私逃げないもの」
「ここが燃えても?」
「ええ」と緑は言った。「死んだってかまわないもの」
僕は緑の目を見た。緑も僕の目を見た。彼女の言っていることがどこまで本気なのかどこから冗談なのかさっぱり僕にはわからなかった。僕はしばらく彼女を見ていたが、そのうちにもうどうでもいいやという気になってきた。
「いいよ、わかったよ。つきあうよ、君に」と僕は言った。
「一緒に死んでくれるの?」と緑は目をかがやせて言った。
「まさか。危なくなったら僕は逃げるよ。死にたいなら君が一人で死ねばいいさ」
「冷たいのね」
「昼飯をごちそうしてもらったくらいで一緒に死ぬわけにはいかないよ。夕食ならともかくさ」
「ふうん、まあいいわ、とにかくここでしばらく成り行きを眺めながら唄でも唄ってましょうよ。まずくなってきたらまたその時に考えればいいもの」
「唄?」
緑は下から座布団を二枚と缶ビールを四本とギターを物干し場に運んできた。そして僕らはもうもうと上る黒煙を眺めつつビールを飲んだ。そして緑はギターを弾いて唄を唄った。こんなことして近所の顰蹙を買わないのかと僕は緑に訊ねてみた。近所の火事を見物しながら物干しで酒を飲んで唄を唄うなんてあまりまともな行為だと思えなかったからだ。
「大丈夫よ、そんなの。私たち近所のことって気にしないことにしてるの」と緑は言った。
彼女は昔はやったフォーク・ソングを唄った。唄もギターもお世辞にも上手いとは言えなかったが、本人はとても楽しそうだった。彼女は『レモン・ツリー』だの『五00マイル』だの『花はどこに行った』だの『漕げよマイケル』だのをかたっぱしから唄っていた。初めのうちは緑は僕に低音パートを教えて二人で合唱しようとしたが、僕の唄があまりにもひどいのでそれはあきらめ、あとは一人で気のすむまで唄いつづけた。僕はビールをすすり、彼女の唄を聴きながら、火事の様子を注意深く眺めていた。煙は急に勢いよくなったかと思うと少し収まりというのをくりかえしていた。人々は大声で何かを叫んだり命令したりしていた。ばたばたという大きな音をたてて新聞社のヘリコプターがやってきて写真を撮って帰っていった。我々の姿が写ってなければいいけれどと僕は思った。警官がラウド・スピーカーで野次馬に向ってもっとうしろに退ってなさいとどなっていた。子供が泣き声で母親を呼んでいた。どこかでガラスの割れた音がした。やがて風が不安定に舞いはじめ、白い燃えさしのようなものが我々のまわりにもちらほらと舞ってくるようになった。それでも緑はちびちびとビールを飲みながら気持ち良さそうに唄いつづけていた。知っている唄をひととおり唄ってしまうと、今度は自分で作詞・作曲したという不思議な唄を唄った。
あなたのためにシチューを作りたいのに
私には鍋がない。
あなたのためにマフラーを編みたいのに
私には毛糸がない。
あなたのために詩を書きたいのに
私にはペンがない。
「『何もない』っていう唄なの」と緑は言った。歌詞もひどいし、曲もひどかった。
僕はそんな無茶苦茶な唄を聴きながら、もしガソリン・スタンドに引火したら、この家も吹き飛んじゃうだろうなというようなことを考えていた。緑は唄い疲れるとギターを置き、日なたの猫みたいにごろんと僕の肩にもたれかかった。
「私の作った唄どうだった?」と緑は訊いた。
「ユニークで独創的で、君の人柄がよく出てる」と僕は注意深く答えた。
「ありがとう」と彼女は言った。「何もない――というのがテーマなの」
「わかるような気がする」と僕は肯いた。
「ねえ、お母さんの死んだときのことなんだけどね」と緑は僕の方を向いて言った。
「うん」
「私ちっとも悲しくなかったの」
「うん」
「それからお父さんがいなくなっても全然悲しくないの」
「そう?」
「そう。こういうのってひどいと思わない?冷たすぎると思わない?」
「でもいろいろと事情があるわけだろう?そうなるには」
「そうね、まあ、いろいろとね」と緑は言った。「それなりに複雑だったのよ、うち。でもね、私ずっとこう思ってたのよ。なんのかんのといっても実のお父さん・お母さんなんだから、死んじゃったり別れちゃったりしたら悲しいだろうって。でも駄目なのね。なんにも感じないのよ。悲しくもないし、淋しくもないし、辛くもないし、殆んど思い出しもしないのよ。ときどき夢に出てくるだけ。お母さんが出てきてね、暗闇の奥からじっと私を睨んでこう非難するのよ、『お前、私が死んで嬉しいんだろう?』ってね。べつに嬉しかないわよ。お母さんが死んだことは。ただそれほど悲しくないっていうだけのことなの。正直なところ涙一滴出やしなかったわ。子供のとき飼ってた猫が死んだときは一晩泣いたのにね」
なんだってこんなに煙が出るんだろうと僕は思った。火も見えないし、燃え広がった様子もない。ただ延々と煙がたちのぼっているのだ。いったいこんなに長いあいだ何が燃えているんだろうと僕は不思議に思った。
「でもそれは私だけのせいじゃないのよ。そりゃ私も情の薄いところあるわよ。それは認めるわ。でもね、もしあの人たちが――お父さんとお母さんが――もう少し私のことを愛してくれていたとしたら、私だってもっと違った感じ方ができてたと思うの。もっともっと悲しい気持ちになるとかね」
「あまり愛されなかったと思うの?」
彼女は首を曲げて僕の顔を見た。そしてこくんと肯いた。「『十分じゃない』と『全然足りない』の中間くらいね。いつも飢えてたの、私。一度でいいから愛情をたっぷりと受けてみたかったの。もういい、おなかいっぱい、ごちそうさまっていうくらい。一度でいいのよ、たった一度で。でもあの人たちはただの一度も私にそういうの与えてくれなかったわ。甘えるとつきとばされて、金がかかるって文句ばかり言われて、ずうっとそうだったのよ。それで私こう思ったの、私のことを年中百パーセント愛してくれる人を自分でみつけて手に入れてやるって。小学校五年か六年のときにそう決心したの」
「すごいね」と僕は感心して言った。「それで成果はあがった?」
「むずかしいところね」と緑は言った。そして煙を眺めながらしばらく考えていた。「たぶんあまりに長く待ちすぎたせいね、私すごく完璧なものを求めてるの。だからむずかしいのよ」
「完璧な愛を?」
「違うわよ。いくら私でもそこまでは求めてないわよ。私が求めているのは単なるわがままなの。完璧なわがまま。たとえば今私があなたに向って苺のショート・ケーキを食べたいって言うわね、するとあなたは何もかも放り出して走ってそれを買いに行くのよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて『はいミドリ、苺のショート・ケーキだよ』って差し出すでしょう、すると私は『ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃったわよ』って言ってそれを窓からぽいと放り投げるの。私が求めているのはそういうものなの」
「そんなの愛とは何の関係もないような気がするけどな」と僕はいささか愕然として言った。
「あるわよ。あなたが知らないだけよ」と緑はいった。「女の子にはね、そういうのがものすごく大切なときがあるのよ」
「苺のショート・ケーキを窓から放り投げることが?」
「そうよ。私は相手の男の人にこう言ってほしいのよ。『わかったよ、ミドリ。僕がわるかった。君が苺のショート・ケーキを食べたくなくなることくらい推察するべきだった。僕はロバのウンコみたいに馬鹿で無神経だった。おわびにもう一度何かべつのものを買いに行ってきてあげよう。何がいい?チョコレート・ムース、それともチーズ・ケーキ?』」
「するとどうなる?」
「私、そうしてもらったぶんきちんと相手を愛するの」
「ずいぶん理不尽な話みたいに思えるけどな」
「でも私にとってそれが愛なのよ。誰も理解してくれないけれど」と緑は言って僕の肩の上で小さく首を振った。「ある種の人々によって愛というのはすごくささやかな、あるいは下らないところから始まるのよ。そこからじゃないと始まらないのよ」
「君みたいな考え方をする女の子に会ったのははじめてだな」と僕は言った。
「そう言う人はけっこう多いわね」と彼女は爪の甘皮をいじりながら言った。「でも私、真剣にそういう考え方しかできないのよ。ただ正直に言ってるだけなの。べつに他人と変った考え方してるなんて思ったこともないし、そんなものを求めてるわけでもないのよ。でも私が正直に話すと、みんな冗談か演技だと思うの。それでときどき何もかも面倒臭くなっちゃうけどね」
「そして火事で死んでやろうと思うの?」
「あら、これはそういうんじゃないわよ。これはね、ただの好奇心」
「火事で死ぬことが?」
「そうじゃなくてあなたがどう反応するかを見てみたかったのよ」と緑は言った。「でも死ぬこと自体はちっとも怖くないわよ。それは本当。こんなの煙にまかれて気を失ってそのまま死んじゃうだけだもの、あっという間よ。全然怖くないわ。私の見てきたお母さんやら他の親戚の人の死に方に比べたらね。ねえ、うちの親戚ってみんな大病して苦しみ抜いて死ぬのよ。なんだかどうもそういう血筋らしいの。死ぬまでにすごく時間がかかるわけ。最後の方は生きてるのか死んでるのかそれさえわからないくらい。残ってる意識と言えば痛みと苦しみだけ」
緑はマルボロをくわえて火をつけた。
「私が怖いのはね、そういうタイプの死なのよ。ゆっくりとゆっくりと死の影が生命の領域を侵蝕して、気がついたらうす暗くて何も見えなくなっていて、まわりの人も私のことを生者よりは死者に近いと考えているような、そういう状況なのよ。そんなのって嫌よ。絶対に耐えられないわ、私」
結局それから三十分ほどで火事はおさまった。たいした延焼もなく、怪我人も出なかったようだった。消防車も一台だけを残して帰路につき、人々もがやがやと話をしながら商店街をひきあげていった。交通を規制するパトカーが残って路上でライトをぐるぐると回転させていた。どこかからやってきた二羽の鴉が電柱のてっぺんにとまって地上の様子を眺めていた。
火事が終わってしまうと緑はなんとなくぐったりとしたみたいだった。身体の力を抜いてぼんやりと遠くの空を眺めていた。そして殆んど口をきかなかった。
「疲れたの?」と僕は訊いた。
「そうじゃないのよ」と緑は言った。「久しぶりに力を抜いてただけなの。ぼおっとして」
僕は緑の目を見ると、緑も僕の目を見た。僕は彼女の肩を抱いて、口づけした。緑はほんの少しだけびくっと肩を動かしたけれど、すぐにまた身体の力を抜いて目を閉じた、五秒か六秒、我々はそっと唇をあわせていた。初秋の太陽が彼女の頬の上にまつ毛の影を落とし、それが細かく震えているのが見えた。
それはやさしく穏やかで、そして何処に行くあてもない口づけだった。午後の日だまりの中で物干し場に座ってビールを飲んで火事見物をしていなかったら、僕はその日緑に口づけなんかしなかっただろうし、その気持ちは彼女の方も同じだったと思う。僕らは物干し場からきらきらと光る家々の屋根や赤とんぼやそんなものをずっと眺めていて、あたたかくて親密な気分になっていて、そのことを何かのかたちで残しておきたいと無意識に考えていたのだろう。我々の口づけはそういうタイプの口づけだった。しかしもちろんあらゆる口づけがそうであるように、ある種の危険がまったく含まれていないと言うわけではなかった。
最初に口を開いたのは緑だった。彼女は僕の手をそっととった。そしてなんだか言いにくそうに自分にはつきあっている人がいるのだと言った。それはなんとなくわかってると僕は言った。
「あなたには好きな女の子いるの?」
「いるよ」
「でも日曜日はいつも暇なのね?」
「とてお複雑なんだ」と僕は言った。
そして僕は初秋の午後の束の間の魔力がもうどこかに消え去っていることを知った。
五時に僕はアルバイトに行くからと言って緑の家を出た。一緒に外に出て軽く食事しないかと誘ってみたが、電話がかかってくるかも知れないからと、彼女は断った。
「一日中家の中にいて電話を待ってなきゃいけないなんて本当に嫌よね。一人きりでいるとね、身体が少しずつ腐っていくような気がするのよ。だんだん腐って溶けて最後には緑色のとろっとした液体だけになってね、地底に吸い込まれていくの。そしてあとには服だけが残るの。そんな気がするわね、一日じっと待ってると」
「もしまた電話待ちするようなことがあったら一緒につきあうよ。昼ごはんつきで」と僕は言った。
「いいわよ。ちゃんと食後の火事も用意しておくから」と緑は言った。