サヤの中に収まる豆のように
見覚えのある場所でタクシーを降りると、青豆は交差点に立ってあたりを見回し、金属パネルの塀に囲まれた薄暗い資材置き場を高速道路の下に見つけた。そして天吾の手を引いて横断歩道を渡り、そちらに向かった。
ボルトの外れている金属板がどのあたりにあったか、なかなか思い出せなかったが、一枚一枚辛抱強く試しているうちに、人が一人なんとかくぐり抜けられる隙間を作り出すことができた。青豆は身をかがめ、服をひっかけないように気をつけながら、中に潜り込んだ。天吾も大きな体を縮めるようにして、そのあとに続いた。塀の中は青豆が四月に見たときのままだ。放置され色褪せたセメントの袋、さびた鉄骨、くたびれた雑草、散らばった古い紙くず、あちこちに白くこびりついた鳩の糞。八ヶ月前から何ひとつ変化していない。あれから今まで、ここに足を踏み入れる人間は一人もいなかったのかもしれない。都会の真ん中、それも幹線道路の中洲のような位置にありながら、そこは見捨てられ忘却された場所だった。
「ここがその場所なの?」、天吾はあたりを見回してそう尋ねる。
青豆は肯く。「もしここに出口がないのなら、私たちはどこにも行けない」
青豆は暗がりの中で、かつて自分が降りてきた非常階段を探す。首都高速道路と地上を結ぶ狭い階段だ。階段は[#傍点]ここにあるはずなのだ[#傍点終わり]、彼女は自分にそう言い聞かせる。私はそれを信じなくてはならない。
非常階段は見つかる。実際には階段というより、ほとんど梯子に近い代物だ。青豆が記憶していたよりも更に貧相で、更に危なっかしい。こんなものをつたって私は上からここまで降りてきたのだ、と青豆はあらためて感心する。しかしとにかく階段はそこにある。あとは前とは逆に、一段一段それを登っていくだけだ。彼女はシャルル・ジョルダンのハイヒールを脱いで、ショルダーバッグの中につっこみ、それをたすきがけにする。梯子の最初の段にストッキングに包まれた素足をかける。
「あとをついてきて」と青豆は振り向いて天吾に言う。
「僕が先に行った方がいいんじゃないか?」と天吾は心配そうに言う。
「いいえ。私が先に行く」、それは彼女が降りてきた道だ。彼女がまず登らなくてはならない。
階段はそこを降りたときより、ずっと冷たく凍てついていた。握っている手がかじかんで、感覚を失ってしまいそうだ。高速道路の支柱のあいだを抜ける風も、遥かに鋭く厳しい。その階段はいかにもよそよそしく挑戦的であり、彼女に何ひとつ約束してはいなかった。
九月の初めに高速道路の上から探し求めたとき、非常階段は消滅していた。そのルートは塞がれていた。しかし地上の資材置き場から上に向かうルートは、今もこうして存在している。青豆が予測したとおりだ。その方向からであれば階段はまだ残されているという予感が彼女にはあった。私の中には[#傍点]小さなもの[#傍点終わり]がいる。もしそれが何らかの特別な力を有しているなら、きっと私を護り、正しい方向を示唆してくれるはずだ。
階段はあった。しかしその階段が果たして[#傍点]本当に[#傍点終わり]高速道路に繋がっているのか、そこまではわからない。あるいはそれは途中で塞がれ、行き止まりになっているのかもしれない。そう、この世界ではどんなことだって起こりうるのだ。実際に手と足を使って上まで登り、そこに何があるのか——あるいは何がないのか——自分の目で確かめるしかない。
彼女は一段一段、用心深く階段を登っていく。下を見ると、天吾がすぐあとをついてくるのが見える。ときおり風が激しく吹き抜け、鋭い音を立てて彼女のスプリング・コートをはためかせる。切り裂くような風だ。スカートの短い裾は太腿のあたりまでずりあがっている。髪が風に吹かれてもつれ、顔にへばりついて視野を遮る。息もうまくできないほどだ。髪を後ろにまとめてくればよかったと青豆は悔やむ。手袋だって用意するべきだった。どうしてそんなことも思いつかなかったのだろう? しかし悔やんでも仕方ない。とにかく降りてきたときと同じ格好をすることしか頭になかった。何はともあれ梯子段を握りしめ、このまま上に登っていくしかない。
青豆は寒さに震え、辛抱強く上方に歩を進めながら、道路を隔てて建っているマンションのベランダに目をやる。五階建ての茶色い煉瓦タイルでできた建物だ。この前降りてくるときにも同じ建物を目にした。半分ほどの窓に明かりがついている。目と鼻の先と言ってもいいくらいの近さだ。夜中に高速道路の非常階段を登っているところを住人に目撃されたりすると面倒なことになるかもしれない。二人の姿は今では二四六号線の照明灯に、かなり明るく照らし出されていた。
しかしありがたいことに、どの窓にも人影は見えない。カーテンはどれもぴったり閉じられている。まあ当然といえば当然のことだ。こんな寒い冬の夜にわざわざベランダに出て、首都高速道路の非常階段を見物する人間はまずいない。
ベランダのひとつには鉢植えのゴムの木が置かれている。薄汚れたガーデンチェアの隣に、それは身をすくませてうずくまっている。四月にこの階段を降りたときにも、やはりそこにゴムの木が見えた。彼女が自由が丘のアパートに残してきたものより更にうらぶれた代物だ。この八ヶ月ほどのあいだ、そのゴムの木はおそらくずっと同じ場所に、同じ姿勢でうずくまっていたのだ。それは傷つき色褪せ、世界のいちばん目立たない隅っこに押し込まれ、きっと誰からも忘れ去られていた。水だってろくにもらっていないかもしれない。それでもそのゴムの木は、不安と迷いを抱え、手足を凍えさせながら不確かな階段を登っていく青豆に、ささやかながらも勇気と承認を与えてくれる。大丈夫、間違いない。少なくとも私は来たときと同じ道を逆向きに辿っている。このゴムの木は、私のために目印の役を果たしてくれている。とてもひっそりと。
そのとき非常階段を降りながら、私はいくつかの貧相な蜘蛛の巣を目にした。それから私は大塚環のことを考えた。高校時代の夏、そのいちばんの親友と一緒に旅行をして、夜ベッドの中でお互いの裸の身体を触り合ったときのことを。どうしてそんなことを、よりによって首都高速道路の非常階段を降りている途中で、急に思い出したりしたのだろう? 青豆は同じ階段を逆に登りながら、大塚環のことをもう一度考える。彼女のつるりとした、美しいかたちの乳房のことを思い出す。環の豊かな乳房を、青豆はいつもうらやましく思ったものだ。かわいそうな発育不良の私の乳房とはぜんぜん違う。でもその乳房も今では失われてしまった。
それから青豆は中野あゆみのことを考える。八月の夜に、渋谷のホテルの一室で両腕に手錠をかけられ、バスローブの紐で絞殺された孤独な婦人警官のことを。心にいくつかの間題を抱え、破滅の淵に向かって歩いていった一人の若い女性のことを。彼女もまた豊かな胸を持っていた。
青豆はその二人の友人たちの死を心から悼む。彼女たちがもうこの世界に存在しないことを寂しく思う。二組の見事な乳房が跡形もなく消えてしまったことを惜しむ。
[#傍点]どうか私を護って[#傍点終わり]、と青豆は心の中で訴える。[#傍点]お願い、私にはあなたたちの助けが必要なの[#傍点終わり]。その二人の不幸な友人たちの耳にはきっと、彼女の無音の声が聞こえているはずだ。彼女たちはきっと私を護ってくれるはずだ。
まっすぐな梯子をようやく登り終えると、道路の外側に向かう平らな通路《キャットウォーク》がある。低い手すりがついているが、身を屈めなくては前に進めない。その通路の先にジグザグになった階段が見える。まともな階段とまでは言えないが、少なくとも梯子段よりは遥かにましな代物だ。青豆の記憶によれば、その階段を登っていけば高速道路の待避スペースに出られるはずだ。道路を行き来する大型トラックの振動のせいで、その通路は横波を受ける小さなボートのように不安定に揺れている。車の騒音も今ではかなり大きなものになっている。
彼女は梯子を登り切った天吾がすぐ背後にいることを確かめ、手を伸ばして彼の手を握る。天吾の手は温かい。こんな寒い夜に、こんな冷え切った階段を素手でつかんで登ってきて、どうしてこれほど温かい手を持ち続けられるのだろう。青豆は不思議に思う。
「あともう少しよ」と青豆は天吾の耳に口を寄せて言う。車の騒音と風音に対抗するためには大声を出さなくてはならない。「その階段を上れば道路に出る」
もし階段が塞がれていなければ。でもそれは口には出さない。
「最初からこの階段を上るつもりでいたんだね」と天吾は尋ねる。
「そう。もし階段を見つけられたら、ということだけど」
「なのに君はわざわざそんな格好をしてきた。つまりタイトなスカートに、ハイヒールを履いて。こんな急な階段を登るのに向いた服装には見えないんだけど」
青豆はまた微笑む。「この服装をすることが私には必要だったの。いつかそのわけを説明してあげる」
「君はすごくきれいな脚をしている」と天吾は言う。
「気に入った?」
「とても」
「ありがとう」と青豆は言う。狭い通路の上で身を乗り出し、天吾の耳にそっと唇をつける。カリフラワーのようにくしゃくしゃした耳に。その耳は冷たく冷え切っている。
青豆はまた先に立って通路を進み、その突き当たりにある急な狭い階段を登り始める。足の裏が凍え、指先の感覚が鈍くなっている。足を踏み外さないように注意しなくてはならない。風にもつれる髪を指で払いながら、彼女は階段を登り続ける。凍てつく風が彼女の目に涙をにじませる。彼女は風にあおられてバランスを失わないように手すりをしっかり掴み、一歩ずつ慎重に歩を運びながら、背後にいる天吾のことを考える。その大きな手と、冷え切ったカリフラワーのような耳のことを考える。彼女の中に眠る[#傍点]小さなもの[#傍点終わり]のことを考える。ショルダーバッグに収められた黒い自動拳銃のことを考える。そこに装愼された七発の九ミリ弾のことを考える。
何があってもこの世界から抜け出さなくてはならない。そのためにはこの階段が必ず高速道路に通じていると、心から信じなくてはならない。[#傍点]信じるんだ[#傍点終わり]、と彼女は自分に言い聞かせる。あの雷雨の夜、リーダーが死ぬ前に口にしたことを青豆は思い出す。歌の歌詞だ。彼女は今でもそれを正確に記憶している。
ここは見世物の世界
何から何までつくりもの
でも私を信じてくれたなら
すべてが本物になる
何があっても、どんなことをしても、私の力でそれを本物にしなくてはならない。いや、私と天吾くんとの二人の力で、それを本物にしなくてはならない。私たちは集められるだけの力を集めて、ひとつに合わせなくてはならない。私たち二人のためにも、そして[#傍点]この小さなもの[#傍点終わり]のためにも。
青豆は階段が平らな踊り場になったところで止まり、後ろを振り向く。天吾がそこにいる。彼女は手を伸ばす。天吾はその手を握る。彼女はそこにさっきと同じ温もりを感じる。それは彼女に確かな力を与えてくれる。青豆はもう一度身を乗り出し、彼のくしゃくしゃとした耳に口を近づける。
「ねえ、私は一度あなたのために命を捨てようとしたの」と青豆は打ち明ける。「あと少しで本当に死ぬところだった。あと数ミリのところで。それを信じてくれる?」
「もちろん」と天吾は言う。
「心から信じるって言ってくれる?」
「心から信じる」と天吾は心から言う。
青豆は肯き、握っていた手を放す。そして前を向いて再び階段を登り始める。
数分の後に青豆は階段を登り終え、首都高速道路三号線に出る。非常階段は塞がれてはいなかった。彼女の予感は正しく、努力は報われたのだ。彼女は鉄柵を越える前に、手の甲で目に滲んだ冷たい涙を拭う。
「首都高三号線」と天吾はしばらく無言であたりを見まわし、それから感心したように言う。
「ここが世界の出口なんだね」
「そう」と青豆は答える。「ここが世界の入り口であり出口なの」
青豆がタイト・スカートの裾を腰まであげて鉄柵を乗り越えるのを、天吾が後ろから抱きかかえるようにして手伝う。柵の向こうは、車が二台ほど停められる待避スペースになっている。ここに来るのはこれでもう三度目だ。目の前にはいつものエッソの大きな看板がある。[#傍点]タイガーをあなたの車に[#傍点終わり]。同じコピー、同じ虎。彼女は裸足のまま、言葉もなくそこにただ立ちすくむ。そして排気ガスの充満する夜の空気を胸に大きく吸い込む。それは彼女にはどんな空気よりすがすがしく感じられる。[#傍点]戻ってきたのだ[#傍点終わり]、と青豆は思う。[#傍点]私たち[#傍点終わり]はここに戻ってきた。
高速道路は前と同じようにひどく渋滞している。渋谷方向に向かう車の列はほとんど前に進んでいない。彼女はそれを目にして驚く。どうしてだろう。私がここに来るとき、道路は決まって渋滞している。平日のこんな時刻に三号線の上りが渋滞しているのは珍しいことだ。どこか先の方で事故があったのかもしれない。対向車線は順調に流れている。しかし上り車線は壊滅的だ。
彼女のあとから天吾が同じように鉄の柵を乗り越える。足を大きく上げて、それを軽く飛び越える。そして青豆の隣りに並んで立つ。生まれて初めて大洋を目の前にした人が波打ち際に立って、次から次へと砕ける波を呆然と見つめるように、二人は目の前にひしめきあった車の列を、言葉もなくただ眺めている。
車の中にいる人々もまたじっと二人の姿を見ている。人々は自分たちが目にしている光景に戸惑い、態度を決めかねている。彼らの目には好奇というよりは、むしろ不審の色が浮かんでいる。この若いカップルはこんなところでいったい何をしているのだ? 二人は暗がりの中から出し抜けに出現し、首都高速道路の待避スペースにぼんやり立ちすくんでいる。女はシャープなスーツを着ているが、コートは薄い春物で、ストッキングだけで靴も履いていない。男は大柄で、くたびれた革のジャンパーを着ている。二人ともショルダーバッグをたすきがけにしている。乗っていた車が近くで故障するか、事故を起こすかしたのだろうか? しかしそれらしい車は見当たらない。そして彼らはとくに助けを求めているようにも見えない。
青豆はようやく気を取り直し、バッグからハイヒールを取りだして履く。スカートの裾を引っ張って直し、ショルダーバッグを普通にかけ直す。コートの前の紐を結ぶ。舌で乾いた唇を湿し、指で前髪を整える。ハンカチを出してにじんだ涙を拭く。それから再び天吾に寄り添う。
二十年前のやはり十二月、放課後の小学校の教室でそうしたのと同じように、二人はそこに並んで立ち、無言のまま互いの手を握り合っている。その世界には二人のほかには誰もいない。二人は目の前にある車の緩やかな流れを眺めている。でもどちらも、本当には何も見ていない。自分たちが何を見ているか、何を聞いているか、それは二人にとってはどうでもいいことなのだ。彼らのまわりで、風景や音や匂いは本来の意味をそっくり失ってしまっている。
「それで、僕らは別の世界に出られたんだろうか?」と天吾がようやく口を開く。
「たぶん」と青豆は言う。
「確かめた方がいいかもしれない」
確かめる方法はひとつしかないし、どちらもあえて口に出してそれを確認する必要はない。青豆は黙って顔を上げ、空を見る。天吾もほぼ同時に同じことをする。二人は天空に月を探し求める。角度からすると、その位置はおそらくエッソの広告看板の上のあたりになるはずだ。しかし彼らはそこに月の姿を見出すことはできない。それは今のところ雲の背後に隠されているらしい。雲たちは南に向けて上空を吹く風に緩慢な速度でのんびりと流されていく。二人は待つ。急ぐ必要はない。時間ならたっぷりある。そこにあるのは失われた時間を回復するための時間だ。二人で共有する時間だ。慌てる必要はない。エッソの看板の虎が給油ポンプを片手に持ち、心得た笑みを顔に浮かべ、手を握り合う二人を横目で見守っている。
そこで青豆ははっと気づく。何かが前とは違っていることに。何がどう違っているのか、しばらくわからない。彼女は目を細め、意識をひとつに集中する。それから思い当たる。看板の虎は左側の横顔をこちらに向けている。しかし彼女が記憶している虎は、たしか右側の横顔を世界に向けていた。[#傍点]虎の姿は反転している[#傍点終わり]。彼女の顔が自動的に歪む。心臓が動悸を乱す。彼女の体内で何かが逆流していくような感触がある。でも本当にそう断言できるだろうか? 私の記憶はそこまで確かだろうか? 青豆には確信が持てない。ただ[#傍点]そんな気がする[#傍点終わり]というだけだ。記憶はときとして人を裏切る。
青豆はその疑念を自分の心の中だけに留める。まだそれを口に出してはならない。彼女はいったん目を閉じて呼吸を整え、心臓の鼓動を元に戻し、雲が通り過ぎるのを待つ。
人々は車中からガラス越しにそんな二人の姿を見ている。この二人はいったい何を熱心に見上げているのだろう? どうしてそんなにしっかり手を握りあっているのだろう? 何人かは首をまわして、二人が見つめているのと同じ方向に目をやる。しかしそこには白い雲と、エッソの広告看板が見えるだけだ。[#傍点]タイガーをあなたの車に[#傍点終わり]、その虎は通り過ぎていく人々に左側の横顔を向け、ガソリンの更なる消費をにこやかに訴えている。オレンジ色の縞模様の尻尾は得意げに空中に持ち上げられている。
やがて雲が切れ、月が空に姿を見せる。
月はひとつしかない。いつも見慣れたあの黄色い孤高な月だ。ススキの野原の上に黙して浮かび、穏やかな湖面に白い丸皿となって漂い、寝静まった家屋の屋根を密やかに照らすあの月だ。満ち潮をひたむきに砂浜に寄せ、獣たちの毛を柔らかく光らせ、夜の旅人を包み護るあの月だ。ときには鋭利な三日月となって魂の皮膚を削ぎ、新月となって暗い孤絶のしずくを地表に音もなく滴らせる、あのいつもの月だ。その月はエッソの看板の真上に位置を定めている。その傍らにいびつなかたちをした、緑色の小さな月の姿はない。月は誰をも従えず寡黙にそこに浮かんでいる。確かめ合うまでもなく二人は同じひとつの光景を目にしている。青豆は無言のまま天吾の大きな手を握りしめる。逆流する感覚はもう消えている。
[#傍点]私たちは1984年に戻ってきたのだ[#傍点終わり]、青豆は自分にそう言い聞かせる。ここはもうあの1Q84年ではない。もとあった1984年の世界なのだ。
でも本当にそうだろうか。それほど簡単に世界は元に復するものだろうか? 旧来の世界に戻る通路はもうどこにもない、リーダーは死ぬ前にそう断言したではないか。
ひょっとしてここは[#傍点]もうひとつの違う場所[#傍点終わり]ではあるまいか。私たちはひとつの異なった世界からもうひとつ更に異なった、第三の世界に移動しただけではないのか。タイガーが右側ではなく左側の横顔をにこやかにこちらに向けている世界に。そしてそこでは新しい謎と新しいルールが、私たちを待ち受けているのではないのか?
あるいはそうかもしれない、と青豆は思う。少なくともそうではないと言い切ることは、今の私にはできない。しかしそれでも、ひとつだけ確信を持って言えることがある。何はともあれここは、月が二つ空に浮かんだ[#傍点]あの[#傍点終わり]世界ではないということだ。そして私は天吾くんの手を握りしめている。私たちは論理が力を持たない危険な場所に足を踏み入れ、厳しい試練をくぐり抜けて互いを見つけ出し、そこを抜け出したのだ。辿り着いたところが旧来の世界であれ、更なる新しい世界であれ、何を怯えることがあるだろう。新たな試練がそこにあるのなら、もう一度乗り越えればいい。それだけのことだ。少なくとも私たちはもう孤独ではない。
彼女は身体の力を抜き、信じるべきものを信じるために、天吾の大きな胸にもたれかかる。そこに耳をつけ、心臓の鼓動に耳を澄ませる。そして彼の腕の中に身を預ける。サヤの中に収まる豆のように。
「これから僕らはどこに行けばいいんだろう」、どれほどの時間が経過したあとだろう、天吾が青豆に尋ねる。
いつまでもここにはいられない。それは確かだ。しかし首都高速道路には路肩がない。池尻の出口は比較的近くだが、いくら交通渋滞中とはいえ、狭い高速道路を歩行者が車の間を縫って移動するのは危険すぎる。また首都高の路上で、ヒッチハイクの合図に気軽に応じてくれるドライバーが見つかるとも思えない。非常電話で道路公団事務所を呼び出して助けを求めることもできたが、そうなると二人がここに迷い込んだ理由を、相手が納得できるように説明しなくてはならない。たとえ池尻出口まで無事に歩いてたどり着けたとしても、料金所の係員が二人を見咎めるだろう。さっき登ってきた階段を降りるのはもちろん論外だ。
「私にはわからない」と青豆は言う。
これからどうすればいいのか、どこに向かえばいいのか、彼女には本当にわからなかった。非常階段を登り切ったところで青豆の役目は終了していた。考えを巡らせたり、ことの正否を判断するためのエネルギーは使い果たされていた。彼女の中にはもはや一滴の燃料も残ってはいない。あとのことはほかの何かの力に任せるしかない。
[#ここから1字下げ]
天上のお方さま。あなたの御名がどこまでも清められ、あなたの王国が私たちにもたらされますように。私たちの多くの罪をお許しください。私たちのささやかな歩みにあなたの祝福をお与え下さい。アーメン。
[#ここで字下げ終わり]
祈りの文句は、口からそのまま自然に出てくる。条件反射に近いものだ。考える必要もない。その言葉のひとつひとつは何の意味も持たない。それらの文言《もんごん》は、今となってはただ音の響きであり、記号の羅列に過ぎない。しかしその祈りを機械的に唱えながら、彼女は何かしら不可思議な気持ちになる。敬虔な気持ちとさえ言っていいかもしれない。奥の方で何かがそっと彼女の心を打つ。たとえどんなことがあったにせよ、自分というものを損なわずに済んでよかった。彼女はそう思う。私が私自身としてここに——[#傍点]ここ[#傍点終わり]がたとえどこであれ——いることができてよかったと思う。
あなたの王国が私たちにもたらされますように、と青豆はもう一度声に出して繰り返す。小学校の給食の前にそうしたように。それが何を意味するのであれ、彼女は心からそう望む。あなたの王国が私たちにもたらされますように。
天吾は青豆の髪を指で梳《す》くように撫でる。
十分ばかり後に天吾は通りかかったタクシーを停める。二人はしばらくのあいだ自分たちの目を信じることができない。渋滞中の首都高速道路を客を乗せていない一台のタクシーがのろのろと通りかかったのだ。天吾が半信半疑で手を挙げるとすぐ後部席のドアが開き、二人はそこに乗り込む。幻が消えてしまうのを恐れるように、急いで、あわただしく。眼鏡をかけた若い運転手が首を曲げて後ろを向く。
「この渋滞だから、すぐ先の池尻出口で降りさせてもらいますが、それでもかまいませんか?」と運転手は言う。男にしてはどちらかといえば甲高い声だ。しかし耳障りなところはない。
「それでいい」と青豆は言う。
「本当は首都高の路上でお客を拾ったりするのは法律に違反するんですが」
「たとえばどんな法律に?」と青豆は尋ねる。運転席のミラーに映った彼女の顔は僅かにしかめられている。
高速道路の路上でタクシーが客を拾うことを禁じる法律の名前を、運転手は急には思いつけない。そしてミラーの中の青豆の顔が彼をじんわりと威嚇する。
「まあいいです」と運転手はその話題を放棄する。「で、どちらまで行けばいいのでしょう?」
「渋谷駅の近くで下ろしてくれればいい」と青豆は言う。
「メーターは倒しません」と運転手は言う。「料金は下に降りてからのぶんだけ頂きます」
「でもどうしてこんなところを、タクシーが客を乗せないで走っているんだろう?」と天吾が運転手に尋ねる。
「けっこうややこしい話なんですが」と運転手は疲弊をにじませた声で言う。「聞きたいですか?」
「聞きたい」と青豆が言う。どんなに長くて退屈な話でもかまわない。この新しい世界で人々が語る物語を彼女は聞きたい。そこには新しい秘密があり、新しい暗示があるかもしれない。
「砧《きぬた》公園の近くで中年の男性客を拾いまして、青山学院大学の近くまで高速を通っていってくれと言われました。下を通ると渋谷あたりで混んじゃいますからね。そのときはまだ首都高渋滞の情報は入っていませんでした。すいすい流れているということでした。だから言われたとおり用賀で首都高に乗ったんです。ところが谷町あたりで衝突事故があったらしく、ごらんの有様です。いったん上に乗っちまうと、池尻出口までは下りるにも下りられません。そうこうするうちに、そのお客が知り合いに出会ったんです。駒沢のあたりでべったり停まっているときに、隣の車線に銀色のベンツのクーペが並んでいまして、それを運転している女性がたまたま知り合いだったんですね。で、窓を開けて二人で話をしていたんですが、こっちに来ればということになりました。そんなわけで、悪いけどここで精算して、あっちに移っていいかなと、その人が私に言いました。首都高速でお客を下ろすなんて前代未聞ですが、まあ実質動いていないようなものですし、いやとも言えませんよね。それでお客はそのベンツに乗り移りました。悪いねということで、料金に少し色はつけてもらいましたが、それでもこっちはたまったもんじゃありません。何しろそのまま身動きがとれないわけですから。それでじりじりとなんとかここまでやってきました。もうちょっとで池尻出口というところまで。するとお客さんたちがあそこで手を挙げているのが見えました。とても信じられない話です。そう思いませんか?」
「信じられる」と青豆は簡潔に言う。
二人はその夜、赤坂にある高層ホテルに部屋をとる。彼らは部屋を暗くしてそれぞれの服を脱ぎ、ベッドに入って抱き合う。語り合わなくてはならないことは数多くあったが、それは夜が明けてからでいい。まず済ませなくてはならないことがほかにある。二人は口をきくこともなく、暗闇の中で時間をかけてお互いの身体を調べ合う。十本の指と手のひらを使って、何がどこにあって、どんなかたちをしているかをひとつずつ確かめる。秘密の部屋で宝探しをしている小さな子供たちのように、胸をときめかせながら。そしてひとつの存在を確かめると、そこに唇をつけて認証の封印を与える。
時間をかけてそれだけの作業を終えると、青豆は天吾の硬くなったペニスを長いあいだ手に握っている。かつて放課後の教室で彼の手を握ったのと同じように。それは彼女の知っているどんなものより硬く感じられる。ほとんど奇跡に近いまでに。それから青豆は脚を開き、身体を寄せ、それを自分の中にゆっくりと導き入れる。まっすぐ奥の方まで。彼女は闇の中で目を閉じ、深く暗く息を呑む。それからその息を時間をかけて吐き出す。天吾はその温かい吐息を胸に感じる。
「こんな風にあなたに抱かれることをずっと想像していたの」と青豆は身体の動きを止め、天吾の耳元に口を寄せて囁く。
「僕とセックスをすることを?」
「そうよ」
「十歳のときからずっと[#傍点]このこと[#傍点終わり]を想像していたの?」と天吾は尋ねる。
青豆は笑う。「まさか。もう少し大きくなってからよ」
「僕も同じことを想像していた」
「私の中に入ることを?」
「そうだよ」と天吾は言う。
「どう、想像どおりだった?」
「まだ本当のことのようには思えない」と天吾は正直に言う。「まだ想像の続きの中にいるような気がする」
「でもこれは本当のことよ」
「本当のことにしては素晴らしすぎるような気がする」
青豆は暗闇の中で微笑む。それから天吾の唇に唇を重ねる。二人はしばらくのあいだ舌をからめあっている。
「ねえ、私の胸ってあまり大きくないでしょう」、青豆はそう言う。
「これでちょうどいい」と天吾は彼女の胸に手を置いて言う。
「本当にそう思う?」
「もちろん」と彼は言う。「これ以上大きいと君じゃなくなってしまう」
「ありがとう」と青豆は言う。そして付け加える。「でもそれだけじゃなくて、右と左の大きさもけっこう違っている」
「今のままでいい」と天吾は言う。「右は右で、左は左だ。何も変えなくていい」
青豆は天吾の胸に耳をつける。「ねえ、長いあいだ私は一人ぼっちだった。そしていろんなことに深く傷ついていた。もっと前にあなたと再会できればよかったのに。そうすればこんなに回り道をしないですんだ」
天吾は首を振る。「いや、そうは思わないな。これでいいんだ。今がちょうどその時期だったんだよ。どちらにとっても」
青豆は泣く。ずっとこらえていた涙が両方の目からこぼれる。彼女はそれを止めることができない。大粒の涙が、雨降りのような音を立ててシーツの上に落ちる。天吾を深く中に収めたまま、彼女は身体を細かく震わせて泣き続ける。天吾は両手を彼女の背中に回して、その身体をしっかりと支える。それはこれから彼がずっと支え続けていくはずのものだ。そして天吾はそのことを何よりも嬉しく思う。
彼は言う、「僕らがどれくらい孤独だったかを知るには、それぞれこれくらいの時間が必要だったんだ」
「動かして」と青豆は彼の耳元で言う。「ゆっくりと時間をかけて」
天吾は言われたとおりにする。とてもゆっくり彼は身体を動かす。静かに呼吸をし、自らの鼓動に耳を澄ませながら。青豆はそのあいだ、まるで溺れかけている人のように天吾の大きな身体にしがみついている。彼女は泣くことをやめ、考えることをやめ、過去からも未来からも自らを隔て、天吾の身体の動きに心を同化させる。
明け方近く、二人はホテルのバスローブに身を包み、大きなガラス窓の前に並んで立って、ルームサービスでとった赤ワインのグラスを傾けている。青豆はそれにほんのしるしだけ口をつける。彼らはまだ眠りを必要としてはいない。十七階の部屋の窓からは、月を心ゆくまで眺めることができる。雲の群れも既にどこかに去り、彼らの視界を遮るものは何ひとつない。明け方の月はずいぶん距離を移動したものの、都市のスカイラインぎりぎりのところにまだ浮かんでいる。それは灰に似た白みを増しながら、あと少しでその役目を終えて地平に没しようとしている。
青豆はフロントで、料金は高くなってもかまわないから、月を眺められる高い階の部屋を選んでほしいと頼んだ。「それが何よりも大事な条件なの。月がきれいに見えることが」と青豆は言った。
担当の女性は飛び込みで訪れた若いカップルに対して親切だった。ホテルがその夜たまたま暇だったということもある。また彼女が二人に対して一目で自然な好意を持てたということもある。彼女はボーイに実際に部屋を見に行かせ、窓から月がきれいに見えることを確認してから、ジュニア・スイートルームの鍵を青豆に渡した。特別割引料金も適用した。
「今日は満月か何かなのですか?」とフロントの女性は興味深そうに青豆に尋ねた。彼女はこれまで無数の客から、ありとあらゆる要求や希望や懇願を聞かされてきた。しかし窓から月がきれいに見える部屋を真剣に求める客にはまだ会ったことがなかった。
「いいえ」と青豆は言った。「満月はもう過ぎている。今は三分の二くらいの大きさ。でもそれでいいの。月さえ見えれば」
「月をごらんになるのがお好きなのですか?」
「それは大事なことなの」と青豆は微笑んで言った。「とても」
夜明けに近くなっても、月の数は増えていなかった。ひとつきり、あの見慣れたいつもの月だ。誰にも思い出せないくらい昔から、地球のまわりを同じ速度で忠実に回り続けている唯一無二の衛星だ。青豆は月を眺めがら下腹部にそっと手をやり、そこに[#傍点]小さなもの[#傍点終わり]が宿っていることをもう一度確かめる。膨らみはさっきよりも更に少し大きくなっているように感じられる。
ここがどんな世界か、まだ判明してはいない。しかしそれがどのような成り立ちを持った世界であれ、私はここに留まるだろう。青豆はそう思う。[#傍点]私たち[#傍点終わり]はここに留まるだろう。この世界にはおそらくこの世界なりの脅威があり、危険が潜んでいるのだろう。そしてこの世界なりの多くの謎と矛盾に満ちているのだろう。行く先のわからない多くの暗い道を、私たちはこの先いくつも辿らなくてはならないかもしれない。しかしそれでもいい。かまわない。進んでそれを受け入れよう。私はここからもうどこにも行かない。どんなことがあろうと私たちは、このひとつきりの月を持った世界に踏み留まるのだ。天吾と私とこの小さなものの三人で。
タイガーをあなたの車に、とエッソの虎は言う。彼は左側の横顔をこちらに向けている。でもどちら側でもいい。その大きな微笑みは自然で温かく、そしてまっすぐ青豆に向けられている。今はその微笑みを信じよう。それが大事なことだ。彼女は同じように微笑む。とても自然に、優しく。
彼女は空中にそっと手を差し出す。天吾がその手をとる。二人は並んでそこに立ち、お互いをひとつに結び合わせながら、ビルのすぐ上に浮かんだ月を言葉もなく見つめている。それが昇ったばかりの新しい太陽に照らされて、夜の深い輝きを急速に失い、空にかかったただの灰色の切り抜きに変わってしまうまで。