返回首页
当前位置: 首页 »日语阅读 » 日本名家名篇 » 村上春树 » 正文

挪威的森林(6)

时间: 2017-12-27    进入日语论坛
核心提示:六章月曜日の朝の七時に目を覚ますと僕は急いで顔を洗って髭を剃り、朝食は食べずにすぐに寮長の部屋に行き、二日ほど山登りして
(单词翻译:双击或拖选)
 六章
 
月曜日の朝の七時に目を覚ますと僕は急いで顔を洗って髭を剃り、朝食は食べずにすぐに寮長の部屋に行き、二日ほど山登りしてきますのでよろしくと言った。僕はそれまでにも暇になると何度も小旅行をしていたから、寮長もああと言っただけだった。僕は混んだ通勤電車に乗って東京駅に行き、京都までの新幹線自由席の切符を買い、いちばん早い「ひかり」に文字どおりとび乗り、熱いコーヒーとサンドイッチを朝食がわりに食べた。そして一時間ほどうとうとと眠った。
京都駅についたのは十一時少し前だった。僕は直子の指示に従って市バスで三条まで出て、そこの近くにある私鉄バスのターミナルに行って十六番のバスはどこの乗り場から何時に出るのかを訊いた。十一時三十五分にいちばん向うの停留所から出る、目的地まではだいたい一時間少しかかるということだった。僕は切符売り場で切符を買い、それから近所の書店に入って地図を買い、待合室のベンチに座って「阿美寮」の正確な位置を調べてみた。地図でみると「阿美寮」はおそろしく山深いところにあった。バスはいくつも山を越えて北上し、これ以上はもう進めないというあたりまで行って、そこから市内に引き返していた。僕の降りる停留所は終点のほんの少し手前にあった。停留所から登山道があって、ニ十分ほど歩けば「阿美寮」につくと直子は書いていた。ここまで山奥ならそれは静かだろうと僕は思った。
二十人ばかりの客を乗せてしまうとバスはすぐに出発し、鴨川に沿って京都市内を北へと向った。北に進めば進むほど町なみはさびしくなり、畑や空き地が目につくようになった。黒い瓦屋根やビニール・ハウスが初秋の日を浴びて眩しく光っていた。やがてバスは山の中に入った。曲りくねった道で、運転手は休む暇もなく右に左にとハンドルをまわしつづけ、僕は少し気分がわるくなった。朝飲んだコーヒーの匂いが胃の中にまだ残っていた。そのうちにカーブもだんだん少なくなってやっとほっと一息ついた頃に、バスは突然ひやりとした杉林の中に入った。杉はまるで原生林のように高くそびえたち、日の光をさえぎり、うす暗い影で万物を覆っていた。開いた窓から入ってくる風が急に冷たくなり、その湿気は肌に痛いばかりだった。谷川に沿ってその杉林の中をずいぶん長い時間進み、世界中が永遠に杉林で埋め尽くされてしまったんじゃないかという気分になり始めたあたりでやっと林が終わり、我々はまわりを山に囲まれた盆地のようなところに出た。盆地には青々とした畑が見わたす限り広がり、道路に沿ってきれいな川が流れていた。遠くの方で白い煙が一本細くたちのぼり、あちこちの物干には洗濯物がかかり、犬が何匹か吠えていた。家の前にはたき木が軒下までつみあげられ、その上で猫が昼寝をしていた。道路沿いにしばらくそんな人家がつづいていたが人の姿はまったく見あたらなかった。
そういう風景が何度もくりかえされた。バスは杉林に入り、杉林を抜けて集落に入り、集落を抜けてまた杉林に入った。集落にバスが停まるたびに何人かの客が降りた。乗りこんでくる客は一人もいなかった。市内を出発して四十分ほどで眺望の開けた峠に出たが、運転手はそこでバスを停め、五、六分待ちあわせするので降りたい人は降りてかまわないと乗客に告げた。客は僕を含めて四人しか残っていなかったがみんなバスを降りて体をのばしたり、煙草を吸ったり、目下に広がる京都の町並みを眺めたりした。運転手は立小便をした。ひもでしばった段ボール箱を車内に持ちこんでいた五十前後のよく日焼けした男が、山に上るのかと僕に質問した。面倒臭いので、そうだと僕は返事した。
やがて反対側からバスが上ってきて我々のバスのわきに停まり、運転手が降りてきた。二人の運転手は少し話しをしてからそれぞれのバスに乗りこんだ。乗客も席に戻った。そして二台のバスはそれぞれの方向に向ってまた進み始めた。どうして我々のバスが峠の上でもう一台のバスが来るのを待っていたかという理由はすぐに明らかになった。山を少し下ったあたりから道幅が急に狭くなっていて二台の大型がすれちがうのはまったく不可能だったからだ。バスは何台かのライトバンや乗用車とすれちがったが、そのたびにどちらかがバックして、カーブのふくらみにぴったりと身を寄せなくてはならなかった。
谷川に沿って並ぶ集落も前に比べるとずっと小さくなり、耕作してある平地も狭くなった。山が険しくなり、すぐ近くまで迫っていた。犬の多いところだけがどの集落も同じで、バスが来ると犬たちは競いあうように吠えた。
僕が降りた停留所のまわりには何もなかった。人家もなく、畑もなかった。停留所の標識がぽつんと立っていて、小さな川が流れていて、登山ルートの入口があるだけだった。僕はナップザックを肩にかけて、谷川に沿って登山ルートを上り始めた。道の左手には川が流れ、右手には雑木林がつづいていた。そんな緩やかな上り道を十五分ばかり進むと右手に車がやって一台通れそうな枝道があり、その入口には「阿美寮・関係者以外の立ち入りはお断りします」という看板が立っていた。
雑木林の中の道にはくっきりと車のタイヤのあとがついていた。まわりの林の中で時折ばたばたという鳥の羽ばたきのような音が聞こえた。部分的に拡大されたように妙に鮮明な音だった。一度だけ銃声のようなボオンという音が遠くの方で聞こえたが、こちらは何枚かフィルターをとおしたみたいに小さくくぐもった音だった。
雑木林を抜けると白い石塀が見えた。石塀といっても僕の背丈くらいの高さで上に柵や網がついているわけではなく越えようと思えばいくらでも越えられる代物だった。黒い門扉は鉄製で頑丈そうだったが、これは開けっ放しになっていて、門衛小屋には門衛の姿は見えなかった。門のわきには「阿美寮・関係者以外の立ち入りはお断りします」というさっきと同じ看板がかかっていた。門衛小屋にはつい先刻まで人がいたことを示す形跡が残っていた。灰皿には三本吸殻があり、湯のみには飲みかけの茶が残り、棚にはトランジスタ・ラジオがあり、壁では時計がコツコツという乾いた音を立てて時を刻んでいた。僕はそこで門衛の戻ってくるのを待ってみたが、戻ってきそうな気配がまるでないので、近くにあるベルのようなものをニ、三度押してみた。門の内側のすぐのところは駐車場になっていて、そこにはミニ・バスと4WDのランド・クルーザーとダークブルーのボルボがとまっていた。三十台くらいは車が停められそうだったが、停まっているのはその三台きりだった。
ニ、三分すると紺の制服を着た門衛が黄色い自転車に乗って林の中の道をやってきた。六十歳くらいの背の高い額が禿げ上がった男だった。彼は黄色い自転車を小屋の壁にもたせかけ、僕に向って、「いや、どうもすみませんでしたな」とたいしてすまなくもなさそうな口調で言った。自転車の泥よけには白いペンキで32と書いてあった。僕が名前を言うと彼はどこかに電話をかけ、僕の名前を二度繰り返して言った。相手が何かを言い、彼ははい、はあ、わかりましたと答え、電話を切った。
「本館に行ってですな、石田先生と言って下さい」と門衛は言った。「その林の中の道を行くとロータリーに出ますから二本目の―-いいですか、左から二本目の道を行って下さい。すると古い建物がありますので、そこを右に折れてまたひとつ林を抜けるとそこに鉄筋のビルがありまして、これが本館です。ずっと立札が出とるからわかると思います」
言われたとおりにロータリーの左から二本目の道を進んでいくと、つきあたりにはいかにも一昔前の別荘とわかる趣きのある古い建物があった。庭には形の良い石やら、灯籠なんかが配され、植木はよく手入れされていた。この場所はもともと誰かの別荘地であるらしかった。そこを右に折れて林を抜ける目の前に鉄筋の三階建ての建物が見えた。三階建てとは言っても地面から掘りおこされたようにくぼんでいるところに建っているので、とくに威圧的な感じは受けない。建物のデザインはシンプルで、いかにも清潔そうに見えた。
玄関は二階にあった。階段を何段か上り大きなガラス戸を開けて中に入ると、受付に赤いワンピースを着た若い女性が座っていた。僕は自分の名前を告げ、石田先生に会うように言われたのだと言った。彼女はにっこり笑ってロビーにある茶色のソファーを指差し、そこに座って待ってて下さいと小さな声で言った。そして電話のダイヤルをまわした。僕は肩からネップザックを下ろしてそのふかふかとしたソファーに座り、まわりを眺めた。清潔で感じの良いロビーだった。観葉植物の鉢がいくつかあり、壁には趣味の良い抽象画がかかり、床はぴかぴかに磨きあげられていた。僕は待っているあいだずっとその床にうつった自分の靴を眺めていた。
途中で一度受付の女性が「もう少しで見えますから」と僕に声をかけた。僕は肯いた。まったくなんて静かなところだろうと僕は思った。あたりには何の物音もない。何だかまるで午睡の時間みたいだなと僕は思った。人も動物も虫も草も木も、何もかもがぐっすり眠り込んでしまったみたいに静かな午後だった。
しかしほどなくゴム底靴のやわらかな足音が聴こえ、ひどく硬そうな短い髪をした中年の女性が姿をあらわし、さっさと僕のとなりに座って脚を組んだ。そして僕と握手した。握手しながら、僕の手を表向けたり裏向けたりして観察した。
「あなた楽器って少くともこの何年かいじったことないでしょう?」と彼女はまず最初にいった。
「ええ」と僕はびっくりして答えた。
「手を見るとわかるのよ」と彼女は笑って言った。
とても不思議な感じのする女性だった。顔にはずいぶんたくさんしわがあって、それがまず目につくのだけれど、しかしそのせいで老けて見えるというわけではなく、かえって逆に年齢を超越した若々しさのようなものがしわによって強調されていた。そのしわはまるで生まれたときからそこにあったんだといわんばかりに彼女の顔によく馴染んでいた。彼女が笑うとしわも一緒に笑い、彼女が難しい顔をするとしわも一緒に難しい顔をした。笑いも難しい顔もしない時はしわはどことなく皮肉っぽくそして温かく顔いっぱいにちらばっていた。年齢は三十代後半で、感じの良いというだけではなく、何かしら心魅かれるところのある女性だった。僕は一目で彼女に好感を持った。
髪はひどく雑然とカットされて、ところどころで立ち上がって飛び出し、前髪も不揃いに額に落ちかかっていたが、その髪型は彼女にとてもよく似合っていた。白いTシャツの上にブルーのワークシャツを着て、クリーム色のたっぷりとした綿のズボンにテニス・シューズを履いていた。ひょろりと痩せて乳房というものが殆んどなく、しょっちゅう皮肉っぽく唇が片方に曲がり、目のわきのしわが細かく動いた。いくらか世をすねたところのある親切で腕の良い女大工みたいに見えた。
彼女はちょと顎を引いて、唇を曲げたまましばらく僕を上から下まで眺めまわしていた。今にもポッケトから巻尺をとりだして体の各部のサイズを測り始めるんじゃないかという気がするくらいだった。
「楽器何かできる?」
「いや、できません」と僕は応えた。
「それは残念ねえ、何かできると楽しかったのに」
そうですね、と僕は言った。どうして楽器の話ばかり出てくるのかさっぱりわからなかった。
彼女は胸のポケットからセブンスターを取り出して唇にくわえ、ライターで火をつけてうまそうに煙を吹き出した。
「えーとねえ、ワタナベ君だったわね、あなたが直子に会う前に私の方からここの説明をしておいた方がいいと思ったのよ。だからまず私と二人でちょっとこうしてお話しすることにしたわけ。ここは他のところとはちょっと変ってるから、何の予備知識もないといささか面喰うことになると思うし。ねえ、あなたここのことまだよく知らないでしょう?」
「ええ、殆んど何も」
「じゃ、まあ最初から説明すると……」と言いかけてから彼女は何かに気づいたというようにパチッと指を鳴らした。「ねえ、あなた何か昼ごはん食べた?おなかすいてない?」
「すいてますね」と僕は言った。
「じゃあいらっしゃいよ。食堂で一緒にごはん食べながら話しましょう。食事の時間は終っちゃったけど、今行けばまだ何か食べられると思うわ」
彼女は僕の先に立ってすたすた廊下を歩き、階段を下りて一階にある食堂まで行った。食堂は二百人ぶんくらいの席があったが今使われているのは半分だけで、あとの半分はついたてで仕切られていた。なんだかシーズン・オフのリゾート・ホテルにいるみたいだった、昼食メニューはヌードルの入ったポテト・シチューと、野菜サラダとオレンジ・ジュースとパンだった。直子が手紙に書いていたように野菜ははっとするくらいおいしかった。僕は皿の中のものを残らずきれいに平らげた。
「あなた本当においしそうにごはん食べるのねえ」と彼女は感心したように言った。
「本当に美味しいですよ。それに朝からろくに食べてないし」
「よかったら私のぶん食べていいわよ、これ。私もうおなかいっぱいだから。食べる?」
「要らないのなら食べます」と僕は言った。
「私、胃が小さいから少ししか入らないの。だからごはんの足りないぶんは煙草吸って埋めあわせてんの」彼女はそう言ってまたセブンスターをくわえて火をつけた。「そうだ、私のことレイコさんって呼んでね。みんなそう呼んでいるから」
僕は少ししか手をつけていない彼女のポテト・シチューを食べパンをかじっている姿をレイコさんは物珍しそうに眺めていた。
「あなたは直子の担当のお医者さんですか?」と僕は彼女に訊いてみた。
「私は医者?」と彼女はびっくりしたように顔をぎゅっとしかめて言った。「なんで私が医者なのよ?」
「だって石田先生に会えって言われてきたから」
「ああ、それね。うん、私ね、ここで音楽の先生してるのよ。だから私のこと先生って呼ぶ人もいるの。でも本当は私も患者なの。でも七年もここにいてみんなの音楽教えたり事務手伝ったりしてるから、患者だかスタッフだかわかんなくなっちゃってるわね、もう。私のことあなたに教えなかった?」
僕は首を振った。
「ふうん」とレイコさんは言った。「ま、とにかく、直子と私は同じ部屋で暮らしてるの。つまりルームメイトよね。あの子と一緒に暮らすの面白いわよ。いろんな話して、あなたの話もよくするし」
「僕のとんな話するんだろう?」と僕は訊いてみた。
「そうだそうだ、その前にここの説明をしとかなきゃ」とレイコさんは僕の質問を頭から無視して言った。「まず最初にあなたに理解してほしいのはここがいわゆる一般的な『病院』じゃないってことなの。てっとりばやく言えば、ここは治療をするところではなく療養するところなの。もちろん医者は何人かいて毎日一時間くらいはセッションをするけれど、それは体温を測るみたいに状況をチェックするだけであって、他の病院がやっているようないわゆる積極的治療を行うと言うことではないの。だからここには鉄格子もないし、門だっていつも開いてるわけ。人々は自発的にここに入って、自発的にここから出て行くの。そしてここに入ることができるのは、そういう療養に向いた人達だけなの。誰でも入れるというんじゃなくて、専門的な治療を必要とする人は、そのケースに応じて専門的な病院に行くことになるの。そこまでわかる?」
「なんとなくかわります。でも、その療養というのは具体的にはどういうことなんでしょう?」
レイコさんは煙草の煙を吹きだし、オレンジ・ジュースの残りを飲んだ。「ここの生活そのものが療養なのよ。規則正しい生活、運動、外界からの隔離、静けさ、おいしい空気。私たち畑を持ってて殆んど自給自足で暮らしてるし、TVもあいし、ラジオもないし。今流行ってるコミューンみたいなもんよね。もっともここに入るのには結構高いお金かかるからそのへんはコミューンとは違うけど」
「そんなに高いんですか?」
「馬鹿高くはあいけど、安くはないわね。だってすごい設備でしょう?場所も広いし、患者の数は少なくスタッフは多いし、私の場合はもうずっと長くいるし、半分スタッフみたいなものだから入院費は実質的には免除されてるから、まあそれはいいんだけど。ねえ、コーヒー飲まない?」
飲みたいと僕は言った。彼女は煙草を消して席を立ち、カウンターのコーヒー・ウォーマーからふたつのカップにコーヒーを注いで運んできてくれた。彼女は砂糖を入れてスプーンでかきまわし、顔をしかめてそれを飲んだ。
「この療養所はね、営利企業じゃないのよ。だからまだそれほど高くない入院費でやっていけるの。この土地もある人が全部寄附したのよ。法人を作ってね。昔はこのへん一帯はその人の別荘だったの。二十年くらい前までは。古い屋敷みたでしょう?」
見た、と僕は言った。
「昔は建物もあそこしかなくて、あそこに患者をあつめてグループ療養してたの。つまりどしてそういうこと始めたかというとね、その人の息子さんがやはり精神病の傾向があって、ある専門医がその人にグループ療養を勧めたわけ。人里はなれたところでみんな助け合いながら肉体労働をして暮らし、そこに医者が加わってアドバイスし、状況をチェックすることによってある種の病いを治癒することが可能だというのがその医師の理論だったの。そういう風にしてここは始まったのよ。それがだんだん大きくなって、法人になって、農場も広くなって、本館も五年前にできて」
「治療の効果はあったわけですね」
「ええ、もちろん万病に効くってわけでもないし、よくならない人も沢山いるわよ。でも他では駄目だった人がずいぶんたくさんここでよくなって回復して出て行ったのよ。ここのいちばん良いところはね、なんなが助け合うことなの。みんな自分が不完全だということを知っているから、お互いに助け合おうとするの。他のところはそうじゃないのよ、残念ながら。他のところでは医者はあくまで医者で、患者はあくまで患者なの。患者は医者に助けを請い、医者は患者を助けてあげるの。でもここでは私たちは助け合うのよ。私たちはお互いの鏡なの。そしてお医者は私たちの仲間なの。そばで私たちを見ていて何かが必要だなと思うと彼らはさっとやってきて私たちを助けてくれるけれど、私たちもある場合には彼らを助けるの。というのはある場合には私たちの方が彼らより優れているからよ。たとえば私はあるお医者にピアノを教えてるし、一人の患者は看護婦にフランス語を教えるし、まあそういうことよね。私たちのような病気にかかっている人には専門的な才能に恵まれた人がけっこう多いのよ。だからここでは私たちはみんな平等なの。私はあなたを助けるし、あなたも私を助けるの」
「僕はどうすればいいんですか、具体的に?」
「まず第一は相手を助けたいと思うこと。そして自分も誰かに助けてもらわなくてはならないのだと思うこと。第二に正直になること。嘘をついたり、物事を取り繕ったり、都合の悪いことを誤魔化したりしないこと。それだけでいいのよ」
「努力します」と僕はいた。「でもレイコさんはどうして七年もここにいるんですか。僕はずっと話していてあなたに何か変ってところがあるとは思えないですが」
「昼間はね」と彼女は暗い顔をして言った。「でも夜になると駄目なの。夜になると私、よだれ垂らして床中転げまわるの」
「本当に?」と僕は訊いた。
「嘘よ。そんなことするわけないでしょう」と彼女はあきれたように首を振りながら言った。「私は回復してるわよ。今のところは。野菜作ったりしてね。私ここ好きだもの。みんな友だちみたいなものだし。それに比べて外の世界に何があるの?私は三十八でもうすぐ四十よ。直子とは違うのよ。私がここを出てったって待っててくれる人もいないし、受け入れてくれる家庭もないし、たいした仕事もないし、殆んど友だちもいないし。それに私ここにもう七年も入ってるのよ。世の中のことなんてもう何もわかんないわよ。そりゃ時々図書館で新聞は読んでるわよ。でも私、この七年間このへんから一歩も外に出たことないのよ。今更出ていったって、どうしていいかなんてわかんないわよ」
「でも新しい世界が広がるかもしれませんよ」と僕は言った。「ためしてみる価値はあるでしょう」
「そうね、そうかもしれないわね」と言って彼女は手の中でしばらくライターをくるくるとまわしていた。「でもね、ワタナベ君、私にも私のそれなりの事情があるのよ。よかったら今度ゆっくり話してあげるけど」
僕は肯いた。
「それで直子はよくなっているんですか?」
「そうね、私たちはそう考えてるわ。最初のうちはかなり混乱していたし、私たちもどうなるのかなとちょっと心配していたんだけれど、今は落ち着いているし、しゃべり方もずいぶんましになってきたし、自分の言いたいことも表現できるようになってきたし……まあ良い方に向っていることはたしかね。でもね、あの子はもっと早く治療を受けるべきだったのよ。彼女の場合、そのキズキ君っていうボーイ・フレンドが死んだ時点から既に症状が出始めていたのよ。そしてそのことは家族もわかっていたはずだし彼女自身にもわかっていたはずなのよ。家庭的な背景もあるし……」
「家庭的な背景?」と僕は驚いて訊きかえした。
「あら、あなたそれ知らなかったんだっけ?」とレイコさんが余計に驚いて言った。
僕は黙って首を振った。
「じゃあそれは直子から直接聞きなさい。その方が良いから。あの子もあなたにはいろんなこと正直に話そうという気になってるし」レイコさんはまたスプーンでコーヒーをかきまわし、ひとくち飲んだ。「それからこれは規則で決ってることだから最初に言っておいた方が良いと思うんだけれど、あなたと直子が二人っきりになることは禁じられているの。これはルールなの。部外者が面会の相手と二人っきりになることはできないの。だから常にそこにはブザーバーが――現実的には私になるわけだけど――つきそってなきゃいけないわけ。気の毒だと思うけれど我慢してもらうしかないわね。いいかしら?」
「いいですよ」と僕は笑って言った。
「でも遠慮しないで二人で何話してもいいわよ、私がとなりにいることは気にしないで。私はあなたと直子のあいだのことはだいたい全部知ってるもの」
「全部?」
「だいたい全部よ」と彼女は言った。「だって私たちグループ・セッションやるのよ。だから私たち大抵のこと知ってるわよ。それに私と直子は二人で何もかも話しあってるもの。ここにはそんな沢山秘密ってないのよ」
僕はコーヒーを飲みながらレイコさんの顔を見た。「東京にいるとき僕は直子に対してやったことが本当に正しかったことなのかどうか。それについてずっと考えてきたんだけれど、今でもまだわからないんです」
「それは私にもわからないわよ」とレイコさんは言った。「直子にもわからないしね。それはあなたたち二人がよく話しあってこれから決めることなのよ。そうでしょう?たとえ何が起ったにせよ、それを良い方向に進めていくことはできるわよ。お互いを理解しあえればね。その出来事が正しかったかどうかというのはそのあとでまた考えればいいことなんじゃないかしら」
僕は肯いた。
「私たちは三人で助けあえるじゃないかと思うの。あなたと直子と私とで。お互いに正直になって、お互いを助けたいとさえ思えばね。三人でそういうのやるのって、時によってはすごく効果があるのよ。あなたはいつまでここにいられるの?」
「明後日の夕方までに東京に戻りたいです。アルバイトに行かなくちゃいけないし、木曜日にはドイツ語のテストがあるから」
「いいわよ、じゃ私たちの部屋に泊まりなさいよ。そうすればお金もかからないし、時間を気にしないでゆっくり話もできるし」
「私たちって誰のことですか?」
「私と直子の部屋よ、もちろん」とレイコさんは言った。「部屋も分かれているし、ソファー・ベッドがひとつあるからちゃんと寝られるわよ、心配しなくても」
「でもそういうのってかまわないんですか?つまり男の訪問客が女性の部屋に泊まるとか?」
「だってまさかあなた夜中の一時に私たちの寝室に入ってきてかわりばんこにレイプしたりするわけじゃないでしょう?」
「もちろんしませんよ、そんなこと」
「だったら何も問題ないじゃない。私たちのところに泊ってゆっくりといろんな話をしましょう。その方がいいわよ。その方がお互い気心もよくわかるし、私のギターも聴かせてあげられるし。なかなか上手いのよ」
「でも本当に迷惑じゃないですか?」
レイコさんは三本目のセブンスターを口にくわえ、口の端をきゅっと曲げてから火をつけた。「私たちそのことについては二人でよく話しあったのよ。そして二人であなたを招待しているのよ、個人的に。そういうのって礼儀正しく受けた方がいいじゃないかしら?」
「もちろん喜んで」と僕は言った。
レイコさんは目の端のしわを深めてしばらく僕の顔を眺めた。「あなたって何かこう不思議なしゃべり方するわねえ」と彼女は言った。「あの『ライ麦畑』の男の子の真似してるわけじゃないわよね」
「まさか」と僕は言って笑った。
レイコさんも煙草をくわえたまま笑った。「でもあなたは素直な人よね。私、それ見てればわかるわ。私はここに七年いていろんな人が行ったり来たりするの見てたからかわるのよ。うまく心を開ける人と開けない人の違いがね。あなたは開ける人よ。正確に言えば、開こうと思えば開ける人よね」
「開くとどうなるんですか?」
レイコさんは煙草をくわえたまま楽しそうにテーブルの上で手を合わせた。「回復するのよ」と彼女は言った。煙草の灰がテーブルの上に落ちたが気にもしなかった。
 
我々は本部の建物を出て小さな丘を越え、プールとテニス・コートとバスケット・コートのそばを通り過ぎた。テニス・コートでは男が二人でテニスの練習をしていた。やせた中年の男と太った若い男で、二人とも腕は悪くなかったが、それは僕の目にはテニスとはまったく異なった別のゲームのように思えた。ゲームをしているというよりはボールの弾性に興味があってそれを研究しているところといった風に見えるのだ。彼らは妙に考えこみながら熱心にボールのやりとりをしていた。そしてどちらもぐっしょりと汗をかいていた。手前にいた若い男がレイコさんの姿を見るとゲームを中断してやってきて、にこにこ笑いながら二言三言言葉をかわした。テニス・コートのわきでは大型の芝刈り機を持った男が無表情に芝を刈っていた。
先に進むと林があり、林の中には洋風のこぢんまりとした住宅が距離をとって十五か二十散らばって建っていた。大抵の家の前には門番が乗っていたのと同じ黄色い自転車が置いてあった。ここにはスタッフの家族が住んでるのよ、とレイコさんが教えてくれた。
「町に出なくても必要なものは何でもここで揃うのよ」とレイコさんは歩きながら僕に説明した。「食料品はさっきも言ったように殆んど自給自足でしょ。養鶏場もあるから玉子も手に入るし。本もレコードも運動設備もあるし、小さなスーパー・マーケットみたいなのもあるし、毎週理容師もかよってくるし。週末には映画だって上映するのよ。町に出るスタッフの人に特別な買い物は頼めるし、洋服なんかはカタログ注文できるシステムがあるし、まず不便はないわね」
「町に出ることはできないんですか?」と僕は質問した。
「それは駄目よ。もちろんたとえば歯医者に行かなきゃならないとか、そういう特殊なことがあればそれは別だけれど、原則的にはそれは許可されていないの。ここを出て行くことは完全にその人の自由だけれど、一度出て行くともうここには戻れないの。橋を焼くのと同じよ。ニ、三日町に出てまたここに戻ってということはできないの。だってそうでしょう?そんなことしたら、出たり入ったりする人ばかりになっちゃうもの」
林を抜けると我々はなだらかな斜面に出た。斜面には奇妙な雰囲気のある木造の二階建て住宅が不規則に並んでいた。どこかどう奇妙なのかと言われてもうまく説明できないのだが、最初にまず感じるのはこれらの建物はどことなく奇妙だということだった。それは我々が非現実を心地よく描こうとした絵からしばしば感じ取る感情に似ていた。ウォルト・ディズニーがムンクの絵をもとに漫画映画を作ったらあるいはこんな風になるのかもしれないなと僕はふと思った。建物はどれもまったく同じかたちをしていて、同じ色に塗られていた。かたちはほぼ立方体に近く、左右が対称で入口が広く、窓がたくさんついていた。その建物のあいだをまるで自動車教習所のコースみたいにくねくねと曲った道が通っていた。どの建物の前にも草花が植えられ、よく手入れされていた。人影はなく、どの窓もカーテンが引かれていた。
「ここはC地区と呼ばれているところで、ここには女の人たちが住んでいるの。つまり私たちよね。こういう建物が十棟あって、一棟が四つに区切られて、一区切りに二人住むようになってるの。だから全部で八十人は住めるわけよね。今のところ三十二人しか住んでないけど」
「とても静かですね」と僕は言った。
「今の時間は誰もいないのよ」とレイコさんは言った。「私はとくべつ扱いだから今こうして自由にしてるけれど、普通の人はみんなそれぞれのカリキュラムに従って行動してるの。運動している人もいるし、庭の手入れしている人もいるし、グループ療法している人もいるし、外に出て山菜を集めている人たちもいるし。そういうのは自分で決めてカリキュラムを作るわけ。直子は今何してたっけ?壁紙の貼り替えとかペンキの塗り替えとかそういうのやってるんじゃなかったかしらね。忘れちゃったけど。そういうのがだいたい五時くらいまでいくつかあるのよ」
彼女は<C-7>という番号のある棟の中に入り、つきあたりの階段を上って右側のドアを開けた。ドアには鍵がかかっていなかった。レイコさんは僕に家の中を案内して見せてくれた。居間とベッドルームとキッチンとバスルームの四室から成ったシンプルで感じの良い住居で、余分な飾りつけもなく、場違いな家具もなく、それでいて素っ気ないという感じはしなかった。とくに何かがどうというのではないのだが、部屋の中にいるとレイコさんを前にしている時と同じように、体の力を抜いてくつろぐことができた。居間にはソファーがひとつとテーブルがあり、揺り椅子があった。キッチンには食事用のテーブルがあった。どちらのテーブルの上にも大きな灰皿が置いてあった。ベッドルームにはベッドがふたつと机がふたつとクローゼットがあった。ベッドの枕元には小さなテーブルと読書灯があり、文庫本が伏せたまま置いてあった。キッチンには小型の電気のレンジと冷蔵庫がセットになったものが置いてあって、簡単な料理なら作れるようになっていた。
「お風呂はなくてシャワーだけだけどまあ立派なもんでしょう?」とレイコさんは言った。「お風呂と洗濯設備は共同なの」
「十分すぎるくらい立派ですよ。僕の住んでる寮なんて天井と窓しかないもの」
「あなたはここの冬を知らないからそういうのよ」とレイコさんは僕の背中を叩いてソファーに座らせ、自分もそのとなりに座った。「長くて辛い冬なのよ、ここの冬は。どこを見まわしても雪、雪、雪でね、じっとりと湿って体の芯まで冷えちゃうの。私たち冬になると毎日毎日雪かきして暮すのよ。そういう季節にはね、私たち部屋を暖かくして音楽聴いたりお話したり編みものしたりして過すわけ。だからこれくらいのスペースがないと息がつまってうまくやっていけないのよ。あなたも冬にここにくればそれよくわかるわよ」
レイコさんは長い冬のことを思い出すかのように深いため息をつき、膝の上で手を合わせた。「これを倒してベッド作ってあげるわよ」と彼女は二人の座っているソファーをぽんぽんと叩いた。「私たち寝室で寝るから、あなたここで寝なさい。それでいいでしょう?」
「僕の方はべつに構いませんと」
「じゃ、それで決まりね」とレイコさんは言った。「私たちたぶん五時頃にここに戻ってくると思うの。それまで私にも直子にもやることがあるから、あなた一人でここで待ってほしいんだけれど、いいかしら?」
「いいですよ、ドイツ語の勉強してますから」
レイコさんが出ていってしまうと僕はソファーに寝転んで目を閉じた。そして静かさの中に何ということもなくしばらく身を沈めているうちに、ふとキズキと二人でバイクに乗って遠出したときのことを思い出した。そういえばあれもたしか秋だったなあと僕は思った。何年前の秋だっけ?四年前だ。僕はキズキの革ジャンパーの匂いとあのやたら音のうるさいヤマハの一ニ五CCの赤いバイクのことを思い出した。我々はずっと遠くの海岸まで出かけて、夕方にくたくたになって戻ってきた。別に何かとくべつな出来事があったわけではないのだけれど、僕はその遠出のことをよく覚えていた。秋の風が耳もとで鋭くうなり、キズキのジャンパーを両手でしっかりと掴んだまま空を見上げると、まるで自分の体が宇宙に吹き飛ばされそうな気がしたものだった。
長いあいだ僕は同じ姿勢でソファーに身を横たえて、その当時のことを次から次へと思い出していた。どうしてかはわからないけれど、この部屋の中で横になっていると、これまであまり思い出したことのない昔の出来事や情景が次々に頭に浮かんできた。あるものは楽しく、あるものは少し哀しかった。
どれくらいの時間そんな風にしていたのだろう、僕はそんな予想もしなかった記憶の洪水(それは本当に泉のように岩の隙間からこんこんと湧き出していたのだ)にひたりきっていて、直子がそっとドアを開けて部屋に入ってきたことに気づきもしなかったくらいだった。ふと見るとそこに直子がいたのだ。僕は顔を上げ、しばらく直子の目をじっと見ていた。彼女はソファーの手すりに腰を下ろして、僕を見ていた。最初のうち僕はその姿を僕自身の記憶がつむぎあげたイメージなのではないかと思った。でもそれは本物の直子だった。
「寝てたの?」と彼女はとても小さいな声で僕に訊いた。
「いや、考えごとしてただけだよ」と僕は言った。そして体を起こした。「元気?」
「ええ、元気よ」と直子は微笑んで言った。彼女の微笑みは淡い色あいの遠くの情景にように見えた。「あまり時間がないの。本当はここに来ちゃいけないんだけれど、ちょっとした時間見つけて来たの。だからすぐに戻らなくちゃいけないのよ。ねえ、私ひどい髪してるでしょう?」
「そんなことないよ。とても可愛いよ」と僕は言った。彼女はまるで小学生の女の子のようなさっぱりとした髪型をして、その片方を昔と同じようにきちんとピンでとめていた。その髪型は本当によく直子に似合って馴染んでいた。彼女は中世の木版画によく出てくる美しい少女のように見えた。
「面倒だからレイコさんに刈ってもらってるのよ。本当にそう思う?可愛いって?」
「本当にそう思うよ」
「でもうちのお母さんはひどいって言ってたわよ」と直子は言った。そして髪留めを外し、髪の毛を下ろし、指で何度かすいてからまたとめた。蝶のかたちをした髪留めだった。
「私、三人で一緒に会う前にどうしてもあなたと二人だけ会いたかったの。そうしないと私うまく馴染めないの。私って不器用だから」
「少しは馴れた?」
「少しね」と彼女は言って、また髪留めに手をやった。「でももう時間がないの。私、いかなくちゃ」
僕は肯いた。
「ワタナベ君、ここに来てくれてありがとう。私すごく嬉しいのよ。でも私、もしここにいることが負担になるようだったら遠慮せずにそう言ってほしいの。ここはちょっと特殊な場所だし、システムも特殊だし、中には全然馴染めない人もいるの。だからもしそう感じたら正直にそう言ってね。私はそれでがっかりしたりはしないから。私たちここではみんな正直なの。正直にいろんなことを言うのよ」
「ちゃんと正直に言うよ」
直子はソファーの僕のとなりに座り、僕の体にもたれかかった。肩を抱くと、彼女は頭を僕の肩にのせ、鼻先を首にあてた。そしてまるで僕の体温をたしかめるみたいにそのままの姿勢でじっとしていた。そんあ風に直子をそっと抱いていると、胸が少し熱くなった。やがて直子は何も言わずに立ち上がり、入ってきたときと同じようにそっとドアを開けて出て行った。
直子が行ってしまうと、僕はソファーの上で眠った。眠るつもりはなかったのだけれど、僕は直子の存在感の中で久しぶりに深く眠った。台所には直子の使う食器があり、バスルームには直子の使う歯ブラシがあり、寝室には直子の眠るベッドがあった。僕はそんな部屋の中で、細胞の隅々から疲労感を一滴一滴としぼりとるように深く眠った。そして薄闇の中を舞う蝶の夢をみた。
目が覚めた時、腕時計は四時三十五分を指していた。光の色が少し変り、風がやみ、雲のかたちが変っていた。僕は汗をかいていたので、ナップザックからタオルを出して顔を拭き、シャツを新しいものに変えた。それから台所に行って水を飲み、流しの前の窓から外を眺めた。そこの窓からは向いの棟の窓が見えた。その窓の内側には切り紙細工がいくつか糸で吊るしてあった。鳥や雲や牛や猫のシルエットが細かく丁寧に切れ抜かれ、くみあわされていた。あたりには相変わらず人気はなく、物音ひとつしなかった。なんだか手入れの行き届いた廃墟の中に一人で暮らしているみたいだった。
 
人々が「C地区」に戻りはじめたのは五時少しすぎた頃だった。台所の窓からのぞいてみると、ニ、三人の女性がすぐ下を通りすぎていくのが見えた。三人とも帽子をかぶっていたので、顔つきや年齢はよくわからなかったけれど、声の感じからするとそれほど若くはなさそうだった。彼女たちが角を曲って消えてしばらくすると、また同じ方向から四人の女性がやってきて、同じように角を曲って消えていった。あたりには夕暮の気配が漂っていた。居間の窓からは林と山の稜線が見えた。稜線の上にはまるで縁取りのようなかたちに淡い光が浮かんでいた。
直子とレイコさんは二人揃って五時半に戻ってきた。僕と直子ははじめて会うときのようにきちんとひととおりあいさつを交わした。直子は本当に恥ずかしがっているようだった。レイコさんは僕が読んでいた本に目をとめて何を読んでいるのかと訊いた。トーマス・マンの『魔の山』だと僕は言った。
「なんでこんなところにわざわざそんな本持ってくるのよ」とレイコさんはあきれたように言ったが、まあ言われてみればそのとおりだった。
レイコさんがコーヒーをいれ、我々は三人でそれを飲んだ。僕は直子に突撃隊が急に消えてしまった話をした。そして最後に会った日に彼が僕に蛍をくれた話をした。残念だわ、彼がいなくなっちゃって、私もっともっとあの人の話を聞きたかったのに、と直子はとても残念そうに言った。レイコさんが突撃隊について知りたがったので、僕はまた彼の話をした。もちろん彼女も大笑いをした。突撃隊の話をしている限り世界は平和で笑いに充ちていた。
六時になると我々は三人で本館の食堂に行って夕食を食べた。僕と直子は魚のフライと野菜サラダと煮物とごはんと味噌汁を食べ、レイコさんはマカロニ・サラダとコーヒーだけしか取らなかった。そしてあとはまた煙草を吸った。
「年とるとね、それほど食べなくてもいいように体がかわってくるのよ」と彼女は説明するように言った。
食堂では二十人くらいの人々がテーブルに向って夕食を食べていた。僕らが食事をしているあいだにも何人かが入ってきて、何人かが出て行った。食堂の光景は人々の年齢がまちまちであることを別にすれば寮の食堂のそれとだいたい同じだった。寮の食堂と違うのは誰もが一定の音量でしゃべっていることだった。大声を出すこともなければ、声をひそめるということもなかった。声をあげて笑ったり驚いたり、手をあげて誰かを呼んだりするようなものは一人もいなかった。誰もが同じような音量で静かに話をしていた。彼らはいくつかのグループにわかれて食事をしていた。ひとつのグループは三人から多くて五人だった。一人が何かをしゃべると他の人々はそれに耳を傾けてうんうんと肯き、その人がしゃべり終えるとべつの人がそれについてしばらく何かを話した。何について話しているのかはよくわからなかったけれど、彼らの会話は僕に昼間見たあの奇妙なテニスのゲームを思いださせた。直子も彼らと一緒にいるときはこんなしゃべり方をするのだろうかと僕はいぶかった。そして変な話だとは思うのだけれど、僕は一瞬嫉妬のまじった淋しさを感じた。
僕のうしろのテーブルでは白衣を着ていかにも医者という雰囲気の髪の薄い男が、眼鏡をかけた神経質そうな若い男と栗鼠のような顔つきの中年女性に向って無重力状態で胃液の分泌はどうなるかについてくわしく説明していた。青年と女性は「はあ」とか「そうですか」とか言いながら聞いていた。しかしそのしゃべり方を聞いていると、髪のうすい白衣の男が本当に医者なのかどうか僕にはだんだんわからなくなってきた。
食堂の中の誰もとくに僕には注意を払わなかった。誰も僕の方をじろじろとは見なかったし、僕がそこに加っていることにさえ気づかないようだった。僕の参入は彼らにとってはごく自然な出来事であるようだった。
一度だけ白衣を着た男が突然うしろを振り向いて「いつまでここにいらっしゃるんですか?」と僕に聞いた。
「二泊して水曜には帰ります」と僕は答えた。
「今の季節はいいでしょう、でもね、また冬にもいらっしゃい。何もかも真っ白でいいもんですよ」と彼は言った。
「直子は雪が降るまでにここ出ちゃうかもしれませんよ」とレイコさんは男に言った。
「いや、でも冬はいいよ」と彼は真剣な顔つきでくりかえした。その男が本当に医者なのかどうか僕はますますわからなくなってしましった。
「みんなどんな話をしているんですか?」と僕はレイコさんに訊ねてみた。彼女には質問の趣旨がよくかわらない様子だった。
「どんな話って、普通の話よ。一日の出来事、読んだ本、明日の天気、そんないろいろなことよ。まさかあなた誰かがすっと立ち上がって『今日は北極熊がお星様を食べたから明日は雨だ!』なんて叫ぶと思ってたわけじゃないでしょう?」
「いやもちろんそういうことを言ってるじゃなくて」と僕は言った。「みんなごく静かに話しているから、いったいどんなことを話しているかなあとふと思っただけです」
「ここは静かだから、みんな自然に静かな声で話すようなるのよ」直子は魚の骨を皿の隅にきれいに選びわけであつめ、ハンカチで口もとを拭った。「それに声を大きくする必要がないのよ。相手を説得する必要もないし、誰かの注目をひく必要もないし」
「そうだろうね」と僕は言った。でもそんな中で静かに食事をしていると不思議に人々のざわめきが恋しくなった。人々の笑い声や無意味な叫び声や大仰な表現がなつかしくなった。僕はそんなざわめきにそれまでけっこううんざりさせられてきたものだが、それでもこの奇妙な静けさの中で魚を食べていると、どうも気持ちが落ちつかなかった。その食堂の雰囲気は特殊な機械工具の見本市会場に似ていた。限定された分野に強い興味を持った人々が限定された場所に集って、互い同士でしかわからない情報を交換しているのだ。
食事が終って部屋に戻ると直子とレイコさんは「C地区」の中にある共同浴場に行ってくると言った。そしてもしシャワーだけでいいならバスルームのを使っていいと言った。そうすると僕は答えた。彼女達が行ってしまうと僕は服を脱いでシャワーを浴び、髪を洗った。そしてドライヤーで髪を乾かしながら、本棚に並んでいたビル・エヴァンスのレコードを取り出してかけたが、しばらくしてから、それが直子の誕生日に彼女の部屋で僕が何度かかけたのと同じレコードであることに気づいた。直子が泣いて、僕が彼女を抱いたその夜にだ。たった半年前のことなのに、それはもうずいぶん昔の出来事であるように思えた。たぶんそのことについて何度も何度も考えたせいだろう。あまりに何度も考えたせいで、時間の感覚が引き伸ばされて狂ってしまったのだ。
月の光がとても明るかったので僕は部屋の灯りを消し、ソファーに寝転んでビル・エヴァンスのピアノを聴いた。窓からさしこんでくる月の光は様々な物事の影を長くのばし、まるで薄めた墨でも塗ったようにほんのりと淡く壁を染めていた。僕はナップザックの中からブランディーを入れた薄い金属製の水筒をとりだし、ひとくち口にふくんで、ゆっくりのみ下した。あななかい感触が喉から胃へとゆっくり下っていくのが感じられた。そしてそのあたたかみは胃から体の隅々へと広がっていった。僕はもうひとくちブランディーを飲んでから水筒のふたを閉め、それをナックザップに戻した。月の光は音楽にあわせて揺れているように見えた。
直子とレイコさんはニ十分ほどで風呂から戻ってきた。
「部屋の電気が消えて真っ暗なんてびっくりしたわよ、外から見て」とレイコさんが言った。「荷物をまとめて東京に帰っちゃたのかと思ったわ」
「まさか。こんなに明るい月を見たのは久しぶりだったから電灯を消してみたんですよ」
「でも素敵じゃない、こういうの」と直子は言った。「ねえ、レイコさん、この前停電のときつかったロウソクまだ残っていたかしら?」
「台所の引き出しよ、たぶん」
直子は台所に行って引き出しを開け、大きな白いロウソクを持ってきた。僕はそれに火をつけ、ロウを灰皿にたらしてそこに立てた。レイコさんがその火で煙草に火をつけた。あたりはあいかわらずひっそりとしていて、そんな中で三人でロウソクを囲んでいると、まるで我々三人だけが世界のはしっこにとり残されたみたいに見えた。ひっそりとした月光の影と、ロウソクの光にふらふらと揺れる影とが、白い壁の上でかさなりあい、錯綜していた。僕と直子は並んでソファーに座り、レイコは向いの揺り椅子に腰掛けた。
「どう、ワインでも飲まない?」とレイコさんが僕に言った。
「ここはお酒飲んでもかまわないですか?」と僕はちょっとびっくりして言った。
「本当は駄目なんだけどねえ」とレイコは耳たぶを掻きながら照れくさそうに言った。「まあ大体は大目に見てるのよ。ワインとかビールくらいなら、量さえ飲みすぎなきゃね。私、知り合いのスタッフの人に頼んでちょっとずつ買ってきてもらってるの」
「ときどき二人で酒盛りするのよ」直子がいたずらっぽく言った。
「いいですね」と僕は言った。
レイコさんは冷蔵庫から白ワインを出してコルク抜きで栓をあけ、グラスを三つ持ってきた。まるで裏の庭で作ったといったようなさっぱりとした味わいのおいしいワインだった。レコードが終るとレイコはベッドの下からギター・ケースを出してきていとおしそうに調弦してから、ゆっくりとバッハのフーガを弾きはじめた。ところどころで指のうまくまわらないところがあったけれど、心のこもったきちんとしたバッハだった。温かく親密で、そこには演奏する喜びのようなものが充ちていた。
「ギターはここに来てから始めたの。部屋にビアノがないでしょう、だからね。独学だし、それに指がギター向きになってないからなかなかうまくならないの。でもギター弾くのって好きよ。小さくて、シンプルで、やさしくて……まるで小さな部屋みたい」
彼女はもう一曲バッハの小品を弾いた。組曲の中の何かだ。ロウソクの灯を眺め、ワインを飲みながらレイコさんの弾くバッハに耳を傾けていると、知らず知らずのうちに気持ちが安らいできた。バッハが終ると、直子はレイコさんにビートルスのものを弾いてほしいと頼んだ。
「リクエスト・タイム」とレイコさんは片目を細めて僕に言った。「直子が来てから私は来る日も来る日もビートルスのものばかり弾かされてるのよ。まるで哀れた音楽奴隷のように」
彼女はそう言いながら『ミシェル』をとても上手く弾いた。
「良い曲ね。私、これ大好きよ」とレイコさんは言ってワインをひとくちのみ、煙草を吸った。
それから彼女は『ノーホエア・マン』を弾き、『ジェリア』を弾いた。ときどきギターを弾きながら目を閉じて首を振った。そしてまたワインを飲み、煙草を吸った。
「『ノルウェイの森』を弾いて」と直子は言った。
レイコさんは台所からまねき猫の形をした貯金箱を持ってきて、直子が財布から百円玉を出してそこに入れた。
「なんですか、それ?」と僕は訊いた。
「私が『ノルウェイの森』をリクエストするときはここに百円入れるのがきまりなの」と直子が言った。「この曲はいちばん好きだから、とくにそうしてるの。心してリクエストするの」
「そしてそれが私の煙草代になるわけね」
レイコさんは指をよくほぐしてから『ノルウェイの森』を弾いた。彼女の弾く曲には心がこもっていて、しかもそれでいて感情に流れすぎるということがなかった。僕もポッケトから百円玉を出して貯金箱に入れた。
「ありがとう」とレイコさんは言ってにっこり笑った。
「この曲聴くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの。どうしてだがはわからないけど、自分が深い森の中で迷っているような気になるの」と直子は言った。「一人ぼっちで寒くて、そして暗くって、誰も助けに来てくれなくて。だから私がリクエストしない限り、彼女はこの曲を弾かないの」
「なんだか『カサブランカ』みたいな話よね」とレイコさんは笑って言った。
そのあとでレイコさんはボサノヴァを何曲を弾いた。そのあいだ僕は直子を眺めていた。彼女は手紙にも自分で書いていたように以前より健康そうになり、よく日焼けし、運動と屋外作業のせいでしまった体つきになっていた。湖のように深く澄んだ瞳と恥ずかしそうに揺れる小さな唇だけは前と変りなったけれど、全体としてみると彼女の美しさは成熟した女性のそれへと変化していた。以前の彼女の美しさのかげに見えかくれしていたある種の鋭さ――人をふとひやりとさせるあの薄い刃物のような鋭さ――はずっとうしろの方に退き、そのかわりに優しく慰撫するような独得の静けさがまわりに漂っていた。そんな美しさは僕の心を打った。そしてたった半年間のあいだに一人の女性がこれほど大きく変化してしまうのだという事実に驚愕の念を覚えた。直子の新しい美しさは以前のそれと同じようにあるいはそれ以上に僕をひきつけたが、それでも彼女が失ってしまったもののことを考える残念だなという気がしないでもなかった。あの思春期の少女独特の、それ自体がどんどん一人歩きしてしまうような身勝手な美しさとでも言うべきものはもう彼女には二度と戻ってはこないのだ。
直子は僕の生活のことを知りたいと言った、僕は大学のストのことを話し、それから永沢さんのことを話した。僕が直子に永沢さんの話をしたのはそれが初めてだった。彼の奇妙な人間性と独自の思考システムと偏ったモラリティーについて正確に説明するのは至難の業だったが、直子は最後には僕のいわんとすることをだいたい理解してくれた。僕は自分が彼と二人で女の子を漁りに行くことは伏せておいた。ただあの寮において親しく付き合っている唯一の男はこういうユニークな人物なのだと説明しただけだった。そのあいだレイコさんはギターを抱えて、もう一度さっきのフーガの練習をしていた。彼女はあいかわらずちょっとしたあいまを見つけてはワインを飲んだり煙草をふかしたりしていた。
「不思議な人みたいね」と直子は言った。
「不思議な男だよ」と僕は言った。
「でもその人のこと好きなのね?」
「よくわからないね」と僕は言った。「でもたぶん好きというんじゃないだろうな。あの人は好きになるとかならないとか、そういう範疇の存在じゃないんだよ。そして本人もそんなのを求めてるわけじゃないんだ。そういう意味ではあの人はとても正直な人だし、胡麻化しのない人だし、非常にストイックな人だね」
「そんなに沢山女性と寝てストイックっていうのも変な話ね」と直子は笑って言った。「何人と寝たんだって?」
「たぶんもう八十人くらいは行ってるんじゃないかな」と僕は言った。「でも彼の場合相手の女の数が増えれば増えるほど、そのひとつひとつの行為の持つ意味はどんどん薄まっていくわけだし、それがすなわちあの男の求めていることだと思うんだ」
「それがストイックなの?」と直子が訊ねた。
「彼にとってはね」
直子はしばらく僕の言ったことについて考えていた。「その人、私よりずっと頭がおかしいと思うわ」と彼女は言った。
「僕もそう思う」と僕は言った。「でも彼の場合は自分の中の歪みを全部系統だてて理論化しちゃったんだ。ひどく頭の良い人だからね。あの人をここに連れてきてみなよ、二日で出ていっちゃうね。これも知ってる、あれももう知ってる、うんもう全部わかったってさ。そういう人なんだよ。そういう人は世間では尊敬されるのさ」
「きっと私、頭悪いのね」と直子は言った。「ここのことまだよくわかんないもの。私自身のことがまだよくわかんないように」
「頭が悪いんじゃなくて、普通なんだよ。僕にも僕自身のことでわからないことはいっぱいある。それは普通の人だもの」
直子は両脚をソファーの上にので、折りまげてその上に顎をのせた。「ねえ、ワタナベ君のことをもっと知りたいわ」と彼女は言った。
「普通の人間だよ。普通の家に生まれて、普通に育って、普通の顔をして、普通の成績で、普通のことを考えている」と僕は言った。
「ねえ、自分のこと普通の人間だという人間を信用しちゃいけないと書いていたのはあなたの大好きなスコット・フィッツジェラルドじゃなかったかしら?あの本、私あなたに借りて読んだのよ」と直子はいたずらっぽく笑いながら言った。
「たしかに」と僕は認めた。「でも僕は別に意識的にそうきめつけてるんじゃなくてさ、本当に心からそう思うんだよ。自分が普通の人間だって。君は僕の中に何か普通じゃないものがみつけられるかい?」
「あたりまえでしょう」と直子はあきれたように言った。「あななそんなこともわからないの?そうじゃなければどうして私があなたと寝たのよ?お酒に酔払って誰でもいいから寝ちゃえと思ってあなたとそうしちゃったと考えてるの?」
「いや、もちろんそんなことは思わないよ」と僕は言った。
直子は自分の足の先を眺めながらずっと黙っていた。僕も何を言っていいのかわからなくてワインを飲んだ。
「ワタナベ君、あなた何人くらいの女の人と寝たの?」と直子がふと思いついたように小さな声で訊いた。
「八人か九人」と僕は正直に答えた。
レイコさんが練習を止めてギターをはたと膝の上に落とした。「あなたまだ二十歳になってないでしょう?いったいどういう生活してんのよ、それ?」
直子は何も言わずにその澄んだ目でじっと僕を見ていた。僕はレイコさんに最初の女の子と寝て彼女と別れたいきさつを説明した。僕は彼女を愛することがどうしてもできなかったのだといった。それから永沢さんに誘われて知らない女の子たちと次々寝ることになった事情も話した。「いいわけするんじゃないけど、辛かったんだよ」と僕は直子に言った。「君と毎週のように会って、話をしていて、しかも君の心の中にあるのがキズキのことだけだってことがね。そう思うととても辛かったんだよ。だから知らない女の子と寝たんだと思う」
直子は何度か首を振ってから顔を上げてまた僕の顔を見た。「ねえ、あなたあのときどうしてキズキ君と寝なかったのかと訊いたわよね?まだそのこと知りたい?」
「たぶん知ってた方がいいんだろうね」と僕は言った。
「私もそう思うわ」と直子は言った。「死んだ人はずっと死んだままだけど、私たちはこれからも生きていかなきゃならないんだもの」
僕は肯いた。レイコさんはむずかしいパーセージを何度も何度もくりかえして練習していた。
「私、キズキ君と寝てもいいって思ってたのよ」と直子は言って髪留めをはずし、髪を下ろした。そして手の中で蝶のかたちをしたその髪留めをもてあそんでいた。「もちろん彼は私と寝たかったわ。だから私たち何度も何度もためしてみたのよ。でも駄目だったの。できなかったわ。どうしてできないのか私には全然わかんなかったし、今でもわかんないわ。だって私はキズキ君のことを愛していたし、べつに処女性とかそういうのにこだわっていたわけじゃないんだもの。彼がやりたいことなら私、何だって喜んでやってあげようと思ってたのよ。でも、できなかったの」
直子はまた髪を上にあげて、髪留めで止めた。
「全然濡れなかったのよ」と直子は小さな声で言った。「開かなかったの、まるで。だからすごく痛くて。乾いてて、痛いの。いろんな風にためしてみたのよ、私たち。でも何やってもだめだったわ。何かで湿らせてみてもやはり痛いの。だから私ずっとキズキ君のを指とか唇とかでやってあげてたの……わかるでしょう?」
僕は黙って肯いた。
直子は窓の外の月を眺めた。月は前にも増やして明るく大きくなっているように見えた。「私だってできることならこういうこと話したくないのよ、ワタナベ君。できることならこういうことはずっと私の胸の中にそっとしまっておきたなかったのよ、でも仕方ないのよ。話さないわけにはいかないのよ。自分でも解決がつかないんだもの。だってあなたと寝たとき私すごく濡れてたでしょう?そうでしょう?」
「うん」と僕は言った。
「私、あの二十歳の誕生日の夕方、あなたに会った最初からずっと濡れてたの。そしてずっとあなたに抱かれたいと思ってたの。抱かれて、裸にされて、体を触られて、入れてほしいと持ってたの。そんなこと思ったのってはじめてよ。どうして?どうしてそんなことが起こるの?だって私、キズキ君のこと本当に愛してたのよ」
「そして僕のことは愛していたわけでもないのに、ということ?」
「ごめんなさい」と直子は言った。「あなたを傷つけたくないんだけど、でもこれだけはわかって。私とキズキ君は本当にとくべつな関係だったのよ。私たち三つの頃から一緒に遊んでたのよ。私たちいつも一緒にいていろんな話をして、お互いを理解しあって、そんな風に育ったの。初めてキスしたのは小学校六年のとき、素敵だったわ。私がはじめて生理になったとき彼のところに行ってわんわん泣いたのよ。私たちとにかくそういう関係だったの。だからあの人が死んじゃったあとでは、いったいどういう風に人と接すればいいのか私にはわからなくなっちゃったの。人を愛するというのがいったいどういうことなのかというのも」
彼女はテーブルの上のワイン・グラスをとろうとしたが、うまくとれずにワイン・グラスは床に落ちてころころと転がった。ワインがカーペットの上にこぼれた。僕は身をかがめてグラスを拾い、それをテーブルの上に戻した。もう少しワインが飲みたいかと僕は直子に訊いてみた。彼女はしばらく黙っていたが、やがて突然体を震わせて泣きはじめた。直子は体をふたつに折って両手の中に顔を埋め、前と同じように息をつまらせながら激しく泣いた。レイコさんがギターを置いてやってきて、直子の背中に手をあててやさしく撫でた。そして直子の肩に手をやると、直子はまるで赤ん坊のように頭をレイコさんの胸に押しつけた。
「ね、ワタナベ君」とレイコさんが僕に言った。「悪いけれど二十分くらいそのへんをぶらぶら散歩してきてくれない。そうすればなんとかなると思うから」
僕は肯いて立ち上がり、シャツの上にセーターを着た。「すみません」と僕はレイコさんに言った。
「いいのよ、べつに。あなたのせいじゃないんだから。気にしなくていいのよ。帰ってくるころにはちゃんと収まってるから」彼女はそういって僕に向って片目を閉じた。
僕は奇妙な非現実的な月の光に照らされた道を辿って雑木林の中に入り、あてもなく歩を運んだ。そんな月の光の下ではいろんな物音が不思議な響き方をした。僕の足音はまるで海底を歩いている人の足音のように、どこかまったく別の方向から鈍く響いて聞こえてきた。時折うしろの方でさっという小さなあ乾いた音がした。夜の動物たちが息を殺してじっと僕が立ち去るのを待っているような、そんな重苦しさは林の中に漂っていた。
雑木林を抜け小高くなった丘の斜面に腰を下ろして、僕は直子の住んでいる棟の方を眺めた。直子の部屋をみつけるのは簡単だった。灯のともっていない窓の中から奥の方で小さな光がほのかに揺れていたものを探せばよかったのだ。僕は身動きひとつせずにその小さな光をいつまでも眺めていた。その光は僕に燃え残った魂の最後の揺らめきのようなものを連想させた。僕はその光を両手で覆ってしっかりと守ってやりたかった。僕はジェイ・ギャツビイが対岸の小さな光を毎夜見守っていたと同じように、その仄かな揺れる灯を長いあいだ見つめていた。
僕は部屋に戻ったのは三十分後で、棟の入口までくるとレイコさんがギターを練習しているのが聴こえた。僕はそっと階段を上り、ドアをノックした。部屋に入ると直子の姿はなく、レイコさんがカーペットの上に座って一人でギターを弾いているだけだった。彼女は僕に指で寝室のドアの方を示した。直子は中にいる、ということらしかった。それからレイコさんはギターを床に置いてソファーに座り、となりに座るように僕に言った。そして瓶に残っていたワインをふたつのグラスに分けた。
「彼女は大丈夫よ」とレイコさんは僕の膝を軽く叩きながら言った。「しばらく一人で横になってれば落ちつくから心配しなくてもいいのよ。ちょっと気が昂ぶっただけだから。ねえ、そのあいだ私と二人で少し外を散歩しない?」
「いいですよ」と僕は言った。
僕とレイコさんは街燈に照らされた道をゆっくりと歩いて、テニス・コートとバスケットボール・コートのあるところまで来て、そこのベンチに腰を下ろした。彼女はベンチの下からオレンジ色のバスケットのボールをとりだして、しばらく手の中でくるくるとまわしていた。そして僕にテニスはできるかと訊いた。とても下手だけれどできないことはないと僕は答えた。
「バスケットボールは?」
「それほど得意じゃないですね」
「じゃああなたいったい何が得意なの?」とレイコさんは目の横のしわを寄せるようにして笑って言った。「女の子と寝る以外に」
「べつに得意なわけじゃありませんよ」僕は少し傷ついて言った。
「怒らないでよ。冗談で言っただけだから。ねえ、本当にどうなの?どんなことが得意なの?」
「得意なことってないですね。好きなことならあるけれど」
「どんなこと好き?」
「歩いて旅行すること。泳ぐこと、本を読むこと」
「一人でやることが好きなのね?」
「そうですね、そうかもしれませんね」と僕は言った。「他人とやるゲームって昔からそんなに興味が持てないんです。そういうのって何をやってもうまくのりこめないんです。どうでもよくなっちゃうんです」
「じゃあ冬にここにいらっしゃいよ。私たち冬にはクロス・カントリー・スキーやるのよ。あなたきっとあれ好きになるわよ。雪の中を一日バタバタ歩きまわって汗だくになって」とレイコさんは言った。そして街灯の光の下でまるで古い楽器を点検するみたいにじっと自分の右手を眺めた。
「直子はよくあんな風になるんですか?」と僕は訊いてみた。
「そうね、ときどきね」とレイコさんは今度は左手を見ながら言った。「ときどきあんな具合になるわけ。気が高ぶって、泣いて。でもいいのよ、それはそれで。感情を外に出しているわけだからね。怖いのはそれが出せなくなったときよ。そうするとね、感情が体の中にたまってだんだん固くなっていくの。いろんな感情が固まって、体の中で死んでいくの。そうなるともう大変ね」
「僕はさっき何か間違ったこと言ったりしませんでしたか?」
「何も。大丈夫よ、何も間違ってないから心配しなくていいわよ。なんでも正直に言いなさい。それがいちばん良いことなのよ。もしそれがお互いをいくらか傷つけることになったとしても、あるいはさっきみたいに誰かの感情をたかぶらせることになったとしても長い目で見ればそれがいちばん良いやり方なの。あなたが真剣に直子を回復させたいと望んでいるなら、そうしなさい。最初にも言ったように、あの子を助けたいと思うんじゃなくて、あの子を回復させることによって自分も回復したいと望むのよ。それがここのやり方だから。だからつまり、あなたもいろんなことを正直にしゃべるようにしなくちゃいけないわけ、ここでは、だって外の世界ではみんなが何もかも正直にしゃべってるわけではないでしょう?」
「そうですね」と僕は言った。
「私は七年もここにいて、ずいぶん多くの人が入ってきたり出て行ったりするのを見てきたのよ」とレイコさんは言った。「たぶんそういうのを沢山見すぎてきたんでしょうね。だからその人を見ているだけで、なおりそうとかなおりそうじゃないとか、わりに直感的にわかっちゃうところがあるのよ。でも直子の場合はね、私にもよくわからないの。あの子がいったいどうなるのか、私にも皆目見当がつかないのよ。来月になったらさっぱりとなおってるかもしれないし、あるいは何年も何年もこういうのがつづくかもしれないし、だからそれについては私にはあなたに何かアドバイスすることはできないのよ。ただ正直になりなさいとか、助けあいなさいとか、そういうごく一般的なことしかね」
「どうして直子に限って見当がつかないんですか?」
「たぶん私があの子のこと好きだからよね。だからうまく見きわめがつかないじゃないかしら、感情が入りすぎていて。ねえ、私、あの子のこと好きなのよ、本当に。それからそれとは別にね、あの子の場合にはいろんな問題がいささか複雑に、もつれた紐みたいに絡み合っていて、それをひとつひとつほぐしていくのが骨なのよ。それをほぐすのに長い時間がかかるかもしれないし、あるいは何かの拍子にぽっと全部ほぐれちゃうかもしれないしね。まあそういうことよ。それで私も決めかねているわけ」
彼女はもう一度バスケットボールを手にとって、ぐるぐると手の中でまわしてから地面にバウンドさせた。
「いちばん大事なことはね、焦らないことよ」とレイコさんは僕に言った。「これが私のもう一つの忠告ね。焦らないこと。物事が手に負えないくらい入りこんで絡み合っていても絶望的な気持ちになったり、短気を起こして無理にひっぱったりしちゃ駄目なのよ。時間をかけてやるつもりで、ひとつひとつゆっくりほぐしていかなきゃいけないのよ。できるの?」
「やってみます」と僕は言った。
「時間がかかるかもしれないし、時間かけても完全にはならないかもしれないわよ。あなたそのこと考えてみた?」
僕は肯いた。
「待つのは辛いわよ」とレイコさんはボールをバウンドさせながら言った。「とくにあなたくらいの歳の人にはね。ただただ彼女がなおるのをじっと待つのよ。そしてそこには何の期限も保証もないのよ。あなたにそれができるの?そこまで直子のことを愛してる?」
「わからないですね」と僕は正直に言った。「僕にも人を愛するというのがどういうことなのか本当によくわからないんです。直子とは違った意味でね。でお僕はできる限りのことをやって見たいんです。そうしないと自分がどこに行けばいいのかということもよくわからないんですよ。だからさっきレイコさんが言ったように、僕と直子はお互いを救いあわなくちゃいけないし、そうするしかお互いが救われる道はないと思います」
「そしてゆきずりの女の子と寝つづけるの?」
「それもどうしていいかよくわかりませんね」と僕は言った。「いったいどうすればいいんですか?ずっとマスターペーションしながら待ちつづけるべきなんですか?自分でもうまく収拾できないんですよ。そういうのって」
レイコさんはボールを地面に置いて、僕の膝を軽く叩いた。「あのね、何も女の子と寝るのがよくないって言ってるんじゃないのよ。あなたがそれでいいんなら、それでいいのよ。だってそれはあなたの人生だもの、あなたが自分で決めればいいのよ。ただ私の言いたいのは、不自然なかたちで自分を擦り減らしちゃいけないっていうことよ。わかる?そういうのってすごくもったいないのよ。十九と二十歳というのは人格成熟にとってとても大事な時期だし、そういう時期につまらない歪みかたすると、年をとってから辛いのよ。本当よ、これ。だからよく考えてね。直子を大事にしたいと思うなら自分も大事にしなさいね」
考えてみます、と僕は言った。
「私にも二十歳の頃があったわ。ずっと昔のことだけど」とレイコさんは言った。「信じる?」
「心から信じるよ、もちろん」
「心から信じる?」
「心から信じますよ」と僕は笑いながら言った。
「直子ほどじゃないけれど、私だってけっこう可愛いかったのよ。その頃は。今ほどしわもなかったしね」
そのしわすごく好きですよと僕は言った。ありがとうと彼女は言った。
「でもね、この先女の人にあなたのしわが魅力的だなんて言っちゃ駄目よ。私はそう言われると嬉しいけどね」
「気をつけます」と僕は言った。
彼女はズボンのポケットから財布を取り出し、定期入れのところに入っている写真を出して僕に見せてくれた。十歳前後のかわいい女の子のカラー写真だった。その女の子は派手なスキー・ウェアを着て足にスキーをつけ、雪の上でにっこりと微笑んでいた。
「なかなか美人でしょう?私の娘よ」とレイコさんは言った。「今年はじめにこの写真送ってくれたの。今、小学校の四年生かな」
「笑い方が似てますね」と僕は言ってその写真を彼女の返した。彼女は財布をポケットに戻し、小さく鼻を鳴らして煙草をくわえて火をつけた。
「私若いころね、プロのピアニストになるつもりだったのよ。才能だってまずまずあったし、まわりもそれを認めてくれたしね。けっこうちやほやされて育ったのよ。コンクールで優勝したこともあるし、音大ではずっとトップの成績だったし、卒業したらドイツに留学するっていう話もだいたい決っていたしね、まあ一点の曇りもない青春だったわね。何をやってもうまく行くし、うまく行かなきゃまわりがうまく行くように手をまわしてくれるしね。でも変なことが起ってある日全部が狂っちゃったのよ。あれは音大の四年のときね。わりに大事なコンクールがあって、私ずっとそのための練習してたんだけど、突然左の小指が動かなくなっちゃったの。どうして動かないのかわからないんだけど、とにかく全然動かないのよ。マッサージしたり、お湯につけたり、ニ、三日練習休んだりしたんだけど、それでも全然駄目なのよ。私真っ青になって病院に行ったの。それでずいぶんいろんな検査したんだけれど、医者にもよくわからないのよ。指には何の異常もないし、神経もちゃんとしているし、動かないわけがないっていうのね。だから精神的なものじゃないかって。精神科に行ってみたわよ、私。でもそこでもやはりはっきりしたことはわからなかったの。コンクール前のストレスでそうなったじゃないかっていうことくらいしかね。だからとにかく当分ピアノを離れて暮らしなさいって言われたの」
レイコさんは煙草の煙を深く吸いこんで吐き出した。そして首を何回か曲げた。
「それで私、伊豆にいる祖母のところに行ってしばらく静養することにしたの。そのコンクールのことはあきらめて、ここはひとつのんびりしてやろう、二週間くらいピアノにさわらないで好きなことして遊んでやろうってね。でも駄目だったわ。何をしても頭の中にピアノのことしか浮かんでこないのよ。それ以外のことが何ひとつ思い浮かばないのよ。一生このまま小指が動かないんじゃないだろうか?もしそうなったらこれからいったいどうやって生きていけばいいんだろう?そんなことばかりぐるぐる同じこと考えてるのね。だって仕方ないわよ、それまでの人生でピアノが私の全てだったんだもの。私はね四つのときからピアノを始めて、そのことだけを考えて生きてきたのよ。それ以外のことなんか殆んど何ひとつ考えなかったわ。指に怪我しちゃいけないっていうんで家事ひとつしたことないし、ピアノが上手いっていうことだけでまわりが気をつかってくれるしね、そんな風にして育ってきた女の子からピアノをとってごらんなさいよ、いったい何が残る?それでボンッ!よ。頭のねじがどこかに吹き飛んじゃったのよ。頭がもつれて、真っ暗になっちゃって」
彼女は煙草を地面に捨てて踏んで消し、それからまた何度か首を曲げた。
「それでコンサート・ピアニストになる夢はおしまいよ。二ヶ月入院して、退院して。病院に入って少ししてから小指は動くようになったから、音大に復学してなんとか卒業することはできたわよ。でもね、もう何かか消えちゃったのよ。何かこう、エネルギーの玉のようなものが、体の中から消えちゃってるのよ。医者もプロのピアニストになるには神経が弱すぎるからよした方がいいって言うしね。それで私、大学を出てからは家で生徒をとって教えていたの。でもそういうのって本当に辛かったわよ。まるで私の人生そのものがそこでばたっと終っちゃたみたいなんですもの。私の人生のいちばん良い部分が二十年ちょっとで終っちゃったのよ。そんなのってひどすぎると思わない?私はあらゆる可能性を手にしていたのに、気がつくともう何もないのよ。誰も拍手してくれないし、誰もちやほやしてくれないし、誰も賞めてくれないし、家の中にいて来る日も来る日も近所の子供にバイエルだのソナチネ教えてるだけよ。惨めな気がしてね、しょっちゅう泣いてたわよ。悔しくってね。私よりあきらかに才能のない人がどこのコンクールで二位とっただの、どこのホールでリサイタル開いただの、そういう話を聞くと悔しくってぼろぼろ涙が出てくるの。
両親も私のことを腫れものでも扱うみたいに扱ってたわ。でもね、私にはわかるのよ、この人たちもがっかりしてるんだなあって。ついこの間まで娘のことを世間に自慢してたのに、今じゃ精神病院帰りよ。結婚話だってうまく進められないじゃない。そういう気持ってね、一緒に暮らしているとひしひしつたわってくるのよ。嫌で嫌でたまんなかったわ。外に出ると近所の人が私の話をしているみたいで、怖くて外にも出られないし。それでまたボンッ!よ。ネジが飛んで、糸玉がもつれて、頭が暗くなって。それが二十四のときでね、このときは七ヶ月療養所に入ってたわ。ここじゃなくて、ちゃんと高い塀があって門の閉っているところよ。汚くて。ピアノもなくて……私、そのときはもうどうしていいかわかんなかったわね。でもこんなところ早く出たいっていう一念で、死にもの狂いで頑張ってなおしたのよ。七ヶ月――長かったわね。そんな風にしてしわが少しずつ増えてったわけよ」
レイコさんは唇を横にひっぱるようにのばして笑った。
「病院を出てしばらくしてから主人と知り合って結婚したの。彼は私よりひとつ年下で、航空機を作る会社につとめるエンジニアで、私のピアノの生徒だったの。良い人よ。口数が少ないけれど、誠実で心のあたたかい人で。彼が半年くらいレッスンをつづけたあとで、突然私に結婚してくれないがって言い出したの。ある日レッスンが終ってお茶飲んでるときに突然よ。私びっくりしっちゃたわ。それで私、彼に結婚することはできないって言ったの。あなたは良い人だと思うし好意を抱いてはいるけれど、いろいろ事情があってあなたと結婚することはできないんだって。彼はその事情を聞きたがったから、私は全部正直に説明したわ。二回頭がおかしくなって入院したことがあるんだって。細かいところまできちんと話したわよ。何が原因で、それでこういう具合になったし、これから先だってまた同じようなことが起るかもしれないってね。少し考えさせてほしいって彼が言うからどうぞゆっくり考えて下さいって私言ったの。全然急がないからって。次の週彼がやってきてやはり結婚したいって言ったわ。それで私言ったの。三ヶ月待ってって。三ヶ月二人でおつきあいしましょう。それでまだあなたに結婚したいと言う気持があったら、その時点で二人でもう一度話しあいましょうって。
三ヶ月間、私たち週に一度デートしたの。いろんなところに行って、いろんな話をして。それで私、彼のことがすごく好きになったの。彼と一緒にいると私の人生がやっと戻ってきたような気がしたの。二人でいるとすごくほっとしてね、いろんな嫌なことが忘れられたの。ピアニストになれなくったって、精神病で入院したことがあったって、そんなことで人生が終っちゃったわけじゃないんだ、人生には私の知らない素敵なことがまだいっぱい詰まっているんだって思ったの。そしてそういう気持にさせてくれたことだけで、私は彼に心から感謝したわ。三ヶ月たって、彼はやはり私と結婚したいって言ったの。『もし私と寝たいのなら寝ていいわよ』って私は言ったの。『私、まだ誰とも寝たことないけれど、あなたのことは大好きだから、私を抱きたければ抱いて全然構わないのよ。でも私と結婚するっていうのはそれとはまったく別のことなのよ。あなたは私と結婚することで、私のトラブルも抱えこむことになるのよ。これはあなたが考えているよりずっと大変なことなのよ。それでもかまわないの』って。
構わないって彼は言ったわ。僕はただ単に寝たいわけじゃないんだ、君と結婚したいんだ、君の中の何もかも君と共有したいんだってね。そして彼は本当にそう思ってたのよ。彼は本当に思っていることしか口に出さない人だし、口にだしたことはちゃんと実行する人なのよ。いいわ、結婚しましょうって言ったわ。だってそう言うしかないものね。結婚したのはその四ヶ月後だったかな。彼はそのことで彼の両親と喧嘩して絶縁しちゃったの。彼の家は四国の田舎の旧家でね、両親が私のことを徹底的に調べて、入院歴が二回あることがわかっちゃったのよ。それで結婚に反対して喧嘩になっちゃったわけ。まあ反対するのも無理ないと思うけれどね。だから私たち結婚式もあげなかったの。役所に行って婚姻届けだして、箱根に二泊旅行しただけ。でもすごく幸せだったわ、何もかもが。結局私、結婚するまで処女だったのよ、二十五歳まで。嘘みたいでしょう?」
レイコさんはため息をついて、またバスケット・ボールを持ちあげた。
「この人といる限り私は大丈夫って思ったわ」とレイコさんは言った。「この人と一緒にいる限り私が悪くなることはもうないだろうってね。ねえ、私たちの病気にとっていちばん大事なのはこの信頼感なのよ。この人にまかせておけば大丈夫、少しでも私の具合がわるくなってきたら、つまりネジがゆるみはじめたら、この人はすぐに気づいて注意深く我慢づよくなおしてくれる――ネジをしめなおし、糸玉をほぐしてくれる――そういう信頼感があれば、私たちの病気はまず再発しないの、そういう信頼感が存在する限りまずあのボンッ!は起らないのよ。嬉しかったわ。人生ってなんて素晴らしいんだろうって思ったわ。まるで荒れた冷たい海から引き上げられて毛布にくるまれて温かいベッドに横たえられているようなそんな気分ね。結婚して二年後に子供が生まれて、それからはもう子供の世話で手いっぱいよ。おかげで自分の病気のことなんかすっかり忘れちゃったくらい。朝起きて家事して子供の世話して、彼が帰ってきたらごはん食べさせて……毎日毎日がそのくりかえし。でも幸せだったわ。私の人生の中でたぶんいちばん幸せだった時期よ。そういうのが何年つづいたかしら?三十一の歳まではつづいたわよね。そしてまたボンッ!よ。破裂したの」
レイコさんは煙草に火をつけた。もう風はやんでいた、煙はまっすぐ上に立ちのぼって夜の闇の中に消えていった。気がつくと空には無数の星が光っていた。
「何かがあったんですか?」と僕は訊いた。
「そうねえ」とレイコさんは言った。「すごく奇妙なことがあったのよ。まるで何かの罠か落とし穴みたいにそれが私をじっとそこで待っていたのよ。私ね、そのこと考えると今でも寒気がするの」彼女は煙草を持っていない方の手でこめかみをこすった。「でもわるいわね、私の話ばかり聞かせちゃって。あなたせっかく直子に会いにきたのに」
「本当に聞きたいんです」と僕は言った。「もしよければその話を聞かせてくれませんか?」
「子供が幼稚園に入って、私はまた少しずつピアノを弾くようになったの」とレイコさんは話しはじめた。「誰のためでもなく、自分のためにピアノを弾くようになったの。バッハとかモーツァルトとかスカルラッティーとか、そういう人たちの小さな曲から始めたのよ。もちろんずいぶん長いブランクがあるからなかなか勘は戻らないわよ。指だって昔に比べたら全然思うように動かないしね。でも嬉しかったわ。またピアノが弾けるんだわって思ってね。そういう風にピアノを弾いていると、自分がどれほど音楽が好きだったかっていうのがもうひしひしとわかるのよ。そして自分がどれほどそれに飢えていたかっていうこともね。でも素晴らしいことよ、自分自身のために音楽が演奏できるということはね。
さっきも言ったように私は四つのときからピアノを弾いてきたわけだけれど、考えてみたら自分自身のためにピアノを弾いたことなんてただの一度もなかったのよ。テストをパスするためとか、課題曲だからとか人を感心させるためだとか、そんなためばかりにピアノを弾きつづけてきたのよ。もちろんそういうのは大事なことではあるのよ、ひとつの楽器をマスターするためにはね。でもある年齢をすぎたら人は自分のために音楽を演奏しなくてはならないのよ。音楽というのはそういうものなのよ。そして私はエリート・コースからドロップ・アウトして三十一か三十二になってやっとそれを悟ることができたのよ。子供を幼稚園にやって、家事はさっさと早くかたづけて、それから一時間か二時間自分の好きの曲を弾いたの。そこまでは何も問題はなかったわ。ないでしょう?」
僕は肯いた。
「ところがある日顔だけ知ってて道で会うとあいさつくらいの間柄の奥さんが私を訪ねてきて、実は娘があなたにピアノを習いたがってるんだけど教えて頂くわけにはいかないだろうかっていうの。近所っていってもけっこう離れてるから、私はその娘さんのことは知らなかったんだけれど、その奥さんの話によるとその子は私の家の前を通ってよく私のピアノを聴いてすごく感動したんだっていうの。そして私の顔も知っていて憧れているっていうのね。その子は中学二年生でこれまで何度かは先生についてピアノを習っていたんだけれど、どうもいろんな理由でうまくいかなくて、それで今は誰にもついていないってことなの。
私は断ったわ。私は何年もブランクがあるし、まったくの初心者ならともかく何年もレッスンを受けた人を途中から教えるのは無理ですって言ってね。だいいち子供の世話が忙しくてできませんって。それに、これはもちろん相手には言わなかったけれど、しょっちゅう先生を変える子って誰がやってもまず無理なのよ。でもその奥さんは一度でいいから娘に会うだけでも会ってやってくれって言うの、まあけっこう押しの強い人で断ると面倒臭そうだったし、まあ会いたいっていうのをはねつけるわけにもいかないし、会うだけでいいんならかまいませんけどって言ったわ。三日後にその子は一人でやってきたの。天使みたいにきれいな子だったわ。もうなにしろね、本当にすきとおるようにきれいなの。あんなきれいな女の子を見たのは、あとにも先にもあれがはじめてよ。髪がすったばかりの墨みたいに黒く長くて、手足がすらっと細くて、目が輝いていて、唇は今つくったばかりっていった具合に小さくて柔らかそうなの。私、最初みたとき口きけなかったわよ、しばらく。それくらい綺麗なの。その子がうちの応接間のソファーに座っていると、まるで違う部屋みたいにゴージャスに見えるのよね。じっと見ているとすごく眩しくね、こう目を細めたくなっちゃうの。そんな子だったわ。今でもはっきりと目に浮かぶわね」
レイコさんは本当にその女の子の顔を思い浮かべるようにしばらく目を細めていた。
「コーヒーを飲みながら私たち一時間くらいお話したの。いろんなことをね。音楽のこととか学校のこととか。見るからに頭の良い子だったわ。話の要領もいいし、意見もきちっとして鋭いし、相手をひきつける天賦の才があるのよ。怖いくらいにね。でおその怖さがいったい何なのか、そのときの私にはよくかわらなかったわ。ただなんとなく怖いくらいに目から鼻に抜けるようなところがあるなと思っただけよ。でもね、その子を前に話をしているとだんだん正常な判断がなくなってくるの。つまりあまりにも相手が若くて美しいんで、それに圧倒されちゃって、自分がはるかに劣った不細工な人間みたいに思えてきて、そして彼女に対して否定的な思いがふと浮んだとしても、そういうのってきっとねじくれた汚い考えじゃないかっていう気がしちゃうわけ」
彼女は何度か首を振った。
「もし私があの子くらいで綺麗で頭良かったら。私ならもっとまともな人間になるわね。あれくらい頭がよくて美しいのに、それ以上の何が欲しいっていうのよ?あれほどみんなに大事にされているっていうのに、どうして自分より劣った弱いものをいじめたり踏みつけたりしなくちゃいけないのよ?だってそんなことしなくちゃいけない理由なんて何もないでしょう?」
「何かひどいことをされたんですか?」
「まあ順番に話していくとね、その子は病的な嘘つきだったのよ。あれはもう完全な病気よね。なんでもかんでも話を作っちゃうわけ。そして話しているあいだは自分でもそれを本当だと思いこんじゃうわけ。そしてその話のつじつまを合わせるために周辺の物事をどんどん作り変えていっちゃうの。でも普通ならあれ、変だな、おかしいな、と思うところでも、その子は頭の回転がおそろしく速いから、人の先に回ってどんどん手をくわえていくし、だから相手は全然気づかないのよ。それが嘘であることにね。だいたいそんなきれいな子がなんでもないつまらないことで嘘をつくなんて事誰も思わないの。私だってそうだったわ。私、その子のつくり話半年間山ほど聞かされて、一度も疑わなかったのよ。何から何まで作り話だっていうのに、馬鹿みたいだわ、まったく」
「どんな嘘をつくんですか?」
「ありとあらゆる嘘よ」とレイコさんは皮肉っぽく笑いながら言った。「今も言ったでしょう?人は何かのことで嘘をつくと、それに合わせていっぱい嘘をつかなくちゃならなくなるのよ。それが虚言症よ。でも虚言症の人の嘘というのは多くの場合罪のない種類のものだし、まわりの人にもだいたいわかっちゃうものなのよ。でもその子の場合は違うのよ。彼女は自分を守るためには平気で他人を傷つける嘘をつくし、利用できるものは何でも利用しようよするの。そして相手によって嘘をついたりつかなかったりするの。お母さんとか親しい友だちとかそういう嘘をついたらすぐばれちゃうような相手にはあまり嘘はつないし、そうしなくちゃいけないときには細心の注意を払って嘘をつくの。決してばれないような嘘をね。そしてもしばれちゃうようなことがあったら、そのきれいな目からぼろぼろ涙をこぼして言い訳するか謝るかするのよ、すがりつくような声でね。すると誰もそれ以上怒れなくなっちゃうの。
どうしてあの子が私を選んだのか、今でもよくわからないのよ。彼女の犠牲者として私を選んだのか、それとも何かしらの救いを求めて私を選んだのかがね。それは今でもわからないわ、全然。もっとも今となってはどちらでもいいようなことだけれどね。もう何もかも終ってしまって、そして結局こんな風になってしまったんだから」
短い沈黙があった。
「彼女のお母さんが言ったことを彼女またくりかえしたの。うちの前を通って私のピアノを耳にして感動した。私にも外で何度か会って憧れてたってね。『憧れてた』って言ったのよ。私。赤くなっちゃったわ。お人形みたいに綺麗な女の子に憧れるなんでね。でもね、それはまるっきりの嘘ではなかったと思うのね。もちろん私はもう三十を過ぎてたし、その子ほど美人でも頭良くもなかったし、とくに才能があるわけでもないし。でもね、私の中にはきっとその子をひきつける何かがあったのね。その子に欠けている何かとか、そういうものじゃないかしら?だからこそその子は私に興味を持ったのよ。今になってみるとそう思うわ。ねえ、これ自慢してるわけじゃないのよ」
「かわりますよ、それはなんとなく」と僕は言った。
「その子は譜面を持ってきて、弾いてみていいかって訊いたの。いいわよ、弾いてごらんなさいって私は言ったわ。それで彼女バッハのインベンション弾いたの。それがね、なんていうか面白い演奏なのよ。面白いというか不思議というか、まず普通じゃないのよね。もちろんそれほど上手くないわよ。専門的な学校に入ってやっているわけでもないし、レッスンだって通ったり通わなかったりしでずいぶん我流でやってきたわけだから。きちっと訓練された音じゃないのよ。もし音楽学校の入試の実技でこんな演奏したら一発でアウトね。でもね、聴かせるのよ、それが。つまりね全体の九〇パーセントはひどいんだけれど、残りの一〇パーセントの聴かせどころをちやんと唄って聴かせるのよ。それもバッハのインベンションでよ!私それでその子にとても興味を持ったの。この子はいったい何なんだろうってね。
そりゃね、世に中にはもっともっと上手くバッハを弾く若い子はいっぱいいるわよ。その子の二十倍くらい上手く弾く子だっているでしょうね。でもそういう演奏ってだいたい中身がないのよ。かすかすの空っぽなのよ。でもその子のはね、下手だけれど人を、少なくとも私を、ひきつけるものを少し持ってるのよ。それで私、思ったの。この子なら教えてみる価値はあるかもしれないって。もちろん今から訓練しなおしてプロにするのは無理よ。でもそのときの私のように――今でもそうだけれど――楽しんで自分のためにピアノを演奏することのできる幸せなピアノ弾きにすることは可能かもしれないってね。でもそんなのは結局空しい望みだったのよ。彼女は他人を感心させるためにあらゆる手段をつかって細かい計算をしてやっていく子供だったのよ。どうすれば他人が感心するか、賞めてくれるかっていうのはちゃんとわかっていたのよ。どういうタイプの演奏をすれば私をひきつけられるかということもね。全部きちんと計算されていたのよ。そしてその聴かせるところだけをとにかく一所懸命何度も何度も練習したんでしょうね。目に浮ぶわよ。
でもそれでもね、そういうのがわかってしまった今でもね、やはりそれは素敵な演奏だったと思うし、今もう一回あれを聴かされたとしても、私やっぱりどきっとすると思うわね。彼女のずるさと嘘と欠点を全部さっぴいてもよ。ねえ、世の中にはそういうことってあるのよ」
レイコさんは乾いた声で咳払いしてから、話をやめてしばらく黙っていた。
「それでその子を生徒にとったんですか?」と僕は訊いてみた。
「そうよ。週に一回。土曜日の午前中。その子の学校は土曜日もお休みだったから。一度も休まなかったし、遅刻もしなかったし、理想的な生徒だったわ。練習もちょんとやってくるし。レッスンが終ると、私たちケーキを食べてお話したの」レイコさんはそこでふと気がついたように腕時計を見た。「ねえ、私たちそろそろ部屋に戻った方がいいんじゃないかしら。直子のことがちょっと心配になってきたから。あなたまさか直子のことを忘れちゃったんじゃないでしょうね?」
「忘れやしませんよ」と僕は笑って言った。「ただ話しに引きこまれてたんです」
「もし話のつづき聞きたいなら明日話してあげるわよ。長い話だから一度には話せないのよ」
「まるでシエラザードですね」
「うん、東京に戻れなくなっちゃうわよ」と言ってレイコさんも笑った。
僕らは往きに来たのと同じ雑木林の中の道を抜け、部屋に戻った。ロウソクが消され、居間の電灯も消えていた。寝室のドアが開いてベットサイドのランプがついていて、その仄かな光が居間の方にこぼれていた。そんな薄暗がりのソファーの上に直子がぽつんと座っていた。彼女はガウンのようなものに着替えていた。その襟を首の上までぎょっとあわせ、ソファの上に足をあげ、膝を曲げて座っていた。レイコさんは直子のところに行って、頭のてっぺんに手を置いた。
「もう大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。ごめんなさい」と直子が小さな声で言った。それから僕の方を向いて恥かしそうにごめんなさいと言った。「びっくりした?」
「少しね」と僕はにっこりとして言った。
「ここに来て」と直子は言った。僕は隣に座ると、直子はソファーの上で膝を曲げたまま、まるで内緒話でもするみたいに僕の耳もとに顔を近づけ、耳のわきにそっと唇をつけた。「ごめんなさい」ともう一度直子は僕の耳に向かって小さな声で言った。そして体を離した。
「ときどき自分でも何がどうなっているのかわかんなくなっちゃうことがあるのよ」と直子は言った。
「僕はそういうことしょっちゅうあるよ」
直子は微笑んで僕の顔を見た。ねえ、よかったら君のことをもっと聞きたいな、と僕は言った。ここでの生活のこと。毎日どんなことしているとか。どんな人がいるとか。
直子は自分の一日の生活についてぼつぼつと、でもはっきりとした言葉で話した。朝六時に起きてここで食事をし。鳥小屋の掃除をしてから、だいたいは農場で働く。野菜の世話をする。昼食の前かあとに一時間くらい担当医との個別面接か、あるいはブループ・ディスカッションがある。午後は自由カリキュラムで、自分の好きな講座かあるいは野外作業かスポーツが選べる。彼女フランス語とか編物とかピアノとか古代史とか、そういう講座をいくつかとっていた。
「ピアノはレイコさんに教わってるの」と直子は言った。「彼女は他にもギターも教えてるのよ。私たちみんな生徒になったり先生になったりするの。フランス語に堪能な人はフランス語教えるし、社会科の先生してた人は歴史を教えるし、編物の上手な人は編物を教えるし。そういうのだけでもちょっとした学校みたいになっちゃうのよ。残念ながら私には他人に教えてあげられるようなものは何もないけれど」
「僕にもないね」
「とにかく私、大学にいたときよりずっと熱心に学んでいるわよ、ここで。よく勉強もしているし、そういうのって楽しいのよ、すごく」
「夕ごはんのあとはいつも何するの?」
「レイコさんとおしゃべりしたり、本を読んだり、レコードを聴いたり、他の人の部屋にいってゲームをしたり、そういうこと」と直子は言った。
「私はギターの練習をしたり、自叙伝を書いたり」とレイコさんは言った。
「自叙伝?」
「冗談よ」とレイコさんは笑って言った。「そして私たち十時くらいに眠るの。どう、健康的な生活でしょう?ぐっすり眠れるわよ」
僕は時計を見た。九時少し前だった。「じゃあもうそろそろ眠いんじゃないですか?」
「でも今日は大丈夫よ、少しくら遅くなっても」と直子は言った。「久しぶりだからもっとお話がしたいもの。何かお話して」
「さっき一人でいるときにね、急にいろんな昔のこと思い出してたんだ」と僕は言った。「昔キズキと二人で君を見舞いに行ったときのこと覚えてる?海岸の病院に。高校二年生の夏だっけな」
「胸の手術したときのことね」と直子はにっこり笑って言った。「よく覚えているわよ。あなたとキズキ君がバイクに乗って来てくれたのよね。ぐじゃぐじゃに溶けたチョコレートを持って。あれ食べるの大変だったわよ。でもなんだかものすごく昔の話みたいな気がするわね」
「そうだね。その時、君はたしかに長い詩を書いてたな」
「あの年頃の女の子ってみんな詩を書くのよ」とくすくす笑いながら直子は言った。「どうしてそんなこと急に思い出したの?」
「わからないな。ただ思い出したんだよ。海風の匂いとか夾竹桃とか、そういうのがさ、ふと浮かんできたんだよ」と僕は言った。「ねえ、キズキはあのときよく君の見舞いに行ったの?」
「見舞いになんて殆んど来やしないわよ。そのことで私たち喧嘩したんだから、あとで。はじめに一度来て、それからあなたと二人できて、それっきりよ。ひどいでしょう?最初にきたときだってなんだかそわそわして、十分くらいで帰っていったわ。オレンジ持ってきてね。ぶつぶつよくわけのわからないこと言って、それからオレンジをむいて食べさせてくれて、またぶつぶつわけのわからないこと言って、ぷいって帰っちゃったの。俺本当に病院って弱いんだとかなんとか言ってね」直子はそう言って笑った。「そういう面ではあの人はずっと子供のままだったのよ。だってそうでしょう?病院の好きな人なんてどこにもいやしないわよ。だからこそ人は慰めにお見舞いに来るんじゃない。元気出しなさいって。そういうのがあの人ってよくわかってなかったのよね」
「でも僕と二人で病院に行ったときはそんなにひどくなかったよ。ごく普通にしてたもの」
「それはあなたの前だったからよ」と直子は言った。「あの人、あなたの前ではいつもそうだったのよ。弱い面は見せるまいって頑張ってたの。きっとあなたのことを好きだったのね、キズキ君は。だから自分の良い方の面だけを見せようと努力していたのよ。でも私と二人でいるときの彼はそうじゃないのよ。少し力を抜くのよね。本当は気分が変りやすい人なの。たとえばべらべらと一人でしゃべっりまくったかと思うと次の瞬間にはふさぎこんだりね。そういうことがしょっちょうあったわ。子供の頃からずっとそうだったの。いつも自分を変えよう、向上させようとしていたけれど」
直子はソファーの上で脚を組みなおした。
「いつも自分を変えよう、向上させようとして、それが上手くいかなくて苛々したり悲しんだりしていたの。とても立派なものや美しいものを持っていたのに、最後まで自分に自信が持てなくて、あれもしなくちゃ、ここも変えなくちゃなんてそんなことばかり考えていたのよ。可哀そうなキズキ君」
「でももし彼が自分の良い面だけを見せようと努力していたんだとしたら、その努力は成功していたみたいだね。だって僕は彼の良い面しか見えなかったもの」
直子は微笑んだ。「それを聞いたら彼きっと喜ぶわね。あなたは彼のたった一人の友だちだったんだもの」
「そしてキズキも僕にとってたった一人の友だちだったんだよ」と僕は言った。「その前にもそのあとにも友だちと呼べそうな人間なんて僕にはいないんだ」
「だから私、あなたとキズキ君と三人でいるのけっこう好きだったのよ。そうすると私キズキ君の良い面だけ見ていられるでしょう。そうすると私、すごく気持が楽になったの。安心していられるの。だから三人でいるの好きだったの。あなたがどう思っていたのかは知らないけれど」
「僕は君がどう思っているのか気になってたな」と僕は言って小さく首を振った。
「でもね、問題はそういうことがいつまでもつづくわけはないってことだったのよ。そういう小さな輪みたいなものが永遠に維持されるわけはないのよ。それはキズキ君にもわかっていたし、私にもわかっていたし、あなたにもわかっていたのよ。そうでしょう?」
僕は肯いた。
「でお正直言って、私はあの人の弱い面だって大好きだったのよ。良い面と同じくらい好きだったの。だって彼にはずるさとか意地わるさとか全然なかったのよ。ただ弱いだけなの。でも私がそう言っても彼は信じなかったわ。そしていつもこう言うのよ。直子、それは僕と君が三つのときからずっと一緒にいて僕のことを知りすぎているせいだ。だから何が欠点で何が長所かみわけがつかなくていろんなものをごたまぜしてるんだってね。彼はいつもそう言ったわ。でもどう言われても私、彼のことが好きだったし、彼以外の人になんて殆んど興味すら持てなかったのよ」
直子は僕の方を向いて哀しそうに微笑んだ。
「私たちは普通の男女の関係とはずいぶん違ってたのよ。何かどこかの部分で肉体がくっつきあっているような、そんな関係だったの。あるとき遠くに離れていても特殊な引力によってまたもとに戻ってくっついてしまうようなね。だから私とキズキ君が恋人のような関係になったのはごく自然なことだったの。考慮とか選択の余地のないことだったの。私たちは十二の歳にはキスして、十三の歳にはもうベッティングしたの。私が彼の部屋に行くか、彼が私の部屋に遊びにくるかして、それで彼のを手で処理してあげて……。でもね、私は自分たちが早熟だなんてちっとも思わなかったわ。そんなの当然のことだと思っていたの。彼が私の乳房やら性器やらをいじりたいんならそんなのいじったって全然かまわないし、彼が精液を出したいんならそれを手伝ってあげるのも全然かまわなかったのよ。だからもし誰かがそのことで私たちを非難したとしたら、私きっとびっくりするか腹を立てたと思うわ。だって私たち間違ったことやってたわけじゃないんだもの。当然やるはずのことをやってただけのことなのよ。私たち、お互いの体を隅から隅まで見せ合ってきたし、まるでお互いの体を共有しているような、そんな感じだったのよ。でも私たちしばらくはそれより先にはいかないようにしていたの。妊娠するのは怖かったし、どうすれば避妊できるのかその頃はよくわからなかったし……。とにかく私たちはそんな具合に成長してきたのよ。二人一組で手をとりあって。普通の成長期の子供たちが経験するような性の重圧とかエゴの膨張の苦しみみたいなものを殆んど経験することなくね。私たちさっきも言ったように性に対しては一貫してオープンだったし、自我にしたってお互いで吸収しあったりわけあったりすることが可能だったからとくに強く意識することもなかったし。私の言ってる意味わかる?」
「わかると思う」と僕は言った。
「私たち二人は離れることができない関係だったのよ。だからもしキズキ君が生きていたら、私たちたぶん一緒にいて、愛し合っていて、そして少しずつ不幸になっていたと思うわ」
「どうして?」
直子は指で何度か髪をすいた。もう髪どめを外していたので、下を向くと髪が落ちて彼女の顔を隠した。
「たぶん私たち、世の中に借りを返さなくちゃならなかったからよ」と直子は顔を上げて言った。「成長の辛さのようなものをね。私たちは支払うべきときに代価を支払わなかったから、そのつけが今まわってきてるのよ。だからキズキ君はああなっちゃったし、今私はこうしてここにいるのよ。私たちは無人島で育った裸の子供たちのようなものだったのよ。おなかがすけばバナナを食べ、淋しくなれば二人で抱き合って眠ったの。でもそんなこといつまでもつづかないわ。私たちはどんどん大きくなっていくし、社会の中に出ていかなくちゃならないし。だからあなたは私たちにとっては重要な存在だったのよ。あなたは私たちと外の世界を結ぶリンクのような意味を持っていたのよ。私たちはあなたを仲介して外の世界にうまく同化しようと私たちなりに努力していたのよ。結局はうまくいかなかったけれど」
僕は肯いた。
「でも私たちがあなたを利用したなんて思わないでね。キズキ君は本当にあなたのことが好きだったし、たまたま私たちにとってはあなたとの関りが最初の他者との関りだったのよ。そしてそれは今でもつづいているのよ。キズキ君は死んでもういなくなっちゃったけれど、あなたは私と外の世界を結びづける唯一のリンクんなのよ、今でも。そしてキズキ君があなたのことを好きだったように、私もあなたのことが好きなのよ。そしてそんなつもりはまったくなかったんだけれど、結果的には私たちあなたの心を傷つけてしまったのかもしれないわね。そんなことになるかもしれないなんて思いつきもしなかったのよ。
直子はまた下を向いて黙った。
「どう、ココアでも飲まない?」とレイコさんが言った。
「ええ、飲みたいわ、とても」と直子は言った。
「僕は持ってきたブランディーを飲みたいんだけどかまいませんか?」と僕は訊いた。
「どうぞどうぞ」とレイコさんは言った。「私にもひとくちくれる?」
「もちろんいいですよ」と僕は笑って言った。
レイコさんはグラスをふたつ持って来て、僕と彼女はそれで乾杯した。それからレイコさんはキッチンに行ってココアを作った。
「もう少し明るい話をしない?」と直子が言った。
でも僕には明るい話の持ち合わせがなかった。突撃隊がいてくれたらなあと僕は残念に思った。あいつさえいれば次々にエピソードが生まれた、そしてその話さえしていればみんなが楽しい気持になれるのに、と。仕方がないので僕は寮の中でみんながどれほど不潔な生活をしているかについて延々としゃべった。あまりにも汚くて話してるだけで嫌な気分になったが、二人にはそういうのが珍しいらしく笑い転げて聴いていた。それからレイコさんがいろんな精神病患者の物真似をした。これも大変におかしかった。十一時になって直子が眠そうな目になってきたので、レイコさんがソファーの背を倒してベッドにし、シーツと毛布と枕をセットしてくれた。
「夜中にレイプしにくるのはいいけど相手まちがえないでね」とレイコさんが言った。「左側のベッドで寝てるしわのない体が直子のだから」
「嘘よ。私右側だわ」と直子は言った
「ねえ、明日は午後のカリキュラムをいくつかパスできるようにしておいたから、私たちピクニックに行きましょうよ。近所にとてもいいところがあるのよ」とレイコさんは言った。
「いいですね」と僕は言った。
彼女たちがかわりばんこに洗面所で歯をみがき寝室に引き上げてしまうと、僕はブランディーを少し飲み、ソファー・ベッドに寝転んで今日いちにちの出来事を朝から順番に辿ってみた。なんだかとても長い一日みたいに思えた。部屋の中はあいかわらず月の光に白く照らされていた。直子とレイコさんが眠っている寝室はひっそりとして、物音らしきものは殆んど何も聞こえなかった。ただ時折ベッドの小さな軋みが聞こえるだけだった。目を閉じると、暗闇の中でちらちらとした微小な図形が舞い、耳もとにレイコさんの弾くギターの残響を感じたが、しかしそれも長くはつづかないかった。眠りがやってきて、温かい泥の中に僕を運んでいった。そして僕は柳の夢を見た。山道の両側にずっと柳の木が並んでいた。信じられないくらいの数の柳だった。けっこう強い風が吹いていたが、柳の枝はそよとも揺れなかった。どうしてだろうと思ってみると、柳の枝の一本一本に小さい鳥がしがみついているのが見えた。その重みで柳の枝が揺れないのだ。僕は棒切れを持って近くの枝を叩いてみた。鳥を追い払って柳の枝を揺らそうとしたのだ。でも鳥は飛びたたなかった。飛び立つかわりに鳥たちは鳥のかたちをした金属になってどさっどさっと音を立てて地面に落ちた。
目を覚ましたとき、僕はまるでその夢の続きを見ているような気分だった。部屋の中は月のあかりでほんのりと白く光っていた。僕は反射的に床の上の鳥のかたちをした金属を探し求めたが、もちろんそんなものはどこにもなかった。直子が僕のベッドの足もとにぽつんと座って、窓の外をじっと見ているだけだった。彼女は膝をふたつに折って、飢えた孤児のようにその上に顎を乗せていた。僕は時間を調べようと思って枕もとの腕時計を探したが、それは置いたはずの場所にはなかった。月の光の具合からするとたぶん二時か三時だろうと僕は見当をつけた。激しい喉の渇きを感じたが、僕はそのままじっと直子の様子を見ていることにした。直子はさっきと同じブルーのガウンのようなものを着て、髪の片側を例の蝶のかたちをしたピンでとめていた。そのせいで彼女のきれいな額がくっきりと月光に照らされていた。妙だなと僕は思った。彼女は寝る前には髪留めを外していたのだ。
直子は同じ姿勢のままびくりとも動かなかった、彼女はまるで月光に引き寄せられる夜の小動物にように見えた。月光の角度のせいで、彼女の唇の影が誇張されていた。そのいかにも傷つきやすそうな影は、彼女の心臓の鼓動かあるいは心の動きにあわせて、ぴくぴくと細かく揺れていた。それはあたかも夜の闇に向って音のない言葉を囁きかけるかのように。 
レイコさんが僕のベッドを片づけているあいだ、直子が台所に立って朝食を作った。直子は僕に向ってにっこり笑って「おはよう」と言った。おはよう、と僕も言った。ハミングしながら湯をわかしたりパンを切ったりしている直子の姿をとなりに立ってしばらく眺めていたが、昨夜僕の前で裸になったという気配はまるで感じられなかった。
「ねえ、目が赤いわよ。どうしたの?」と直子がコーヒーを入れながら僕に言った。
「夜中に目が覚めちゃってね、それから上手く寝られなかったんだ」
「私たちいびきかいてなかった?」とレイコさんが訊いた。
「かいてませんよ」と僕は言った。
「よかった」と直子が言った。
「彼、礼儀正しいだけなのよ」とレイコさんはあくびしながら言った。
僕は最初のうち直子はレイコさんの手前何もなかったふりをしているのか、あるいは恥かしいがっているのかとも思ったが、レイコさんがしばらく部屋から姿を消したときにも彼女の素振りには全く変化がなかったし、その目はいつもと同じように澄みきっていた。
「よく眠れた?」と僕は直子訊ねた。
「ええ、ぐっすり」と直子は何でもなさそうに答えた。彼女は何のかざりもないシンプルなヘアピンで髪をとめていた。
僕はそのわりきれない気分は、朝食をとっているあいだもずっとつづいていた。僕はパンにバターを塗ったり、ゆで玉子の殻をむいたりしながら、何かのしるしのようなものを求めて、向いに座った直子の顔をときどきちらちらと眺めていた。
「ねえ、ワタナベ君、どうしてあなた今朝私の顔ばかり見てるの?」と直子がおかしそうに訊いた。
「彼、誰かに恋してるのよ」とレイコさんが言った。
「あなた誰かに恋してるの?」と直子は僕に訊いた。
そうかもしれないと言って僕も笑った。そして二人の女がそのことで僕をさかなにした冗談を言い合っているのを見ながら、それ以上昨夜の出来事について考えるのをあきらめてパンを食べ、コーヒーを飲んだ。
朝食が終ると二人はこれから鳥小屋に餌をやりに行くと言ったので、僕もついていくことにした。二人は作業用のジーンズとシャツに着替え、白い長靴をはいた。鳥小屋はテニス・コートの裏のちょっとした公園の中にあって、ニワトリから鳩から、孔雀、オウムにいたる様々な鳥がそこに入っていた。まわりには花壇があり、植え込みがあり、ベンチがあった。やはり患者らしい二人の男が通路に落ちた葉をほうきで集めていた。どちらの男も四十から五十のあいだに見えた。レイコさんと直子はその二人のところに行って朝のあいさつをし、レイコさんはまた何か冗談を言って二人の男を笑わせた。花壇にはコスモスの花が咲き、植込みは念入りに刈り揃えられていた。レイコさんの姿を見ると、鳥たちはキイキイという声を上げながら檻の中をとびまわった。
彼女たちは鳥小屋のとなりにある小さな納屋の中に入って餌の袋とゴム・ホースを出してきた。直子がホースを蛇口につなぎ、水道の栓をひねった。そして鳥が外に出ないように注意しながら檻の中に入って汚物を洗いおとし、レイコさんがデッキ・ブラシでごしごしと床をこすった。水しぶきが太陽の光に眩しく輝き、孔雀たちはそのはねをよけて檻の中をばたばたと走って逃げた。七面鳥は首を上げて気むずかしい老人のような目で僕を睨みつけ、オウムは横木の上で不快そうに大きな音を立てて羽ばたきした。レイコさんはオウムに向って猫の鳴き真似をすると、オウムは隅の方に寄って肩をひそめていたが、少しすると「アリガト、キチガイ、クソタレ」と叫んだ。
「誰がああいうの教えたのよね」とため息をつきながら直子が言った。
「私じゃないわよ。私そういう差別用語教えたりしないもの」とレイコさんは言った。そしてまた猫の鳴き真似をした。オウムは黙り込んだ。
「このヒト、一度猫にひどい目にあわされたもんだから、猫が怖くって怖くってしようがないのよ」とレイコさんは笑って言った。
掃除が終ると二人は掃除用具を置いて、それからそれぞれの餌箱に餌を入れていった。七面鳥はぺちゃぺちゃと床にたまった水をはねかえしながらやってきて餌箱に顔をつっこみ、直子がお尻を叩いても委細かまわず夢中で餌を貪り食べていた。
「毎朝これをやっているの?」と僕は直子に訊いた。
「そうよ、新入りの女の人はだいたいこれやるの。簡単だから。ウサギみたい?」
見たい、と僕は言った。鳥小屋の裏にウサギ小屋があり、十匹ほどのウサギがワラの中に寝ていた。彼女はほうきで糞をあつめ、餌箱に餌を入れてから、子ウサギを抱きあげ頬ずりした。
「可愛いでしょう?」と直子は楽しそうに言った。そして僕にウサギを抱かせてくれた。そのあたたかい小さいなかたまりは僕の腕の中でじっと身をすくめ、耳をぴくぴくと震わせていた。
「大丈夫よ。この人怖くないわよ」と直子は言って指でウサギの頭を撫で、僕の顔を見てにっこりと笑った。何のかげりもない眩しいような笑顔だったので、僕も思わず笑わないわけにはいかなかった。そして昨夜の直子はいったいなんだったんだろうと思った。あれは間違いなく本物の直子だった、夢なんかじゃない――彼女はたしかに僕の前で服を脱いで裸になったんだ、と。
レイコさんは『プラウド・メアリ』を口笛できれいに吹きながらごみを集め、ビニールのゴミ袋に入れてそのくちを結んだ。僕は掃除用具と餌の袋を納屋に運ぶのを手伝った。
「朝っていちばん好きよ」と直子は言った。「何もかも最初からまた新しく始まるみたいでね。だからお昼の時間が来ると哀しいの。夕方がいちばん嫌。毎日毎日そんな風に思って暮らしてるの」
「そうして、そう思ってるうちにあなたたちも私みたいに年をとるのよ。朝が来て夜が来てなんて思っているうちにね」と楽しそうにレイコさんは言った。「すぐよ、そんなの」
「でもレイコさんは楽しんで年とってるように見えるけれど」と直子が言った。
「年をとるのが楽しいと思わないけど、今更もう一度若くなりたいとは思わないわね」とレイコさんは言った。
「どうしてですか?」と僕は訊いた。
「面倒臭いからよ。決まってんじゃない」とレイコさんは答えた。そして『プラウド・メアリ』を吹きつづけながらほうきを納屋に放りこみ、戸を閉めた。
部屋に戻ると彼女たちはゴム長靴を脱いで普通の運動靴にはきかえ、これから農場に行ってくると言った。あまる見ていて面白い仕事でもないし、他の人たちとの共同作業だからあなたはここに残って本でも読んでいた方がいいでしょうとレイコさんは言った。
「それから洗面所に私たちの汚れた下着がバケツにいっぱいあるから洗っといてくれる?」とレイコさんが言った。
「冗談でしょう?」と僕はびっくりして訊きかえした。
「あたり前じゃない」とレイコさんは笑っていった。「冗談に決ってるでしょう、そんなこと。あなたってかわいいわねえ。そう思わない、直子?」
「そうねえ」と直子も笑って同意した。
「ドイツ語やってますよ」と僕はため息をついて言った。
「いい子ね、お昼前には戻ってくるからちゃんと勉強してるのよ」とレイコさんは言った。そして二人はクスクス笑いながら部屋を出で行った。何人かの人々が窓の下を通り過ぎていく足音や話し声が聞こえた。
僕は洗面所に入ってもう一度顔を洗い。爪切りを借りて手の爪を切った。二人の女性が住んでいるにしてはひどくさっぱりとした洗面所だった。化粧クリームやリップ・クリームや日焼けどめやローションといったものがぱらぱらと並んでいるだけで、化粧品らしいものは殆んどなかった。爪を切ってしまうと僕は台所でコーヒーを入れ、テーブルの前に座ってそれを飲みながらドイツ語の教科書を広げた。台所の日だまりの中でTシャツ一枚になってドイツ語の文法表を片端から暗記していると、何だかふと不思議な気持になった。ドイツ語の不規則動詞とこの台所のテーブルはおよそ考えられる限りの遠い距離によって隔てられているような気がしたからだ。
十一時半に農場から二人は帰ってきて順番にシャワーに入り、さっぱりした服に着がえた。そして三人で食堂に行って昼食をとり、そのあとで門まで歩いた。門衛小屋には今度はちゃんと門番がいて、食堂から運ばれてきたらしい昼食を机の前で美味しそうに食べていた。棚の上のトランジスタ・ラジオからは歌謡曲が流れていた。僕らが歩いていくと彼はやあと手をあげてあいさつし、僕らも「こんにちは」と言った。
これから三人で外を散歩してくる、三時間くらいで戻ってくると思う、とレイコさんが言った。
「ええ、どうぞ、どうぞ、ええ天気ですもんな。谷沿いの道はこないだの雨で崩れとるんで危ないですが、それ以外なら大丈夫、問題ないです」と門番は言った。レイコさんは外出者リストのような用紙に直子と自分の名前と外出日時を記入した。
「気ィつけていってらしゃい」と門番は言った。
「親切そうな人ですね」と僕は言った。
「あの人ちょっとここおかしいのよ」とレイコさんは言って指の先で頭を押えた。
いずれにせよ門番の言うとおり実に良い天気だった。空は抜けるように青く、細くかすれた雲がまるでペンキのためし塗りでもしたみたいに天頂にすうっと白くこびりついていた。我々はしばらく「阿美寮」の低い石塀に沿って歩き、それから塀を離れて、道幅の狭い急な坂道を一列になって上った。先頭がレイコさんで、まん中が直子で、最後は僕だった。レイコさんはこのへんの山のことなら隅から隅まで知っているといったしっかりした歩調でその細い坂道を上って行った。我々は殆んど口をきかずにただひたすら歩を運んだ。直子はブルージーンズと白いシャツという格好で、上着を脱いで手に持っていた。僕は彼女のまっすぐな髪が肩口で左右に揺れる様を眺めながら歩いた。直子はときどきうしろを振り向き、僕と目を合うと微笑んだ。上り道は気が遠くなるくらい長くつづいたが、レイコさんの歩調はまったく崩れなかったし、直子もときどき汗を拭きながら遅れることなくそのあとをついて行った。僕は山のぼりなんてしばらくしていないせいで息が切れた。
「いつもこういう山のぼりしてるの?」と僕は直子に訊いてみた。
「週に一回くらいかな」と直子は答えた。「きついでしょ、けっこう?」
「いささか」と僕は言った。
「三分の二はきたからもう少しよ。あなた男の子でしょう?しっかりしなくちゃ」とレイコさんが言った。
「運動不足なんですよ」
「女の子と遊んでばかりいるからよ」と直子が一人ごとみたいに言った。
僕は何か言いかえそうとしたが、息が切れて言葉がうまく出てこなかった。時折目の前を頭に羽根かざりにようなものをつけた赤い鳥が横ぎっていた。青い空を背景に飛ぶ彼らの姿はいかにも鮮やかだった。まわりの草原には白や青や黄色の無数の花が咲き乱れ、いたるところに蜂の羽音が聞こえた。僕はまわりのそんな風景を眺めながらもう何も考えずにただ一歩一歩足を前に運んだ。
それから十分ほどで坂道は終り、高原のようになった平坦な場所に出た。我々はそこで一服して汗を拭き、息と整え、水筒の水を飲んだ。レイコさんは何かの葉っぱをみつけてきて、それで笛を作って吹いた。
道はなだらかな下りになり、両側にはすすきの穂が高くおい茂っていた。十五分ばかり歩いたところで我々は集落を通り過ぎたが、そこには人の姿はなく十二軒か十三軒の家は全て廃屋と化していた。家のまわりには腰の高さほど草が茂り、壁にあいた穴には鳩の糞がまっ白に乾いてこびりついていた。ある家は柱だけを残してすっかり崩れ落ちていたが、中には雨戸を開ければ今すぐにでも住みつけそうなものもあった。我々は死に絶えて無言の家々にはさまれた道を抜けた。
「ほんの七、八年前まで、ここには何人か人が住んでたのよ」とレイコさんが教えてくれた。「まわりもずっと畑でね。でももうみんな出て行っちゃったわ。生活が厳しすぎるのよ。冬は雪がつもって身動きつかなくなるし、それほど土地が肥えているわけじゃないしね。町に出て働いた方がお金になるのよ」
「もったいないですね。まだ十分使える家もあるのに」と僕は言った。
「一時ヒッピーが住んでたこともあるんだけど、冬に音を上げて出て行ったわよ」
集落を抜けてしばらく先に進むと垣根にまわりを囲まれた放牧場のようなものがあり、遠くの方に馬が何頭か草を食べているのが見えた。垣根に沿って歩いていくと、大きな犬が尻尾をばたばたと振りながら走ってきて、レイコさんにのしかかるようにして顔の匂いをかぎ、そのれから直子にとびかかってじゃれついた。僕が口笛を吹くとやってきて、長い舌でべろべろと僕の手を舐めた。
「牧場の犬なのよ」と直子が犬の頭を撫でながら言った。「もう二十歳近くになっているじゃないかしら、歯が弱ってるから固いものは殆んど食べれないの。いつもお店の前で寝てて人の足音が聞こえるととんできて甘えるの」
レイコさんがナップザックからチーズの切れはしをとりだすと、犬は匂いを嗅ぎつけてそちらにとんでいき、嬉しそうにチーズにかぶりついた。
「この子と会えるのももう少しなのよ」とレイコさんは犬の頭を叩きながら言った。「十月半ばになると馬と牛をトラックにのせて下の方の牧舎につれていっちゃうのよ。夏場だけここで放牧して、草を食べさせて、観光客相手に小さなコーヒー・ハウスのようなものを開けてるの。観光客ったって、ハイカーが一日二十人くるかこないかってくらいのものだけどね。あなた何か飲みたくない、どう?」
「いいですね」と僕は言った。
犬が先に立って我々をそのコーヒー・ハウスまで案内した。正面にポーチのある白いペンキ塗りの小さな建物で、コーヒー・カップのかたちをした色褪せた看板が軒から下がっていた。犬は先に立ってポーチに上り、ごろんと寝転んで目を細めた。僕らがポーチのテーブルに座ると中からトレーナー・シャツとホワイト・ジーンズという格好の髪をポニー・テールにした女の子が出てきて、レイコさんと直子に親しい気にあいさつした。
「この人直子のお友だち」とレイコさんが僕に紹介した。
「こんにちは」とその女の子は言った。
「こんにちは」と僕も言った。
三人の女性がひとしきり世間話をしているあいだ、僕はテーブルの下の犬の首を撫でていた。犬の首はたしかに年老いて固く筋張っていた。その固いところをぼりぼりと掻いてやると、犬は気持良さそうに目をつぶってはあはあと息をした。
「名前はなんていうの?」と僕は店の女の子に訪ねた。
「ぺぺ」と彼女は言った。
「ぺぺ」と僕は呼んでみたが、犬はびくりとも反応しなかった。
「耳遠いから、もっと大きな声で呼ばんと聞こえへんよ」と女の子は京都弁で言った。
「ペペッ!」と僕は大きな声で呼ぶと、犬は目を開けてすくっと身を起こし、ワンッと吠えた。
「よしよし、もうええからゆっくり寝て長生きしなさい」と女の子が言うと、ぺぺはまた僕の足もとにごろんと寝転んだ。
直子とレイコさんはアイス・ミルクを注文し、僕はビールを注文した。レイコさんは女の子にFMをつけてよと言って、女の子はアンプのスイッチを入れてFM放送をつけた。プラット・スウェット・アンド・ティアーズが『スピニング・ホイール』を唄っているのが聴こえた。
「私、実を言うとFMが聴きたくてここに来てんのよ」とレイコさんは満足そうに言った。「何しろうちはラジオもないし、たまにここに来ないと今世間でどんな音楽かかってるのかわかんなくなっちゃうのよ」
「ずっとここに泊ってるの?」と僕は女の子に聴いてみた。
「まさか」と女の子は笑って答えた。「こんなところに夜いたら淋しくて死んでしまうわよ。夕方に牧場の人にあれで市内まで送ってもらうの。それでまた朝に出てくるの」彼女はそう言って少し離れたところにある牧場のオフィスの前に停まった四輪駆動車を指さした。
「もうそろそろここも暇なんじゃないの?」とレイコさんが訊ねた。
「まあぼちぼちおしまいやわねえ」と女の子は言った。レイコさんは煙草をさしだし、彼女たちは二人で煙草を吸った。
「あなたいなくなると淋しいわよ」とレイコさんは言った。
「来年の五月にまた来るわよ」と女の子は笑って言った。
クリームの『ホワイト・ルーム』がかかり、コマーシャルがあって、それからサイモン・アンド・カーファンクルの『スカボロ・フェア』がかかった。曲が終るとレイコさんは私この歌すきよと言った。
「この映画観ましたよ」と僕は言った。
「誰が出てるの?」
「ダスティン・ホフマン」
「その人知らないわねえ」とレイコさんは哀しそうに首を振った。「世界はどんどん変っていくのよ、私の知らないうちに」
レイコさんは女の子にギターを貸してくれないかと言った。いいわよと女の子は言ってラジオのスイッチを切り、奥から古いギターを持ってきた。犬が顔を上げてギターの匂いをくんくんと嗅いだ。「食べものじゃないのよ、これ」とレイコさんが犬に言い聞かせるように言った。草の匂いのする風がポーチを吹き抜けていった。山の稜線がくっきりと我々の眼前に浮かび上がっていた。
「まるで『サウンド・オブ・ミュージック』のシーンみたいですね」と僕は調弦をしているレイコさんに言った。
「何よ、それ?」彼女は言った。
彼女は『スカボロ・フェア』の出だしのコードを弾いた。楽譜なしではじめて弾くらしく最初のうちは正確なコードを見つけるのにとまどっていたが、何度か試行錯誤をくりかえしているうちに彼女はある種の流れのようなものを捉え、全曲をとおして弾けるようになった。そして三度目にはところどころ装飾音を入れてすんなりと弾けるようになった。「勘がいいのよ」とレイコさんは僕に向ってウインクして、指で自分の頭を指した。「三度聴くと、楽譜がなくてもだいたいの曲は弾けるの」
彼女はメロディーを小さくハミングしながら『スカボロ・フェア』を最後まできちんと弾いた。僕らは三人で拍手をし、レイコさんは丁寧に頭を下げた。
「昔モーツァルトのコンチェルト弾いたときはもっと拍手が大きかったわね」と彼女は言った。
店の女の子が、もしビートルズの『ヒア・カムズ・ザ・サン』を弾いてくれたらアイス・ミルクのぶん店のおごりにするわよと言った。レイコさんは親指をあげてOKのサインを出した。それから歌詞を唄いながら『ヒア・カムズ・ザ・サン』を弾いた。あまり声量がなく、おそらくは煙草の吸いすぎのせいでいくぶんかすれていたけれど、存在感のある素敵な声だった。ビールを飲みながら山を眺め、彼女の唄を聴いていると、本当にそこから太陽がもう一度顔をのぞかせそうな気がしてきた。それはとてもあたたかいやさしい気持だった。
『ヒア・カムズ・ザ・サン』を唄い終ると、レイコさんはギターを女の子に返し、またFM放送をつけてくれと言った。そして僕と直子に二人でこのあたりを一時間ばかり歩いていらっしゃいよと言った。
「私、ここでラジオ聴いて彼女とおしゃべりしてるから、三時までに戻ってくれば、それでいいわよ」
「そんなに長く二人きりになっちゃってかまわないんですか?」と僕は訊いた。
「本当はいけないんだけど、まあいいじゃない。私だってつきそいばあさんじゃないんだから少しはのんびりしたいわよ、一人で。それにせっかく遠くから来たんだからつもる話もあるんでしょう?」とレイコさんは新しい煙草に火をつけながら言った。
「行きましょうよ」と直子が言って立ち上がった。
僕も立ち上がって直子のあとを追った。犬が目をさましてしばらく我々のあとをついてきたが、そのうちにあきらめてもとの場所に戻っていた。我々は牧場の柵に沿って平坦な道をのんびりと歩いた。ときどき直子は僕の手を握ったり、腕をくんだりした。
「こんな風にしてるとなんだか昔みたいじゃない?」と直子は言った。
「あれは昔じゃないよ。今年の春だぜ」と僕は笑って言った。「今年の春までそうしてたんだ。あれが昔だったら十年前は古代史になっちゃうよ」
「古代史みたいなものよ」と直子は言った。「でも昨日ごめんなさい。なんだか神経がたかぶっちゃって。せっかくあなたが来てくれたのに、悪かったわ」
「かまわないよ。たぶんいろんな感情をもっともっと外に出し方がいいんだと思うね、君も僕も。だからもし誰かにそういう感情をぶっつけたいんなら、僕にぶっつければいい。そうすればもっとお互いを理解できる」
「私を理解して、それでそうなるの?」
「ねえ、君はわかってない」と僕は言った。「どうなるかといった問題ではないんだよ、これは。世の中には時刻表を調べるのが好きで一日中時刻表読んでいる人がいる。あるいはマッチ棒をつなぎあわせて長さ一メートルの船を作ろうとする人だっている。だから世の中に君のことを理解しようとする人間が一人くらいいたっておかしくないだろう?」
「趣味のようなものかしら?」と直子はおかしそうに言った。
「趣味と言えば言えなくもないね。一般的に頭のまともな人はそういうのを好意とか愛情とかいう名前で呼ぶけれど、君は趣味って呼びたいんならそう呼べばいい」
「ねえ、ワタナベ君」と直子が言った。「あなたキズキ君のことも好きだったんでしょう?」
「もちろん」と僕は答えた。
「レイコさんはどう?」
「あの人も大好きだよ。いい人だね」
「ねえ、どうしてあなたそういう人たちばかり好きになるの?」と直子は言った。「私たちみんなどこかでねじまがって、よじれて、うまく泳げなくて、どんどん沈んでいく人間なのよ。私もキズキ君もレイコさんも。みんなそうよ。どうしてもっとまともな人を好きにならないの?」
「それは僕にはそう思えないからだよ」僕は少し考えてからそう答えた。「君やキズキやレイコさんがねじまがってるとはどうしても思えないんだ。ねじまがっていると僕が感じる連中はみんな元気に外で歩きまわってるよ」
「でも私たちねじまがってるのよ。私にはわかるの」と直子は言った。
我々はしばらく無言で歩いた。道は牧場の柵を離れ、小さな湖のようにまわりを林に囲まれた丸いかたちの草原に出た。
「ときどき夜中に目が覚めて、たまらなく怖くなるの」と直子は僕の腕に体を寄せながら言った。「こんな風にねじ曲ったまま二度ともとに戻れないと、このままここで年をとって朽ち果てていくんじゃないかって。そう思うと、体の芯まで凍りついたようになっちゃうの。ひどいのよ。辛くて、冷たくて」
僕は直子の肩に手をまわして抱き寄せた。
「まるでキズキ君が暗いところから手をのばして私を求めてるような気がするの。おいナオコ、俺たち離れられないんだぞって。そう言われると私、本当にどうしようもなくなっちゃうの」
「そういうときはどうするの?」
「ねえ、ワタナベ君、変に思わないでね」
「思わないよ」と僕は言った。
「レイコさんに抱いてもらうの」と直子は言った。「レイコさんを起こして、彼女のベッドにもぐりこんで、抱きしめてもらうの。そして泣くのよ。彼女は私の体を撫でてくれるの。体の芯があたたまるまで。こういうのって変?」
「変じゃないよ。レイコさんのかわりに僕が抱きしめてあげたいと思うだけど」
「今、抱いて、ここで」と直子は言った。
我々は草原の乾いた草の上に腰を下ろして抱き合った。腰を下ろすと我々の体は草の中にすっぽりと隠れ、空と雲の他には何も見えなくなってしまった。僕は直子の体をゆっくりと草の上に倒し、抱きしめた。直子の体はやわらかくあたたかで、その手は僕の体を求めていた。僕と直子は心のこもった口づけをした。
「ねえ、ワタナベ君?」と僕の耳もとで直子が言った。
「うん?」
「私と寝たい?」
「もちろん」と僕は言った。
「でも待てる?」
「もちろん待てる」
「そうする前に私、もう少し自分のことをきちんとしたいの。きちんとして、あなたの趣味にふさわしい人間になりたいのよ。それまで待ってくれるの?」
「もちろん待つよ」
「今固くなってる?」
「足の裏のこと?」
「馬鹿ねえ」とくすくす笑いながら直子は言った。
 
「これで少し楽に歩けるようになった?」と直子が訊いた。
「おかげさまで」と僕は答えた。
「じゃあよろしかったらもう少し歩きません?」
「いいですよ」と僕は言った。
僕らは草原を抜け、雑木林を抜け、また草原を抜けた。そして歩きながら直子は死んだ姉の話をした。このことは今まで殆んど誰にも話したことはないのだけれど。あなたには話しておいた方がいいと思うから話すのだと彼女は言った。
「私たち年が六つ離れていたし、性格なんかもけっこう違ったんだけれど、それでもとても仲が良かったの」と直子は言った。「喧嘩ひとつしなかったわ。本当よ。まあ喧嘩にならないくらいレベルに差があったということもあるんだけどね」
お姉さんは何をやらせても一番になってしまうタイプだったのだ、と直子は言った。勉強もいちばんならスポーツもいちばん、人望もあって指導力もあって、親切で性格もさっぱりしているから男の子にも人気があって、先生にもかわいがられて、表彰状が百枚もあってという女の子だった。どの公立校にも一人くらいこういう女の子がいる。でも自分のお姉さんだから言うわけじゃないんだけれど、そういうことでスボイルされて、つんつんしたり鼻にかけたりするような人ではなかったし、派手に人目をつくのを好む人でもなかった、ただ何をやらせても自然に一番になってしまうだけだったのだ、と。
「それで私、小さい頃から可愛い女の子になってやろうと決心したの」と直子はすすきの穂をくるくると回しながら言った。「だってそうでしょう、ずっとまわりの人がお姉さんがいかに頭が良くて、スポーツができて、人望もあってなんて話してるの聞いて育ったんですもの。どう転んだってあの人には勝てないと思うわよ。それにまあ顔だけとれば私の方が少しきれいだったから、親の方も私は可愛く育てようと思ったみたいね。だからあんな学校に小学校からいれられちゃったのよ。ベルベットのワンピースとかフリルのついたブラウスとかエナメルの靴とか、ピアノやバレエのレッスンとかね。でもおかげでお姉さんは私のことすごく可愛がってくれたわ、可愛い小さな妹って風にね。こまごまとしたもの買ってプレゼントしてくれたし、いろんなところにつれていってくれたり、勉強みてくれたり。ボーイ・フレンドとデートするとき私も一緒につれてってくれたりもしたのよ。とても素敵なお姉さんだったわ。
彼女がどうして自殺しちゃったのか、誰にもその理由はわからなかったの。キズキ君のときと同じようにね。全く同じなのよ。年も十七で、その直前まで自殺するような素振りはなくて、遺書もなくて――同じでしょう?」
「そうだね」と僕は言った。
「みんなはあの子は頭が良すぎたんだとか本を読みすぎたんだとか言ってたわ。まあたしかに本はよく読んでいたわね。いっぱ本を持ってて、私はお姉さんが死んだあとでずいぶんそれ読んだんだけど、哀しかったわ。書きこみしてあったり、押し花がはさんであったり、ボーイ・フレンドの手紙がはさんであったり。そういうので私、何度も泣いたのよ」
直子はしばらくまた黙ってすすきの穂をまわしていた。
「大抵のことは自分一人で処理しちゃう人だったのよ。誰かに相談したり、助けを求めたりということはまずないの。べつにプライドが高くてというじゃないのよ。ただそうするのが当然だと思ってそうしていたのね、たぶん。そして両親もそれに馴れちゃってて、この子は放っておいても大丈夫って思ってたのね。私はよくお姉さんに相談したし、彼女はとても親切にいろんなこと教えてくれるんだけど、自分は誰にも相談しないの。一人で片づけちゃうの。怒ることもないし、不機嫌になることもないの。本当よこれ。誇張じゃなくて。女の人って、たとえば生理になったりするとムシャクシャして人にあたったりするでしょ、多かれ少なかれ。そういうのもないの。彼女の場合は不機嫌になるかわりに沈みこんでしまうの。二ヶ月か三ヶ月に一度くらいそういうのが来て、二日くらいずっと自分の部屋に籠って寝てるの。学校も休んで、物も殆んど食べないで。部屋を暗くして、何もしないでボオッとしてるの。でも不機嫌というじゃないのよ。私が学校から戻ると部屋に呼んで、隣りに座らせて、私のその日いちにちのことを聞くの。たいした話じゃないのよ。友だちと何をして遊んだとか、先生がこう言ったとか、テストの成績がどうだったとか、そんな話よ。そしてそういうのを熱心に聞いて感想を言ったり、忠告を与えたりしてくれるの。でも私がいなくなると――たとえばお友だちと遊ぶに行ったり、バレエのレッスンに出かけたりすると――また一人でボオッとしてるの。そして二日くらい経つとそれがバタッと自然になおって元気に学校に行くの。そういうのが、そうねえ、四年くらいつづいたんじゃないかしら。はじめのうちは両親も気にしてお医者に相談していたらしいんだけれど、なにしろ二日たてばケロッとしちゃうわけでしょ、だからまあ放っておけばそのうちなんとかなるだろうって思うようになったのね。頭の良いしっかりした子だしってね。
でもお姉さんが死んだあとで、私、両親の話を立ち聞きしたことあるの。ずっと前に死んじゃった父の弟の話。その人もすごく頭がよかったんだけれど、十七から二十一まで四年間家の中に閉じこもって、結局ある日突然外に出てって電車にとびこんじゃったんだって。それでお父さんこういったのよ。『やはり血筋なのかなあ、俺の方の』って」
直子は話しながら無意識に指先ですすきの穂をほぐし、風にちらせていた。全部ほぐしてしまうと、彼女はそれをひもみたいにぐるぐると指に巻きつけた。
「お姉さんが死んでるのを見つけたのは私なの」と直子はつづけた。「小学校六年生の秋よ。十一月。雨が降って、どんより暗い一日だったわ。そのときお姉さんは高校三年生だったわ。私がピアノのレッスンから戻ってくると六時半で、お母さんが夕食の支度していて、もうごはんだからお姉さん呼んできてって言ったの。私は二階に上って、お姉さんの部屋のドアをノックしてごはんよってどなったの。でもね、返事がなくて、しんとしてるの。寝ちゃったのかしらと思ってね。でもお姉さんは寝てなかったわ。窓辺に立って、首を少しこう斜めに曲げて、外をじっと眺めていたの。まるで考えごとをしてるみたいに。部屋は暗くて、電灯もついてなくて、何もかもぼんやりとしか見えなかったのよ。私は『ねえ何してるの?もうごはんよ』って声かけたの。でもそういってから彼女の背がいつもより高くなってることに気づいたの。それで、あれどうしたんだろうってちょっと不思議に思ったの。ハイヒールはいてるのか、それとも何かの台の上に乗ってるのかしらって、そして近づいていって声をかけようとした時にはっと気がついたのよ。首の上にひもがついていることにね。天井のはりからまっすぐにひもが下っていて――それがね、本当にびっくりするくらいまっすぐなのよ、まるで定規を使って空間にピッと線を引いたみたいに。お姉さんは白いブラウス着ていて――そう、ちょうど今私が着てるようなシンプルなの――グレーのスカートはいて、足の先がバレエの爪立てみたいにキュッとのびていて、床と足の指先のあいだに二十センチくらいの何もない空間があいてたの。私、そういうのをこと細かに全部見ちゃったのよ。顔も。顔も見ちゃったの。見ないわけには行かなかったのよ。私すぐ下に行ってお母さんに知らせなくちゃ、叫ばなくちゃと思ったわ。でも体の方が言うことをきかないのよ。私の意識とは別に勝手に体の方が動いちゃうのよ。私の意識は早く下にいかなきゃと思っているのに、体の方は勝手にお姉さんの体をひもから外そうとしているのよ。でももちろんそんなこと子供の力でできるわけないし、私そこで五、六分ぼおっとしていたと思うの、放心状態で。何が何やらわけがわからなくて。体の中の何かが死んでしまったみたいで。お母さんが『何してるのよ?』って見に来るまで、ずっと私そこにいたのよ、お姉さんと一緒に。その暗くて冷たいところに……」
直子は首を振った。
「それから三日間、私はひとことも口がきけなかったの。ベッドの中で死んだみたいに、目だけ開けてじっとしていて。何がなんだか全然わからなくて」直子は僕の腕に身を寄せた。「手紙に書いたでしょ?私はあなたが考えているよりずっと不完全な人間なんだって。あなたが思っているより私はずっと病んでいるし、その根はずっと深いのよ。だからもし先に行けるものならあなた一人で先に行っちゃってほしいの。私を待たないで。他の女の子と寝たいのなら寝て。私のことを考えて遠慮したりしないで、どんどん自分の好きなことをして。そうしないと私はあなたを道づれにしちゃうかもしれないし、私、たとえ何があってもそれだけはしたくないのよ。あなたの人生の邪魔をしたくないの。誰の人生の邪魔もしたくないの。さっきも言ったようにときどき会いに来て、そして私のことをいつまでも覚えていて。私が望むのはそれだけなのよ」
「僕は望むのはそれだけじゃないよ」と僕は言った。
「でも私とかかわりあうことであなたは自分の人生を無駄にしてるわよ」
「僕は何も無駄になんかしてない」
「だって私は永遠に回復しないかもしれないのよ。それでもあなたは私を待つの?十年も二十年も私を待つことができるの?」
「君は怯えすぎてるんだ」と僕は言った。「暗闇やら辛い夢うやら死んだ人たちの力やらに。君がやらなくちゃいけないのはそれを忘れることだし、それさえ忘れれば君はきっと回復するよ」
「忘れることができればね」と直子は首を振りながら言った。
「ここを出ることができたら一緒に暮らさないか?」と僕は言った。「そうすれば君を暗闇やら夢やらから守ってあげることができるし、レイコさんがいなくてもつらくなったときに君を抱いてあげられる」
直子は僕の腕にもっとぴったりと身を寄せた。そうすることができたら素敵でしょうね」と直子は言った。
 
我々がコーヒー・ハウスに戻ったのは三時少し前だった。レイコさんは本を読みながらFM放送でブラームスの二番のピアノ協奏曲を聴いていた。見わたす限り人影のない草原の端っこでブラームスがかかっているというのもなかなか素敵なものだった。三楽章のチェロの出だしのメロディーを彼女は口笛でなぞっていた。
「バックハウスとベーム」とレイコさんは言った。「昔はこのレコードをすれきれるくらい聴いたわ。本当にするきれっちゃたのよ。隅から隅まで聴いたの。なめつくすようにね」
僕と直子は熱いコーヒーを注文した。
「お話はできた?」とレイコさんは直子に訊ねた。
「ええ、すごくたくさん」と直子は言った。
「あとで詳しく教えてね、彼のがどんなだったか」
「そんなこと何もしてないわよ」と直子が赤くなって言った。
「本当に何もしてないの?」とレイコさんは僕に訊いた。
「してませんよ」
「つまんないわねえ」とレイコさんはつまらなそうに言った。
「そうですね」と僕はコーヒーをすすりながら言った。
 
夕食の光景は昨日とだいたい同じだった。雰囲気も話し声も人々の顔つきも昨日そのままで、メニューだけが違っていた。昨日無重力状態での胃液の分泌について話していた白衣の男が僕ら三人のテーブルに加わって、脳の大きさとその能力の相関関係についてずっと話していた。僕らは大豆のハンバーグ・ステーキというのを食べながら、ビスマルクやナポレオンの脳の容量についての話を聞かされていた。彼は皿をわきに押しやって、メモ用紙にボールペンで脳の絵を描いてくれた。そして何度も「いやちょっと違うな、これ」と言っては描きなおした。そして描き終わると大事そうにメモ用紙を白衣のポケットにしまい、ボールペンを胸のポケットにさした。胸のポケットにはボールペンが三本と鉛筆と定規が入っていた。そして食べ終ると「ここの冬はいいですよ。この次は是非冬にいらっしゃい」と昨日と同じことを言って去っていた。
「あの人は医者なんですか、それとも患者さんですか?」と僕はレイコさんに訊いてみた。
「どっちだと思う?」
「どちらか全然見当がつかないですね。いずれにせよあまりまともには見えないけど」
「お医者よ。宮田先生っていうの」と直子が言った。
「でもあの人この近所じゃいちばん頭がおかしいわよ。賭けてもいいけど」とレイコさんが言った。
「門番の大村さんだって相当狂ってるわよねえ」と直子が言った。
「うん、あの人狂ってる」とレイコさんがブロッコリーをフォークでつきさしながら肯いた。
「だって毎朝なんだかわけのわからないこと叫びながら無茶苦茶な体操してるもの。それから直子の入ってくる前に木下さんっていう経理の女の子がいて、この人はノイローゼで自殺未遂したし、徳島っていう看護人は去年アルコール中毒がひどくなってやめさせられたし」
「患者とスタッフを全部入れかえてもいいくらいですね」と僕は感心して言った。
「まったくそのとおり」とレイコさんはフォークをひらひらと振りながら言った。「あなたもだんだん世の中のしくみがわかってきたみたいじゃない」
「みたいですね」と僕は言った。
「私たちがまとな点は」とレイコさんは言った。「自分たちがまともじゃないってかわっていることよね」
 
部屋に戻って僕と直子は二人でトランプ遊びをし、そのあいだレイコさんはまたギターを抱えてバッハの練習をしていた。
「明日は何時に帰るの?」とレイコさんが手を休めて煙草に火をつけながら僕に訊いた。
「朝食を食べたら出ます。九時すぎにバスが来るし、それなら夕方のアルバイトをすっぽかさずにすむし」
「残念ねえ、もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「そんなことしてたら、僕もずっとここにいついちゃいそうですよ」と僕は笑って言った。
「ま、そうね」とレイコさんは言った。それから直子に「そうだ、岡さんのところに行って葡萄もらってこなくっちゃ。すっかり忘れてた」と言った。
「一緒に行きましょうか?」と直子が言った。
「なあ、ワタナベ君借りていっていいかしら?」
「いいわよ」
「じゃ、また二人で夜の散歩に行きましょう」とレイコさんは僕の手をとって言った。「昨日はもう少しってとこまでだったから、今夜はきちんと最後までやっちゃいましょうね」
「いいわよ、どうぞお好きに」と直子はくすくす笑いながら言った。
風が冷たかったのでレイコさんはシャツの上に淡いブルーのカーディガンを着て両手をズボンのポケットにつっこんでいた。彼女は歩きながら空を見上げ、犬みたいにくんくんと匂いを嗅いだ。そして「雨の匂いがするわね」と言った。僕も同じように匂いを嗅いでみたが何の匂いもしなかった。空にはたしかに雲が多くなり、月もその背後に隠されてしまっていた。
「ここに長くいると空気の匂いでだいたいの天気がわかるのよ」とレイコさんは言った。
スタッフの住宅がある雑木林に入るとレイコさんはちょっと待っててくれと言って一人で一軒の家の前に行ってベルを押した。奥さんらしい女性が出てきてレイコさんと立ち話をし、クスクス笑いそれから中に入って今度は大きなビニール袋を持って出てきた。レイコさんは彼女にありがとう、おやすみなさいと言って僕の方に戻ってきた。
「ほら葡萄もらってきたわよ」とレイコさんはビニール袋の中を見せてくれた。袋の中にはずいぶん沢山の葡萄の房が入っていた。
「葡萄好き?」
「好きですよ」と僕は言った。
彼女はいちばん上の一房をとって僕に手わたしてくれた。「それ洗ってあるから食べられるわよ」
僕は歩きながら葡萄を食べ、皮と種を地面に吹いて捨てた。瑞々しい味の葡萄だった。レイコさんも自分のぶんを食べた。
「あそこの家の男の子にピアノをちょこちょこ教えてあげているの。そのお礼がわりにいろんなものくれるのよ、あの人たち。このあいだのワインもそうだし。市内でちょっとした買物もしてきてもらえるしね」
「昨日の話のつづきが聞きたいですね」と僕は言った。
「いいわよ」とレイコさんは言った。「でも毎晩帰りが遅くなると直子が私たちの仲を疑いはじめるんじゃないかしら?」
「たとえそうなったとしても話のつづきを聞きたいですね」
「OK、じゃあ屋根のあるところで話しましょう。今日はいささか冷えるから」
彼女はテニス・コートの手前を左に折れ、狭い階段を下り、小さな倉庫が長屋のような格好でいくつか並んでいるところに出た。そしてそのいちばん手前の小屋の扉を開け、中に入って電灯のスイッチを入れた。「入りなさいよ。何もないところだけれど」
倉庫の中にはクロス・カントリー用のスキー板とストックと靴がきちんと揃えられて並び、床には雪かきの道具や除雪用の薬品などが積み上げられていた。
「昔はよくここにきてギターの練習したわ。一人になりたいときにはね。こぢんまりしていいところでしょう?」
レイコさんは薬品の袋の上に腰をおろし、僕にも隣りに座れと言った。僕は言われたとおりにした。
「少し煙がこもるけど、煙草吸っていいかしらね?」
「いいですよ、どうぞ」と僕は言った。
「やめられないのよね、これだけは」とレイコさんは顔をしかめながら言った。そしておいしそうに煙草を吸った。これくらおいしいそうに煙草を吸う人はちょっといない。僕は一粒一粒丁寧に葡萄を食べ、皮と種をゴミ箱がわりに使われているブリキ缶に捨てた。
「昨日はどこまで話したっけ?」とレイコさんは言った。
「嵐の夜に岩つばめの巣をとりに険しい崖をのぼっていくところまでですね」と僕は言った。
「あなたって真剣な顔して冗談言うからおかしいわねえ」とレイコさんはあきれたように言った。「毎週土曜日の朝にその女の子にピアノを教えたっていうところまでだったわよね、たしか」
「そうです」
「世の中の人を他人に物を教えるのが得意と不得意な人にわけるとしたら私はたぶん前の方に入ると思うの」とレイコさんは言った。「若い頃はそう思わなかったけれど。まあそう思いたくないというのもあったんでしょうね、ある程度の年になって自分に見きわめみたいなのがついてから、そう思うようになったの。自分は他人に物を教えるのが上手いんだってね。私、本当に上手いのよ」
「そう思います」と僕は同意した。
「私は自分自身に対してよりは他人に対する方がずっと我慢づよいし、自分自身に対するよりは他人に対する方が物事の良い面を引きだしやすいの。私はそういうタイプの人間なのよ。マッチ箱のわきについているザラザラしたやつみたいな存在なのよ、要するに。でもいいのよ、それでべつに。そういうの私とくに嫌なわけじゃないもの。私、二流のマッチ棒よりは一流のマッチ箱の方が好きよ。はっきりとそう思うようになったのは、そうね、その女の子を教えるようになってからね。それまでもっと若い頃にアルバイトで何人か教えたことあるけど、そのときはべつにそんなこと思わなかったわ。その子を教えてはじめてそう思ったの。あれ、私はこんなに人に物を教えるのが得意だったっけてね。それくらいレッスンはうまくいったの。
昨日も言ったようにテクニックという点ではその子のピアノはたいしたことないし、音楽の専門家になろうっていうんでもないし、私としても余計のんびりやれたわけよ。それに彼女の通っていた学校はまずまずの成績をとっていれば大学までエスカレート式に上っていける女子校で、それほどがつがつ勉強する必要もなかったからお母さんの方だって『のんびりとおけいこ事でもして』ってなものよ。だから私もその子にああしろこうしろって押しつけなかったわ。押しつけられるのは嫌な子なんだなって最初会ったときに思ったから。口では愛想良くはいはいっていうけれど、絶対に自分のやりたいことしかやらない子なのよ。だからね、まずその子に自分の好きなように弾かせるの。百パーセント好きなように。次に私がその同じ曲をいろんなやり方で弾いて見せるの。そして二人でどの弾き方が良いだとか好きだとか討論するの。それからその子にもう一度弾かせるの。すると前より演奏が数段良くなってるのよ。良いところを見抜いてちゃんと取っちゃうわけよ」
レイコさんは一息ついて煙草の火先を眺めた。僕は黙って葡萄を食べつづけていた。
「私もかなり音楽的な勘はある方だと思うけれど、その子は私以上だったわね。惜しいなあと思ったわよ。小さな頃から良い先生についてきちんとした訓練受けてたら良いところまでいってたのになあってね。でもそれは違うのよ。結局のところその子はきちんとした訓練に耐えることができない子なのよ。世の中にはそういう人っているのよ。素晴らしい才能に恵まれながら、それを体系化するための努力ができないで、才能を細かくまきちらして終ってしまう人たちがね。私も何人かそういう人たちを見てきたわ。最初はとにかくもう凄いって思うの。たとえばものすごい難曲を楽譜の初見でパァーッと弾いちゃう人がいるわけよ。それもけっこううまくね。見てる方は圧倒されちゃうわよね。私なんかとてもかなわないってね。でもそれだけなのよ。彼らはそこから先には行けないわけ。何故行けないか?行く努力をしないからよ。努力する訓練を叩きこまれていないからよ。スボイルされているのね。下手に才能があって小さい頃から努力しなくてもけっこううまくやれてみんなが凄い凄いって賞めてくれるものだから、努力なんてものが下らなく見えちゃうのね。他の子が三週間かかる曲を半分で仕上げちゃうでしょ、すると先生の方もこの子はできるからって次に行かせちゃう、それもまた人の半分の時間で仕上げちゃう。また次に行く。そして叩かれるということを知らないまま、人間形成に必要なある要素をおっことしていってしまうの。これは悲劇よね。まあ私にもいくぶんそういうところがあったんだけれど、幸いなことに私の先生はずいぶん厳しい人だったから、まだこの程度ですんでるのよ。
でもね、その子にレッスンするのは楽しかったわよ。高性能のスポーツ・カーに乗って高速道路を走っているようなもんでね、ちょっと指を動かすだけでピッピッと素速く反応するのよ。いささか素速すぎるという場合があるにせよね。そういう子を教えるときのコツはまず賞めすぎないことよね。小さい頃から賞められ馴れてるから、いくら賞められたってまたかと思うだけなのよ。ときどき上手な賞め方をすればそれでいいのよ。それから物事を押しつけないこと。自分に選ばせること。先に先にと行かせないで立ちどまって考えさせること。それだけ。そうすれば結構うまく行くのよ」
レイコさんは煙草を地面に落として踏んで消した。そして感情を鎮めるようにふうっと深呼吸をした。
「レッスンが終わるとね、お茶飲んでお話したわ。ときどき私がジャズ・ピアノの真似事して教えてあげたりしてね。こういうのがバド・バウエル、こういうのがセロニスア・モンクなんてね。でもだいたいはその子がしゃべってたの。これがまた話が上手くてね、ついつい引き込まれちゃうのよ。まあ昨日も言ったように大部分は作りごとだったと思うんだけれど、それにしても面白いわよ。観察が実に鋭くて、表現が適確で、毒とユーモアがあって、人の感情を刺激するのよ。とにかくね、人の感情を刺激して動かすのが実に上手い子なの。そして自分でもそういう能力があることを知っているから、できるだけ巧妙に有効にそれを使おうとするのよ。人を怒らせたり、悲しませたり、同情させたり、落胆させたり、喜ばせたり、思うがままに相手の感情を刺激することができるのよ。それも自分の能力を試したいという理由だけで、無意味に他人の感情を操ったりもするわけ。もちろんそういうのもあとになってからそうだったんだなあと思うだけでそのときはわからないの」
レイコさんは首を振ってから葡萄を幾粒か食べた。
「病気なのよ」とレイコさんは言った。「病んでいるのよ。それもね、腐ったリンコがまわりのものをみんな駄目にしていくような、そういう病み方なのよ。そしてその彼女の病気はもう誰にもなおせないの。死ぬまでそういう風に病んだままなのね。だから考えようによっては可哀そうな子なのよ。私だってもし自分が被害者にならなかったとしたらそう思ったわ。この子も犠牲者の一人なんだってね」
そしてまた彼女は葡萄を食べた。どういう風に話せばいいのかと考えているように見えた。
「まあ半年間けっこう楽しくやったわよ。ときどきあれって思うこともあったし、なんだかちょっとおかしいなと思うこともあったわ。それから話をしていて、彼女が誰かに対してどう考えても理不尽で無意味としか思えない激しい悪意を抱いていることがわかってゾッとすることもあったし、あまりにも勘が良くて、この子いったい何を本当は考えているのかしらと思ったこともあったわ。でも人間誰しも欠点というのはあるじゃない?それに私は一介のビアノの教師にすぎないわけだし、そんなのどうだっていいといえばいいことでしょ、人間性だとか性格だとか?きちんと練習してくれさえすれば私としてはそれでオーケーじゃない。それに私、その子のことをけっこう好きでもあったのよ、本当のところ。
ただね、その子のは個人的なことはあまりしゃべらないようにしてたの、私。なんとなく本能的にそういう風にしない方が良いと思ってたから。だから彼女が私のことについていろいろ質問しても――ものすごく知りたがったんだけど――あたりさわりのないことしか教えなかったの。どんな育ち方しただの、どこの学校行っただの、まあその程度のことよね。先生のこともっとよく知りたいのよ、とその子は言ったわ。私のこと知ったって仕方ないわよ、つまんない人生だもの、普通の夫がいて、子供がいて、家事に追われて、と私は言ったの。でも私、先生のこと好きだからって言って、彼女私の顔をじっと見るのよ、すがるように。そういう風に見られるとね、私もドキッとしちゃうわよ。まあ悪い気はしないわよ。それでも必要以上のことは教えなかったけれどね。
あれは五月頃だったかしらね、レッスンしている途中でその子が突然気分がわるいって言いだしたの。顔を見るとたしかに青ざめて汗かいてるのよ。それで私、どうする、家に帰る?って訊ねたら、少し横にならせて下さい、そうすればなおるからって言うの。いいわよ、こっちに来て私のベッドで横になりなさいって私言って、彼女を殆んど抱きかかえるようにして私の寝室につれていったの。うちのソファーってすごく小さかったから、寝室に寝かせないわけにいかなかったのよ。ごめんなさい、迷惑かけちゃって、って彼女が言うから、あらいいわよ、そんなの気にしないでって私言ったわ。どうする、お水か何か飲む?って。いいの、となりにしばらくいてもらえればってその子は言って、いいわよ、となりにいるくらいいくらでもいてあげるからって私言ったの。
少しするとね『すみません、少し背中をさすっていただけませんか』ってその子が苦しそうな声で言ったの。見るとすごく汗かいているから、私一所懸命背中さすってやったの、すると『ごめんなさい、ブラ外してくれませんか、苦しくって』ってその子言うのよ。まあ仕方ないから外してあげたわよ、私。ぴったりしたシャツ着てたもんだから、そのボタン外してね、そして背中のホックを外したの。十三にしちゃおっぱいの大きな子でね、私の二倍はあったわね。ブラジャーもね、ジュニア用のじゃなくてちゃんとした大人用の、それもかなり上等なやつよ。でもまあそういうのもどうでもいいことじゃない?私ずっと背中さすってたわよ、馬鹿みたいに。ごめんなさいねってその子本当に申しわけないって声で言った、そのたびに私、気にしない気にしないって言ってたわねえ」
レイコさんは足もとにとんとんと煙草の灰を落とした。僕もその頃には葡萄を食べるのをやめて、じっと彼女の話に聞き入っていた。
「そのうちにその子しくしくと泣きはじめたの。
『ねえ、どうしたの?』って私言ったわ。
『なんでもないんです』
『なんでもなくないでしょ。正直に言ってごらんなさいよ』
『時々こんな風になっちゃうんです。自分でもどうしようもないんです。淋しくって、哀しくて、誰も頼る人がいなくて、誰も私のことをかまってくれなくて。それで辛くて、こうなっちゃうんです。夜もうまく眠れなくて、食欲も殆んどなくて。先生のところにくるのだけが楽しみなんです、私』
『ねえ、どうしてそうなるのか言ってごらんなさい。聞いてあげるから』
家庭がうまくいってないんです、ってその子は言ったわ。両親を愛することができないし両親の方も自分を愛してはくれないんだって。父親は他に女がいてろくに家に戻ってこないし、母親はそのことで半狂乱になって彼女にあたるし、毎日のように打たれるんだって彼女は言ったの。家に帰るのが辛いんだって。そういっておいおい泣くのよ。かわいい目に涙をためて。あれ見たら神様だってほろりとしちゃうわよね。それで私こう言ったの。そんなにお家に帰るのが辛いんだったらレッスンの時以外にもうちに遊びに来てもいいわよって。すると彼女は私にしがみつくようにして『本当にごめんなさい。先生がいなかったら、私どうしていいかわかんないの。私のこと見捨てないで。先生に見捨てられたら、私行き場がないんだもの』って言うのよ。

轻松学日语,快乐背单词(免费在线日语单词学习)---点击进入
顶一下
(0)
0%
踩一下
(0)
0%

[查看全部]  相关评论