窓の外には雨が降っているのが見えた。氷のようにくっきりとした冬の雨が地表に降り注いでいるのだ。雨が屋根を打つ音も聞こえた。しかしその距離感はうまくつかめなかった。屋根はすぐ耳もとにあるようにも感じられたし、一キロも向うにあるようにも感じられた。
|窓《まど》|際《ぎわ》には大佐の姿も見えた。その老人は窓際に持ちだした|椅《い》|子《す》に腰を下ろし、いつものように背筋をまっすぐにのばして、身動きひとつせずに外の雨を|眺《なが》めていた。老人がどうしてそれほど熱心に雨を見ているのか僕には理解できなかった。雨はただの雨なのだ。それは屋根を打ち、大地を|濡《ぬ》らし、川にそそぎこむだけのものなのだ。
僕は腕を持ちあげて手のひらで自分の顔にさわってみようとしたが、腕はあがらなかった。何もかもがひどく重い。声を出してそのことを老人に知らせようとしたが、声さえもでてこなかった。肺の中の空気のかたまりを押しあげることができないのだ。僕の体の機能は|隅《すみ》から隅まであますところなく失われているようだった。ただ目を開けて窓と雨と老人を眺めているだけだ。いったいどのような理由でこれほどまでに僕の体が損なわれてしまうことになったのか、僕には思いだすことができなかった。思いだそうとすると頭が割れるように痛んだ。
「冬だ」と老人は言った。そして指先で窓のガラスを|叩《たた》いた。「冬がやってきたんだ。これで君にも冬の怖さがよくわかっただろう」
僕は小さく|肯《うなず》いた。
そうだ——冬の壁が僕を痛めつけたのだ。そして僕は——森を抜けて図書館に|辿《たど》りついたのだ。僕は|頬《ほお》に触れた彼女の髪の感触をふと思いだした。
「図書館の女の子が君をここまで連れてきてくれたんだ。門番に手伝ってもらってな。君は高熱にうなされていた。ひどい汗だったよ。バケツに|溜《た》まるくらいの汗だ。|一昨日《おととい》のことだよ」
「おととい……」
「そうさ、君はこれでもう丸二日眠っていたんだ」と老人は言った。「もう永久に目を覚まさんのかと思ったくらいだよ。森にでも行っておったんじゃないかね?」
「すみません」と僕は言った。
老人はストーヴの上であたためていた|鍋《なべ》を下におろし、それを|皿《さら》にとった。そして僕の体を抱えるようにして起し、背もたれにもたせかけた。背もたれは骨の|軋《きし》むような音をたてた。
「まず食べることだ」と老人は言った。「考えるのも謝まるのもそのあとだ。食欲はあるかね?」
ない、と僕は言った。空気を吸い込むのさえ|億《おっ》|劫《くう》なのだ。
「しかしこれだけは飲まねばならん。たった三口でいい。三口飲めば、もうあとは飲まんでよろしい。三口飲めばそれで終りだ。飲めるな?」
僕は肯いた。
薬草の入ったスープは吐き気がするほど苦かったが、僕はなんとかそれを三口飲んだ。飲み終ると体じゅうから力が抜けていくような気がした。
「それでいい」と老人はスプーンを皿に|戻《もど》して言った。「少し苦いが、そのスープは君の体から悪い汗を抜いてくれる。もう一眠りして目覚めたときには君の気分はずっと良くなっておるはずだ。安心して眠りなさい。目が覚めたときにも私はここにいるから」
目覚めたとき、窓の外はもうまっ暗だった。強い風が雨粒を窓ガラスに叩きつけていた。老人は僕の|枕《まくら》もとにいた。
「どうかね? 気分は良くなったかね?」
「さっきよりずいぶん楽になったようです」と僕は言った。「今は何時ですか?」
「夜の八時だ」
僕はベッドから起きあがろうとしたが、体がまだ少しよろけた。
「どこに行くんだ?」と老人が|訊《たず》ねた。
「図書館です。夢読みをしなくちゃいけない」と僕は言った。
「|馬《ば》|鹿《か》言っちゃいかん。今の体じゃ君は五メートルも歩けんよ」
「でも休むわけにはいかないんです」
老人は首を振った。「古い夢は待ってくれるさ。それに門番も娘も君が当分ここを動けんことは知っている。図書館だって開いちゃいまい」
老人はため息をついてストーヴの前に行き、カップに茶を|注《つ》いで|戻《もど》ってきた。風が一定の間隔をおいて窓を叩いていた。
「察するところ君はどうやらあの娘のことが好きなようだな」と老人は言った。「聞くつもりはなかったんだが、聞かないわけにはいかなかった。ずっとそばについていたものでね。熱にうなされると人はうわごとを言うものだ。べつに恥かしがることはない。若い人間は|誰《だれ》でも恋をするものだ。そうだろう?」
僕は黙って肯いた。
「良い娘だよ。それに君のことをとても心配していた」と言って老人は茶をすすった。「しかし君が彼女に恋をすることは事態の進行にとってあまり適当なことではないだろうね。こんなことはあまり言いたくないのだが、このあたりでいくらかは君に教えておかなくてはならんだろう」
「どうして適当ではないのですか?」
「彼女が君の気持に報いることができないからだよ。しかしそれは誰のせいでもない。君のせいでもないし、彼女のせいでもない。あえていうならば、それは世界のなりたちかたのせいだ。世界のなりたちかたを変えることはできんのだよ。川の流れを逆にすることができんようにね」
僕はベッドの上で体を起して、両手で頬をこすった。顔がひとまわり小さく縮んでしまったような気がした。
「あなたが言っているのはたぶん心のことですね?」
老人は肯いた。
「僕に心があり彼女に心がないから、それで僕がどれだけ彼女を愛しても何も得るところがないということですか?」
「そうだ」と老人は言った。「君は失いつづけるだけだ。彼女には君の言うように心というものがない。私にもない。誰にもない」
「しかしあなたは僕にとても親切にしてくれるじゃありませんか? 僕のことを気づかってくれるし、眠らずに看病もしてくれる。それは心のひとつの表現ではないのですか?」
「いや違うね。親切さと心とはまたべつのものだ。親切さというのは独立した機能だ。もっと正確に言えば表層的な機能だ。それはただの習慣であって、心とは違う。心というのはもっと深く、もっと強いものだ。そしてもっと矛盾したものだ」
僕は目を閉じて、様々な方向にちらばった思いをひとつひとつ拾いあつめた。
「僕はこう思うんです」と僕は言った。「人々が心を失うのはその影が死んでしまったからじゃないかってね。違いますか?」
「そのとおりだよ」
「彼女の影はもう死んでしまっていて、その心をとり戻すことはできないというわけなんですね?」
老人は肯いた。「私は役所に行って、彼女の影の記録を調べてみたんだ。だから間違いない。あの子が十七のときに影は死んでいる。その影はきまりどおりりんご林の中に埋められた。その埋葬記録も残っておる。それ以上のくわしいことは直接彼女に|訊《き》いてみなさい。その方が私の口から聞かされるより君も納得がいくだろう。しかしもうひとつだけ言い加えるなら、あの子は物心つく前にその影をひき離されておる。だからかつて自分の中に心というものが存在したことすら覚えてはおらんはずだ。私のように年老いてから自分の意志で影を捨てた人間とは違う。私にはそれでも君の心の動きというものを推察することができるが、あの娘にはできん」
「しかし彼女は母親のことをよく覚えています。彼女が言うには彼女の母親には心が残っていたらしいんです。影を死なせてしまったあとにもね。どうしてそうなったのかはわからないけれど、それは何かの助けにはなりませんか? 彼女もそんな心のいくらかを引きついでいるかもしれない」
老人は冷めた茶をカップの中で何度か揺らせてからゆっくりと飲み干した。
「なあ、君」と大佐は言った。「壁はどんな心のかけらも見逃さんのだよ。仮にもしそんなものが少しばかり残っていても、壁はそれをみんな吸いとってしまう。吸いとれなければ追放してしまう。彼女の母親がそうされてしまったようにな」
「何も期待はするなということですね?」
「私は君をがっかりさせたくないだけさ。この街は強く、そして君は弱い。それは今回のことで君にもよくわかったはずだ」
老人は手にした空のカップの中をひとしきりじっとのぞきこんでいた。
「しかし君には彼女を手に入れることはできる」
「手に入れる?」と僕は訊いた。
「そうだ。君は彼女と寝ることもできるし、一緒に暮すこともできる。この街では君は君の望むものを手に入れることができる」
「しかしそこには心というものが存在しないのですね?」
「心はない」と老人は言った。「しかしやがては君の心も消えてしまう。心が消えてしまえば喪失感もないし、失望もない。行き場所のない愛もなくなる。生活だけが残る。静かでひそやかな生活だけが残る。君は彼女のことを好むだろうし、彼女も君のことを好むだろう。君がそれを望むのなら、それは君のものだ。誰にもそれを奪いとることはできない」
「不思議なものですね」と僕は言った。「僕はまだ心を持っていますが、それでもときどき自分の心を見失ってしまうことがあるんです。いや、見失わない時の方が少ないかもしれないな。それでもそれがいつか戻ってくるという確信のようなものがあって、その確信が僕という存在をひとつにまとめて支えているんです。だから心を失うというのがどういうことなのかうまく想像できないんです」
老人は静かに何度か肯いた。
「よく考えてみるんだね。考えるだけの時間はまだ残されている」
「考えてみます」と僕は言った。
その後長いあいだ太陽は姿を見せなかった。熱が引くと僕はベッドを出て窓を開け、戸外の空気を吸った。起きあがれるようになっても二日ほどは体に力が入らず、階段の手すりやドア・ノブをしっかり握ることさえままならないほどだった。大佐はそのあいだ僕に毎夕例の苦い薬草スープを飲ませたり、|粥《かゆ》のようなものを作って食べさせてくれたりした。そして枕もとで古い戦争の思い出話を聞かせてくれた。彼は彼女についても壁についても二度と口にしなかったし、僕の方もあえては訊ねなかった。僕に教えるべきことがあるのなら、彼は既に教えているはずだったからだ。
三日めには僕は老人のステッキを借りて、官舎のまわりをゆっくり散歩できるまでに回復した。歩いてみると体がひどく軽くなっていることがわかった。たぶん発熱で体重が減ってしまったのだろうが、原因はそればかりではないような気がした。冬が僕のまわりの何もかもに不思議な重みを与えているのだ。そして僕一人だけが、その重みのある世界に入りこめずにいるのだ。
官舎のある丘の斜面からは街の西半分を見わたすことができた。川が見え、時計塔が見え、壁が見え、そしていちばん遠くにぼんやりと西の門らしいものが見えた。黒い色の眼鏡をかけた僕の弱い目はそれ以上の細かい風景をどれがどれと見わけることはできなかったが、それでも冬の空気が街にこれまでにない明確な輪郭を|賦《ふ》|与《よ》していることは見てとれた。それはまるで北の尾根から吹きおろす季節風が街の隅々につもりこびりついていた|曖《あい》|昧《まい》な色あいのほこりをすっかり吹きとばしてしまったかのようだった。
街を眺めているうちに僕は影に手渡さねばならない地図のことを思いだした。寝込んだおかげで影に地図をわたすのがもう約束の日より一週間近くも遅れているのだ。影は僕のことを心配しているかもしれないし、あるいは僕が彼を見捨てたと思ってもうあきらめてしまっているかもしれない。そう思うと僕は暗い気持になった。
僕は老人に作業用の|古《ふる》|靴《ぐつ》を一足手に入れてもらい、底をとりはずして中に小さく畳んだ地図を入れ、また底をもとどおりにした。僕には影がおそらくその靴をばらばらにして地図を探すだろうという確信があった。それから僕は老人に靴を預け、影に会って直接それを手わたしてはもらえまいかと言った。
「|奴《やつ》は薄い運動靴しかはいていないし、雪が積ると足を悪くするだろうと思うんです」と僕は言った。「門番は信用できない。あなたなら僕の影に会うことができるでしょう」
「その程度のことなら問題なかろう」と老人は言って靴を受けとった。
夕刻になって老人は戻り、靴はちゃんと直接影にあって手渡してきたと言った。
「君のことを心配しておったよ」と老大佐は言った。
「彼の様子はどうでした?」
「少々寒さがこたえておるようだったね。でもまだ大丈夫だ。心配するほどのことはない」
熱を出してから十日めの夕方、やっと僕は丘を下って図書館に行くことができた。
図書館のドアを押したとき、建物の中の空気は心なしか以前より|淀《よど》んでいるように思えた。長いあいだうち捨てられていた部屋のようにそこには人の気配というものが感じられなかった。ストーヴの火は消え、ポットも冷えきっていた。ポットのふたをあけてみると、中のコーヒーは白く濁っていた。天井はいつもよりずっと高く感じられた。電灯も消え、僕の靴音だけがその|薄《うす》|闇《やみ》の中に妙にほこりっぽい音を立てて響いた。彼女の姿はなく、カウンターの上にはほこりが薄くたまっていた。
どうすればいいのかわからなかったので僕はそのまま木のベンチに腰を下ろし、彼女がやってくるのを待つことにした。|扉《とびら》には|鍵《かぎ》はかかっていなかったから、必ず彼女はここに現われるはずだった。僕は寒さに身を震わせながら、じっと待ちつづけた。しかしどれだけ待っても彼女は姿を現わさなかった。闇だけが深まっていった。僕と図書館だけを残して世界じゅうの全ての事物が消滅してしまったような気がした。|僕《ぼく》は世界の終りの中にたった一人でとり残されてしまったのだ。どれだけ長く手をのばしても、僕の手はもう何かに触れることはないのだ。
部屋もやはり冬の重さを帯びていた。部屋の中のあらゆるものが、床やテーブルにしっかりと|釘《くぎ》づけしてあるみたいだった。一人で暗闇の中に座っていると、僕の体のいろんな部分がその正当な重みを失って、勝手に伸び縮みしているように思えた。それはまるで|歪《ゆが》んだ鏡の前に立って少しずつ体を動かしているような具合だった。
僕はベンチから立ちあがり、電灯のスウィッチをひねった。そしてバケツの中の石炭をすくってストーヴの中に|放《ほう》り込み、マッチを擦って火をつけてからまたベンチに戻った。電灯をつけると余計に闇が深まり、ストーヴに火を入れると余計に寒さが増したような気がした。
僕はあまりにも深く自分の中に沈みこんでいたのかもしれない。それとも体の|芯《しん》に残っていたしびれのようなものが僕を短かい眠りに誘いこんでいたのかもしれない。しかしふと気がついたとき、彼女は僕の前に立って、僕を静かに見下ろしていた。黄色い粉のような粗い電灯の光を背中に受けているせいで彼女の輪郭にはぼんやりとした陰影がついていた。僕はしばらく彼女の姿を見あげていた。彼女はいつもと同じ青いコートを着て、ひとつにまとめた髪を前にまわしてその|襟《えり》の中にたくしこんでいた。彼女の体からは冬の風の|匂《にお》いがした。
「もう来ないのかと思ったよ」と僕は言った。「ずっとここで待っていたんだ」
彼女はポットの中の古いコーヒーを流しに捨て、水で洗ってから、中に新しい水を入れてストーヴの上にのせた。そして襟から髪を出し、コートを脱いでハンガーにかけた。
「どうしてもう来ないなんて思ったの?」と彼女は言った。
「わからない」と僕は言った。「ただそんな気がしたんだ」
「あなたが求めている限り私はここに来るわ。あなたは私を求めているんでしょう?」
僕は肯いた。たしかに僕は彼女を求めているのだ。彼女に会うことによって、僕の喪失感がどれほど深まろうと、それでもやはり僕は彼女を求めているのだ。
「君の影のことを話してほしいな」と僕は言った。「ひょっとして僕が古い世界で出会ったのは君の影なのかもしれない」
「ええ、そうね。私も最初にそのことを思ったの。あなたが私に会ったことがあるかもしれないって言ったときにね」
彼女はストーヴの前に座って、しばらく中の火を|眺《なが》めていた。
「私が四つのときに私の影は離されて、壁の外に出されたの。そして影は外の世界で暮し、私は中の世界で暮したの。彼女がそこで何をしていたのかは私にはわからないわ。彼女が私について何も知らないのと同じようにね。私が十七になったとき、私の影はこの街に戻ってきて、そして死んだの。影は死にかけるといつもここに戻ってくるのよ。そして門番が彼女をりんご林の中に埋めたのよ」
「そして君は完全な街の住人になったんだね?」
「そう。残っていた心と一緒に私の影は埋められてしまったのよ。あなたは心というものは風のようなものだと言ったけれど、風に似ているのは私たちの方じゃないかしら? 私たちは何も思わず、ただ通りすぎていくだけ。年をとることもなく、死ぬこともないの」
「君は君の影が|戻《もど》ってきたとき彼女に会ったのかい?」
彼女は首を振った。「いいえ、会わなかったわ。私には彼女に会う理由がないような気がしたの。それはきっと私とはまるでべつのものだもの」
「でもそれは君自身だったかもしれない」
「あるいはね」と彼女は言った。「でもどちらにしても今となっては同じことよ。もう輪は閉じてしまったんだもの」
ストーヴの上でポットが音を立てはじめたが、それは僕には何キロも遠くから聞こえてくる風の音のように感じられた。
「それでもまだあなたは私を求めているの?」
「求めている」と僕は答えた。