しかしそれとはべつに|僕《ぼく》の頭の中では妙に非現実的な音がずっとつづいていた。それはまるで僕の頭の中に何かが突きささっているような音だった。音は休みなくつづき、休みなく僕の頭の中に何か|扁《へん》|平《ぺい》なものを突きたてていた。頭が痛いわけではない。頭はしごくまともだった。ただ非現実的なだけだった。
僕はベッドの中から部屋を見まわしてみたが、部屋にはとくにかわった点はなかった。天井も四方の壁も少しいびつに|歪《ゆが》んだ床も窓のカーテンも、いつもと同じだった。テーブルがあり、テーブルの上には手風琴があった。壁にはコートとマフラーがかかっていた。コートのポケットからは手袋がのぞいていた。
それから僕は自分の体の動きをひとつずつためしてみた。体のいろんな部分はきちんと動いた。目も痛くはない。何ひとつとしておかしなところはなかった。
それにもかかわらず、その扁平な音はまだ僕の頭の中でつづいていた。音は不規則で、集合的だった。いくつかの同質の音が|絡《から》みあっているのだ。僕はその音がどこから聞こえてくるのか見定めようとしたが、いくら耳を澄ませてみてもその音がやってくる方向はわからなかった。音は僕の頭の中から発しているように思えた。
しかし念のためにベッドを出て窓の外を|眺《なが》めてみたとき、僕はその音の原因をやっと理解することができた。窓のすぐ下の空地で、三人の老人たちがシャベルを使って大きな穴を掘っているのだ。音はシャベルの先が凍って固くなった地面に食いこむときの音だった。空気がひりひりとしているせいで、その音が奇妙な舞い方をし、それが僕を戸惑わせたのだ。様様な出来事がつづけざまに起ったせいで、僕の神経がいくぶんたかぶっていたということも原因のひとつかもしれない。
時計の針はもう十時近くを指していた。そんな時間まで眠っていたのははじめてのことだった。|何《な》|故《ぜ》大佐は僕を起さなかったのだろう? 彼は僕が熱を出しているときをべつにすれば一日として欠かすことなく僕を九時には起し、二人分の朝食をのせた盆を部屋に運びこんだのだ。
十時半まで待ったが、やはり大佐はあらわれなかった。僕はあきらめて下の台所におりてパンと飲み物をもらい、部屋に|戻《もど》って一人で朝食を済ませた。長いあいだ二人の朝食に慣れていたせいか、朝食はどことなく味気なかった。僕はパンを半分だけ食べて、残りを獣たちのためにとっておくことにした。そしてストーヴの火が部屋を十分にあたためるまで、コートにくるまってベッドの上に腰かけてじっとしていた。
昨日の|嘘《うそ》のような暖かさはやはり一夜にして消え去り、部屋の中はいつもどおりの重くるしい冷気に|充《み》ちていた。強い風こそ吹いてはいなかったが、あたりの風景はすっかりもとどおりの冬に逆戻りし、北の尾根から南の荒野にかけての空には雪をたっぷりとはらんだ雲が息苦しいほどに垂れこめていた。
窓の下の空地では四人の老人たちがまだ穴を掘りつづけていた。
四人?
さっき僕が見たときには老人の数はたしか三人だった。三人の老人たちがシャベルを使って穴を掘っていたのだ。しかし今、老人たちは四人いた。たぶん途中から一人加わったのだろうと僕は想像した。それは何も不思議なことではなかった。官舎には数えきれないほどのたくさんの老人がいるのだ。四人の老人たちは四つの場所にわかれてそれぞれの足もとを黙黙と掘りつづけていた。ときおり気まぐれに吹く風が老人たちの薄い上着の|裾《すそ》を激しくはためかせていたが、その寒さは彼らにはそれほどの苦痛ではないらしく、|頬《ほお》を紅潮させながら休むことなくシャベルを地面に突き立てていた。彼らの中には汗をかいて上着を脱ぐものさえいるほどだった。その上着はまるで脱けがらのように木の枝にかかって、風に揺れていた。
部屋があたたまると僕は|椅《い》|子《す》に腰を下ろしてテーブルの上の手風琴を手にとり、|蛇《じゃ》|腹《ばら》をゆっくりと伸縮させてみた。自分の部屋に持ちかえって眺めてみると、それは最初に森で見たときの印象よりずっと精巧にしあげられていることがわかった。キイや蛇腹はすっかり古ぼけた色に変っていたが、木のパネルに塗られた塗料は一カ所としてはげた部分がなく、縁に描かれた|精《せい》|緻《ち》な唐草模様も損なわれることなく残っていた。楽器というよりは美術工芸品として十分に通用しそうだった。蛇腹の動きはさすがにいくぶんこわばってぎこちなかったが、それでも使用にさしつかえるというほどではなかった。おそらくそれはかなり長いあいだ人の手に触れられることもなく放置されていたのに違いない。しかしそれがかつてどのような人の手によって奏され、そしてどのような経路を経てあの場所まで|辿《たど》りつくことになったのかは僕にはわからなかった。すべては|謎《なぞ》に包まれていた。
装飾の面だけではなく、楽器の機能性をとってみてもその手風琴はかなり凝ったものだった。だいいちに小さい。折り畳むとコートのポケットにすっぽりと入ってしまう。しかしだからといって、そのために楽器の機能が犠牲になっているわけではなく、手風琴が備えているべきものはそこには全部きちんと|揃《そろ》っていた。
僕は何度かそれを伸縮させて、蛇腹の動き具合を手によくなじませてから右手のキイを順番に試し、それにあわせて左のコード・キイを押してみた。そしてひととおりの音を出してから手を休め、あたりの物音に耳を澄ませてみた。
老人たちが穴を掘りつづける音はまだつづいていた。彼らの四本のシャベルの先が土を|噛《か》む音が、とりとめのない不揃いなリズムとなって妙にはっきりと部屋の中に入りこんできていた。風が時折窓を揺らせた。窓の外にはところどころに雪が残った丘の斜面が見えた。手風琴の音が老人たちの耳に届いているのかどうか、僕にはわからなかった。たぶん届きはしないだろう、と僕は思った。音も小さいし、風向きも逆になっている。
僕がアコーディオンを弾いたのはずいぶん昔のことだったし、それもキイボード式の新しい型のものだったから、その旧式の仕組とボタンの配列になれるにはかなりの手間がかかった。小型にまとめられているせいで、ボタンは小さく、おまけにひとつひとつがひどく接近していたから、子供や女性ならいざしらず手の大きな大人の男がそれを思うように弾きこなすのはかなり|厄《やっ》|介《かい》な作業だった。そのうえにリズムをとりながら効果的に蛇腹を伸縮させなくてはならないのだ。
それでも僕は一時間か二時間かけて、いくつかの簡単なコードをその場に応じて間違いなくとりだすことができるまでになった。しかしメロディーはどうしても僕の頭には浮かんではこなかった。繰りかえし繰りかえしキイボードを押さえてメロディーらしきものを思いだそうとしても、それはただの無意味な音階の|羅《ら》|列《れつ》にすぎず、僕をどのような場所にも導かなかった。ときどきいくつかの音の偶然の配列が僕にふと何かを思いださせようとするのだが、それはすぐ空気の中に吸いこまれて消えてしまった。
僕が何ひとつとしてメロディーをみつけだすことができなかったのには、老人たちのシャベルの音のせいもあったような気がする。もちろんそれだけではないが、彼らの立てる音が僕の神経の集中を妨げていたこともたしかだった。彼らのシャベルの音はあまりにもくっきりと耳もとで響いていたので、僕はそのうちに老人たちが僕の頭の中に穴を掘っているのではないかという気がしはじめたほどだった。彼らがシャベルを使えば使うほど、僕の頭の中の空白がどんどん大きくなっていくように思えた。
昼前になって風が急激に勢いを増し、中に雪が混じるようになった。窓ガラスに雪の粒があたるぱらぱらという乾いた音が聞こえた。氷のように固くしまった小さな白い雪の粒が|窓《まど》|枠《わく》の上に落ちて不規則に並び、やがて風に吹き落とされていった。積る雪ではないが、おそらくそのうちにもっとたっぷりと湿気をふくんだ大粒のやわらかい雪に変るだろう。それがいつもの順序なのだ。そしてやがて大地は再び白い雪に|覆《おお》われることになるのだ。固い雪は常に大雪の前触れだった。
しかし老人たちは雪のことなど気にもとめない様子で穴を掘りつづけていた。彼らはまるで雪が降りだすことなどはじめから承知していたといわんばかりの様子だった。|誰《だれ》も空を見上げず、誰も手を休めず、誰も口をきかなかった。木の枝にかかった上着さえ、そのままの位置で激しい風に吹かれていた。
老人たちの数は六人に増加していた。あとから加わった二人はつるはしと手押し車を使っていた。つるはしを持った老人は穴の中に入って固い地面を砕き、手押し車を持った一人は穴の外にかきだされた土をシャベルですくって車にのせ、それを斜面に運んでいって下に捨てた。穴はもう彼らの腰のあたりまで掘り下げられていた。強い風の音も、彼らのシャベルとつるはしの音を消すことはできなかった。
僕は|唄《うた》を探すことをあきらめて手風琴をテーブルの上に|放《ほう》りだし、窓のそばに行って老人たちの作業をしばらく眺めた。老人たちの作業にはリーダーらしきものの存在は見受けられなかった。誰もが均等に働き、誰も指示をしたり命令を下したりはしなかった。つるはしを手にした老人は素晴しく効果的に固い土を砕き、四人の老人はシャベルで土を外にかきだし、もう一人は手押し車で黙々と土を斜面にはこんだ。
しかしその穴をじっと見ているうちに僕はいくつかの疑問を抱きはじめた。ひとつにはそれがごみを捨てるための穴にしては不必要に大きすぎることであり、もうひとつには今まさに大雪が降りだそうとしていることだった。あるいはそれは何かとくべつな目的のための穴なのかもしれない。しかしそれにしても雪はその穴の中に吹きだまって、明日の朝までにはおそらくすっぽりとそれを埋めてしまうことだろう。それくらいのことは雲ゆきを見れば老人たちにもわかっているはずだった。既に北の尾根の中腹あたりまでが降りしきる雪に覆いかくされてかすんでいるのだ。
考えをめぐらしたところで老人たちの作業の意味はわからなかったので、僕はストーヴの前に戻って椅子に座り、何を思うともなく石炭の赤い火をぼんやりと眺めていた。おそらくもう唄を思いだすことはできないのだろうと僕は思った。楽器があってもなくても、どちらでも同じことなのだ。どれだけ音を並べてみても、そこに唄がなければそれはただの音の羅列にすぎないのだ。テーブルの上に置かれた手風琴は単に美しい物体[#「物体」に丸傍点]でしかなかった。僕にはあの発電所の管理人の言ったことばがよくわかるような気がした。音を出す必要はありません、見ているだけで美しいのです、と彼は言ったのだ。僕は目を閉じて窓に打ちつける雪の音を聞きつづけた。
昼食の時間になって、老人たちはやっと作業をやめて官舎の中に戻っていった。あとにはシャベルとつるはしが地面にそのままのかたちに残されていた。
僕が|窓《まど》|際《ぎわ》の椅子に座って人影のない穴を眺めていると、隣室の大佐がやってきて僕の部屋のドアをノックした。彼はいつもの厚いコートを着て前にひさしのついた作業用の帽子を深くかぶっていた。コートにも帽子にも白い雪の粒がべったりとついていた。
「どうやら今夜あたりはずいぶん積りそうだね」と彼は言った。「昼食を持ってこようか?」
「ありがたいですね」と僕は言った。
十分ばかりあとで、彼は|鍋《なべ》を両手にかかえるようにして戻ってきてそれをストーヴの上に載せた。それからまるで|甲《こう》|殻《かく》動物が季節のかわりめに|殻《から》を抜けだすような格好で帽子とコートと手袋をひとつひとつ慎重に脱いでいった。そして最後に指でもつれた白い髪を|撫《な》でつけ、椅子に腰を下ろしてため息をついた。
「朝食に来ることができなくて悪かったね」と老人は言った。「何しろ朝から仕事に追われて食事をする暇もなかったものでね」
「まさか穴を掘っていたわけじゃないんでしょう?」
「穴? ああ、あの穴のことか。あれは私の仕事じゃない。穴掘りは|嫌《きら》いではないがね」と言って大佐はくすくす笑った。「街で仕事をしていたんだ」
彼は鍋があたたまると料理をふたつの|皿《さら》にわけてテーブルの上に置いた。|麺《めん》の入った野菜のシチューだった。彼はそれを吹いてさましながら|美《う》|味《ま》そうに食べた。
「あの穴はいったい何のための穴なのですか?」と僕は大佐に質問してみた。
「あれは何でもないよ」と老人はスプーンを口にはこびながら言った。「彼らは穴を掘ることを目的として穴を掘っているんだ。そういう意味ではとても純粋な穴だよ」
「よくわかりませんね」
「簡単だよ。彼らは穴を掘りたいから穴を掘っているんだ。それ以上の目的は何もない」
僕はパンを|噛《か》みながら、その純粋な穴について考えをめぐらせてみた。
「彼らはときどき穴を掘るんだ」と老人は言った。「たぶん私がチェスに凝るのと原理的には同じようなものだろう。意味もないし、どこにも辿りつかない。しかしそんなことはどうでもいいのさ。誰も意味なんて必要としないし、どこかに辿りつきたいと思っているわけではないからね。我々はここでみんなそれぞれに純粋な穴を掘りつづけているんだ。目的のない行為、進歩のない努力、どこにも辿りつかない歩行、素晴しいとは思わんかね。誰も傷つかないし、誰も傷つけない。誰も追い越さないし、誰にも追い抜かれない。勝利もなく、敗北もない」
「あなたのおっしゃっていることはわかるような気がします」
老人は何度か|肯《うなず》いてから皿を傾けてシチューの最後のひとくちを飲んだ。
「あるいは君にはこの街のなりたちのいくつかのものが不自然に映るかもしれん。しかし我我にとってはこれが自然のことなのだ。自然で、純粋で、安らかだ。君にもきっといつかそれがわかるだろうし、わかってほしいと私は思う。私は長いあいだ軍人として人生を送ってきたし、それはそれで後悔はしていない。それはそれなりに楽しい人生だったよ。硝煙や血の|臭《にお》いや銃剣のきらめきや突撃のラッパとかのことは今でもときどき思いだす。しかし私は我々をその戦いに駆りたてたものをもう思いだすことはできんのだ。名誉や愛国心や闘争心や憎しみや、そういうものをね。君は今、心というものを失うことに|怯《おび》えておるかもしらん。私だって怯えた。それは何も恥かしいことではない」大佐はそこで言葉を切って、しばらく言葉を探し求めるように宙を見つめていた。「しかし心を捨てれば安らぎがやってくる。これまでに君が味わったことのないほどの深い安らぎだ。そのことだけは忘れんようにしなさい」
僕は黙って肯いた。
「それはそうと街で君の影の話を耳にしたよ」と大佐はパンでシチューの残りをすくいとりながら言った。「話によれば君の影はずいぶん元気をなくしておるようだ。口にしたものはあらかた吐いてしまって、地下のベッドに三日も寝たきりらしい。もう長くはないかもしれん。君さえ|嫌《いや》でなければひとつ会いに行ってやってはどうかね? 向うの方では君に会いたがっておるらしいから」
「そうですね」と僕は少し迷うふりをした。「僕はかまいませんがはたして門番が会わせてくれるでしょうか?」
「もちろん会わせてくれるさ。影が死にかけているんだもの、本人は影に会う権利がある。これはきちんときめられたことなんだ。影の死というのはこの街にとっちゃ厳粛な儀式だからね、いくら門番といってもそれを邪魔するわけにはいかんよ。邪魔をする理由がない」
「じゃあこれからでも行ってみることにします」と僕は少し間を置いてから言った。
「そうだな、それがいい」と老人は言って僕のそばにより僕の肩を|叩《たた》いた。「夕方になって雪が積らんうちにな。なんのかのと言っても、影というのは人間にとってもっとも近しいものだ。気持よくみとってやった方があと味がいい。うまく死なせてやりなさい。|辛《つら》いかもしれんが、それは君自身のためだ」
「よくわかっていますよ」と僕は言った。そしてコートを着て、マフラーを首に巻いた。