しかし私は金があまっていたので輸入ビールの六本パックを買った。ミラー・ハイライフの金色の缶は秋の太陽に染まったようにきらきらと光り輝いていた。デューク・エリントンの音楽もよく晴れた十月の朝にぴたりとあっていた。もっともデューク・エリントンの音楽なら大みそかの南極基地にだってぴたりとあうかもしれない。
『ドゥー・ナッシン・ティル・ユー・ヒア・フロム・ミー』のユニークなローレンス・ブラウンのトロンボーン・ソロにあわせて口笛を吹きながら車を運転した。それからジョニー・ホッジスが『ソフィスティケーティッド・レディー』のソロをとった。
私は日比谷公園のわきに車を|停《と》め、公園の芝生に寝転んでビールを飲んだ。月曜日の朝の公園は飛行機が出払ってしまったあとの航空母艦の甲板みたいにがらんとして静かだった。|鳩《はと》の群がウォーミング・アップでもしているみたいに芝生のあちこちを歩きまわっているだけだった。
「雲がひとつもない」と私は言った。
「あそこにひとつあるわ」と彼女が言って日比谷公会堂の少し上あたりを指さした。たしかに雲はひとつだけあった。くすの木の枝の先に、まるで綿くずのような白い雲がひとつひっかかっているのが見えた。
「たいした雲じゃない」と私は言った。「雲のうちに入らない」
彼女は手をひさしがわりにしてじっと雲を見ていた。「そうね、たしかに小さいわね」と彼女は言った。
我々は長いあいだ何も言わずにその小さな雲の切れはしを|眺《なが》め、それから二本めのビールのふたをあけて飲んだ。
「どうして離婚したの?」と彼女が|訊《き》いた。
「旅行するとき電車の窓側の席に座れないから」と私は言った。
「冗談でしょ?」
「J・D・サリンジャーの小説にそういう|科《せり》|白《ふ》があったんだ。高校生のときに読んだ」
「本当はどうなの?」
「簡単だよ。五年か六年前の夏に彼女が出ていったんだ。出ていったきり二度と|戻《もど》らなかった」
「それから一度も会ってないの?」
「そうだね」と私は言ってビールを口にふくみ、ゆっくりと飲みこんだ。「とくに会う理由もないからね」
「結婚生活はうまくいっていなかったの?」
「結婚生活はとてもうまくいっていた」と言って、私は手に持ったビールの缶を眺めながら言った。「でもそんなのは物事の本質とはあまり関係ないんだ。二人で同じベッドで寝ていても目を閉じるのは一人だ。|僕《ぼく》の言うことはわかる?」
「ええ、わかると思うわ」
「総体としての人間を単純にタイプファイすることはできないけれど、人間が抱くヴィジョンはおおまかに言ってふたつにわけることができると思う。完全なヴィジョンと限定されたヴィジョンだ。僕はどちらかというと限定的なヴィジョンの中で暮している人間なんだ。その限定性の正当性はたいした問題じゃない。どこかに線がなくてはならないからそこに線があるんだ。でもみんながそういう考え方をするわけじゃない」
「そういう考え方をする人でもその線をなんとかもっと外に押し広げようと努力するものじゃないかしら?」
「そうかもしれない。でも僕はそうじゃない。みんながステレオで音楽を聴かなくちゃいけないという理由はないんだ。左側からヴァイオリンが聴こえて右側からコントラバスが聴こえたって、それで音楽性がとくに深まるというものでもない。イメージを喚起するための手段が複雑化したにすぎない」
「あなたは|頑《かたく》なにすぎるんじゃないかしら?」
「彼女も同じことを言ったよ」
「奥さんね?」
「そう」と私は言った。「テーマが明確だと融通性が不足するんだ。ビールは?」
「ありがとう」と彼女は言った。
私は四本めのミラー・ハイライフのプルリングをとって彼女にわたした。
「あなたは自分の人生についてどんな風に考えているの?」と彼女は訊いた。彼女はビールには口をつけずに缶の上に開いた穴の中をじっと見つめていた。
「『カラマーゾフの兄弟』を読んだことは?」と私は訊いた。
「あるわ。ずっと昔に一度だけだけど」
「もう一度読むといいよ。あの本にはいろんなことが書いてある。小説の終りの方でアリョーシャがコーリャ・クラソートキンという若い学生にこう言うんだ。ねえコーリャ、君は将来とても不幸な人間になるよ。しかしぜんたいとしては人生を祝福しなさい」
私は二本めのビールを飲み干し、少し迷ってから三本めを開けた。
「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」と私は言った。「しかしそれを読んだとき僕はかなり疑問に思った。とても不幸な人生を総体として祝福することは可能だろうかってね」
「だから人生を限定するの?」
「かもしれない」と私は言った。「僕はきっと君の御主人にかわってバスの中で鉄の|花《か》|瓶《びん》で殴り殺されるべきだったんだ。そういうのこそ僕の死に方にふさわしいような気がする。直接的で断片的でイメージが完結している。何かを考える暇もないしね」
私は芝生に寝転んだまま顔を上げて、さっき雲のあったあたりに目をやった。雲はもうなかった。くすの木の葉かげに隠れてしまったのだ。
「ねえ、私もあなたの限定されたヴィジョンの中に入りこむことはできるかしら?」と彼女が訊いた。
「|誰《だれ》でも入れるし、誰でも出ていける」と私は言った。「そこが限定されたヴィジョンの優れた点なんだ。入るときには|靴《くつ》をよく|拭《ふ》いて、出ていくときにはドアを閉めていくだけでいいんだ。みんなそうしている」
彼女は笑って立ちあがり、コットン・パンツについた芝を手で払った。「そろそろ行くわ。もう時間でしょ?」
私は時計を見た。十時二十二分だった。
「家まで送るよ」と私は言った。
「いいの」と彼女は言った。「このあたりのデパートで買物をして一人で電車で帰るわ。その方がいいのよ」
「じゃあここで別れよう。僕はしばらくここにいるよ。とても気持がいい」
「|爪《つめ》|切《き》りどうもありがとう」
「どういたしまして」と私は言った。
「帰ってきたら電話をくれる?」
「図書館に行くよ」と私は言った。「人が働いている姿を見るのが好きなんだ」
「さよなら」と彼女が言った。
私は彼女が公園の中のまっすぐな道を歩き去っていくうしろ姿を『第三の男』のジョセフ・コットンみたいにじっと見ていた。彼女の姿が木のかげに消えてしまうと、私は鳩を眺めた。鳩の歩き方は一羽一羽微妙にちがっていた。しばらくあとで小さな女の子をつれた身なりの良い女がやってきてポップコーンをまくと、私のまわりの鳩はみんな飛びあがってそちらに行ってしまった。女の子の年は三歳か四歳で、その|年《とし》|頃《ごろ》の女の子がみんなそうするように両手を広げて鳩を抱きしめに行った。しかしもちろん鳩はつかまらなかった。鳩には鳩のささやかな生き方があるのだ。身なりの良い母親は私の方に一度だけちらりと目をやったが、それきり私の方を見ようとはしなかった。月曜日の朝の公園に寝転んで缶ビールの空缶を五つも並べているような人間はまともな人間ではないのだ。
私は目を閉じて『カラマーゾフの兄弟』の三兄弟の名前を思いだしてみた。ミーチャ、イヴァン、アリョーシャ、それに腹違いのスメルジャコフ。『カラマーゾフの兄弟』の兄弟の名前をぜんぶ言える人間がいったい世間に何人いるだろう?
空をじっと見あげていると、私は自分が見わたす限りの海原に浮かんだ小さなボートのように思えた。風もなく波もなく、私はただそこにじっと浮かんでいるだけだ。大洋に浮かんだボートには何かしら特殊なものがある、と言ったのはジョセフ・コンラッドだ。『ロード・ジム』の難破の部分だ。
空は深く、人が疑いをはさむことのできない確固とした観念のように明るく輝いていた。地上から空を見あげていると、空というものが存在のすべてを集約しているように感じられることがある。海も同じだ。ずっと何日も海を眺めていると、世界には海しかないように思えてくるものなのだ。ジョセフ・コンラッドもおそらく私と同じことを考えていたのだろう。船という擬制の中から切りはなされ見わたす限りの大洋に|放《ほう》り出された小さなボートにはたしかに何かしら特殊なものがあるし、誰もその特殊性から逃れることはできないのだ。
私は寝転んだままビールの最後の一缶を飲み、|煙草《た ば こ》を吸い、文学的省察を頭の中から追い払った。もう少し現実的にならなくてはならない。残された時間はあと一時間と少しなのだ。
私は立ちあがってビールの空缶を抱えてゴミ箱まで運び、それを捨てた。そして財布からクレジット・カードを出して、|灰《はい》|皿《ざら》の中で焼いた。身なりの良い母親がまた私の方をちらりと見た。まともな人間は月曜の朝に公園でクレジット・カードを焼いたりはしない。私はまずアメリカン・エクスプレスを焼き、それからヴィサ・カードを焼いた。クレジット・カードはとても気持良さそうに灰皿の中で燃えつきた。私はよほどポール・スチュアートのネクタイも焼いてしまおうかと思ったが、少し考えてやめた。目立ちすぎるし、それにネクタイを焼く必要なんて何もないのだ。
それから私は売店でポップコーンを十袋買い、そのうちの九袋を鳩のために地面にまき、残りの一袋をベンチに座って自分で食べた。鳩の群が十月革命の記録映画みたいにいっぱいあつまってきて、ポップコーンを食べた。私も鳩と一緒にポップコーンを食べた。ポップコーンを食べたのはずいぶん久しぶりだったが、なかなか|美《う》|味《ま》かった。
身なりの良い母親と小さな娘は二人で噴水を眺めていた。母親の年はたぶん私と同じくらいだろう。彼女を眺めているうちに私は革命運動家と結婚して二人の子供を産み、そのままどこかに消えてしまったかつてのクラスメイトのことをまた思いだした。彼女にはもう子供を公園につれていってやることすらできないのだ。私にはもちろん彼女がそれについてどう感じているかということはわからなかったけれど、自分の生活がすっかり消えてしまうという点に関しては彼女と何かをわかちあえるかもしれないという気がした。しかしあるいは——ありそうなことだけれど——彼女は私とその何か[#「何か」に丸傍点]をわかちあうことを拒否するかもしれなかった。我々はもう二十年近く顔をあわせたことがないし、その二十年のあいだには本当にいろんなことが起ってしまったのだ。それぞれの置かれた状況も違うし、考え方も違う。それに同じ人生を引き払うにしても、彼女は自分の意志で引き払ったが、私はそうではないのだ。私の場合は私が眠っているうちに誰かがシーツをひきはがして持っていってしまっただけなのだ。
彼女はおそらく私をそのことで非難するだろうという気がした。あなたはいったい何を選んだというの? と彼女は私に言うことだろう。たしかにそのとおりだ。私は何ひとつとして選びとってはいないのだ。私が自分の意志で選んだことといえば、博士を許したこととその孫娘と寝なかったことだけだった。しかしそんなことが何か私の役に立つのだろうか? 彼女はその程度のことで、私という存在が私という存在の消滅に対して果した役割を評価してくれるのだろうか?
私にはそれはわからなかった。二十年近くの歳月が我々を遠く隔てているのだ。彼女が何を評価し何を評価しないのかというその基準は私の想像力の|枠《わく》|外《がい》にあった。
私の枠内には|殆《ほと》んどもう何も残ってはいなかった。鳩と噴水と芝生と|母子《お や こ》連れが見えるだけだった。しかしそんな風景をじっと眺めているうちに、この何日かではじめて私はこの世界から消えたくないと思った。私が次にどこの世界に行くかなんて、そんなことはどうでもいいことなのだ。私の人生の輝きの九十三パーセントが前半の三十五年間で使い果されてしまっていたとしても、それでもかまわない。私はその七パーセントを大事に抱えたままこの世界のなりたち方をどこまでも眺めていきたいのだ。|何《な》|故《ぜ》かはわからないけれど、そうすることが私に与えられたひとつの責任であるように私には思えた。私はたしかにある時点から私自身の人生や生き方をねじまげるようにして生きてきた。そうするにはそうするなりの理由があったのだ。|他《ほか》の誰に理解してもらえないにせよ、私はそうしないわけにはいかなかったのだ。
しかし私はこのねじまがったままの人生を置いて消滅してしまいたくはなかった。私にはそれを最後まで見届ける義務があるのだ。そうしなければ私は私自身に対する公正さを見失ってしまうことになる。私はこのまま私の人生を置き去りにしていくわけにはいかないのだ。
私の消滅が誰をも悲しませないにせよ、誰の心にも空白をもたらさないにせよ、あるいは殆んど誰にも気づかれないにせよ、それは私自身の問題なのだ。たしかに私はあまりにも多くのものを失ってきた。そしてこれ以上失うべきものは私自身の他にはもう殆んど何も残ってはいないように思える。しかし私の中には失われたものの残照がおり[#「おり」に丸傍点]のように残っていて、それが私をここまで生きながらえさせてきたのだ。
私はこの世界から消え去りたくはなかった。目を閉じると私は自分の心の揺らぎをはっきりと感じとることができた。それは|哀《かな》しみや孤独感を超えた、私自身の存在を根底から揺り動かすような深く大きなうねりだった。そのうねりはいつまでもつづいた。私はベンチの背もたれに|肘《ひじ》をついて、そのうねりに耐えた。誰も私を助けてはくれなかった。誰にも私を救うことはできないのだ。ちょうど私が誰をも救うことができなかったのと同じように。
私は声をあげて泣きたかったが、泣くわけにはいかなかった。涙を流すには私はもう年をとりすぎていたし、あまりに多くのことを経験しすぎていた。世界には涙を流すことのできない哀しみというのが存在するのだ。それは誰に向っても説明することができないし、たとえ説明できたとしても、誰にも理解してもらうことのできない種類のものなのだ。その哀しみはどのような形に変えることもできず、風のない夜の雪のようにただ静かに心に積っていくだけのものなのだ。
もっと若い頃、私はそんな哀しみをなんとか言葉に変えてみようと試みたことがあった。しかしどれだけ言葉を尽してみても、それを誰かに伝えることはできないし、自分自身にさえ伝えることはできないのだと思って、私はそうすることをあきらめた。そのようにして私は私の言葉を閉ざし、私の心を閉ざしていった。深い哀しみというのは涙という形をとることさえできないものなのだ。
煙草を吸おうと思ったが、煙草の箱はなかった。ポケットの中には紙マッチがあるだけだった。マッチももう三本しか残っていない。私はその三本に順番に火をつけて地面に捨てた。
もう一度目を閉じたとき、そのうねりはどこかに消えていた。頭の中にはちり[#「ちり」に丸傍点]のように静かな沈黙が浮かんでいるだけだった。私はそのちりを長いあいだ一人で眺めていた。ちりは上にも上らず下にも降りず、じっとそこに浮かんでいた。私は小さく|唇《くちびる》をすぼめて息を吹いてみたが、それでも動かなかった。どのような激しい風にも、それを追い払うことはできないのだ。
それから私は今別れたばかりの図書館の女の子のことを考えてみた。そしてカーペットの上に積みかさねられた彼女のヴェルヴェットのワンピースとストッキングとスリップのことを考えた。それはまだかたづけられずにあの床の上に彼女そのもののようにそっと横たわっているのだろうか? そして私は彼女に対して公正に振舞うことができたのだろうか? いや、違うな、と私は思った。いったい誰が公正さなんて求めているというのだ?誰も公正さなんて求めてはいない。そんなものを求めているのは私くらいのものだ。しかし公正さを失った人生になんてどれだけの意味があるだろう? 私は彼女を好むのと同じように彼女が床に脱ぎ捨てたワンピースや下着を好んだ。それも私の公正さのひとつのかたちだろうか?
公正さというのは極めて限定された世界でしか通用しない概念のひとつだ。しかしその概念はすべての位相に及ぶ。かたつむりから金物店のカウンターから結婚生活にまで、それは及ぶのだ。誰もそんなものを求めていないにせよ、私にはそれ以外に与えることのできるものは何もないのだ。そういう意味では公正さは愛情に似ている。与えようとするものが求められているものと合致しないのだ。だからこそいろんなものが私の前を、あるいは私の中を通りすぎていってしまったのだ。
おそらく私は自分の人生を悔むべきなのだろう。それも公正さのひとつの形なのだ。しかし私には何を悔むこともできなかった。たとえ|全《すべ》てが風のように私をあとに残して吹きすぎていってしまったにせよ、それはまた私自身の望んだことでもあるのだ。そして私には頭の中に浮かんだ白いちりしか残らなかったのだ。
公園の中の売店で煙草とマッチを買うついでに、公衆電話から私は念のためにもう一度私の部屋に電話をかけてみた。誰かが出るとは思わなかったが、人生の最後に自分の部屋に電話をかけてみるというのも悪くない思いつきだった。そこでベルが鳴りひびいている様がありありと想像できる。
しかし予想に反して三度めのベルで誰かが受話器をとった。そして「もしもし」と言った。ピンクのスーツを着た太った娘だった。
「まだそこにいたの?」と私は驚いて言った。
「まさかまさか」と娘は言った。「一度行ってまた帰ってきたのよ。そんなにのんびりしてるわけないでしょ。本のつづきが読みたかったから帰ってきたのよ」
「バルザックを?」
「ええ、そうよ。この本とても|面《おも》|白《しろ》いわ。何か運命の力のようなものを感じるわね」
「それで」と私は言った。「君のおじいさんは助けだせたの?」
「もちろん。すごく簡単だったわよ。水はもう引いてたし、道は二度めだし。地下鉄の切符もちゃんと二枚買っておいたし。祖父はとても元気だったわよ。あなたによろしくって」
「それはどうも」と私は言った。「それでおじいさんはどうしたの?」
「彼はフィンランドに行っちゃったの。日本にいると面倒が多すぎて研究に集中できないから、フィンランドに研究所を作るんだって。とても静かな良いところらしいわよ。となかいなんかもいて」
「君は行かなかったの?」
「私はここに残ってあなたの部屋に住むことにしたの」
「|僕《ぼく》の部屋?」
「ええ、そうよ。この部屋すっかり気に入っちゃったわ。ドアもちゃんとつけるし、冷蔵庫とかヴィデオとかも私が買い|揃《そろ》えとくわよ。誰かが壊しちゃったんでしょ。ベッド・カバーとシーツとカーテンはピンクにしてもかまわない?」
「かまわない」
「新聞もとっていいかしら? 番組欄が見たいんだけど」
「いいよ」と私は言った。「でもそこにいると危険だぜ。『|組織《システム》』の連中とか記号士とかが来るかもしれない」
「あら、そんなの怖くないわ」と彼女は言った。「彼らの求めているのは祖父とあなたで、私は関係ないもの。それにさっきも変な大きいのと小さいのの二人組がきたけど追いかえしてやったわ」
「どうやって?」
「ピストルで大きい方の耳を撃ってやったの。きっと鼓膜が破れたわね。どうってことないわよ」
「でもアパートの中でピストル撃ったりすると大変な騒ぎになったんじゃないの?」
「そんなことないわよ」と彼女は言った。「一発くらい撃ったってみんな車のバック・ファイヤだと思うだけよ。そりゃ何発も撃てば困るけど、私は腕がいいから一発で十分」
「へえ」と私は言った。
「それでね、あなたの意識がなくなったら、私あなたを冷凍しちゃおうと思うんだけど、どうかしら?」
「好きにしていいよ。どうせもう何も感じないんだから」と私は言った。「今から|晴《はる》|海《み》|埠《ふ》|頭《とう》に行くからそこで回収してくれればいいよ。白い色のカリーナ 1800GT・ツインカムターボという車に乗ってる。車の型は僕にも説明できないけれど、ボブ・ディランのテープがかかってるよ」
「ボブ・ディランって何?」
「雨の日に——」と私は言いかけたが説明するのが面倒になってやめた。「かすれた声の歌手だよ」
「冷凍しておけば、祖父が新しい方法をみつけてまたあなたをもとに|戻《もど》してくれるかもしれないでしょ? あまり期待されても困るけど、そういう可能性だってなくはないのよ」
「意識がなくちゃ期待もできない」と私は指摘した。「それで、君が僕を冷凍するの?」
「大丈夫よ、安心して。私、冷凍するのは得意なの。動物実験で犬とか|猫《ねこ》とかをずいぶん生きたまま冷凍したもの。あなたをきちんと冷凍して、|誰《だれ》にもみつけられない場所に隠しといてあげるから」と彼女は言った。「だからもしうまくいって、あなたの意識が戻ったら私と寝てくれる?」
「もちろん」と私は言った。「そのときになってもまだ僕と寝たいと思うんならね」
「ちゃんとやってくれる?」
「技術の限りを尽して」と私は言った。「何年後になるかはわからないけど」
「でもとにかくそのとき私はもう十七じゃないわね」と彼女は言った。
「人は年をとるんだ」と私は言った。「たとえ冷凍されていてもね」
「元気でね」と彼女は言った。
「君もね」と私は言った。「君と話せてなんだか少し楽になったような気がするよ」
「この世界に戻れる可能性が出てきたから?でもそれはまだできるかどうかわからないし、とても——」
「いや、そうじゃないんだ。もちろんそういう可能性がでてきたことはとてもありがたい。でも僕が言うのはそういう意味じゃなくて、君と話せたのがとても|嬉《うれ》しかったっていうことさ。君の声が聞けて、君が今何をしているかというのがわかったことがね」
「もっと長く話す?」
「いや、もうこれでいいよ。時間があまりないからね」
「ねえ」と太った娘が言った。「怖がらないでね。あなたがもし永久に失われてしまったとしても、私は死ぬまでずっとあなたのことを覚えているから。私の心の中からはあなたは失われないのよ。そのことだけは忘れないでね」
「忘れないよ」と私は言った。そして電話を切った。
十一時になると私は近くの便所で小便を済ませ、公園を出た。そして車のエンジンを入れ、冷凍されることについていろいろと思いを巡らせながら港に向って車を進めた。銀座通りはビジネス・スーツを着た人々でいっぱいだった。信号待ちのあいだ私はその中に買物をしているはずの図書館の女の子の姿を探し求めたが、残念ながら彼女は見あたらなかった。私の目にうつるのは見知らぬ人々の姿だけだった。
港につくと私は人気のない倉庫のわきに車を|停《と》め、|煙草《た ば こ》を吸いながらオート・リピートにしてボブ・ディランのテープを聴いた。シートをうしろに倒し、両脚をステアリングにのせて、静かに息をした。もっとビールが飲みたいような気がしたが、もうビールはなかった。ビールは一本残らず公園で彼女と二人で飲んでしまったのだ。太陽がフロント・グラスから|射《さ》しこんで、私を光の中に包んでいた。目を閉じるとその光が私の|瞼《まぶた》をあたためているのが感じられた。太陽の光が長い道のりを|辿《たど》ってこのささやかな惑星に到着し、その力の一端を使って私の瞼をあたためてくれていることを思うと、私は不思議な感動に打たれた。宇宙の摂理は私の瞼ひとつないがしろにしてはいないのだ。私はアリョーシャ・カラマーゾフの気持がほんの少しだけわかるような気がした。おそらく限定された人生には限定された祝福が与えられるのだ。
私はついでに博士と太った孫娘と図書館の女の子にも私なりの祝福を与えた。他人に祝福を与えるような権限が私にあるのかどうかはわからなかったが、私はどちらにしてももうすぐ消滅してしまうのだから、誰かにこの先責任を追及されるおそれはまずなかった。私はポリス = レゲエ・タクシーの運転手もこの祝福リストに加えた。彼は|泥《どろ》だらけの我々を車に乗せてくれたのだ。リストに加えてはいけないという理由は何もなかった。彼はおそらく今もラジオ・カセットでロック・ミュージックを聴きながら、どこかの路上を若い客を求めて走りまわっているのだろう。
正面には海が見えた。荷を下ろし終えて|吃《きっ》|水《すい》|線《せん》の浮かびあがった古い貨物船も見えた。かもめが白いしみのようにあちこちにとまっていた。ボブ・ディランは『風に吹かれて』を|唄《うた》っていた。私はその唄を聴きながら、かたつむりや|爪《つめ》|切《き》りやすずきのバター・クリーム煮やシェーヴィング・クリームのことを考えてみた。世界はあらゆる形の啓示に|充《み》ちているのだ。
初秋の太陽が波に揺られるように細かく海の上に輝いていた。まるで誰かが大きな鏡を粉粉に|叩《たた》き割ってしまったように見える。あまりにも細かく割れてしまったので、それをもとに戻すことはもう誰にもできないのだ。どのような王の軍隊をもってしてもだ。
ボブ・ディランの唄は自動的にレンタ・カー事務所の女の子のことを思いださせた。そうだ、彼女にも祝福を与えねばならない。彼女は私にとても良い印象を与えてくれたのだ。彼女をリストから外すわけにはいかない。
私は彼女の姿を頭の中に思い浮かべてみた。彼女はシーズン初めの野球場の芝生を思わせるような色あいのグリーンのブレザーコートを着て、白いブラウスに黒のボウタイを結んでいた。たぶんそれがレンタ・カー会社の制服なのだ。そうでなければ誰もグリーンのブレザーコートを着て黒のボウタイを結んだりはしない。そして彼女はボブ・ディランの古い唄を聴き、雨ふりを|想《おも》うのだ。
私も雨ふりのことを考えてみた。私の思いつく雨は降っているのかいないのかわからないような細かな雨だった。しかし雨はたしかに降っているのだ。そしてそれはかたつむりを|濡《ぬ》らし、|垣《かき》|根《ね》を濡らし、牛を濡らすのだ。誰にも雨を止めることはできない。誰も雨を|免《まぬか》れることはできない。雨はいつも公正に降りつづけるのだ。
やがてその雨はぼんやりとした色の不透明なカーテンとなって私の意識を|覆《おお》った。
眠りがやってきたのだ。
私はこれで私の失ったものをとり戻すことができるのだ、と思った。それは一度失われたにせよ、決して損なわれてはいないのだ。私は目を閉じて、その深い眠りに身をまかせた。ボブ・ディランは『激しい雨』を唄いつづけていた。