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挪威的森林(7-3)

时间: 2017-12-27    进入日语论坛
核心提示:第七章(3)病室に戻ると緑は父親に向かって自分はあるのでちょっと外出してくる、そのあいだこの人が面倒を見るからと言った。
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 第七章(3)
 
病室に戻ると緑は父親に向かって自分はあるのでちょっと外出してくる、そのあいだこの人が面倒を見るからと言った。父親はそれについてはとくに感想は持たなかったようだった。あるいは緑の言ったことを全く理解してなかったのかもしれない。彼はあおむけになって、じっと天井を見つめていた。ときどきまばたきしなければ、死んでいると言っても通りそうだった。目は酔払ったみたいに赤く血ばしっていて、深く息をすると鼻がかすかに膨らんだ。彼はもうびくりとも動かず、緑が話しかけても返事をしようとはしなかった。彼がその混濁した意識の底で何を想い何を考えているのか。僕には見当もつかなった。
緑が行ってしまったあとで僕は彼に何か話しかけてみようかとも思ったが、何をどう言えばいいのかわからなかったので、結局黙っていた。するとそのうちに彼は目を閉じて眠ってしまった。僕は枕もとの椅子に座って、彼がこのまま死んでしまわないように祈りながら、鼻がときどきぴくぴくと動く様を観察していた。そしてもし僕がつきそっているときにこの男が息引きとってしまったらそれは妙なものだろうなと思った。だって僕はこの男にさっきはじめて会ったばかりだし、この男と僕を結びつけいるのは緑だけで、緑と僕は「演劇史Ⅱ」で同じクラスだいうだけの関係にすぎないのだ。
しかし彼は死にかけてはいなかった。ただぐっすりと眠っているだけだった。耳を顔に近づけると微かな寝息が聞こえた。それで僕は安心して隣りの奥さんと話をした。彼女は僕のことを緑の恋人だと思っているらしく、僕にずっと緑の話をしてくれた。
「あの子、本当に良い子よ」彼女は言った。「とてもよくお父さんの面倒をみてるし、親切でやさしいし、よく気がつくし、しっかりしてるし、おまけに綺麗だし。あなた、大事にしなきゃ駄目よ。放しちゃだめよ。なかなかあんな子いないんだから」
「大事にします」と僕は適当に答えておいた。
「うちは二十一の娘と十七の息子がいるけど。病院になんて来やしないわよ。休みになるとサーフィンだ、デートだ、なんだかんだってどこかに遊びに行っちゃってね。ひどいもんよねえ。おこづかいしぼれるだけしぼりっとて、あとはポイだもん」
一時半になると奥さんはちょっと買物してくるからと言って病室を出て行った。病人は二人ともぐっそり眠っていた。午後の穏やかな日差しが部屋の中にたっぷりと入りこんでいて、僕も丸椅子の上で思わず眠り込んでしまいそうだった。窓辺のテーブルの上には白と黄色の菊の花が花瓶にいけられていて、今は秋なのだと人々に教えていた。病室には手つかずで残された昼食の煮魚の甘い匂いが漂っていた。看護婦たちはあいかわらずコツコツという音を立てて廊下を歩きまわり、はっきりとしたよく通る声で会話をかわしていた。彼女たちはときどき病室にやってきて、患者が二人ともぐっすり眠っているのを見ると、僕に向かってにっこり微笑んでから姿を消した。何か読むものがあればと思ったが、病室には本も雑誌も新聞も何にもなかった。カレンダーが壁にかかっているだけだった。
僕は直子のことを考えた。髪どめしかつけていない直子の裸体のことを考えた。腰のくびれと陰毛のかげりのことを考えた。どうして彼女は僕の前で裸になったりしたのだろう?あのとき直子は夢遊状態にあったのだろうか?それともあれは僕の幻想にすぎなかったのだろうか?時間が過ぎ、あの小さな世界から遠く離れれば離れるほど、その夜の出来事が本当にあったことなのかどうか僕にはだんだんわからなくなってきていた。本当にあったことなんだと思えばたしかにそうだという気がしたし、幻想なんだと思えば幻想であるような気がした。幻想であるにしてはあまりにも細部がくっきりとしていたし、本当の出来事にしては全てが美しすぎた。あの直子の体も月の光も。
緑の父親が突然目を覚まして咳をはじめたので、僕の思考はそこで中断した。僕ティッシュ・ペーパーで痰を取ってやり、タオルで額の汗を拭いた。
「水を飲みますか?」と僕が訊くと、彼は四ミリくらい肯いた。小さなガラスの水さしで少しずつゆっくり飲ませると、乾いた唇が震え、喉がびくびくと動いた。彼は水さしの中のなまぬるそうな水を全部飲んだ。
「もっと飲みますか?」と僕は訊いた。彼は何か言おうとしているようなので、僕は耳を寄せてみた。<もういい>と彼は乾いた小さな声で言った。その声はさっきよりもっと乾いて、もっと小さくなっていた。
「何か食べませんか?腹減ったでしょうう?」と僕は訊いた。父親はまた小さく肯いた。僕は緑がやっていたようにハンドルをまわしてベットを起こし、野菜のゼリーと煮魚をスプーンでかわりばんこにひと口ずつすくって食べさせた。すごく長い時間をかけてその半分ほどを食べてから、もういいという風に彼は首を小さく横に振った。頭を大きく動かすと痛みがあるらしく、ほんのちょっとしか動かさなかった。フルーツはどうするかと訊くと彼は<いらない>と言った。僕はタオルで口もとを拭き、ベットを水平に戻し、食器を廊下に出しておいた。
「うまかったですか?」と僕は訊いてみた。
<まずい>と彼は言った。
「うん、たしかにあまりうまそうな代物ではないですね」と僕は笑って言った。父親は何も言わずに、閉じようか開けようか迷っているような目でじっと僕を見ていた。この男は僕が誰だかわかっているのかなと僕はふと思った。彼はなんとなく緑といるときより僕と二人になっているときの方がリラックスしているように見えたからだ。あるいは僕のことを他の誰かと間違えているのかもしれなかった。もしそうだとすれば僕にとってはその方が有難かった。
「外は良い天気ですよ、すごく」と僕は丸椅子に座って脚を組んで言った。「秋で、日曜日で、お天気で、どこに行っても人でいっばいですよ。そういう日にこんな風に部屋の中でのんびりしているのがいちばんですね、疲れないですむし。混んだところ行ったって疲れるだけだし、空気もわるいし。僕は日曜日だいたい洗濯するんです。朝に洗って、寮の屋上に干して、夕方前にとりこんでせっせとアイロンをかけます。アイロンかけるの嫌いじゃないですね、僕は。くしゃくしゃのものがまっすぐになるのって、なかなかいいもんですよ、あれ。僕アイロンがけ、わりに上手いんです。最初のうちはもちろん上手くいかなかったですよ、なかなか。ほら、筋だらけになっちゃったりしてね。でも一か月やってりゃ馴れちゃいました。そんなわけで日曜日は洗濯とアイロンがけの日なんです。今日はできませんでしたけどね、残念ですね、こんな絶好の洗濯日和なのにね。
でも大丈夫ですよ。朝早く起きて明日やりますから。べつに気にしなくっていいです。日曜日ったって他にやること何もないんですから。
明日の朝洗濯して干してから、十時の講義に出ます。この講義はミドリさんと一緒なんです。『演劇史Ⅱ』で、今はエウリビデスをやっています。エウリビデス知ってますか?昔のギリシャ人で、アイスキュロス、ソフォクレスならんでギリシャ悲劇のビッグ・スリーと言われています。最後はマケドニアで犬に食われて死んだということになっていますが、これには異説もあります。これがエウリビデスです。僕はソフォクレスの方が好きですけどね、まあこれは好みの問題でしょうね。だからなんとも言えないです。
彼の芝居の特徴はいろんな物事がぐしゃぐしゃに混乱して身働きがとれなくなってしまうことなんです。わかりますか?いろんな人が出てきて、そのそれぞれにそれぞれの事情と理由と言いぶんがあって、誰もがそれなりの正義と幸福を追求しているわけです。そしてそのおかげで全員がにっちもさっちもいかなくなっちゃうんです。そりゃそうですよね。みんなの正義がとおって、みんなの幸福が達成されるということは原理的にありえないですからね、だからどうしようもないカオスがやってくるわけです。それでどうなると思います?これがまた実に簡単な話で、最後に神様が出てくるんです。そして交通整理するんです。お前あっち行け、お前こっち来い、お前あれと一緒になれ、お前そこでしばらくじっとしてろっていう風に。フィクサーみたいなもんですね。そして全てはぴたっと解決します。これはデウス・エクス・マキナと呼ばれています。エウリビデスの芝居にはしょっちゅうこのデウス・エクス・マキナが出てきて、そのあたりでエウリビデスの評価がわかれるわけです。
しかし現実の世界にこういうデウウ・エクス・マキナというのがあったとしたら、これは楽でしょうね。困ったな、身動きとれないなと思ったら神様が上からするすると降りてきて全部処理してくれるわけですからね。こんな楽なことはない。でもまあとにかくこれが『演劇史Ⅱ』です。我々はまあだいたい大学でこういうことを勉強してます」
僕がしゃべっているあいだ緑の父親は何も言わずにぼんやりとした目で僕を見ていた。僕のしゃべっていることを彼がいささかなりとも理解しているのかどうかその目から判断できなかった。
「ピース」と僕は言った。
それだけしゃべってしまうと、ひどく腹が減ってきた。朝食を殆んど食べなかった上に、昼の定食も半分残してしまったからだ。僕は昼をきちんと食べておかなかったことをひどく後悔したが、後悔してどうなるどういうものでもなかった。何か食べものがないかと物入れの中を探してみたが、海苔の缶とヴィックス・ドロップと醤油があるだけだった。紙袋の中にキウリとグレープフルーツがあった。
「腹が減ったんでキウリ食べちゃいますけどかまいませんかね」と僕は訊ねた。
緑の父親は何も言わなかった。僕は洗面所で三本のキウリを洗った。そして皿に醤油を少し入れ、キウリに海苔を巻き、醤油をつけてぽりぽりと食べた。
「うまいですよ」と僕は言った。「シンプルで、新鮮で、生命の香りがします。いいキウリですね。キウイなんかよりずっとまともな食いものです」
僕は一本食べてしまうと次の一本にとりかかった。ぽりぽりというとても気持の良い音が病室に響きわたった。キウリを丸ごとと二本食べてしまうと僕はやっと一息ついた。そして廊下にあるガス・コンロで湯をかわし、お茶を入れて飲んだ。
「水かジュース飲みますか?」と僕は訊いてみた。
<キウリ>と彼は言った。
僕はにっこり笑った。「いいですよ。海苔つけますか?」
彼は小さく肯いた。僕はまたベットを起こし、果物ナイフで食べやすい大きさに切ったキウリに海苔を巻き、醤油をつけ、楊子に刺して口に運んでやった。彼は殆んど表情を変えずにそれを何度も何度も噛み、そして呑みこんだ。
<うまい>と彼は言った。
「食べものがうまいっていいもんです。生きている証しのようなもんです」
結局彼はキウリを一本食べてしまった。キウリを食べてしまうと水を飲みたがったので、僕はまた水さしで飲ませてやった。水を飲んで少しすると小便したいと言ったので、僕はベットの下からしびんを出し、その口をベニスの先にあててやった。僕は便所に行って小便を捨て、しびんを水で洗った。そして病室に戻ってお茶の残りを飲んだ。
「気分どうですか?」と僕は訊いてみた。
<すこし>と彼は言った。<アタマ>
「頭が少し痛むんですか?」
そうだ、というように彼は少し顔をしかめた。
「まあ手術のあとだから仕方ありませんよね。僕は手術なんてしたことないからどういうもんだかよくわからないけれど」
<キップ>と彼は言った。
「切符?なんの切符ですか?」
<ミドリ>と彼は言った。<キップ>
何のことかよくわからなかったので僕は黙っていた。彼もしばらく黙っていた。それから<タノム>と言った。「頼む」ということらしかった。彼しっかりと目を開けてじっと僕の顔を見ていた。彼は僕に何かを伝えたがっているようだったが、その内容は僕には見当もつかなかった。
<ウエノ>と彼は言った。<ミドリ>
「上野駅ですか?」
彼は小さく肯いた。
「切符・緑・頼む・上野駅」と僕はまとめてみた。でも意味はさっぱりわからなかった。たぶん意識が混濁しているのだろうと僕は思ったが、目つきがさっきに比べていやにしっかりしていた。彼は点滴の針がささっていない方の手を上げて僕の方にのばした。そうするにはかなりの力が必要であるらしく、手は空中でぴくぴくと震えていた。僕は立ちあがってそのくしゃくしゃとした手を握った。彼は弱々しく僕の手を握りかえし、<タノム>とくりかえした。
切符のことも緑さんもちゃんとしますから大丈夫です、心配しなくてもいいですよ、と僕が言うと彼は手を下におろし、ぐったりと目を閉じた。そして寝息を立てて眠った。僕は彼が死んでいないことをたしかめてから外に出て湯をわかし、またお茶を飲んだ。そして自分がこの死にかけている小柄な男に対して好感のようなものを抱いていることに気づいた。
 
少しあとで隣りの奥さんが戻ってきて大丈夫だった?と僕に訊ねた。ええ大丈夫ですよ、と僕は答えた。彼女の夫もすうすうと寝息を立てて平和そうに眠っていた。
緑は三時すぎに戻ってきた。
「公園でぼおっとしてたの」と彼女は言った。「あなたに言われたように、一人で何もしゃべらずに、頭の中を空っぽにして」
「どうだった?」
「ありがとう。とても楽になったような気がするわ。まだ少しだるいけれど、前に比べるとずいぶん体が軽くなったもの。私、自分自身で思っているより疲れてたみたいね」
父親はぐっすり眠っていたし、とくにやることもなかったので、我々は自動販売機のコーヒーを買ってTV室で飲んだ。そして僕は緑に、彼女のいないあいだに起った出来事をひとつひとつ報告した。ぐっすり眠って起きて、昼食の残りを半分食べ、僕がキウリをかじっていると食べたいと言って一本食べ、小便して眠った、と。
「ワタナベ君、あなたってすごいわね」と緑は感心して言った。「あの人ものを食べなくてそれでみんなすごく苦労してるのに、キウリまで食べさせちゃうんだもの。信じられないわね、もう」
「よくわからないけれど、僕がおいしそうにキウリを食べてたせいじゃないかな」と僕は言った。
「それともあなたには人をほっとさせる能力のようなものがあるのかしら?」
「まさか」と言って僕は笑った。「逆のことを言う人間はいっばいいるけれどね」
「お父さんのことどう思った?」
「僕は好きだよ。とくに何を話したってわけじゃないけれど、でもなんとなく良さそうな人だっていう気はしたね」
「おとなしかった?」
「とても」
「でもね一週間前は本当にひどかったのよ」と緑は頭を振りながら言った。「ちょっと頭がおかしくなっててね、暴れたの。私にコップ投げつけてね、馬鹿野郎、お前なんか死んじまえって言ったの。この病気ってときどきそういうことがあるの。どうしてだかわからないけれど、ある時点でものすごく意地わるくなるの。お母さんのときもそうだったわ。お母さんが私に向ってなんて言ったと思う?お前は私の子じゃないし、お前のことなんか大嫌いだって言ったのよ。私、目の前が一瞬真っ暗になっちゃった。そういうのって、この病気の特徴なのよ。何かが脳のどこかを圧迫して、人を荷立たせて、それであることないこと言わせるのよ。それはわかっているの、私にも。でもわかっていても傷つくわよ、やはり。これだけ一所懸命やっていて、その上なんでこんなこと言われなきゃならないんだってね。情なくなっちゃうの」
「わかるよ、それは」と僕は言った。それから僕は緑の父親がわけのわからいことを言ったのを思いだした。
「切符、上野駅?」と緑は言った。「なんのことかしら?よくわからないわね」
「それから<頼む><ミドリ>って」
「それは私のことを頼むって言ったんじゃないの?」
「あるいは君に上に駅に切符を買いにいってもらいたいのかもしれないよ」と僕は言った。「とにかくその四つの言葉の順番がぐしゃぐしゃだから意味がよくわからないんだ。上野駅で何か思いあたることない?」
「上野駅……」と言って緑は考えこんだ。「上野駅で思いだせるといえば私が二回家出したことね。小学校三年のときと五年のときで、どちらのときも上野から電車に乗って福島まで行ったの。レジからお金とって。何かで頭に来て、腹いせでやったのよ。福島に伯母の家があって、私その伯母のことわりに好きだったんで、そこに行ったのよ。そうするとお父さんが私を連れて帰るの。福島まで来て。二人で電車に乗ってお弁当を食べながら上野まで帰るのよ。そういうときね、お父さんはすごくポツポツとだけれど、私にいろんな話してくれるの。関東大震災のときの話だとか、戦争のときの話だとか、私が生まれた頃の話だとか、そういう普段あまりしたことないよう話ね。考えてみたら私とお父さんが二人きりでゆっくり話したのなんてそのときくらいだったわね。ねえ、信じられる?うちのお父さん、関東大震災のとき東京のどまん中にいて地震のあったことすら気がつかなかったのよ」
「まさか」と僕は唖然として言った。
「本当なのよ、それ。お父さんはそのとき自転車にリヤカーつけて小石川のあたり走ってたんだけど、何も感じなかったんですって。家に帰ったらそのへん瓦がみんな落ちて、家族は柱にしがみついてガタガタ震えてたの。それでお父さんはわけわからなくて『何やってるんだ、いったい?』って訊いたんだって。それがお父さんの関東大震災の思い出話」緑はそう言って笑った。
「お父さんの思い出話ってみんなそんな風なの。全然ドラマティックじゃないのね。みんなどこかずれてるのよ、コロッて。そういう話を聞いているとね、この五十年か六十年くらい日本にはたいした事件なんか何ひとつ起らなかったような気になってくるの。二・二六事件にしても太平洋戦争にしても、そう言えばそういうのあったっけなあっていう感じなの。おかしいでしょう?
そういう話をポツポツとしてくれるの。福島から上野に戻るあいだ。そして最後にいつもこういうの。どこいったって同じだぞ、ミドリって。そう言われるとね、子供心にそうなのかなあって思ったわよ」
「それが上野駅の思い出話?」
「そうよ」と緑は言った。「ワタナベ君は家出したことある?」
「ないね」
「どうして?」
「思いつかなかったんだよ。家出するなんて」
「あなたって変わってるわね」と緑は首をひねりながら感心したように言った。
「そうかな」と僕は言った。
「でもとにかくお父さんはあなたに私のこと頼むって言いたかったんだと思うわよ」
「本当?」
「本当よ。私にはそういうのよくわかるの、直感的に。で、あなたなんて答えたの?」
「よくわからないから、心配ない、大丈夫、緑ちゃんも切符もちゃんとやるから大丈夫ですって言っといたけど」
「じゃあお父さんにそう約束したのね?私の面倒みるって?」緑はそう言って真剣な顔つきで僕の目をのぞきこんだ。
「そうじゃないよ」と僕はあわてて言いわけした。「何がなんだかそのときよくわからなかったし――」
「大丈夫よ、冗談だから。ちょっとからかっただけよ」緑はそう言って笑った。「あなたってそいうところすごく可愛いのね」
コーヒーを飲んでしまうと僕と緑は病室に戻った。父親はまだぐっすりと眠っていた。耳を近づけると小さな寝息が聞こえた。午後が深まるにつれて窓の外の光はいかにも秋らしいやわらかな物静かな色に変化していった。鳥の群れがやってきて電線にとまり、そして去っていた。僕と緑は部屋の隅に二人で並んで座って、小さな声でいろんな話をした。彼女は僕の手相を見て、あなたは百五歳まで生きて三回結婚して交通事故で死ぬと予言した。悪くない人生だな、と僕は言った。
四時すぎに父親が目をさますと、緑は枕もとに座って、汗を拭いたり、水を飲ませたり頭の痛みのことを訊いたりした。看護婦がやってきた熱を測り、小便の回数をチェックし点滴の具合をたしかめた。僕はTV室のソファーに座ってサッカー中継を少し見た。
「そろそろ行くよ」と五時に僕は言った。それから父親に向かって「今からアルバイト行かなきゃならないんです」と説明した。「六時から十時半まで新宿でレコード売るんです」
彼は僕の方に目を向けて小さく肯いた。
「ねえ、ワタナベ君。私今あまりうまく言えないんだけれど、今日のことすごく感謝してるのよ。ありがとう」と玄関のロビーで緑が僕に言った。
「それほどのことは何もしてないよ」と僕は言った。「でももし僕で役に立つのならまた来週も来るよ。君のお父さんにももう一度会いたいしね」
「本当?」
「どうせ寮にいたってたいしたやることもないし、ここにくればキウリも食べられる」
緑は腕組みをして、靴のかかとでリノリウムの床をとんとんと叩いていた。
「今度また二人でお酒飲みに行きたいな」と彼女はちょっと首をかしげるようにして言った。
「ポルノ映画?」
「ポルノ見てからお酒飲むの」と緑は言った。「そしていつものように二人でいっばいいやらしい話をするの」
「僕はしてないよ。君がしてるんだ」と僕は抗議した。
「どっちだっていいわよ。とにかくそういう話をしながらいっばいお酒飲んでぐでんぐでんに酔払って、一緒に抱きあって寝るの」
「そのあとはだいたい想像つくね」と僕はため息をついて言った。「僕がやろうとすると、君が拒否するんだろう?」
「ふふん」と彼女は言った。
「まあとにかくまた今朝みたいに朝迎えに来たくれよ、来週の日曜日に。一緒にここに来よう」
「もう少し長いスカートはいて?」
「そう」と僕は言った。
 
でも結局その翌週の日曜日、僕は病院に行かなかった。緑の父親が金曜日の朝に亡くなってしまったからだ。
その朝の六時半に緑が僕に電話で、それを知らせた。電話がかかってきていることを教えるブザーが鳴って、僕はパジャマの上にカーディガンを羽織ってロビーに降り、電話をとった。冷たい雨が音もなく降っていた。お父さんさっき死んじゃったの、と小さな静かな声で緑が言った。何かできることあるかな、と僕は訊いてみた。
「ありがとう、大丈夫よ」と緑は言った。「私たちお葬式に馴れてるの。ただあなたに知せたかっただけなの」
彼女はため息のようなものをついた。
「お葬式には来ないでね。私あれ嫌いなの。ああいうところであなたに会いたくないの」
「わかった」と僕は言った。
「本当にポルノ映画につれてってくれる?」
「もちろん」
「すごくいやらしいやつよ」
「ちゃんとっ探しておくよ、そういうのを」
「うん。私の方から連絡するわ」と緑は言った。そして電話を切った。
 
しかしそれ以来一週間、彼女からは何の連絡もなかった。大学の教室でも会わなかったし、電話もかかってこなかった。寮に帰るたびに僕への伝言メモがないかと気にして見ていたのだが、僕への電話はただの一本もかかってはこなかった。僕はある夜、約束を果たすために緑のことを考えながらマスターベーションをしてみたのだったがどうもうまくいかなかった。仕方なく途中で直子に切りかえてみたのだが、直子のイメージも今回はあまり助けにならなかった。それでなんとなく馬鹿馬鹿しくなってやめてしまった。そしてウィスキーを飲んで、歯を磨いて寝た。
 
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