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1Q84 (1-1)

时间: 2018-10-13    进入日语论坛
核心提示:第1章 青豆      見かけにだまされないように タクシーのラジオは、FM放送のクラシック音楽番組を流していた。曲はヤ
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第1章 青豆
      見かけにだまされないように
 
 
 タクシーのラジオは、FM放送のクラシック音楽番組を流していた。曲はヤナーチェックの『シンフォニエッタ』。渋滞に巻き込まれたタクシーの中で聴くのにうってつけの音楽とは言えないはずだ。運転手もとくに熱心にその音楽に耳を澄ませているようには見えなかった。中年の運転手は、まるで舳先《へさき》に立って不吉な潮目を読む老練な漁師のように、前方に途切れなく並んだ車の列を、ただ口を閉ざして見つめていた。青豆《あおまめ》は後部席のシートに深くもたれ、軽く目をつむって音楽を聴いていた。
 ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』の冒頭部分を耳にして、これはヤナーチェックの『シンフォニエッタ』だと言い当てられる人が、世間にいったいどれくらいいるだろう。おそらく「とても少ない」と「ほとんどいない」の中間くらいではあるまいか。しかし青豆にはなぜかそれができた。
 ヤナーチェックは一九二六年にその小振りなシンフォニーを作曲した。冒頭のテーマはそもそも、あるスポーツ大会のためのファンファーレとして作られたものだ。青豆は一九二六年のチェコ・スロバキアを想像した。第一次大戦が終結し、長く続いたハプスブルク家の支配からようやく解放され、人々はカフェでピルゼン・ビールを飲み、クールでリアルな機関銃を製造し、中部ヨーロッパに訪れた束の間の平和を味わっていた。フランツ・カフカは二年前に不遇のうちに世を去っていた。ほどなくヒットラーがいずこからともなく出現し、その小ぢんまりした美しい国をあっという間にむさぼり食ってしまうのだが、そんなひどいことになるとは、当時まだ誰ひとりとして知らない。歴史が人に示してくれる最も重要な命題は「当時、先のことは誰にもわかりませんでした」ということかもしれない。青豆は音楽を聴きながら、ボヘミアの平原を渡るのびやかな風を想像し、歴史のあり方について思いをめぐらせた。
 一九二六年には大正天皇が崩御し、年号が昭和に変わった。日本でも暗い嫌な時代がそろそろ始まろうとしていた。モダニズムとデモクラシーの短い間奏曲が終わり、ファシズムが幅をきかせるようになる。
 歴史はスポーツとならんで、青豆が愛好するもののひとつだった。小説を読むことはあまりないが、歴史に関連した書物ならいくらでも読めた。歴史について彼女が気に入っているのは、すべての事実が基本的に特定の年号と場所に結びついているところだった。歴史の年号を記憶するのは、彼女にとってそれほどむずかしいことではない。数字を丸暗記しなくても、いろんな出来事の前後左右の関係性をつかんでしまえば、年号は自動的に浮かび上がってくる。中学と高校では、青豆は歴史の試験では常にクラスで最高点をとった。歴史の年号を覚えるのが苦手だという人を目にするたびに、青豆は不思議に思った。どうしてそんな簡単なことができないのだろう?
 青豆というのは彼女の本名である。父方の祖父は福島県の出身で、その山の中の小さな町だか村だかには、青豆という姓をもった人々が実際に何人かいるということだった。しかし彼女自身はまだそこに行ったことがない。青豆が生まれる前から、父親は実家と絶縁していた。母方も同じだ。だから青豆は祖父母に一度も会ったことがない。彼女はほとんど旅行をしないが、それでもたまにそういう機会があれば、ホテルに備え付けられた電話帳を開いて、青豆という姓を持った人がいないか調べることを習慣にしていた。しかし青豆という名前を持つ人物は、これまでに彼女が訪れたどこの都市にも、どこの町にも、一人として見あたらなかった。そのたびに彼女は、大海原に単身投げ出された孤独な漂流者のような気持ちになった。
 名前を名乗るのがいつもおっくうだった。自分の名前を口にするたびに、相手は不思議そうな目で、あるいは戸惑った目で彼女の顔を見た。青豆さん? そうです。青い豆と書いて、アオマメです。会社に勤めているときには名刺を持たなくてはならなかったので、そのぶん煩わしいことが多かった。名刺を渡すと相手はそれをしばし凝視した。まるで出し抜けに不幸の手紙でも渡されたみたいに。電話口で名前を告げると、くすくす笑われることもあった。役所や病院の待合室で名前を呼ばれると、人々は頭を上げて彼女を見た。「青豆」なんていう名前のついた人間はいったいどんな顔をしているんだろうと。
 ときどき間違えて「枝豆さん」と呼ぶ人もいた。「空豆さん」といわれることもある。そのたびに「いいえ、枝豆(空豆)ではなく、青豆です。まあ似たようなものですが」と訂正した。すると相手は苦笑しながら謝る。「いや、それにしても珍しいお名前ですね」と言う。三十年間の人生でいったい何度、同じ台詞を聞かされただろう。どれだけこの名前のことで、みんなにつまらない冗談を言われただろう。こんな姓に生まれていなかったら、私の人生は今とは違うかたちをとっていたかもしれない。たとえば佐藤だとか、田中だとか、鈴木だとか、そんなありふれた名前だったら、私はもう少しリラックスした人生を送り、もう少し寛容な目で世間を眺めていたかもしれない。あるいは。
 青豆は目を閉じて、音楽に耳を澄ませていた。管楽器のユニゾンの作り出す美しい響きを頭の中にしみ込ませた。それからあることにふと思い当たった。タクシーのラジオにしては音質が良すぎる。どちらかといえば小さな音量でかかっているのに、音が深く、倍音がきれいに聞き取れる。彼女は目を開けて身を前に乗り出し、ダッシュボードに埋め込まれたカーステレオを見た。機械は真っ黒で、つややかに誇らしそうに光っていた。メーカーの名前までは読みとれなかったが、見かけからして高級品であることはわかった。たくさんのつまみがつき、緑色の数字がパネルに上品に浮かび上がっている。おそらくはハイエンドの機器だ。普通の法人タクシーがこんな立派な音響機器を車に装備するはずがない。
 青豆はあらためて車内を見まわした。タクシーに乗ってからずっと考え事をしていたので気づかなかったのだが、それはどう見ても通常のタクシーではなかった。内装の品質が良く、シートの座り心地も優れている。そしてなにより車内が静かだ。遮音が行き届いているらしく、外の騒音がほとんど入ってこない。まるで防音装置の施されたスタジオにいるみたいだ。たぶん個人タクシーなのだろう。個人タクシーの運転手の中には、車にかける費用を惜しまない人がいる。彼女は目だけを動かしてタクシーの登録票を探したが、見あたらなかった。しかし無免許の違法タクシーには見えない。正規のタクシー・メーターがついて、正確に料金を刻んでいる。2150円という料金が表示されている。なのに運転手の名前を記した登録票はどこにもない。
「良い車ですね。とても静かだし」と青豆は運転手の背中に声をかけた。「なんていう車なんですか?」
「トヨタのクラウン・ロイヤルサルーン」と運転手は簡潔に答えた。
「音楽がきれいに聞こえる」
「静かな車です。それもあってこの車を選んだんです。こと遮音にかけてはトヨタは世界でも有数の技術を持っていますから」
 青豆は肯いて、もう一度シートに身をもたせかけた。運転手の話し方には何かしらひっかかるものがあった。常に大事なものごとをひとつ言い残したようなしゃべり方をする。たとえば(あくまでたとえばだが)トヨタの車は遮音に関しては文句のつけようがないが、ほかの[#傍点]何か[#傍点終わり]に関しては問題がある、というような。そして話し終えたあとに、含みのある小さな沈黙の塊が残った。車内の狭い空間に、それがミニチュアの架空の雲みたいにぽっかり浮かんでいた。おかげで青豆はどことなく落ち着かない気持ちになった。
「たしかに静か」と彼女はその小さな雲を追いやるように発言した。「それにステレオの装置もずいぶん高級なものみたい」
「買うときには、決断が必要でした」、退役した参謀が過去の作戦について語るような口調で運転手は言った。「でもこのように長い時間を車内で過ごしますから、できるだけ良い音を聴いていたいですし、また——」
 青豆は話の続きを待った。しかし続きはなかった。彼女はもう一度目を閉じて、音楽に耳を澄ませた。ヤナーチェックが個人的にどのような人物だったのか、青豆は知らない。いずれにせよおそらく彼は、自分の作曲した音楽が一九八四年の東京の、ひどく渋滞した首都高速道路上の、トヨタ・クラウン・ロイヤルサルーンのひっそりとした車内で、誰かに聴かれることになろうとは想像もしなかったに違いない。
 しかしなぜ、その音楽がヤナーチェックの『シンフォニエッタ』だとすぐにわかったのだろう、と青豆は不思議に思った。そしてなぜ、私はそれが一九二六年に作曲されたと知っているのだろう。彼女はとくにクラシック音楽のファンではない。ヤナーチェックについての個人的な思い出があるわけでもない。なのにその音楽の冒頭の一節を聴いた瞬間から、彼女の頭にいろんな知識が反射的に浮かんできたのだ。開いた窓から一群の鳥が部屋に飛び込んでくるみたいに。そしてまた、その音楽は青豆に、[#傍点]ねじれ[#傍点終わり]に似た奇妙な感覚をもたらした。痛みや不快さはそこにはない。ただ身体のすべての組成がじわじわと物理的に絞り上げられているような感じがあるだけだ。青豆にはわけがわからなかった。『シンフォニエッタ』という音楽が私にこの不可解な感覚をもたらしているのだろうか。
「ヤナーチェック」と青豆は半ば無意識に口にした。言ってしまってから、そんなことは言わなければよかったと思った。
「なんですか?」
「ヤナーチェック。この音楽を作曲した人」
「知りませんね」
「チェコの作曲家」と青豆は言った。
「ほう」と運転手は感心したように言った。
「これは個人タクシーですか?」と青豆は話題を変えるために質問した。
「そうです」と運転手は言った。そしてひとつ間を置いた。「個人でやってます。この車は二台目になります」
「シートの座り心地がとてもいい」
「ありがとうございます。ところでお客さん」と運転手は少しだけ首をこちらに曲げて言った。
「ひょっとしてお急ぎですか?」
「渋谷で人と待ち合わせがあります。だから首都高に乗ってもらったんだけど」
「何時に待ち合わせてます?」
「四時半」と青豆は言った。
「今が三時四十五分ですね。これじゃ間に合わないな」
「そんなに渋滞はひどいの?」
「前の方でどうやらでかい事故があったようです。普通の渋滞じゃありません。さっきからほとんど前に進んでいませんから」
 どうしてこの運転手はラジオで交通情報を聞かないのだろう、と青豆は不思議に思った。高速道路が壊滅的な渋滞状態に陥って、足止めを食らっている。タクシーの運転手なら普通、専用の周波数に合わせて情報を求めるはずだ。
「交通情報を聞かなくても、そういうことはわかるの?」と青豆は尋ねた。
「交通情報なんてあてになりゃしません」と運転手はどことなく空虚な声で言った。「あんなもの、半分くらいは嘘です。道路公団が自分に都合のいい情報を流しているだけです。今ここで本当に何が起こっているかは、自分の目で見て、自分の頭で判断するしかありません」
「それであなたの判断によれば、この渋滞は簡単には解決しない?」
「当分は無理ですね」と運転手は静かに肯きながら言った。「そいつは保証できます。いったんこうがちがちになっちまうと、首都高は地獄です。待ち合わせは大事な用件ですか?」
 青豆は考えた。「ええ、とても。クライアントとの待ち合わせだから」
「そいつは困りましたね。お気の毒ですが、たぶん間に合いません」
 運転手はそう言って、[#傍点]こり[#傍点終わり]をほぐすように軽く何度か首を振った。首の後ろのしわが太古の生き物のように動いた。その動きを見るともなく見ているうちに、ショルダーバッグの底に入っている鋭く尖った物体のことを青豆はふと思い出した。手のひらが微かに汗ばんだ。
「じゃあ、どうすればいいのかしら?」
「どうしようもありません。ここは首都高速道路ですから、次の出口にたどり着くまでは手の打ちようがないです。一般道路のようにちょっとここで降りて、最寄りの駅から電車に乗るというわけにはいきません」
「次の出口は?」
「池尻ですが、そこに着くには日暮れまでかかるかもしれませんよ」
 日暮れまで? 青豆は自分が日暮れまで、このタクシーの中に閉じこめられるところを想像した。ヤナーチェックの音楽はまだ続いている。弱音器つきの弦楽器が気持ちの高まりを癒すように、前面に出てくる。さっきのねじれの感覚は今ではもうずいぶん収まっていた。あれはいったいなんだったのだろう?
 青豆は砧《きぬた》の近くでタクシーを拾い、用賀から首都高速道路三号線に乗った。最初のうち車の流れはスムーズだった。しかし三軒茶屋の手前から急に渋滞が始まり、やがてほとんどぴくりとも動かなくなった。下り線は順調に流れている。上り線だけが悲劇的に渋滞している。午後の三時過ぎは通常であれば、三号線の上りが渋滞する時間帯ではない。だからこそ青豆は運転手に、首都高速に乗ってくれと指示したのだ。
「高速道路では時間料金は加算されません」と運転手はミラーに向かって言った。「だから料金のことは心配しなくていいです。でもお客さん、待ち合わせに遅れると困るでしょう?」
「もちろん困るけど、でも手の打ちようもないんでしょう?」
 運転手はミラーの中の青豆の顔をちらりと見た。彼は淡い色合いのサングラスをかけていた。光の加減で、青豆の方からは表情がうかがえない。
「あのですね、方法がまったくないってわけじゃないんです。いささか強引な非常手段になりますが、ここから電車で渋谷まで行くことはできます」
「非常手段?」
「あまりおおっぴらには言えない方法ですが」
 青豆は何も言わず、目を細めたまま話の続きを待った。
「ほら、あの先に車を寄せるスペースがあるでしょう」と運転手は前方を指さして言った。「エッソの大きな看板が立っているあたりです」
 青豆が目をこらすと、二車線の道路の左側に、故障車を停めるためのスペースが設置されているのが見えた。首都高速道路には路肩がないから、ところどころにそういう緊急避難場所が設けられている。非常用電話の入った黄色いボックスがあり、高速道路事務所に連絡することができる。そのスペースには今のところ、車は一台も停まっていなかった。対向車線を隔てたビルの屋上に大きなエッソ石油の広告看板があった。にっこり笑った虎が給油ホースを手にしている。
「実はですね、地上に降りるための階段があそこにあります。火災とか大地震が起きたときに、ドライバーが車を捨ててそこから地上に降りられるようになっているわけです。普段は道路補修の作業員なんかが使っています。その階段を使って下に降りれば、近くに東急線の駅があります。そいつに乗れば、あっという間に渋谷です」
「首都高に非常階段があるなんて知らなかった」と青豆は言った。
「一般にはほとんど知られてはいません」
「しかし緊急事態でもないのに、その階段を勝手に使ったりすると、問題になるんじゃないかしら?」
 運転手は少しだけ間を置いた。「どうでしょうね。道路公団の細かい規則がどうなっているのか、私にもよくわかりません。しかし誰に迷惑をかけることでもなし、大目に見てもらえるのではないでしょうか。だいたいそんなところ、誰もいちいち見張っちゃいません。道路公団ってのはどこでも職員の数こそ多いけど、実際に働いている人間が少ないことで有名なんです」
「どんな階段?」
「そうですね、火災用の非常階段に似ています。ほら、古いビルの裏側によくついているようなやつ。とくに危険はありません。高さはビルの三階ぶんくらいありますが、普通に降りられます。いちおう入り口のところに柵がついていますが、高いものじゃないし、その気になればわけなく乗り越えられます」
「運転手さんはその階段を使ったことがあるの?」
 返事はなかった。運転手はルームミラーの中で淡く微笑んだだけだ。いろんな意味に取れそうな笑みだった。
「あくまでお客さん次第です」、運転手は音楽に合わせて指先でハンドルをとんとんと軽く叩きながらそう言った。「ここに座って良い音で音楽を聴きながら、のんびりしてらしても、私としちゃちっともかまいません。いくらがんばってもどこにも行けないんですから、こうなったらお互い腹をくくるしかありません。しかしもし緊急の用件がおありなら、そういう非常手段も[#傍点]なくはない[#傍点終わり]ってことです」
 青豆は軽く顔をしかめ、腕時計に目をやり、それから顔を上げてまわりの車を眺めた。右側には、うっすらと白くほこりをかぶった黒い三菱パジェロがいた。助手席に座った若い男は窓を開けて、退屈そうに煙草を吸っていた。髪が長く、日焼けして、えんじ色のウィンドブレーカーを着ている。荷物室には使い込まれた汚ないサーフボードが何枚か積んであった。その前にはグレーのサーブ900が停まっていた。ティントしたガラス窓はぴたりと閉められ、どんな人間が乗っているのかは外からはうかがえない。実にきれいにワックスがかけられている。そばに寄ったら車体に顔が映りそうなくらいだ。
 青豆の乗ったタクシーの前には、リアバンパーにへこみのある練馬ナンバーの赤いスズキ・アルトがいた。若い母親がハンドルを握っている。小さな子供は退屈して、シートの上に立って動き回っていた。母親はうんざりしたような顔で注意を与えている。母親の口の動きがガラス越しに読みとれた。十分前とまったく同じ光景だ。この十分のあいだに、車は十メートルも進んではいないだろう。
 青豆はひとしきり考えをめぐらせた。いろんな要素を、優先順位に従って頭の中で整理した。結論が出るまでに時間はかからなかった。ヤナーチェックの音楽も、それにあわせるように最終楽章に入ろうとしていた。
 青豆はショルダーバッグから小振りなレイバンのサングラスを出してかけた。そして財布から千円札を三枚取り出して運転手に渡した。
「ここで降ります。遅れるわけにはいかないから」と彼女は言った。
 運転手は肯いて、金を受け取った。「領収書は?」
「けっこうです。お釣りもいらない」
「それはどうも」と運転手は言った。「風が強そうですから、気をつけて下さい。足を滑らせたりしないように」
「気をつけます」と青豆は言った。
「それから」と運転手はルームミラーに向かって言った。「ひとつ覚えておいていただきたいのですが、ものごとは見かけと違います」
 ものごとは見かけと違う、と青豆は頭の中でその言葉を繰り返した。そして軽く眉をひそめた。
「それはどういうことかしら?」
 運転手は言葉を選びながら言った。「つまりですね、言うなればこれから[#傍点]普通ではない[#傍点終わり]ことをなさるわけです。そうですよね? 真っ昼間に首都高速道路の非常用階段を降りるなんて、普通の人はまずやりません。とくに女性はそんなことしません」
「そうでしょうね」と青豆は言った。
「で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくるかもしれない。私にもそういう経験はあります。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」
 青豆は運転手の言ったことについて考えた。考えているうちにヤナーチェックの音楽が終わり、聴衆が間髪を入れずに拍手を始めた。どこかのコンサートの録音を放送していたのだろう。長い熱心な拍手だった。ブラヴォーというかけ声も時折聞こえた。指揮者が微笑みを浮かべ、立ち上がった聴衆に向かって何度も頭を下げている光景が目に浮かんだ。彼は顔を上げ、手を上げ、コンサートマスターと握手をし、後ろを向き、両手を上げてオーケストラのメンバーを賞賛し、前を向いてもう一度深く頭を下げる。録音された拍手を長く聞いていると、そのうちに拍手に聞こえなくなる。終わりのない火星の砂嵐に耳を澄ませているみたいな気持ちになる。
「現実はいつだってひとつしかありません」、書物の大事な一節にアンダーラインを引くように、運転手はゆっくりと繰り返した。
「もちろん」と青豆は言った。そのとおりだ。ひとつの物体は、ひとつの時間に、ひとつの場所にしかいられない。アインシュタインが証明した。現実とはどこまでも冷徹であり、どこまでも孤独なものだ。
 青豆はカーステレオを指さした。「とても良い音だった」
 運転手は肯いた。「作曲家の名前はなんて言いましたっけ?」
「ヤナーチェック」
「ヤナーチェック」と運転手は反復した。大事な合い言葉を暗記するみたいに。それからレバーを引いて後部の自動ドアを開けた。「お気をつけて。約束の時間に間に合うといいんですが」
 青豆は革の大振りなショルダーバッグを手に車を降りた。車を降りるときにもまだ、ラジオの拍手は鳴りやまず続いていた。彼女は十メートルばかり前方にある緊急避難用スペースに向けて、高速道路の端を注意深く歩いた。反対行きの車線を大型トラックが通り過ぎるたびに、高いヒールの下で路面がゆらゆらと揺れた。それは揺れというよりはうねりに近い。荒波の上に浮かんだ航空母艦の甲板を歩いているようだ。
 赤いスズキ・アルトに乗った小さな女の子が、助手席の窓から顔を突き出し、ぽかんと口を開けて青豆を眺めていた。それから振り向いて母親に「ねえねえ、あの女の人、何しているの? どこにいくの?」と尋ねた。「私も外に出て歩きたい。ねえ、お母さん、私も外に出たい。ねえ、お母さん」と大きな声で執拗に要求した。母親はただ黙って首を振った。それから責めるような視線を青豆にちらりと送った。しかしそれがあたりで発せられた唯一の声であり、目についた唯一の反応だった。ほかのドライバーたちはただ煙草をふかせ、眉を軽くひそめ、彼女が側壁と車のあいだを迷いのない足取りで歩いていく姿を、眩しいものを見るような目で追っていた。彼らは一時的に判断を保留しているようだった。たとえ車が動いていないにせよ、首都高速道路の路上を人が歩くのは日常的な出来事とは言えない。それを現実の光景として知覚し受け入れるまでにいくらか時間がかかる。歩いているのがミニスカートにハイヒールというかっこうの若い女性であれば、それはなおさらだ。
 青豆は顎を引いてまっすぐ前方を見据え、背筋を伸ばし、人々の視線を肌に感じながら、確かな足取りで歩いていった。シャルル・ジョルダンの栗色のヒールが路上に乾いた音を立て、風がコートの裾を揺らせた。既に四月に入っていたが、風はまだ冷たく、荒々しさの予感を含んでいた。彼女はジュンコ・シマダのグリーンの薄いウールのスーツの上に、ベージュのスプリング・コートを着て、黒い革のショルダーバッグをかけていた。肩までの髪はきれいにカットされ、よく手入れされている。装身具に類するものは一切つけていない。身長は一六八センチ、贅肉はほとんどひとかけらもなく、すべての筋肉は念入りに鍛え上げられているが、それはコートの上からはわからない。
 正面から仔細に顔を観察すれば、左右で耳のかたちと大きさがかなり異なっていることがわかるはずだ。左の耳の方が右の耳よりずっと大きくて、かたちがいびつなのだ。しかしそんなことにはまず誰も気がつかない。耳はだいたいいつも髪の下に隠されていたからだ。唇はまっすぐ一文字に閉じられ、何によらず簡単には馴染まない性格を示唆している。細い小さな鼻と、いくぶん突き出した頬骨と、広い額と、長い直線的な眉も、その傾向にそれぞれ一票を投じている。しかしおおむね整った卵形の顔立ちである。好みはあるにせよ、いちおう美人といってかまわないだろう。問題は、顔の表情が極端に乏しいところにあった。堅く閉じられた唇は、よほどの必要がなければ微笑みひとつ浮かべなかった。その両目は優秀な甲板監視員のように、怠りなく冷ややかだった。おかげで、彼女の顔が人々に鮮やかな印象を与えることはまずなかった。多くの場合人々の注意や関心を惹きつけるのは、静止した顔立ちの善し悪しよりは、むしろ表情の動き方の自然さや優雅さなのだ。
 おおかたの人は青豆の顔立ちをうまく把握できなかった。いったん目を離すともう、彼女がどんな顔をしていたのか描写することができない。どちらかといえば個性的な顔であるはずなのに、細部の特徴がどうしてか頭に残らない。そういう意味では彼女は、巧妙に擬態する昆虫に似ていた。色やかたちを変えて背景の中に潜り込んでしまうこと、できるだけ目立たないこと、簡単に記憶されないこと、それこそがまさに青豆の求めていることだった。小さな子供の頃から彼女はそのようにして自分の身を護ってきたのだ。
 ところが何かがあって顔をしかめると、青豆のそんなクールな顔立ちは、劇的なまでに一変した。顔の筋肉が思い思いの方向に力強くひきつり、造作の左右のいびつさが極端なまでに強調され、あちこちに深いしわが寄り、目が素早く奥にひっこみ、鼻と口が暴力的に歪み、顎がよじれ、唇がまくれあがって白い大きな歯がむき出しになった。そしてまるでとめていた紐が切れて仮面がはがれ落ちたみたいに、彼女はあっという間にまったくの別人になった。それを目にした相手は、そのすさまじい変容ぶりに肝を潰した。それは大いなる無名性から息を呑む深淵への、驚くべき跳躍だった。だから彼女は知らない人の前では、決して顔をしかめないように心がけていた。彼女が顔を歪めるのは、自分ひとりのときか、あるいは気に入らない男を脅すときに限られていた。
 緊急用駐車スペースに着くと、青豆は立ち止まってあたりを見まわし、非常階段を探した。それはすぐに見つかった。運転手が言ったように、階段の入り口には腰より少し上くらいの高さの鉄柵があり、扉には鍵がかかっていた。タイトなミニスカートをはいてその鉄柵を乗り越えるのはいささか面倒だが、人目さえ気にしなければとくに難しいことでもない。彼女は迷わずハイヒールを脱ぎ、ショルダーバッグの中に突っ込んだ。素足で歩けばストッキングはたぶんだめになるだろう。でもそんなものはどこかの店で買えばいい。
 人々は彼女がハイヒールを脱ぎ、それからコートを脱ぐ様子を無言のまま見守っていた。すぐ前に止まっている黒いトヨタ・セリカの開いた窓から、マイケル・ジャクソンの甲高い声が背景音楽として流れてきた。『ビリー・ジーン』。ストリップ・ショーのステージにでも立っているみたい、と彼女は思った。いいわよ。見たいだけ見ればいい。渋滞に巻き込まれてきっと退屈しているんでしょう。でもね、みなさん、これ以上は脱がないわよ。今日のところはハイヒールとコートだけ。お気の毒さま。
 青豆はショルダーバッグが落ちないようにたすきがけにした。さっきまで乗っていた真新しい黒のトヨタ・クラウン・ロイヤルサルーンが、ずっと向こうに見えた。午後の太陽の光を受けて、フロントグラスがミラーグラスのようにまぶしく光っていた。運転手の顔までは見えない。しかし彼はこちらを見ているはずだ。
 [#ゴシック体]見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです。[#ゴシック体終わり]
 青豆は大きく息を吸い込み、大きく息をはいた。そして『ビリー・ジーン』のメロディーを耳で追いながら鉄柵を乗り越えた。ミニスカートが腰のあたりまでまくれあがった。かまうものか、と彼女は思った。見たければ勝手に見ればいい。スカートの中の何を見たところで、私という人間が見通せるわけではないのだ。そしてほっそりとした美しい両脚は、青豆が自分の身体の中でいちばん誇らしく思っている部分だった。
 鉄柵の向こう側に降りると、青豆はスカートの裾をなおし、手のほこりを払い、再びコートを着て、ショルダーバッグを肩にかけた。サングラスのブリッジを奥に押した。非常階段は目の前にある。灰色に塗装された鉄の階段だ。簡素で、事務的で、機能性だけが追求された階段。ストッキングだけの素足に、タイトなミニスカートをはいた女性が昇り降りするように作られてはいない。ジュンコ・シマダも、首都高速道路三号線の緊急避難用階段を昇り降りすることを念頭に置いてスーツをデザインしてはいない。大型トラックが反対車線を通り過ぎ、階段をぶるぶると揺らせた。風が鉄骨の隙間を音を立てて吹き抜けた。しかしとにかく階段はそこにあった。あとは地上に降りていくだけだ。
 青豆は最後に後ろを振り返り、講演を終えて演壇に立ったまま、聴衆からの質問を待ち受ける人のような姿勢で、路上に隙間なく並んだ自動車を左から右に、そして右から左に見渡した。自動車の列はさっきからまったく前進していない。人々はそこに足止めされ、ほかにすることもないまま、彼女の一挙一動を見守っていた。この女はいったい何をしようとしているのだろう、と彼らはいぶかっていた。関心と無関心が、うらやましさと軽侮が入り交じった視線が、鉄柵の向こう側に降りた青豆の上に注がれていた。彼らの感情はひとつの側に転ぶことができぬまま、不安定な秤《はかり》のようにふらふらと揺れていた。重い沈黙があたりに垂れ込めていた。手を上げて質問するものもいなかった(質問されてももちろん青豆には答えるつもりはなかったが)。人々は永遠に訪れることのないきっかけを、ただ無言のうちに待ち受けていた。青豆は軽く顎を引き、下唇を噛み、濃い緑色のサングラスの奥から彼らをひととおり品定めした。
 私が誰なのか、これからどこに行って何をしようとしているのか、きっと想像もつかないでしょうね。青豆は唇を動かさずにそう語りかけた。あなたたちはそこに縛りつけられたっきり、どこにも行けない。ろくに前にも進めないし、かといって後ろにも下がれない。でも私はそうじゃない。私には済ませなくてはならない仕事がある。果たすべき使命がある。だから私は先に進ませてもらう。
 青豆は最後に、そこにいるみんなに向かって思い切り顔をしかめたかった。しかしなんとかそれを思いとどまった。そんな余計なことをしている余裕はない。一度顔をしかめると、もとの表情を回復するのに手間がかかるのだ。
 青豆は無言の観衆に背を向け、足の裏に鉄の無骨な冷たさを感じながら、緊急避難用の階段を慎重な足取りで降り始めた。四月を迎えたばかりの冷ややかな風が彼女の髪を揺らし、いびつなかたちの左側の耳をときおりむきだしにした。
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