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1Q84 (2-5)

时间: 2018-10-13    进入日语论坛
核心提示:第5章 青豆      一匹のネズミが菜食主義の猫に出会う あゆみが死んだという事実を、事実としていったん受け入れたあと
(单词翻译:双击或拖选)
 第5章 青豆
      一匹のネズミが菜食主義の猫に出会う
 
 
 あゆみが死んだという事実を、事実としていったん受け入れたあと、青豆の中でひとしきり意識の調整に似た作業が進行した。やがてそれが一段落すると、青豆は泣き始めた。顔を両手で覆い、声を出さずに肩を細かく震わせて静かに泣いた。自分が泣いていることを、世界中の誰にも気取られたくないという様子で。
 窓のカーテンは隙間もなく閉まっていたが、それでも誰がどこから見ているか知れたものではない。その夜青豆は台所のテーブルに夕刊を広げ、その前で途切れなく泣いた。ときどきこらえきれずに鳴咽《おえつ》を上げたが、あとは音もなく泣いていた。涙が手をつたって新聞の上にこぼれた。
 この世界にあって、青豆は簡単には泣かない。泣きたいことがあれば、むしろ腹を立てる。ほかの誰かに対して、あるいは自分に対して。だから彼女が涙を流すのは、ずいぶん珍しいことなのだ。しかしそのぶん、いったん涙がこぼれ始めると歯止めがきかなくなる。それほど長く泣いたのは、大塚|環《たまき》が自殺したとき以来だ。あれは何年前になるだろう。思い出せない。とにかく[#傍点]ずいぶん[#傍点終わり]昔だ。青豆はそのときにはなにしろとめどもなく泣いた。何日も泣き続けた。何も口にせず、外にも出なかった。涙として流れ出た水分を時々体内に補給し、倒れ込むように短いうたた寝をするだけだった。あとの時間は休みなく泣いた。そのとき以来だ。
 この世界にはもうあゆみはいない。彼女は体温を失った死体になり、今頃は司法解剖に回されているだろう。解剖が終わるとまたひとつに縫い合わされ、おそらくは簡単な葬儀があり、そのあとで火葬場に運ばれ、焼かれてしまう。煙となって空に立ち上り、雲に混じる。そして雨となって地表に降り、どこかの草を育てる。何を語ることもない、名もなき草だ。しかし青豆はもう二度と、生きたあゆみを目にすることはない。それは自然の流れに反することであり、おそろしく不公平なことであり、道筋を間違えたいびつな考え方としか思えなかった。
 大塚環がこの世を去って以来、青豆がいささかなりとも友情に似た気持ちを抱けた相手は、あゆみの他にはいない。しかし残念ながら、その友情には限界が存在した。あゆみは現職の警察官であり、青豆は連続殺人者だった。確信を持った良心的殺人者ではあるけれど、殺人はあくまで殺人であり、法的に見れば青豆は疑問の余地なく犯罪者である。青豆は逮捕される側に属し、あゆみは逮捕する側に属している。
 だからあゆみがもっと深い繋がりを求めてきても、青豆は心を硬くして、それにこたえないように努めなくてはならなかった。お互いを日常的に必要とするような親しい関係になってしまうと、いろんな矛盾やほころびがそこに避けがたく顔を出してくるし、それは青豆の命取りになりかねない。青豆は基本的に正直で率直な人間だった。大事なところで誰かに嘘をついたり、隠し事をしながら、相手と誠実な人間関係を結ぶことはできない。そんな状況は青豆を混乱させるし、混乱は彼女の求めるものではなかった。
 あゆみにもそれはある程度わかっていたはずだ。青豆が何か表には出せない個人的な秘密を抱えていて、そのために自分とのあいだに一定の距離を意図的に置こうとしているということが。あゆみは直観に優れている。いかにも開けっぴろげな見かけの半分くらいは演技的なもので、その奥には柔らかく傷つきやすい感受性が潜んでいる。青豆はそれを知っていた。自分のとっていた防御的な姿勢のせいで、あゆみは淋しい思いをしていたかもしれない。拒否され、遠ざけられていると感じていたかもしれない。そう思うと針で刺されたように胸が痛んだ。
 
 そのようにしてあゆみは殺されてしまった。たぶん街で見知らぬ男と知り合い、一緒に酒を飲み、ホテルに入ったのだろう。それから暗い密室で手の込んだセックスプレイが始まった。手錠、さるぐつわ、目隠し。状況が目に浮かぶ。男は女の首をバスローブの紐で絞め、相手が悶え苦しむのを見ながら興奮し、射精する。しかしそのとき男は、バスローブの紐を握った手に力を入れすぎてしまったのだ。ぎりぎりで終わるはずのことが終わらなかった。
 あゆみ自身もそんなことがいつか起こるのではないかと恐れていたはずだ。あゆみは定期的な激しい性行為を必要としていた。彼女の肉体は——そしておそらく精神は——それを求めていた。でも決まった恋人はほしくない。固定された人間関係は彼女を息苦しくさせ、不安にさせる。だから適当な行きずりの男とその場限りのセックスをする。そのあたりの事情は青豆と似ていなくはない。ただあゆみには、青豆よりもっと奥深いところまで足を運んでしまう傾向があった。あゆみはどちらかというとリスキーで奔放なセックスを好んだし、傷つけられることをおそらくは無意識的に望んでいた。青豆は違う。青豆は用心深いし、誰にも自分を傷つけさせたりはしない。そんなことをされそうになったら、激しく抵抗するだろう。しかしあゆみには、相手が何かを求めれば、それがどんなことであれ、ついこたえてしまう傾向があった。そのかわりに相手はいったい自分に何を与えてくれるのだろう、と期待する。危険な傾向だ。何といっても行きずりの男たちなのだ。彼らがいったいどんな欲望を抱えているのか、どんな傾向を隠しているのか、その場になってみなければわからない。あゆみ本人もその危険性はもちろん承知していた。だからこそ青豆という安定したパートナーを必要としたのだ。自分に歯止めをかけ、注意深く見守ってくれる存在を。
 青豆もあゆみを必要としていた。あゆみには青豆が持ち合わせていないいくつかの能力が具わっていた。人を安心させる開放的で陽気な人柄。愛想のよさ、自然な好奇心、子供のような積極性、会話の面白さ。人目を惹きつける大きな胸。青豆はそのそばでただミステリアスな微笑みを顔に浮かべていればよかった。男たちはその奥にいったい何があるのかを知りたがった。そういう意味では、青豆とあゆみは理想的な組み合わせだった。無敵のセックスマシーン。
 たとえどんな事情があったにせよ、私はもっとあの子を受け入れてあげるべきだったんだ、と青豆は思った。あの子の気持ちを受け止め、しっかりと抱きしめてやるべきだった。それこそがあの子の求めているものだった。無条件に受け入れられ、抱きしめてもらうこと。たとえいっときでもいいからとにかく安心させてもらうこと。でも私はその求めにこたえることができなかった。自分の身を護ろうとする本能が強く、それに加えて大塚環の記憶を汚すまいという意識が強すぎた。
 そしてあゆみは青豆抜きで、一人だけで夜の街に出て、首を絞められて死んだ。冷たい本物の手錠を両手にかけられ、目隠しをされ、ストッキングだか下着だかを口に突っ込まれて。あゆみ自身が常々危惧していたことが、そのまま現実になったのだ。もし青豆があゆみをもっと優しく受け入れていたなら、あゆみはおそらくその日、一人で街に出かけたりはしなかっただろう。電話をかけて青豆を誘っていたはずだ。そして二人はもっと安全な場所で、お互いをチェックしあいながら男たちに抱かれていたはずだ。でもたぶんあゆみは青豆に遠慮をしたのだ。そして青豆の方からあゆみに電話をかけて誘うことは一度もなかった。
 午前四時前に、青豆は部屋の中に一人でいることに耐えられなくなり、サンダルを履いて部屋を出た。そしてショートパンツにタンクトップというかっこうのまま、未明の街を当てもなく歩きまわった。誰かが声をかけてきたが振り向きもしなかった。歩いているうちに喉が渇いたので、終夜営業のコンビニに寄って、大きなパックのオレンジジュースを買い、その場で全部飲んだ。それから部屋に戻って、またひとしきり泣いた。私はあゆみのことが好きだったんだ、と青豆は思った。自分で考えていたより、もっとあの子のことが好きだった。私の身体を触りたいのなら、どこだって好きなだけ触らせてあげればよかったんだ。
 
 翌日の新聞にも「渋谷のホテル、婦人警官絞殺事件」の記事は載った。警察は全力をあげて、立ち去った男の行方を追っていた。新聞記事によれば、同僚たちは戸惑っていた。あゆみは性格が明るくて、まわりのみんなに好かれ、責任感も行動力もあり、警察官としても優秀な成績を収めていた。父親や兄を始めとして、親戚の多くが警官の職に就き、家族内の結束も強かった。どうしてこんなことになってしまったのか誰も理解できず、ただ途方に暮れていた。
 誰も知らない、と青豆は思った。でも私にはわかる。あゆみは大きな欠落のようなものを内側に抱えていた。それは地球の果ての砂漠にも似た場所だ。どれほどの水を注いでも、注ぐそばから地底に吸い込まれてしまう。あとには湿り気ひとつ残らない。どのような生命もそこには根づかない。鳥さえその上空を飛ばない。何がそんな荒れ果てたものを彼女の中に作り出したのか、それはあゆみにしかわからない。いや、あゆみにだって本当のところはわからないかもしれない。しかしまわりの男たちが力ずくで押しつけてくるねじれた性的欲望が、その大きな要因のひとつになっていたことは間違いない。彼女はその致命的な欠落のまわりを囲うように、自分という人間をこしらえてこなくてはならなかった。作り上げてきた装飾的自我をひとつひとつ剥いでいけば、そのあとに残るのは無の深淵でしかない。それがもたらす激しい乾きでしかない。そしてどれだけ忘れようと努めても、その無は定期的に彼女のもとを訪れてきた。ひとりぼっちの雨降りの午後に、あるいは悪夢を見て目覚めた明け方に。そしてそんなとき、彼女は[#傍点]誰でもいい誰か[#傍点終わり]に抱かれないわけにはいかなかった。
 青豆はヘックラー&コッホHK4を靴の箱の中から取りだし、慣れた手つきでマガジンを装填し、安全装置を解除し、スライドを引き、チェンバーに弾丸を送り込み、撃鉄を起こし、両手で銃把《じゅうは》をしっかり握って壁のある一点に狙いを定めた。銃身はぴくりとも揺れなかった。もう手の震えはない。青豆は息を止め神経を集中し、それから大きく息を吐いた。銃を下ろし、もう一度安全装置をかけた。銃の重さを手の中で点検し、鈍い光を見つめた。その拳銃は彼女の身体の一部のようになっていた。
 感情を抑えなくてはならない、と青豆は自分に言い聞かせた。あゆみの叔父や兄を罰したところで、彼らは自分たちが何のために罰されているのか、おそらく理解することもできないだろう。そして今さら何をしたって、あゆみはもう戻って来ない。可哀そうだが、それは遅かれ早かれいつか起こることだった。あゆみは致死的な渦巻きの中心に向かって緩慢な、しかし避けることのできない接近を続けていた。もし私が心を決めて、もっと温かく彼女を受け入れていたところで、それにも限界があったはずだ。もう泣くのはやめよう。もう一度態勢を立て直さなくてはならない。ルールを自分より優先させる、それが大事だ。タマルが言ったように。
 
 ポケットベルが鳴ったのは、あゆみが死んでから五日後の朝のことだった。青豆はラジオの定時ニュースを聞きながら、台所でコーヒーを作るための湯を沸かしていた。ポケットベルはテーブルの上に載せてあった。彼女はその小さなスクリーンに表示されている電話番号を見た。見覚えのない電話番号だった。しかしそれがタマルからのメッセージであることに疑いの余地はない。彼女は近くにある公衆電話に行って、その番号を押した。三度目のコールでタマルが出た。
「用意はできてるか?」とタマルは尋ねた。
「もちろん」と青豆は答えた。
「マダムからの伝言だ。今夜の七時にホテル・オークラ本館のロビー。いつもの仕事の用意をして。急な話で悪いが、ぎりぎりの設定しかできなかった」
「今夜の七時にホテル・オークラ本館のロビー」と青豆は機械的に復唱した。
「幸運を祈ると言いたいところだが、俺が幸運を祈っても、きっと役には立たないだろう」
「あなたは幸運を当てにしない人だから」
「当てにしたくても、どんなものだかよくわからない」とタマルは言った。「まだ目にしたことがないから」
「何も祈らないでいい。そのかわりにひとつやってもらいたいことがあるの。部屋にゴムの木の鉢植えがひとつあるんだけど、これの面倒を見て欲しい。うまく捨てられなかったから」
「俺が引き取る」
「ありがとう」
「ゴムの木なら、猫やら熱帯魚やらの面倒をみるよりずっとラクだ。ほかには?」
「ほかには何もない。残っているものは全部捨てて」
「[#傍点]仕事[#傍点終わり]が終わったら新宿駅まで行って、そこからもう一度この番号に電話をしてくれ。そのときに次の指示を与える」
「仕事を終えたら、新宿駅からこの番号にもう一度電話をかける」と青豆は復唱した。
「わかっているとは思うが、電話番号はメモしないように。ポケットベルは家を出るときに壊してどこかに捨ててくれ」
「わかった。そうする」
「すべての手順は細かく整えてある。何も心配しなくていい。そのあとのことは俺たちにまかせてくれ」
「心配はしない」と青豆は言った。
 タマルはしばらく黙った。「俺の正直な意見を言っていいかな?」
「どうぞ」
「あんたたちがやっていることを、無駄だと言うようなつもりは俺にはまったくない。それはあんたたちの問題であって、俺の問題ではない。しかしごく控えめに言って、無謀だ。そして[#傍点]きり[#傍点終わり]というものがない」
「そうかもしれない」と青豆は言った。「でもそれは変えようのないことなの」
「春になったら雪崩《なだれ》が起こるのと同じように」
「たぶん」
「でも常識のあるまともな人間は雪崩が起こりそうな季節に、雪崩が起こりそうな場所には近づかない」
「常識のあるまともな人間は、そもそもあなたとこんな話をしてはいない」
「そうかもしれない」とタマルは認めた。「ところで雪崩にあったときに連絡するような家族はいるのかな?」
「家族はいない」
「もともといないのか、それとも[#傍点]いるけどいない[#傍点終わり]のか?」
「いるけどいない」と青豆は言った。
「けっこう」とタマルは言った。「身軽なのがいちばんだ。身内としては、ゴムの木程度が理想的だ」
「マダムのところで金魚を見ていて、私も急に金魚がほしくなったの。こういうのがうちにいるといいかもしれないって思った。小さくて無口で、要求も少なそうだし。それで明くる日に駅前のショップに買いに行ったんだけど、実際に水槽に入っている金魚を見ていたら、突然ほしくなくなった。そして売れ残っている貧相なゴムの木を買ったの。金魚のかわりに」
「正しい選択だったと俺は思う」
「金魚は永遠に買えないかもしれない」
「かもしれない」とタマルは言った。「またゴムの木を買うといい」
 短い沈黙があった。
「今夜の七時にホテル・オークラ本館のロビーで」と青豆はもう一度確認した。
「ただそこに座って待っていればいい。相手があんたを見つける」
「相手が私を見つける」
 タマルは軽く咳払いをした。「ところで菜食主義の猫とネズミが出会った話を知っているか?」
「知らない」
「聞きたいか?」
「とても」
「一匹のネズミが屋根裏で、大きな雄猫に出くわした。ネズミは逃げ場のない片隅に追いつめられた。ネズミは震えながら言った、『猫さんお願いです。私を食べないで下さい。家族のところに帰らなくちゃならないんです。子供たちがお腹をすかせて待っています。どうか見逃して下さい』。猫は言った、『心配しなくていいよ。おまえを食べたりしない。実を言うと、大きな声じゃ言えないが、俺は菜食主義なんだ。肉はいっさい食べない。だから俺に出会ったのは、幸運だったよ』。ネズミは言った、『ああ、なんて素晴らしい日なんだろう。なんて僕は幸運なネズミなんだろう。菜食主義の猫さんに出会うなんて』。しかし次の瞬間、猫はネズミに襲いかかり、爪でしっかりと身体を押さえつけ、鋭い歯をその喉に食い込ませた。ネズミは苦しみながら最後の息で猫に尋ねた、『だって、あなたは菜食主義で肉はいっさい食べないって言ったじゃありませんか。あれは嘘だったんですか』。猫は舌なめずりをしながら言った、『ああ、俺は肉は食べないよ。そいつは嘘じゃない。だからおまえをくわえて連れて帰って、レタスと交換するんだ』」
 青豆は少し考えた。「その話のポイントは何なの?」
「ポイントはとくにない。さっき幸運の話題が出たから、ふとこの話を思い出したんだ。ただそれだけだよ。もちろんポイントを見つけるのはあんたの自由だけどな」
「心温まる話」
「もうひとつ。前もってボディーサーチと荷物検査があると思う。連中は用心深い。そのことは覚えておいた方がいい」
「覚えておく」
「それじゃな」とタマルは言った。「またどこかで会おう」
「またどこかで」と青豆は反射的に繰り返した。
 電話が切れた。彼女は受話器を少し眺め、顔を軽く歪め、それを置いた。そしてポケットベルに表示されている電話番号を頭にしっかり刻み込んでから、消去した。またどこかで、と青豆は頭の中でもう一度繰り返した。でも彼女にはわかっていた。この先、自分がタマルと顔を合わせることはおそらくあるまい。
 
 隅から隅まで朝刊に目を通したが、あゆみが殺された事件についての記事はもう見当たらなかった。どうやら今のところ捜査の進展はないらしい。たぶんほどなく、猟奇的な事件として週刊誌が一斉に取り上げることだろう。現職の若い婦人警官が、渋谷のラブホテルで手錠を使ってセックスプレイをしていた。そして全裸で絞殺された。しかし青豆はそんな興味本位の記事を読みたいとは思わなかった。事件が起こって以来、テレビのスイッチも入れないようにしていた。ニュース・アナウンサーの人工的な甲高い声で、あゆみの死についての事実を告げられたくはなかった。
 もちろん犯人には捕まってほしかった。犯人はどうあっても罰せられなくてはならない。しかし犯人が逮捕されて裁判にかけられ、その殺人のディテールが明らかになったとして、それでどうなるだろう。何をしたところで、あゆみは生きかえりはしない。それははっきりしている。判決だってどうせ軽いものになるはずだ。おそらく殺人ではなく、過失致死事件として処理されることだろう。もちろん死刑判決がおりたところで何の埋め合わせにもならないわけだが。青豆は新聞を閉じ、テーブルに肘をつき、しばらく両手で顔を覆った。そしてあゆみのことを思った。でももう涙は出てこない。彼女はただ腹を立てているだけだった。
 
 午後の七時までにはまだずいぶん時間があった。青豆にはそれまで何もすることがなかった。スポーツクラブの仕事は入っていなかった。小型の旅行用バッグとショルダーバッグは、タマルから指示されたとおり、既に新宿駅のコインロッカーに入っている。旅行用バッグの中には現金の束と数日ぶんの着替えが収められている。青豆は三日に一度新宿駅まで行って、コインを追加し、そのたびに中身を確認していた。部屋の掃除をする必要もなく、料理を作ろうにも冷蔵庫の中はがらんどうに近かった。部屋の中には、ゴムの木のほかには生活の匂いのするものはほとんど何も残っていなかった。個人的な情報に繋がるものもすべて始末した。抽斗はみんな空っぽになっている。明日になれば私はもうここにはいない。あとには私の気配ひとつ残ってないだろう。
 その夕方に着ていく衣服はきれいに畳まれ、ベッドの上に重ねて置かれていた。その隣にはブルーのジムバッグがあった。バッグにはストレッチングのために必要な用具が一式入っている。青豆はそれをもう一度念のために点検した。ジャージの上下と、ヨーガマット、大小のタオル、そして細身のアイスピックを入れた小さなハードケース。すべて揃っている。ハードケースの中からアイスピックを取りだし、コルク栓をはずし、先端に指先を触れ、それがじゅうぶんな鋭さを保っていることを確認した。それでも念には念を入れて、いちばん細かい砥石を使って軽く研いだ。彼女はその針先が男の首筋に、そこにある特別な一点に、吸い込まれるように音もなく沈んでいく光景を思い浮かべた。いつもと同じように、一瞬のうちにすべては終わるはずだ。悲鳴もなく出血もなく。そこには一瞬の痙攣《けいれん》があるだけだ。青豆は針の先端をもう一度コルク栓に刺し、注意深くケースに収めた。
 それからTシャツにくるまれたヘックラー&コッホを靴箱から出し、慣れた手つきでマガジンに七発の九ミリ弾を装填した。乾いた音を立ててチェンバーに弾丸を送り込んだ。安全装置をはずし、もう一度かけた。それを白いハンカチでくるみ、ビニールのポーチに入れた。その上に着替え用の下着を詰めて、ピストルが目につかないようにした。
 ほかに何かやらなければならないことはあったっけ?
 何も思いつけなかった。青豆は台所に立って、沸いた湯でコーヒーを作った。テーブルの前に座ってそれを飲み、クロワッサンをひとつ食べた。
 これが私にとってのおそらく最後の仕事になる、と青豆は思った。そしてもっとも重要で、もっとも困難な仕事になる。この任務を終えれば、もうこれ以上人を殺す必要はなくなる。
 
 自分のアイデンティティーが失われることに対する抵抗はなかった。それはむしろある意味では青豆の歓迎するところだった。名前にも顔にも未練はないし、なくすのが惜しいような過去はひとつも思いつけなかった。人生のリセット、あるいはこれこそ私の待ち望んでいたことかもしれない。
 自分自身に関して、できれば失いたくないと彼女が考えるのは、不思議な話だが、どちらかといえば貧弱な一対の乳房くらいだった。青豆は十二歳以来今に至るまで一貫して、乳房のかたちとサイズに不満を抱いて生きてきた。もう少し胸が大きければ、今よりは心安らかな人生が過ごせたのではないかとよく考えたものだ。しかし実際にそのサイズを改変できる機会を与えられたとき(それは必然性を伴った選択肢であった)、自分がそんな変更をまったく求めていないことに彼女は気がついた。このままでかまわない。これくらいでちょうどいい。
 タンクトップの上から両方の乳房を手で触ってみた。いつもと同じ乳房だ。配合を間違えて膨らみそこねたパン生地みたいなかたちをしている。おまけに左右のサイズも微妙に違っている。彼女は首を振った。でもかまわない。[#傍点]それが私なのだ[#傍点終わり]。
 この乳房以外に私に何が残されるのだろう?
 もちろん天吾の記憶が残る。彼の手の感触が残る。心の激しい震えが残る。彼に抱かれたいという渇望が残る。たとえ別の人間になったところで、天吾に対する想いが私からもぎ取られることはない。それが私とあゆみとのいちばん大きな違いだ、と青豆は思う。私という存在の核心にあるのは無ではない。荒れ果てた潤いのない場所でもない。[#傍点]私という存在の中心にあるのは愛だ[#傍点終わり]。私は変わることなく天吾という十歳の少年のことを想い続ける。彼の強さと、聡明さと、優しさを想い続ける。彼は[#傍点]ここ[#傍点終わり]には存在しない。しかし存在しない肉体は滅びないし、交わされていない約束が破られることもない。
 青豆の中にいる三十歳になった天吾は、現実の天吾ではない。彼はいわばひとつの仮説に過ぎない。すべてはおそらく彼女の想念が生み出したものだ。天吾はまだその強さと、聡明さと、優しさを保っている。そして彼は今では大人の太い腕と、厚い胸と、頑丈な性器を持っている。青豆が望むとき、彼はいつもそばにいる。彼女をしっかりと抱きしめ、髪を撫で、口づけをしてくれる。二人のいる部屋はいつも暗く、青豆には天吾の姿を見ることはできない。彼女が目にできるのは、その瞳だけだ。暗闇の中でも、青豆にはその温かい瞳を見ることができる。彼女は天吾の瞳をのぞき込んで、その奥に、彼が眺めている世界の光景を見てとることができる。
 青豆が時々たまらなく男たちと寝たくなるのは、自分の中ではぐくんでいる天吾の存在を、可能な限り純粋に保っておきたいからかもしれない。彼女は知らない男たちと放埒《ほうらつ》に交わることによって、自分の肉体を、それを捉えている欲望から解き放ってしまいたかったのだろう。その解放のあとに訪れるひっそりとした穏やかな世界で、天吾と二人だけで、何ものにも煩わされることのない親密な時間を過ごしたかった。おそらくはそれが青豆の望むことだった。
 午後の何時間かを、青豆は天吾のことを考えながら過ごした。彼女は狭いベランダに置いたアルミニウムの椅子に座り、空を見上げ、車の騒音に耳を澄ませ、ときどき貧相なゴムの木の葉を指でつまみながら、天吾のことを想った。午後の空にはまだ月は見えなかった。月が出るのは何時間か先のことになる。明日の今頃、私はどこにいるのだろう、と青豆は考える。見当もつかない。でもそんなのは些細なことだ。天吾がこの世界に存在しているという事実に比べれば。
 
 青豆はゴムの木に最後の水をやり、それからプレーヤーにヤナーチェックの『シンフォニエッタ』を載せた。手持ちのレコードは全部処分したが、その一枚だけは最後まで残しておいた。彼女は目を閉じ、音楽に耳を澄ませた。そしてボヘミアの草原を渡る風を想像した。そんな場所を天吾と二人でどこまでも歩くことができたら素晴らしいだろうなと思った。二人はもちろん手を握り合っている。ただ風が吹き渡り、柔らかな緑の草がそれに合わせて音もなく揺れている。青豆は天吾の手のぬくもりを、自分の手の中にしっかりと感じることができる。映画のハッピーエンドのように、その光景は静かにフェイドアウトしていく。
 それから青豆はベッドの上に横になり、身を丸くして三十分ばかり眠った。夢は見なかった。それは夢を必要としない眠りだった。目覚めると、時計の針は四時半を指していた。冷蔵庫に残っていた卵とハムとバターを使って、ハムエッグを作った。カートンボックスから直接オレンジジュースを飲んだ。午睡のあとの沈黙は奇妙に重かった。FMラジオをつけると、ヴィヴァルディの木管楽器のための協奏曲が流れてきた。ピッコロが小鳥のさえずりのような軽快なトリルを演奏していた。それはここにある現実の非現実性を強調するための音楽のように青豆には感じられた。
 食器を片づけたあとシャワーを浴び、何週間も前からその日のために用意しておいた服に着替えた。シンプルで動きやすい服だ。淡いブルーのコットンパンツに、飾り気のない白い半袖のブラウス。髪はまとめて上にあげ、櫛《くし》でとめた。アクセサリー類はつけない。それまでに着ていた衣服は洗濯かごに入れる代わりに、まとめて黒いビニールのゴミ袋に詰めた。あとはタマルが処理してくれるはずだ。指の爪をきれいに切り、時間をかけて歯を磨いた。耳の掃除もした。鋏を使って眉毛を整え、顔に薄くクリームを塗り、首筋にほんの少しだけコロンをつけた。鏡の前でいろんな角度から顔の細部を点検し、どこにも問題がないことを確認した。そしてナイキのマークのついたビニールのジムバッグを持ち、部屋をあとにした。
 ドアの前で最後に後ろを振り返り、もうここに戻ることはないのだと思った。そう思うと、部屋はこの上なくみすぼらしく見えた。内側からしか鍵のかからない牢獄のようだった。絵の一枚もかかっていないし、花瓶のひとつもない。金魚のかわりに買った、バーゲン品のゴムの木がベランダにひとつ置かれているだけだ。そんなところで自分が何年も、とくに不満や疑問を感じることもなく日々を送っていたなんて、うまく信じられなかった。
「さよなら」と彼女は小さく口に出して言った。部屋にではなく、そこにいた自分自身に向けた別れの挨拶だった。
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