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1Q84 (3-12)

时间: 2018-10-13    进入日语论坛
核心提示:第12章 天吾      世界のルールが緩み始めている 朝食を済ませたあと、天吾は風呂場でシャワーを浴びた。髪を洗い、洗面
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 第12章 天吾
      世界のルールが緩み始めている
 
 
 朝食を済ませたあと、天吾は風呂場でシャワーを浴びた。髪を洗い、洗面所で髭を剃った。洗濯して乾かしておいた服に着替えた。それから外に出て駅の売店で朝刊を買い、近所の喫茶店に入って熱いブラック・コーヒーを飲んだ。
 新聞にはとくに興味を惹かれる出来事は見当たらなかった。少なくともその日の新聞を通して見る限り、世界はかなり退屈で味気ない場所だった。今日の新聞なのに、まるで一週間前の新聞を読み返しているような気がした。天吾は新聞を畳み、腕時計を見た。時刻は九時半、療養所の面会時間は十時に始まる。
 帰り支度は簡単だった。荷物はもともと多くない。着替えの衣類と、洗面用具と、何冊かの本と、原稿用紙の束、そんなところだ。ズックのショルダーバッグひとつに収まってしまう。彼はそれを肩にかけると、旅館の支払いを済ませ、駅前からバスに乗って療養所まで行った。今はもう冬の初めだ。朝から海岸に出かける人間はほとんどいない。療養所前の停留所で降りたのも彼一人だけだった。
 療養所の玄関で、いつもどおり面会客用のノートに時刻と名前を書き込んだ。受付にはたまに見かける若い看護婦が座っていた。いやに手脚が細長く、口もとに笑みを浮かべ、森の道案内をしてくれる善良な蜘蛛のように見える。だいたいいつもそこには眼鏡をかけた中年の田村看護婦が座っているのだが、今朝はその姿がない。それで天吾は少しほっとした。昨夜、安達クミをアパートまで送っていったことで、何か思わせぶりなことを言われるのではないかと怯えていたのだ。髪を上にまとめてボールペンを差した大村看護婦の姿も見えなかった。彼女たちはあとかたもなく、地面に吸い込まれて消えたのかもしれない。『マクベス』に出てくる三人の魔女みたいに。
 しかしもちろんそんなことはあり得ない。安達クミは今日は非番だが、ほかの二人は普通通り仕事があると言っていた。たまたま今、どこか別のところで仕事をしているだけだろう。
 天吾は階段を上がり、二階の父親の部屋に行った。軽く二度ノックをしてドアを開けた。父親はベッドに横になり、いつもと同じ格好で眠っていた。腕には点滴のチューブが、尿道にはカテーテルが繋がれている。昨日から変化はない。窓は閉まって、カーテンが引かれている。部屋の中の空気はもったりと重く淀んでいた。薬品や、花瓶の花や、病人の吐く息や、排泄物や、そのほか生命の営みが発する様々な匂いが、分かちがたく入り混じっている。たとえ力の衰えた生命とはいえ、そして意識が長期間にわたって失われているとはいえ、代謝の原理に変更が生じるわけではない。父親はまだ大いなる分水嶺のこちら側にいるし、生きているというのは言い換えれば、様々な匂いを発することなのだ。
 天吾が病室に入って最初にやったのは、まっすぐ奥に行ってカーテンをあけ、窓を大きく開くことだった。気持ちの良い朝だ。空気を入れ換えなくてはならない。外気はいくぶんひやりとしているものの、まだ冷え込むというほどでもない。陽光が部屋に差し込み、海風がカーテンを揺らせた。一羽のかもめが風に乗り、両脚を端正に折り畳み、松の防風林の上を滑空していった。雀の群れが不揃いに電線にとまり、音符を書き換えるみたいにその位置を絶えず変化させていた。くちばしの大きなカラスが一羽、水銀灯の上にとまって、あたりを用心深く見回しながら、さてこれから何をしようかと思案していた。幾筋かの雲がとても高いところに浮かんでいた。それはあまりにも遠く、あまりにも高く、人間の営みとは関わりを持たないきわめて抽象的な考察のようにも見えた。
 天吾は病人に背中を向けて、しばらくそんな風景を眺めていた。生命を持つもの、生命を持たないもの。動くもの、動かないもの。窓の外に見えるのは、いつもと変わりのない光景だ。目新しいものは何もない。世界は前に進まなくてはならないから、いちおう前に進んでいる。安物の目覚まし時計みたいに、与えられた役割を無難にこなしているだけだ。そして天吾は、父親と正面から向き合うのを少しでも先に延ばすために、そんな風景をあてもなく眺めているだけだ。しかしもちろんそんなことを永遠に続けているわけにはいかない。
 天吾はようやく気持ちを決めて、ベッドの脇にあるパイプ椅子に腰を下ろした。父親は仰向けになり、顔を天井に向け、目を閉じていた。首のところまでかかった掛け布団もまったく乱れていない。目は深く落ちくぼんでいる。何かの部品が外れて、眼窩《がんか》が眼球を支えきれなくなり、ごっそり陥没してしまったように見える。仮に目を開けても、そこに見えるのはきっと穴の底から世界を見上げるような光景に違いない。
「お父さん」と天吾は話しかけた。
 父親は答えなかった。部屋に吹き込んでいた風が急にやみ、カーテンが下に垂れた。作業の途中で何か大事な案件をふと思い出した人のように。それから少しあって、気を取り直したように再びゆっくりと風が吹き始めた。
「これから東京に戻る」と天吾は言った。「いつまでもここにいるわけにはいかないから。仕事もこれ以上休みはとれない。たいした生活じゃないにせよ、いちおう僕なりの生活もある」
 父親の頬には髭がうっすらと生えていた。二日か三日ぶんの髭だ。看護婦が電気剃刀で髭をあたる。しかし毎日ではない。白い髭と黒い髭が半分ずつ混じっている。彼はまだ六十四歳だったが、それよりはずっと年老いて見えた。誰かがうっかり間違えて、その男の人生のフィルムを先の方まで回してしまったみたいに。
「僕がここにいる間、あなたは結局目を覚まさなかった。でもお医者さんの話によれば、あなたの体力はまだそんなに落ちていない。不思議なくらいもとの健康状態に近いものを保っている」
 天吾は間をおいて、言ったことが相手に浸透するのを待った。
「この声が耳に届いているのかどうか、僕にはわからない。もし声が鼓膜を震わせているとしても、そこから先の回線が切れているのかもしれない。あるいは僕の口にする言葉は意識に届いているけど、それに反応ができないのかもしれない。そのへんは僕にはわからない。でもこれまで自分の声が届いているものと仮定して話しかけてきたし、本も読んできた。とりあえずそう決めておかないと話しかける意味はないし、もし何も話しかけられないのなら、僕がここにいる意味だってないわけだから。それからうまく説明できないんだけど、ちょっとした手応えみたいなのがあるんだ。僕の言っていることが、すべてではないにせよ、少なくとも要点だけは届いているんじゃないかっていう」
 反応はない。
「これから僕が口にすることは馬鹿げているかもしれない。でも僕はこれから東京に戻るし、今度はいつ来られるかわからない。だからとにかく頭の中にあることをそのまま言ってしまう。下らないと思ったら遠慮せずに笑ってくれてかまわない。もちろんもし笑えるならということだけど」
 天吾は一息ついて父親の顔を観察した。やはり反応はない。
「あなたの肉体はここで昏睡している。意識も感覚も失われ、生命維持装置によってただ機械的に生かされている。生きる屍、というようなことを医者は言った。もちろんもっと娩曲な表現でだけどね。たぶん医学的にはそういうことになるんだろう。でもそれはひとつの[#傍点]見せかけ[#傍点終わり]に過ぎないんじゃないか。ひょっとしてあなたの意識は[#傍点]本当に[#傍点終わり]失われてはいないんじゃないか。あなたはここで肉体を昏睡させたまま、意識だけをどこかよそに移して生きているんじゃないか。僕はずっとそういう気配を感じ続けてきた。あくまで[#傍点]なんとなく[#傍点終わり]ではあるけれど」
 沈黙。
「突飛な想像だということはよくわかっている。こんなことを誰かに言っても、妄想と思われるのがおちだ。でも僕はそう想像しないわけにはいかない。あなたはおそらくこの世界に興味を失ってしまった。失望し落胆し、すべての関心を失った。だから現実の肉体を放棄し、こことは違う場所に移って違う生活を送ることにしたんじゃないか。おそらくは自分の内側にある世界で」
 更なる沈黙。
「仕事を休んでこの町にやってきて、旅館に部屋をとり、毎日ここに面会に来てあなたに話しかけた。そろそろ二週間になる。でも僕がそうしたのは、あなたの見舞いや看病をすることだけが目的じゃなかった。自分がどんなところから生まれてきたのか、どんなところに自分の血が繋がっているのか、それを知っておきたいと思ったということもある。でも今となってはそんなことはもうどうでもいい。どこに繋がっていようが、どこに繋がっているまいが、僕は僕だ。そしてあなたは僕の[#傍点]父親なるもの[#傍点終わり]だ。それでいいじゃないかと思った。それが和解と呼べるのかどうか僕にはわからない。あるいは僕は自らと和解した。そういうことかもしれない」
 天吾は深呼吸をした。声のトーンを落とした。
「夏にはまだあなたには意識があった。かなり混濁してはいたけれど、意識はまだ意識として機能していた。そのときこの部屋で僕は一人の女の子と再会した。あなたが検査室に運ばれていったあと、彼女は[#傍点]ここ[#傍点終わり]にやってきた。それはたぶん彼女の分身のようなものだったのだろう。僕が今回この町にやって来て長く滞在したのは、もう一度彼女に出会えるかもしれないと思ったからだ。それが僕がここにいる本当の理由だ」
 天吾はため息をつき、膝の上で手のひらを合わせた。
「でも彼女は姿を現さなかった。彼女をここまで運んできたのは、空気さなぎと呼ばれるもので、それが彼女を収めるカプセルになっている。事情を説明すると長い話になるけど、空気さなぎは想像の産物であり架空のものなんだ。でも今ではもう架空のものではなくなっている。どこまでが現実の世界でどこからが想像の産物なのか、境界線が不明確になってきている。空には月が二つ浮かんでいる。それもまたフィクションの世界から持ち込まれたものだ」
 天吾は父親の顔を見た。話の筋についてこられるだろうか?
「そういう文脈で話を進めていけば、あなたが意識を肉体から分離しどこか別の世界に移して、そこで自由に動き回っているとしても、とくに不思議はない。言うなれば僕らのまわりで世界のルールが緩み始めているんだ。そしてさっきも言ったように、僕には奇妙なちょっとした手応えがある。あなたがそれを[#傍点]実際におこなっているんじゃないか[#傍点終わり]という手応えが。たとえば高円寺の僕のアパートに行ってドアをノックしている。わかるよね? NHKの集金人だと言ってドアをしつこく叩き、脅し文句を大声で廊下で叫ぶんだ。僕らがその昔、市川の集金ルートでよくやっていたのと同じように」
 部屋の気圧がわずかに変化したような気配があった。窓は開け放たれていたが、音と言えるほどのものは入ってこない。時折雀たちが思い出したようにさえずるだけだ。
「東京の僕の部屋には今、女の子が一人いる。恋人とかそういうんじゃない。ちょっとした事情があってうちに一時的に避難しているだけだ。何日か前にやってきたNHKの集金人のことを、その子が電話で説明してくれた。その男がドアをノックしながら廊下でどんなことを言って、どんなことをしたか。それはお父さんのかつてのやり口に不思議なほどそっくりだった。彼女が聞いたのは、僕が記憶しているのとまったく同じ台詞だ。できることならそんなものはそっくり忘れてしまいたいと思っている言い回しだ。そしてその集金人は実はあなたじゃないかと僕は考えている。僕は間違っているだろうか?」
 天吾は三十秒ばかり沈黙した。しかし父親はまつげ一本動かさなかった。
「僕が求めるのはただひとつ、もうドアをノックしないでほしいということだ。うちにはテレビがない。そして僕らが一緒に受信料の集金にまわった日々は遠い昔に終わったんだ。それについては既に了解し合ったはずだ。先生の立ちあいのもとにね。名前は思い出せないけど、僕のクラスを担任していた、眼鏡をかけた小さな女の先生だ。そのことは覚えているよね? だからうちのドアを二度とノックしてほしくない。うちだけじゃない。ほかのどんなドアもノックしてほしくない。あなたはもうNHKの集金人じゃないし、そんなことをして人々を怯えさせる権利はない」
 天吾は椅子から立ち、窓際に行って外の風景を眺めた。分厚いセーターを着て杖を持った老人が、防風林の前を歩いていた。たぶん散歩をしているのだろう。白髪で背が高く、姿勢が良い。しかし足取りはぎこちなかった。まるで歩き方を忘れてしまい、なんとか思い出しながら一歩一歩前に進んでいるといった風だった。天吾はその様子をしばらく眺めていた。老人は時間をかけて庭を横切り、建物の角を曲がって消えていった。最後まで歩き方はうまく思い出せないようだった。天吾は父親を振り返った。
「何も責めているわけじゃない。あなたには意識を好きなところにやる権利がある。それはあなたの人生だし、あなたの意識だ。あなたには自分が正しいと考えることがあり、それを実行に移しているんだろう。いちいちそれに口を出す権利は僕にはないかもしれない。でもあなたはもう[#傍点]NHKの集金人じゃないんだ[#傍点終わり]。だからこれ以上NHKの集金人のふりをしちゃいけない。そんなことをしても救いはない」
 天吾は窓の敷居に腰を下ろし、狭い病室の空中に言葉を探した。
「あなたの人生がどんなものだったのか、そこにどんな喜びがありどんな悲しみがあったのか、よくは知らない。しかしもしそこに満たされないものがあったとしても、あなたは他人の家の戸口にそれを求めるべきじゃない。たとえそこがあなたにとってもっとも見慣れた場所であり、それがあなたのもっとも得意とする行為であったとしてもだよ」
 天吾は黙って父親の顔を見つめた。
「もう誰のドアもノックしないでほしい。僕がお父さんに求めるのはそれだけだ。もう行かなくちゃならない。僕は毎日ここにやってきて、昏睡しているあなたに向かって話しかけ、本を読んだ。そして僕らは少なくともある部分で和解した。それがこの現実の世界で実際に起こったことだ。気に入らないかもしれないけど、もう一度[#傍点]ここ[#傍点終わり]に戻ってきた方がいい。ここがあなたの属するべき場所なんだから」
 天吾はショルダーバッグを取り上げ、それを肩にかけた。「僕はもう行くよ」
 父親は何も言わず、身じろぎひとつせず、じっと目を閉じていた。いつもと同じように。しかしそこには何かを考慮しているような気配があった。天吾は息を殺し、その気配を注意深くうかがっていた。父親が出し抜けに目を開け、身体を起こすのではないかという気がした。しかしそんなことは起こらなかった。
 蜘蛛のように手脚の長い看護婦がまだ受付に座っていた。「玉木」というプラスチックの名札が胸についていた。
「今から東京に帰ります」と天吾は玉木看護婦に言った。
「いらっしゃるあいだにお父さんの意識が戻らなくて残念でした」と彼女は慰めるように言った。
「でも長くいられたから、きっと喜んでいらっしゃるでしょう」
 それに対するうまい返答を天吾は思いつけなかった。「ほかの看護婦さんによろしくお伝えください。いろいろお世話になりました」
 彼は結局、眼鏡をかけた田村看護婦にも会わなかった。ボールペンを髪にはさんだ乳房の大きな大村看護婦にも会わなかった。少し寂しくもあった。彼女たちは優秀な看護婦であり、天吾にも親切にしてくれた。しかし顔を合わせない方がむしろよかったのかもしれない。なんといっても彼は一人で猫の町を脱け出そうとしているのだから。
 
 列車が千倉駅を出るとき、安達クミの部屋で過ごした一夜を思い出した。考えてみればつい昨夜のことだ。派手なティファニー・ランプと座りにくいラブチェア、隣室から聞こえるテレビのお笑い番組。雑木林のフクロウの声、ハシッシの煙、スマイル・マークのシャツと、足に押しつけられる濃い陰毛。それが起こってからまだ丸一日経っていないのに、ずいぶん遠い出来事のように思えた。意識の遠近感がうまくつかめない。不安定な秤のように、その出来事の核は最後までひとところに落ち着かなかった。
 天吾はふと不安になり、あたりを見まわした。これは[#傍点]本物の[#傍点終わり]現実だろうか? おれはひょっとしてまた間違った現実に乗り込んでしまったのではあるまいか? 彼は近くにいた乗客に聞いて、それが館山行きの列車であることを確認した。大丈夫、間違いない。館山で東京行きの特急に乗り換えることができる。彼は海辺の猫の町をあとにしつつあるのだ。
 列車を乗り換え、席に着くと、待ちかねたように眠りがやってきた。足を踏み外して、真っ暗な底なしの穴に落下していくような深い眠りだった。瞼が自然にかぶさり、次の瞬間に意識が消滅した。目を覚ましたとき、列車は既に幕張を通過していた。車内はとくに暑くはなかったのだが、脇の下と背中に汗をかいていた。口の中にいやな匂いがした。父親の病室で吸った濁った空気のような匂いだ。彼はポケットからチューインガムを出して口の中に入れた。
 もう二度とあの町に行くことはあるまい、天吾はそう思う。少なくとも父親が生きているあいだは。もちろん百パーセントの確信を持って断言できることなど、この世界にひとつとしてない。しかしあの海辺の町で自分にできることはもうこれ以上ないはずだ。
 
 アパートの部屋に戻ったとき、ふかえりはいなかった。彼はドアを三回ノックし、間を置いて二回ノックした。それから鍵を開けた。部屋の中は[#傍点]しん[#傍点終わり]として、びっくりするほどきれいになっていた。食器はすべて食器棚にしまわれ、テーブルや机の上は美しく整頓され、ゴミ箱は空になっていた。掃除機をかけた形跡もあった。ベッドはメイクされ、出しっぱなしになっている本やレコードもなかった。乾いた洗濯物がベッドの上にきれいに畳んであった。
 ふかえりの持ち物である大振りのショルダーバッグもなくなっていた。見たところ彼女はふと思いついて、あるいは何かが突然持ち上がって、この部屋を急いで出て行ったのではなさそうだ。あるいはまた一時的に外出しているのでもない。ここを立ち去ろうと決心し、時間をかけて部屋を掃除し、そのあと出て行ったのだ。天吾はふかえりが一人で掃除機をかけ、雑巾であちこちを拭いている姿を想像した。それは彼女のイメージにまったくそぐわなかった。
 玄関の郵便受けを開けると、部屋の合い鍵がそこに入っていた。溜まっていた郵便の量からすると、彼女が出て行ったのは昨日か一昨日のようだ。最後に電話をかけたのは一昨日の朝で、そのとき彼女はまだ部屋にいた。昨夜彼は看護婦たちと食事をし、誘われて安達クミの部屋に行った。そんなこんなで電話をしそびれてしまった。
 こういう場合だいたいいつも、彼女は独特の楔形文字のような書体で何かしらのメッセージを書き残していく。でもそれらしきものはどこにも見あたらなかった。彼女はただ黙って立ち去ったのだ。しかし天吾はそのことでとくに驚いたりがっかりしたりしたわけではない。ふかえりが何を考えどんな行動をとるか、そんなことは誰にも予測できない。彼女は来たいときにどこかからやってきて、帰りたいときにどこかに帰って行く。気まぐれで自立心の強い猫と同じだ。これほど長くひとつの場所に滞在したこと自体がむしろ不思議なくらいだ。
 冷蔵庫の中には思ったよりたくさん食品が入っていた。どうやらふかえりは数日前、一度外に出て自分で買い物をしたらしい。カリフラワーもたくさん茄でてあった。見たところ、茄でられてからそれほど時間は経っていない。彼女は天吾が一日か二日のうちに東京に戻ってくることを知っていたのだろうか? 天吾は空腹を感じたので、目玉焼きをつくり、カリフラワーと一緒に食べた。トーストを焼き、コーヒーをつくってマグカップに二杯飲んだ。
 それから留守中の代講を頼んだ友人に電話をかけ、週明けから仕事に戻れそうだと言った。友人はテキストブックのどのあたりまで進んだかを教えてくれた。
「君のおかげで助かったよ。恩に着る」と天吾は礼を言った。
「教えるのはきらいじゃない。場合によっては面白くさえある。でも長いあいだ人にものを教えていると、自分がだんだんあかの他人みたいに思えてくる」
 それは天吾自身が日頃うすうす感じていることでもあった。
「僕のいないあいだ、何か変わったことはなかった?」
「とくに何もない。ああ、ただ手紙を一通預かっている。机の抽斗に入れてある」
「手紙?」と天吾は言った。「誰から?」
「ほっそりした女の子で、髪がまっすぐで肩まである。僕のところに来て、手紙を君に渡してほしいと言った。話し方がどことなく変だった。外国人かもしれない」
「大きなショルダーバッグを持っていなかった?」
「持っていた。緑色のショルダーバッグ。ずいぶん膨らんでいた」
 ふかえりは手紙をこの部屋に残していくのが心配だったのだろう。誰かが読むかもしれない。持ち去られるかもしれない。だから予備校まで行って、直接友人に託した。
 天吾はもう一度礼を言って電話を切った。もう夕方になっていたし、これから手紙を取りに電車に乗って代々木まで行く気にはなれなかった。明日にしよう。
 そのあとで月について友人に尋ねるのを忘れたことに思い当たった。電話をかけなおそうとしかけたが、思い直してやめた。きっとそんなこと覚えてもいないだろう。結局のところ、それは彼が一人で始末しなくてはならない問題なのだ。
 
 天吾は外に出て夕暮れの街をあてもなく散歩した。ふかえりがいないと、部屋は妙にひっそりとして落ち着かなかった。彼女が一緒に暮らしていたとき、気配というほどのものを天吾はとくに感じなかった。天吾は天吾でいつものパターンで生活し、ふかえりも同じように自分の生活を送っていた。しかしいったん彼女がいなくなってしまうと、人型をした空白のようなものがそこに生じていることに天吾は気づいた。
 ふかえりに心を惹かれているとか、そういうことではない。美しい魅力的な少女ではあるけれど、天吾は最初に会って以来、彼女に対して性欲らしきものを覚えなかった。これほど長いあいだ二人で同じ部屋で日々を過ごしながらとくに心が騒いだこともない。どうしてだろう? おれがふかえりに対して性的な欲望を抱いてはいけないような理由が何かあるのだろうか? たしかにあの激しい雷雨の夜に、ふかえりは天吾と一度だけ性交をした。しかしそれは彼が求めたものではない。彼女が求めたことだった。
 それはまさに「性交」という表現が相応しい行為だった。身体が痺れて自由を失った天吾の上に彼女は乗り、その硬くなったペニスを自分の中に挿入した。ふかえりはそのとき没我の状態にあるようだった。まるで淫夢に支配された妖精のように見えた。
 そしてそのあとは何ごともなかったように、二人はこの狭いアパートの部屋で生活した。雷雨が止み、夜が明けると、ふかえりはそんな出来事をもうすっかり忘れているみたいに見えた。天吾もその話をとくに持ち出さなかった。もし彼女がそのことを忘れているのなら、そのまま忘れさせておいた方がいいような気がしたからだ。天吾自身も忘れてしまった方がいいのかもしれない。しかしもちろん疑問は天吾の中に残った。ふかえりはなぜ突然そんなことをしたのだろう。そこには目的があったのだろうか。あるいはただ一時的な憑き物のようなものだったのだろうか?
 天吾にわかるのはただひとつ、[#傍点]それは愛の行為ではなかった[#傍点終わり]ということだ。ふかえりは天吾に自然な好意を抱いている——おそらくそのことに間違いはないだろう。しかし彼女が天吾に対して愛情や性欲を、あるいはそれに類似した感情を抱いているとはとても考えられない。[#傍点]彼女は誰に対しても性欲なんか抱きはしない[#傍点終わり]。天吾は自分の人間観察能力に対してそれほど自信を持っているわけではない。しかしそれでも、ふかえりが熱い吐息をはきながら、どこかの男と情熱的な性行為をおこなっているところを想像することができなかった。いや、[#傍点]まずまず[#傍点終わり]の性行為をおこなっているところだって思い浮かべられない。彼女にはもともとそういう気配がないのだ。
 天吾はそんなことをあれこれ考えながら、高円寺の街を歩いた。日が暮れて冷たい風が吹き始めていたが、とくに気にしなかった。彼は歩きながらものを考える。そして机に向かってそれをかたちにする。それが習慣になっている。だから彼はよく歩いた。雨が降っても風が吹いても、そんなことには関係なく。歩いているうちに「麦頭《むぎあたま》」の前に出た。ほかにやるべきことも思いつかなかったから、天吾はその店に入ってカールスバーグの生を注文した。まだ開店したばかりで、客は一人もいなかった。彼はいったん考えることをやめ、頭を空白にし、時間をかけてビールを飲んだ。
 しかし長いあいだ頭を空白にしておくような贅沢は、天吾には与えられていない。自然界に真空が存在しないのと同じように。彼はふかえりのことを考えないわけにはいかない。ふかえりは短い細切れの夢のように、彼の意識に入り込んできた。
 
 [#ゴシック体]そのひとはすぐちかくにいるかもしれない。ここからあるいていけるところに。[#ゴシック体終わり]
 
 それがふかえりの言ったことだ。だからおれは彼女を捜しに町に出たのだ。そしてこの店に入った。ほかにふかえりはどんなことを言っただろう?
 
 [#ゴシック体]しんぱいしなくていい。あなたがみつけられなくてもそのひとがあなたをみつける。[#ゴシック体終わり]
 
 天吾が青豆を捜しているように、青豆もまた天吾を捜している。天吾にはそのことがうまく呑み込めなかった。彼は[#傍点]自分が[#傍点終わり]青豆を捜すことに夢中になっていた。だから青豆の方も同じように自分を探しているかもしれないなんて、思いつきもしなかった。
 
 [#ゴシック体]わたしがチカクしあなたがうけいれる。[#ゴシック体終わり]
 
 それもそのときにふかえりが口にしたことだ。彼女が知覚し、天吾が受け入れる。ただしふかえりは自分がそうしたいと思うときにしか、自分の知覚したことを表に出さない。彼女が一定の原則や定理に従ってそうしているのか、あるいはただの気まぐれなのか、天吾には判断できない。
 
 天吾はもう一度、ふかえりと性交したときのことを思い出した。十七歳の美しい少女が彼の上に乗って、彼のペニスを奥まで受け入れている。大きな乳房が熟れた一対の果実のように、空中でしなやかに揺れていた。彼女はうっとりと目を閉じ、鼻孔は興奮に膨らんでいる。唇が言葉にならない言葉を形づくる。白い歯が見え、ときどきピンク色の舌先があいだからのぞいた。その情景を天吾は鮮明に記憶していた。身体は痺れていたが、意識ははっきり覚めていた。そして勃起は完壁だった。
 しかしそのときの情景をどれだけ鮮明に頭に再現しても、天吾がそこから性的な興奮を感じることはない。もう一度ふかえりと交わりたいと思ったりもしない。あれからあと彼は三ヶ月近くセックスをしていない。そればかりか一度の射精もしていない。それは天吾にとってはきわめて珍しいことだ。彼は健康な三十歳の独身男性として、きわめて正常で前向きな性欲を抱えていたし、それはしかるべく処理されなくてはならない種類の欲望だった。
 しかし安達クミのアパートで、彼女と一緒にベッドに入ったときも、脚に陰毛を押しつけられたときにも、天吾は性欲をまるで感じなかった。彼のペニスはずっと柔らかいままだった。ハシッシのせいかもしれない。しかしそうではあるまいという気がした。ふかえりはあの雷雨の夜に天吾と交わることによって、彼の心の中から大事な何かを持ち去ったのだ。部屋から家具を運び出すみたいに。そんな気がした。
 [#ゴシック体]たとえば何を?[#ゴシック体終わり]
 天吾は首を振った。
 ビールを飲んでしまうと、フォア・ローゼズのオンザロックと、ミックスナッツを注文した。前の時と同じように。
 おそらくあの雷雨の夜の勃起が完全すぎたのだろう。それはいつもよりずっと硬く、ずっと大きな勃起だった。見慣れた自分の性器ではないように思えた。つるつるとして輝かしく、現実のペニスというよりは何かの観念の象徴のようにさえ見えた。そしてそのあとにやってきた射精は力強く、雄々しく、精液はどこまでも濃密だった。きっとそれは子宮の奥まで到達したはずだ。あるいは更にその奥まで。それは実に非の打ち所のない射精だった。
 しかしものごとがあまりにも完全だと、そのあとに決まって反動がやってくる。それが世のならいだ。あれからあと俺はいったいどんな勃起を体験しただろう? 思い出せない。勃起は一度もなかったのかもしれない。思い出せないところを見ると、もしあったとしてもきっと二級品だったのだろう。映画でいえば員数合わせのプログラム・ピクチャーのようなものだ。そんな勃起に語るべき意味などない。たぶん。
 ひょっとしておれはこんな風に二級品の勃起を抱えたまま、あるいは二級品の勃起すら持てないまま、残りの人生をずるずると送ることになるのだろうか、天吾は自らにそう問いかけた。それはきっと長引いた黄昏のような物寂しい人生に違いない。しかし考えようによってはまたやむを得ないことかもしれない。少なくとも一度は完壁な勃起を持ち、完壁な射精をしたのだ。『風と共に去りぬ』を書いた作家と同じだ。一度偉大な何かを達成しただけでも[#傍点]よし[#傍点終わり]としなくてはならないのだろう。
 
 オンザロックを飲み終えると店の勘定を払い、再びあてもなく通りを歩いた。風は強く、空気は更に冷え込んでいた。世界のルールが緩みきって、多くの理性が失われてしまう前に、おれはとにかく青豆を見つけなくてはならない。今では青豆に巡り合うことだけが、天吾にとってほとんど唯一の望みだった。もし彼女を見つけられなかったら、おれの人生にいったいどれだけの値打ちがあるだろう? この高円寺の町のどこかにかつて彼女はいた。九月のことだ。うまくすれば今も同じところにいるかもしれない。もちろん確証はない。でも天吾としては今はその可能性を追求するしかない。青豆はこのあたりの[#傍点]どこか[#傍点終わり]にいる。そして彼女もまた同じように彼を探している。二つに割れたコインがそれぞれあとの半分を求めるみたいに。
 空を見上げた。しかし月は見えなかった。どこか月の見えるところに行かなくてはと天吾は思った。
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