青田は果なし
宮本百合子
用事があって、岩手県の盛岡と秋田市とへ数日出かけた。帰途は新潟まわりの汽車で上野へついた。
秋田へ行ったのもはじめてであったし、山形から新潟を通ったのもはじめてであった。夏も末に近い日本海の眺めは美しくて、私をおどろかした。が、それよりも身に沁みじみと感じて見てとおったのは秋田から山形に及ぶ広大な稲田の景色であった。
汽車が秋田市を出発して間もなく、窓の左右は目もはるかな稲田ばかりの眺めとなった。はるか左側に雄大な奥羽山脈をひかえ、右手に秋田の山々が見える。その間の盆地数十里の間、行けど、行けど、青々と茂った稲ばかりである。
関東の農村は、汽車でとおっても、雑木林をぬけたところには畑があり、そこでヒエが穂を出しているかと思うと、南瓜畑があり、田圃の上にはとうもろこしのひろい葉がゆれている。草堤に萩が咲いていたりもする。
ところが秋田から山形沿線の稲田のひろがりには、見ているうちに、一種こわいような気がして来るほどに先祖代々からの農民の労力がうちこめられている。無駄な一本の畦幅さえそこには見られない、きっちりとすき間もなく一望果ない田圃になっていて、盆地特有のむしあつさの中に、ぞっくりと稲の葉なみをそろえて立っているのである。通ったのは、丁度田舎の盆の間であったから、田圃には全く人かげがなかった。そしてその広大な稲田の全面積は、農民の人々のよろこび、それを眺めてとおる私たちのうれしさという感じとは少しちがった、威圧するような気分を与えるのであった。
稲田は、堂々と、人間生活の労力の上に繁茂しているのに、折々汽車の窓から見えるこの辺の農家は、何と小さいだろう。しかも、稲田の広大な面積に比べて、数が少い。関東の農村のように、防風林をひかえて、ぐるりに畑や田をもった農家が散財しているという風でない。一かたまりずつ、稲田の間に木立をひかえた農家がつまっている。その家はどれも大きくない。盆地で暑いせいだろう、前庭に丸太で組んだヤグラのようなすずみ台をこしらえて、西陽のさす方へコモをたらして、そこで女が縫いものをしたり、子供がひるねしたりしていた。
秋田、山形辺は、食糧危機がひどくなってから、主食買い出しの全国的基地となって来ている。私の乗っている汽車にも、きっとそういう用事で出て来ている各地の旅客がいただろう。その人々は、この一望果てない青田を見て、そこに白く光った白米の粒々を想像し、価のつり上りを想像し、満足を感じていたかもしれない。けれども、私は、行けども行けどもつきない稲田の間を駛りつつ、いうにいえない心もちがした。これほどの稲、これほどの稲からとれる米。それを果して、私たちは単純に自分たちの食糧と考えることが出来るのだろうか、と。
これほどの広い地域をみたす日本のこく倉の稲田は、つまるところ、現在の世の中のしくみでは、やはり一つの最も投機的な商品ではないのだろうか。もし、この広大な稲田全体が、いつわりない農民の生産として、それを作る農民の生活にもかえってゆくものならば、どうして、秋田、山形の農家はこんなに小さい屋根屋根の下にかがまっていて、しかも地主らしい堂々たる家構が見当らないのだろう。一坪でも、そこから米を産出する稲田の真中に、大きい面積をつぶして住居を立てるほど地主たちは愚かでないという証拠である。彼等は多く都会に家をもっているのだろう。小作としてどうしてもそこで働かせておかなければこまる農民の住居は最小限において。家の小さいことは地積の関係ばかりでなく、代々この地方の農民が、決して、祖先からの骨をこの土地に埋めて来た稲田から、地主のように儲けたことは唯一度もなかったことを告げている。
稲田の間を駛りながら、私はつい先頃新聞に出た「百万人の失業者」という記事を思いおこした。政府は重要産業の補償をうち切って、百万人の失業者を出すそうだが、その百万人の人々とその家族、その主婦たちにとって、この威風にみちた秋田の稲田のことしのみのりは、どういうものになって現れるのだろう。
政府がきめる土地調整法案で地主は必ずしもいま働いている小作人に土地をわける義務はないのだし、この調整法の本来が大地主をもっと数多い小地主にかえることでしかない。ヤグラの上で、盆祭りの赤い腰まきを木の間にちらつかせて涼んでいる農家のかあさんたちは、この稲田の壮観と、自分たちの土地というものについて何と感じているだろうか。この稲田に注がれている農村の女の労働力はいかばかりかしれないのに、日本の家族制度では、女は馬の次に考えられ、かあさんたちの一人もこの稲田の持ち主ではないだろう。働く婦人が、まっさきに勘定されるのはクビキリの場合だけである。これは国鉄にはっきり現れている。こういう日本の政府のやりかたは、変えられなければならないものである。
〔一九四六年八月〕