社会のある特殊な時代が今日のような形をとって来ると、女の職業的な進出や、生産へ労働力として参加する数や質のひろがりに逆比例して、女らしい躾みだとか慎しさとか従順さとかが、一括した女らしさという表現でいっそう女につよく求められて来ている。日夜手にふれている機械は近代の科学性の尖端に立っているものだけれども、それについて働いている若い女のひとに求められている女らしさの内容のこまかいことは、働いている女のひととして決して便利でものぞましいものでもないという場合は到るところにあると思う。そういうことについて苦痛を感じる若い女の心が、真率にその苦痛を社会的にも訴えてゆく、そこにも自然な女らしさが認められなければならないのだと思う。女自身が、女同士としてそのことを当然とし自然としてゆく気持が必要だといえると思う。こういう場合についても、私たちは女の進む道をさえぎるのは常に男だとばかりは決していえない、という現実を、被いなく知らなければならないと思うのである。
女の本来の心の発動というものも、歴史の中での女のありようと切りはなしてはいえないし、抽象的にいえないものだと思う。人間としての男の精神と感情との発現が実にさまざまの姿をとってゆくように、女の心の姿も実にさまざまであって、それでいいのではないだろうか。真に憤るだけの心の力をもった女は美しいと思う。真に悲しむべきことを悲しめる女のひとは立派と思う。本当にうれしいことを腹からうれしいと表現する女のひとは、この世の宝ではないだろうか。そして、あらゆるそれらのあらわれは女らしいのだと思う。
ある種の男のひとは、女が単純率直に心情を吐露するところがよとしているが、自分の心の真の流れを見ている女は、そういう言葉に懐疑的な微笑を洩すだろうと思う。現代の女は、決してあらゆる時と処とでそんなに単純素朴に真情を吐露し得る事情におかれてはいない、そのことは女自身が知っている。ある何人かの悧巧な女が、その男のひとの受け切れる範囲での真率さで、わかる範囲の心持を吐露したとしても、それは全部でない。女の真情は現代に生きて、綺麗ごとですんではいないのだから。
生活の環がひろがり高まるにつれて女の心も男同様綺麗ごとにすんではいないのだし、それが現実であると同時に、更にそれらの波瀾の中から人間らしい心情に到ろうとしている生活の道こそ真実であることを、自分にもはっきり知ることが、女の心の成長のために避けがたい必要ではなかろうか。
これからのいよいよ錯雑紛糾する歴史の波の間に生き、そこで成長してゆくために、女は、従来いい意味での女らしさ、悪い意味での女らしさと二様にだけいわれて来ていたものから、更に質を発展させた第三種めの、女としての人間らしさというものを生み出して、そこで自身のびてゆき、周囲をも伸してゆく心構えがいると思う。これまでいい意味での女らしさの範疇からもあふれていた、現実へのつよい倦むことない探求心、そのことから必然されて来る科学的な綜合的な事物の見かたと判断、生活に一定の方向を求めてゆく感情の思意ある一貫性などが、強靭な生活の腱とならなければ、とても今日と明日との変転に処して人間らしい成長を保ってゆけまいと思う。世俗な勝気や負けん気の女のひとは相当あるのだけれども、勝気とか負けん気とかいうものは、いつも相手があってそれとの張り合いの上でのことで、その女らしい脆さで裏づけされたつよさは、女のひとのよさよりもわるさを助長しているのがこれまでのありようであった。
女の人間らしい慈愛のひろさにしろ、それを感情から情熱に高め、持続して、生活のうちに実現してゆくには巨大な意力が求められる。実現の方法、その可能の発見のためには、沈着な現実の観察と洞察とがいるが、それはやっぱり目の先三寸の態度では不可能なのである。
例えばこの頃の私たちの生活は、木炭のことについても、さまざまの新しい経験をしつつある。昔流にいえば、まだ一家の主婦でない若い女のひとはそんなことには娘時代の呑気さでうっかり過したかもしれないが、今日は、主婦でない女のひとも、やはりこのことには社会の現象として注意をひかれているのが実際であろう。古い女らしさに従えば、うまくやりくりして家じゅうに寒い目をさせず、しかも巧になるたけやすい炭をどっさり見つけて来る手柄に止っていたであろう。将来の女らしさは、そういう狭い個人的な即物的解決の機敏さだけでは、決して追っつかない。子供たちに炭のないわけを公平に納得させてやれるだけの社会についての知識と、そういう寒さをも何かと凌ぎよくしてやるだけのひろい科学的な工夫のできる心、歴史の時期としてユーモアと希望と洞察とでその事態を判断し得る心、そういうものが、女らしさの日常の要素として加って来る。そして、日常の諸現象について、妙に精神化の流行することについても冷静に見てゆく女のぱっちりと澄んだ眼が求められているのではないだろうか。それらのどれもが、近づいて見れば、いわゆる女らしさから何と大きい幅で踏み出して来ていることであろう。
刻々と揉む歴史の濤頭は荒くて、ふるい女らしさの小舟はすでに難破していると思う。私たちは、近代の科学で設計され、動的で、快活で、真情に富んだ雄々しい明日の船出を準備しなければならないのだと思う。
〔一九四〇年二月〕