「もう直ぐこの仕事がすむから、そしたら行きますとよ」
「じゃあ、どうぞ」
ぬいは、ぱたぱた杉垣をかけ出し、野道ではゆっくり歩きながら、清二が一緒に来なくてよかったと思った。ぬいは、彼がこの春、草履屋から逃げて来たときの話を聞いた時から、しんでは深く彼に同情していた。清二は、草履屋の主人が人並の賃銭を自分だけに決して払ってくれない上、何か悪い病気持ちの朋輩と一つ床に寝なければならないのがいやでとうとう帰って来たのに、口が利けないからよくその気持が通らず、ただの我儘と思われ二度も親爺に引っぱられてもとの店に戻された。三度目に、彼が涙をこぼして頼んだのでやっと家にいていいことになった。ぬいは、口が利けないだけで彼はどんなに苦労しているのかと思うと、会った時、一度はちょいと、
「ほんとうにお気の毒だと思ってよ」
と云わずには気のすまない心持がした。唖は耳がきこえないから、ぬいが知っているただ一つの方法――言葉で喋ること――では、ただ一つの告げたいことさえ告げることが出来ない。
いろいろそういう気持だのに、半町のところでも黙りこくって清二と家まで歩いて来なければならなかったら、どんなに工合わるかっただろう。
十五分ばかり経つと、清二が、太い羽二重の兵児帯をしめてやって来た。
「ア、ウ、ウ」
彼は、炉の横に坐って挨拶した。
母親は、やはりわからないくらいにだが当惑した風で、普通の人に云うように、
「ええお天気でござります」
と云いながら、茶を注いで出した。清二は、それを飲むと、直ぐ下してねかしてある柱時計を指さした。母親はいそいで合点した。清二は、節の高い指で裏蓋をあけ、複雑な機械のあちらこちらを試していたが、ぬいと母親と二人の方を見ながら、何かを掌にあけ、頭をこするようなことをした。
「アウ、アアア」
そして、発条にまた何かあけるようにする。
「何だろ、清ちゃん何がいるのかね」
「――母さん! 油、髪の油だわ」
ぬいは、小さい椿油の壜を出して来た。清二は、その壜を見ると、嬉しそうにうんうんをして手を出した。が直ぐまた別のものを探しだした。ぬいは、一生懸命になって、彼のいるものが、紙切れなのを当てた。清二は機械のところどころに少しずつ油をさして、やっと時計が動くようにした。
「ああ、これでいい! ありがとうござりました。まあ一服しておくれ」
再び、古風な柱時計が燻(くす)ぶった天井の下で、活溌にチクタクいいだした。ぬいは、溜息をついた。彼女は、母親が、沢山何か礼して、清二の労をねぎらってやってくれればよいと思って凝(じ)っと待っていた。が、母親は、柱にかかった時計を度々見て満足を示すだけで、ひどく三人は手持無沙汰だ。彼女が、思いきって炉の火箸をとりあげようとしたときであった。外を見たり煙草をすったりしていた清二が、ふと、手を延して片方火箸をとった。彼は、
「ア」と、ぬいに合図し、灰の上に書き始めた。
「アシタ、町デ、ホントノ、キカイ油ヲ、買ウ」
母親は、「ほう、そうかい」
と、金を出しに立った。ぬいは、一寸考えていたが、友達の背中に字を書いて読ませるときのように、熱心に、一字書いては判ったかどうかをためしながら、次の文句を灰に書いた。
「清サンハ、ホントニ、キカイノコトガ、オ上手デス」