二
村道は埃っぽい。
村道のはずれに並木道があった。その古い菩提樹の並木道をあっちへ横切ると、石敷の歩道がはじまる。槭樹の影の落ちる歩道は八方から集って、緑のたまりのような公園となった。
公園はほとんどロシアじゅうに有名だ。天気のよい日曜日、池のまわりのベンチの上に、あらゆる賑やかなプロレタリアの色彩と笑声があふれた。ギターと手風琴の音が木立の蔭から夜まで響いた。石橋の上で、赤いプラトークをかぶった工場の娘が兵卒と踊る。公園じゅうにアイスクリーム売りの手押車と向日葵の種、糖果などを売る籠一つ、あるいは二尺四方の愛嬌よき店がちらばった。市からは工場の見学団が楽団を先頭にしてやって来る。見学団は停車場から一露里の道中でうっすり埃をかぶった大よそゆきのエナメル靴の上から、草鞋のようなカバーを麻紐でくるぶしにくくりつけ、静かに力づよく押しあいながら、エカテリナ二世宮殿の毛氈の上を歩いた。彼らが、支那皇帝がこの精力的な女皇に贈ったという堆朱の大瓶を眺めている間、そしてこのたいして美しいとも思えぬ瓶一つのために八十年間三代の工人が働いたという説明をきいて、ぼーっと頭のなかにその長い歳月についやされた工賃を反射させている時、別隊のプーシュキン見学団が、宮殿の外の往来で日にやけながら、ある家屋の軒を見上げていた。
「諸君! ここがわれらの大詩人プーシュキンの学んだ貴族学校長、エンゲルガルトが住んでいた家であります」
十数人の男女が頤をそろえて見上げたその水色石造建築物の外観は極めて平凡で、歩道に向った下の窓の奥に「下宿・レオノヴォイ」という札が出してあった。白いカーテンの上からゼラニアムの赤い花が見える。
見学団から見えぬその家のテラスで、五人の男女がカンバス椅子にかけていた。モスクワから一日おくれに到着する「イズヴェスチャ」が老教授の膝の上にあった。彼は、水っぽくしなびた婆さんみたいな鼻のある顔で目の前の槭樹の梢を眺めている。槭樹はいま七月で、葉かげに青塗りの木造飛行機模型のような実の房を一杯つけているのであった。革命後十一年目――生活……学士院――「イズヴェスチャ」第六面にСССР学士院で会員候補氏名が発表された。特殊技術部の候補者には、ゴスプランのグレブ・マクシミリアノヴィッチ・クルジジャノウスキー、歴史部ポクロフスキー、哲学部の候補にはブハーリン。今秋四十何人か全然新しい会員が選挙されるということに老教授は歓喜を感じ得ないのだった。ペチカたきの男しかコンムニストはいなかったのだ。教授は色のわるい平手で、ぐるりとまばらに髯の生えた自分の顔をなでまわして云った。
「……ふむ、今日は埃っぽくて、あまりぞっとしない天気だ」
「そうですとも」
隣のカンヴァス椅子から、ねずみ色の肩かけを胸の上であわせた肥った女が答えた。
「だいたいことしの天気はお話になりませんよ。気候まで昔とはなんだか様子がちがって来た。こんな寒い夏なんて! 聞いたことがあるでしょうか。十度ですよたった!」
彼女は心臓病で、一日この下宿のテラスに坐り通しているのであった。
プーシュキン見学団は、のろのろ往来を横切り、エカテリナ宮殿のバロック式窓の外で半円を描いた。彼らが立って一せいに見ている往来に一匹犬がいた。犬も立ち止って見学団を眺めた。人通りが往来にふと絶えたので、遠くからその様子を見ると、見学団はさながらその犬について説明を傾聴しているように見えた。
テラスの手すりに深くのり出してもたれ、笑いながらこの光景を見おろしていた一人の女が、声高に、
「ウラジミール・イワノヴィッチ、ちょっとごらんなさい」
と叫んだ。はげのこった髪をくりくり坊主のように短くして、太短い眉、あから顔の電気技師が女のそばへ行った。
「昨日の先生でしょう? あのわれらの大詩人プーシュキンをやっているの」
「どれ?」
技師は、見出すのがよほど困難とみえ白粉の濃くついている女の顔のごくそばへ自分の青く剃った頬っぺたをもって行った。
「どこに?」
「そら、あの黄色いプラトークの美しい人のまえ」
「ちがうらしいな。昨日の男は茶色のネクタイでしたぜ」
「かわいそうに!」
女は、技師の肩に鏝をかけた自分の頭をおっつけそうに喉を反らせ、やがてこごみ、大笑いした。
「まさかネクタイを茶色から黒にする勇気もない男なんてこの世にあるもんですか?」
笑いながら、ひどく黒く光るながしめでウラジミール・イワノヴィッチの縁なし眼鏡をのぞいた。
「そうじゃありませんの――いかが?」
女の口が白い顔から浮き出し宙で紅く開いたまま、一直線に技師の顔に向ってすべってくるような感覚であった。
肩のひろくあいた白服の胸に三色菫の造花をつけて笑っている女は、市の映画常設館ピカデリーのプログラム売りが職業であった。
「自分でおかしくなってしまいますわ、二つの外国語を知っていて、中学校を金牌で出た女がこんな仕事しかないなんて……」
それは食卓でのことで、思わず彼女の顔を見なおした数人の年とった女には目をかけず、その時もやっぱり彼女は野菊の白い花越しに技師ばっかりを見つめ、いらだたしげに笑った。
「ねえ、こういうのがロシア語では機会均等と云うのでしょうか?」
アンナ・リヴォーヴナその他の女たちは、黙って払い下げ品ロマノフ家紋章入りの皿から氷菓と一緒にこまこました思いを飲み下した。例えば、八十五ルーブリ――しかもそれがやっと歩合でとれる金で、どうして夏だからと云って下宿へ来て、二週間に八十四ルーブリ払えるであろう?(または)毎朝毎朝ああやって目先をかえて出て来る着物は、どういう工面で出来ることやら――
女のいう二箇国語の知識や金牌やらが信じられぬ存在になるのであった。
電気技師だってそれらを信じるというのではなかった。ただ一ヵ月に取れる金の八十五ルーブリと二週間に出せる金の八十四ルーブリとの間にある矛盾が、漠然と遠くない過去、資本主義時代のペテルブルグ生活を思い出させ、女が、わたしの夫、わたしの夫と云う職業も不明な夫が複数の感じで彼に映るのであった。その朝、タタール風な頭の電気技師は妻君より早く起きた。来年銀婚式をするべき妻君のユリヤ・ニコライエヴナが小さい義歯にブラッシをかけている間に、彼は今朝はバラ色のなりの女と公園の奥を散歩した。技師だけ妻君の室に戻り、再び夫婦で食堂へ降りた時、玄関から真直食堂に入っていたバラ色のニーナは待ちかねていたように立ち上って、まず妻君の手を握った。
「お早うございます。ユリヤ・ニコライエヴナ。なんていいお天気なんでしょう、今朝は! わたしじっとしていられなくなって散歩してまいりましたの、御一緒に――ねえ、アレキサンドル・ミハイロヴィッチ」
女は可愛い自分の祖父さんでも抱くように七十歳の、だぶだぶした麻の詰襟服を着たアレキサンドル・ミハイロヴィッチの肩にさわった。が、半中気で耳の遠い老人にニーナの言葉はまるできこえなかった。
仕立屋タマーラは、同じ下宿のうちでもこんな具合な食堂にはなんの関係もなかった。黒と白の四角い石を碁盤形にしいた廊下がある。廊下は暗い。そのかなたの小部屋で、下宿の主婦の胴まわりにテープをまわして働いた。小部屋の窓の外には楡の木が枝をひろげていた。でこぼこ石の中庭越しに、裏の長屋と家畜小舎が見えた。大鎌が二ちょう、白壁が落ちて赤煉瓦の出た低い小舎の外壁にもたせかけてある。牛の臭いが時々した。