十
入ったばかりのところは、がらんとした室だ。木の床の上に大机が一脚あった。その机の上に数冊パンフレットがおかれている。赤い布で飾ったレーニンの肖像が左側の壁にかかり、その下に壁新聞がはってあった。壁新聞に赤いプラトークをかぶって手を振っている若い女の笑い顔の插画がある。
上靴をぬぐのか脱がないのか、ナースチャは、迷って、誰もいぬその室に立ち、見まわした。室の境に戸がなく、奥が見えた。上靴をはいたまま、女がある机の前に立っている。ナースチャは腕にかけた買物籠がゆれぬように片手で押え、そろそろ奥へ歩いた。
暗い室だ。大机が三つあって、三人の女が働いていた。白タイルがところどころ欠けて、燃き口のくすぶったペチカが室の隅にある。
入口に立っていると、ナースチャに一番近い机の前に坐っている女が、
「お前さんはなに用」
ときいた。藍縞の男ものシャツを着て、紺と黄色のさっぱりしたネクタイを胸の上にたらしている女であった。
「わたし組合に入れましょうか」
「なぜいけない? まあ掛けなさい」
アンナ・リヴォーヴナの台所にあると同じ腰かけにナースチャは坐った。他の机の前では、さきに来た女が小さい帳面を出して、なにか計算してもらっていた。「お前さんは、いままでに二十二ルーブリ五十カペイキしか受けとっていないことになるね」「ええ」――「あまりがいくらあることになる?」女は二十六ルーブリ近くだと答えた。――「よく見といで、二十五ルーブリと五十カペイキだよ」好奇心と不安とをもってナースチャはその問答をきいた。
「デリ」と赤地に金文字つきの平ったい箱から巻タバコを出し、吸いつけながら、紺と黄色のネクタイの女が云った。
「さて、と……お前さんどこで働いている?」
「アンナ・リヴォーヴナのところです」
「番地は」
ナースチャのそばかすのある顔がだんだんひどく赤くなった。
「知りません」
「じゃいい。いままでいっぺんも、どこでも組合員だったことはない?」
「いいえ」
「そのアンナ・なんとかさんの家へ来るまで勤めていたかい」
「いいえ、はじめてです」
「いく日もう勤めた?」
「去年の八月からです」
「八、九、十、十一、十二、一、二――と。月給はいくら」
「十三ルーブリ」
ナースチャは正直に金額を答えてから、心配になって女の顔をじっと見た。女はしかしあたり前な顔で、机の引出しから二枚、大きい紙を出した。
「さ、これを持って帰ってすっかり書きこんでもらっといで」
ナースチャは、きき間違え、また赤くなった。
「わたし、書けません」
「お前さんは主人じゃないだろう」
タバコの煙をふっと口のすみからふきながら、陽気に云って、笑った。
「ごらん、すっかりこの項目に、主人の名、職業、お前さんの名、パスポルトの番号、月給、働く条件、休日まで書きこんでもらって、それから組合に入るんだ、わかったろう?」
「ありがとう」
「主人が書いてくれたら、住宅管理人に裏書きしてもらって、またここへおいで」
ナースチャが、紙を手にもって立ちかけた時、女がきいた。
「クラブへ行ったのかい、お前さん」
「いいえ」
「誰にこのメストコムをきいた?」
「リザ・セミョンノヴナが教えました」
椅子の背にタバコを持った手を廻してかけ、女は立っているナースチャを見上げた。
「誰だい……それは」
「家にいるお嬢さんです」
「ふむ……よしよし」
「さよなら」
女はうなずいて、こむらで椅子を押しながら自分の場所から立ち上った。
凍って白い並木道では大勢の子供がスキーで遊んでいる。母親や子守のいるベンチの前を中国の女が、ゴムでつるした色つき毬を売って歩いた。雪の長い並木道を纏足で中国の女は黒く、よちよち動いた。並木道の外れの電車路に、婆さんと男の子供がいた。転轍手と遊んでいた。
「おくれよ。おじいちゃん」
転轍に使う金棒を男の子はほしがった。白い髯で山羊なめし外套の転轍手は笑いながら、金棒をうしろにかくした。
「いけないよ、いけないよ、おくれよ」
「ワロージャ!」
婆さんが叱った。転轍手は男の子に金棒を渡した。男の子はたちまちその金棒にまたがって、雪の上を駈け、あっちへ行った。転轍手は子供の方と、かなたの電車線路の上とをかわるがわる眺めた。電車が見えはじめた。転轍手はいそいで子供のところへ走って行った。
ナースチャは自分の村にあった鉄橋の景色を思い出した。鉄橋の両端には見張所があった。銃を肩から逆さにつった平服の番人が橋桁にならべた板の上をいつもぶらぶら歩いていた。ナースチャの死んだ親父も赤いルバシカを着て番人したことがある。鉄橋から見下す河水のひろやかな大きさ……。汽車が通る時は鉄橋じゅうがふるえた。
欄干にしがみついて、顔にかかるあつい息や、頭がしびれそうに轟然とたくさんの輪が重って目の前をころがり通るのを見送ってしまうと、子供らは一せいに橋桁の上へ躍り出して、手をたたき笑った。ナースチャもほかの子供も裸足であった。鉄橋のかなたは原で、村の共同物干場があった。いろんな色のぼろが、原のおっぴらいたなかに見えた。
メストコムからもらって来た紙をもって、ナースチャは食堂へ入って行った。夕食後であった。パーヴェル・パヴロヴィッチがシャツだけで長椅子の上に長くなって、パイプをふかしている。アンナ・リヴォーヴナは第二回工業化株券のことを話していた。
「なんだい、ナースチャ」
ナースチャはアンナ・リヴォーヴナが肱をついているテーブルのそばに立った。
「これに書きこんでいただきたいんです」
アンナ・リヴォーヴナは自分の腕越しにナースチャの差し出している紙を見下し、けげんそうにのっそり二つの肱をテーブルからおろした。
「……なんなのさ、一たい」
「わたし、組合に入りたいんですけれど、組合へはこの書付がないと駄目だって云われたんです」
「組合ってお前……神よ! なにを考え出したのさ、急に」
ナースチャを見上げ、それから夫をアンナ・リヴォーヴナは眺めた。パーヴェル・パヴロヴィッチは故意としか思われぬ無邪気な眉のひらきようをして、窓の外に見とれている。アンナ・リヴォーヴナは、頭をふり、紙をひろげて、項目に眼をとおしはじめた。
その場の空気から、ナースチャは変に不安な居心地のわるい心持になり、立ちつづけた。これはそんななにごとかなのであろうか。
待ち遠しくなったほど丁寧に読み終って手を紙の上におき、アンナ・リヴォーヴナは、
「じゃ、よろしい」
とおだやかに云った。
「書いたげよう。――だがいそぎゃしないんだろう? ナースチャ」
ナースチャはいそぐと云えなくなって、
「ええ」
と答えた。
「じゃ、紙おいときますから」
はっきりしない気持でナースチャが去ろうとすると、アンナ・リヴォーヴナが彼女をよびとめた。
「ちょっと、ナースチャ、この紙、たしかに書いたげるには書いたげるが、お前、組合ってどんなもんだか、よく知ってるかい」
食堂の戸口のカーテンのところに立ち止って、ナースチャはまごつきを感じ、むっつり答えた。
「知ってると思います」
「そりゃ素敵だ! 説明してごらん」
ナースチャは、前垂をひっぱりながら、野性なきつい眼付で主人たち夫婦をみた。ナースチャは主人たちの前で長い文句で自分の考えを述べることなどに、てんからなれていない。アンナ・リヴォーヴナはからかうように、
「きまりわるがることはないじゃないか」
と笑った。
「お前の組合のことをお前が話すんじゃないか」
腹が立って来て、ナースチャは云った。
「組合へ入れば、映画がやすくなるんです」
爆発するような口をあけてあおむきに寝ころんだパーヴェル・パヴロヴィッチが笑った。
「上出来! 上出来!」
「父さん! たら……それから? ナースチャ」
ちっとも云いたくない心持をこらえて、ナースチャは、
「クラブもあります」
と云った。
「夜ひまなとき、わたし、クラブのクルジョークで勉強したいと思ったのです。わたし、ここでほんの一人ぼっちだけど、そこへいけば沢山仲間があります」
だんだん自由に話せるようになり、ナースチャはいつか再びテーブルのそばまで戻って力づよく云った。
「ごらんなさい。アンナ・リヴォーヴナ、もし明日でも、いらなくなれば、あなたはわたしを出すことが出来ます。でも、わたしはどうしたらいいでしょう?――それはわたしの苦しみです。あなたの苦しみではない」
「……そりゃ本当だ。……でも、ナースチャ。お前、どのくらい沢山組合に入ってる娘たちが失業で淫売婦になってアルバートをうろついているか知ってるかい」
ナースチャは知らなかった。アンナ・リヴォーヴナは、舌を鳴らした。
「ごらん!」
人さし指を立て、ナースチャの顔の前でふった。
「自分の胡瓜を売ろうとする人間は、それが苦いとは云わないものさ。第一、組合へ入ればお金とられるんだよ」
「それは知ってます」
「いくら払わなけりゃならないって云ったい」
「…………」
確かな歩合をナースチャは知らなかった。
アンナ・リヴォーヴナはしばらく頑固に黙っているナースチャの顔を見まもり、やがて捨てるように云った。
「わたしのことじゃないから、どうでもいいけれどね。つまらないようなもんじゃないか。沢山お金とったって、とっただけの割で組合へとられてさ、おまけに失業積立金まで出して、ひとを食べさせてやるなんて」
ナースチャの頭が、ゆっくり、農民らしくこんがらかりはじめた。アンナ・リヴォーヴナに云われてみると、自分がはっきり知らぬいろいろのことのどこかに、なにか自分に損の行きそうなことが隠れているように感じられ出した。ナースチャは、アンナ・リヴォーヴナを信用はしなかった。同時に、組合も全部信用出来ない心持になって来たのであった。陰気な眼付をして、ナースチャはテーブルの上の紙を眺めた。
「心配おしでない、いいようにして上げるから」
アンナ・リヴォーヴナは、しょげたナースチャの肩を押し出してやりながら云った。