秋毛
宮本百合子
病みあがりの髪は妙にねばりが強くなって、何ぞと云ってはすぐこんぐらかる。
昨日、気分が悪くてとかさなかったので今日は泣く様な思いをする。
櫛の歯が引っかかる処を少し力を入れて引くとゾロゾロゾロゾロと細い髪が抜けて来る。
三度目位までは櫛一杯に抜毛がついて来る。
袖屏風の陰で抜毛のついた櫛を握ってヨロヨロと立ちあがる抜け上った「お岩」の凄い顔を思い出す。
只さえ秋毛は抜ける上に、夏中の病気の名残と又今度の名残で倍も倍も抜けて仕舞う。
いくら、ぞんざいにあつかって居るからってやっぱり惜しい気がする。
惜しいと思う気持が段々妙に淋しい心になって来る。
細かい「ふけ」が浮いた抜毛のかたまりが古新聞の上にころがって、時々吹く風に一二本の毛が上の方へ踊り上ったり靡いたりして居る様子はこの上なくわびしい。
此頃は只クルクルとまるめて真黒なピンでとめて居るばかりだ。
結ったって仕様のない様な気がする。
若い年頃の人が髪をおろす時の気持が思いやられる。
ピッタリと頭の地ついた少ない髪を小さくまるめた青い顔の女が、体ばっかり着ぶくれて黄色な日差しの中でマジマジと物を見つめて居る様子を考えて見ると我ながらうんざりする。
毎朝の抜毛と、海と同じ様な碧色の黒みがかった様な色をした白眼の中にポッカリと瞳のただよって居る私の眼は、見るのが辛い様な気がする。
白眼が素直な白い色をして居ない者は「□持」だと云うけれ共私もたしかにそうなのかもしれない。
時々、此の青っぽい白眼も奇麗に見える事があるけれ共、此頃の様なまとまらない様子をして居ると、眼ばっかりが生きて居る様な――何だか先ぐ物にでも飛び掛りそうに見える。
弟が「どら猫」の眼の様だと笑った。
ほんとうに此頃は「どら猫」の生活をして居る。
眠りたいだけ眠り、気の向いた時食べ、そして何をするでもなくノソノソ家中歩き廻って居る。
それでもまあ、少しばかり読んだり書いたりする位が人間らしい。
何か読むか書くかしなければ居られない私がその仕事を取りあげられて仕舞うと「どら猫」より馬鹿になって仕舞う。
ボンヤリと空をながめて居たり、うなだれて眼ばかり上眼を用って物をねらう様な様子をしたりする。
変に陰気になってろくに笑いもしなくなる。
呑助が酒を取り上げられたのと同じになるのをつい此間から草花でまぎらす事を気がついた。
五六本ある西洋葵の世話だのコスモスとダーリアの花を数えたりして居る。
早りっ気で思い立つと足元から火の燃えだした様にせかせか仕だす癖が有るので始めの一週間ばかりはもうすっかりそれに気を奪われて居た。
土の少なくなったのに手を泥まびれにして畑の土を足したり枯葉をむしったりした。
けれ共今はもうあき掛って居る。
あんまり騒がなくなった四五日前から前よりも一層ひどく髪が抜ける様になった。
女中に「抜毛を竹の根元に埋めると倍になって生えるそうだ」と母が「裏の姫竹の根に埋めておやり」と命じた。
女中はハイハイとうけ合って居たっけがそのまんま忘れて午後になって見ると大根の切っ端やお茶がらと一緒に水口の「古馬けつ」の中に入って居る。
「オヤオヤヘエー」って云いたい気になった。
別に腹も立たない。
其のまんまに仕て置く。
こんな事をひどく気にして居たら女中なんかと一緒に居られるもんじゃあない。
幾度も幾度も女中が変って知った事だけれ共、私が手紙を出しとくれと云って先ぐ腰をあげる女は好い方である。
其の家の娘がたのんだ仕事の仕工合で女中の気持は大抵わかるものだと思う。
又こないだまで居た、話しにもならない様な女中の事を思い出す。
顔がかなりで生半分物が分って、悪い事に胆の座った女ほど気味の悪いものはない。
彼の女も一度だか私の髪を埋めた事が有った事を思い出すとあんなものの手で埋められたのかと思うと髪の根元がムズムズする様だ。いやらしい。
一体秋になるといつもなら気が落ついて一年中一番冷静な頭になれる時なんだけれ共今年はそうなれない。
大変な損だ。
秋から冬の間に落ついて私の頭は其の他の時よりも余計に種々の事を収獲するんだけれ共今年は少くとも冬になるまで別にこれぞと云う事もしないで居なければならない。
抜毛を見ながらも、変な青っぽい眼を見ながらも、徒に立って行く秋の貴さと健康の有難味を思う。
健康で居て暇無しに仕事をして行けるのが何より幸福だと、仕事をしたくて出来ない今つくづく思う。
わかりきった事の様だけれ共、ほんとうに心からつくづくと思うのは自分がそれをする事の出来ない様な境遇になってからである。
「抜毛」のないものには、毛の抜けない気持よさが分らない――病気を生れて一度も仕た事のないものは達者で生きて居る有難が分らないものだ。