すこし笑い顔になって、その不便もみとめている。礼を云ってそこを出て、動揺した切ない心持のままサヨは、元来た三つまたの方に向って歩いた。この界隈に執着してうろうろとあるきまわっているのであったけれど、近くなればなるほど近さが強調して感じさせる重吉との距離の不自然さが生々としてサヨを苦しますのであった。苦痛とたたかって、自分の心と体とをそれから引はがそうとするような気力をあつめて、サヨは省線に乗った。
竹藪のよこの足場のわるい石ころ坂道をのぼり切ると、更に石段があって、古びた門にかぶさるようにアカシヤの大木が枝をのばしている。その門のなかに友子夫婦の住居があるのであった。八つ手の植った格子をあけようとしたが、建てつけが歪んでしまっていて容易に動かない。幾度かやってみて、遂にサヨは、
「友子さアーん」
と大声で呼んだ。気をつけながらいそいで二階から下りて来る友子の気配がした。この古い家は梯子段の間がなみよりも遠くて、もう何年も棲んでいる友子でも気がゆるせないのであった。
「ほんとに、この家ったら!」
自分のうちの生きものでも叱るような口調で友子が内から格子をガタガタさせた。
「こないだなんか、わたしが出て、あとをしめたら、もう入れないんだもの」
まあこの主人の私がよ、というその調子にはこの夫婦の暮しにある独特な諧謔がひとりでに溢れていて、サヨは気分が転換されるのを感じた。
こんな時刻に現れればサヨがどこからの帰りだということを説明する必要も二人の間にはないのであった。
「お茶いれましょうね」
湯のわく間、友子は内職の編物をまた膝にとりあげている。この夫婦も、もう久しく家をさがしていた。家が古くなりすぎて、風のきつい夜なんかはおちおち眠っていられない。でも、ここで探しているのはただ家だけであった。家の見つかるまでは、つい足をふみはずして準助が二階からパイプをくわえたままころがり落ちて、ひどく腹を立てたりしながらも二人でやって行っている。自分がこうやって時々瞳の中に小さい火をもやしたような顔つきになってさがしまわるのは何だろう。家ばかりのことでない。それはサヨも知っている。
友子の編棒からは、一段一段と可愛い桃色の毛糸の赤坊ケープがつくり出されていた。それを眺めながらサヨは、ふとある婦人作家の小説の中に描かれていた一つの情景を思い出した。それは、何年も一緒に暮した良人と愛の破綻からわかれなければならないことになった若い女が、女友達とつれだって、秋の西日のさす丘の上の町を家さがしに歩きまわっている場面であった。一つ角を曲って新しい道へ出たと思うと、やっぱりそこには西日の照る前のつづきの通りがある。散々歩いても一人の若い女が子供をつれて新しい生活を営むべき貸家は見つからないで、夕暮木犀の花の下をくたびれて歩いているとき、その若い女が覚えず洩らした深い歎息は、ああ、こんな思いまでしなくちゃならないものなのかしらという謙遜なひとことであった。しかしそのひとことには、女が生活の中で負ってゆかなければならないすべての意味がこめられているようで、その情景からはサヨの心に刻まれたものが深くあった。女が自分から自分の生活への態度として一軒の家をも持ってゆくようになるその過程で女は実にどれほどのことを学ばなければならないだろう。