乙女。乙女。サヨは計らず再会したこのいじらしい昔馴染の名を心で切なく呼んだ。はだかになったところをこの画家が描いている。いかにも乙女らしく媚びることも知らず描かれているが、そこに語られている意味が何をあらわしているか、乙女は思って見たのだろうか。画家が何を現わそうとしているにしろ、乙女がそこにそうやっているそのことに、切ないものがある。それを知っているのだろうか。
雑誌をとじて、サヨは椅子の背に頭をよせかけていた。
蒸し暑いまま夜が明けはなれて来た。窓のすぐ外のプラタナスの街路樹がだんだん緑の葉色を鮮やかに見せて、朝日の条がその上に燦き出した。
突然どこか階下の方で、一声高く赤坊のなき声がした。サヨは反射的に椅子から立ち上ったが、割合しっかりした男の子の声だったように思えて躊躇していると、看護婦が廊下を走って二階の階段をこっちへのぼって来たのがわかった。急に動悸しはじめたのを感じながら、サヨは丁度看護婦が階段をのぼり切ったところへ出会い頭に出て行った。
「生れました?」
「おめでとうございます。立派なお嬢ちゃんです」
サヨは膝の力が抜けてゆくようなよろこびの感じを、初めてこの時経験した。階下へおりるまでに、こんどは続けて赤坊のなき声がして、それはまだ見ない自分たちの赤坊の精一杯の生への呼びかけで、サヨは可愛さがほとばしって喉へこみあげた。
傍の電話室へ入って、進一を呼び出した。サヨは興奮した声で、
「いま、安産よ」
と告げた。
「女の児よ。盛にないているの、きこえますか?」
進一は曖昧な返事をした。サヨは、
「ちょっとお待ちなさい、きかしてあげるから」
そう云って電話室のガラス戸をあけて、受話器を紐の長さいっぱいに廊下へ向けて引っぱった。
「ほら! ないている。いい声でしょう?」
しかし、電話でいま生れたばかりの赤坊の声をきかせるのは無理なことだった。すぐ進一が来るということで、切った。
そこは産室につづいた廊下の端れで、二枚のドアが市内らしく狭い内庭に向ってあいていた。朝露に濡れた平石の上に石菖の大きな鉢がおいてあって、細く茂りあった葉もまだ露を含んでいる。綺麗にしめりけを帯びた青い細葉の色が夜じゅう眠らなかったサヨの瞳にしみ入った。
非常に深い安らかなよろこびがサヨの心を満していた。そんなよろこびと安心の感情は予想していなかった。それほど大きかった。そのうれしさや安心とはまた別に、さっき雑誌の頁の中に見た乙女の姿がサヨの心の裡にある。
雀の囀りが活々と塀のところに聞えたと思うとやがて、ラジオ体操のレコードがどこかで鳴り出した。ピアノの単純なメロディにつれて「ヨオーイ、始メッ」というあの在り来りのレコードだが、擡げた顔に朝日をうけて凝っとそのピアノのメロディを聴いているうちに、サヨの体は小刻みに震えて、忍びやかな嗚咽がこみあげて来た。
このメロディは、重吉とサヨが結婚して間もなかったころの初々しい朝の目覚めの中へ、どこか遠くから響いて来た単純なメロディであった。
メロディとともにその部屋をふきぬけて、二人の体の上をわたった夏の朝の風の思い出で、サヨは泣けて来るのであった。
今のよろこびに通じるまじりけのないよろこびの思い出のため、サヨは涙をおとした。