年とったひとのためには、ただ若い華やぎとうつる青春の生活の基礎に健全なこういう種類の友だち、仲間、協力者としての異性の関係が成長していることを周囲にわからせようとしている。ところで、本当に人間らしい関係に立って男女が協力し合うということの実際は、どんな風にあらわれるものだろう。アメリカの漫画によくあるように男が女からかけられたエプロンをかけて、女の代りに子供のオムツも洗ってやる、と誇ることだろうか。
一時のこと、特別な場合として勿論そういうことも起るのは生活の自然だけれども、男女の協力ということは、決して、今日あるがままの女の仕事を男が代ってしてやること、または、男のするはずのことを女が代ってやるという単純なことではない。もしそれだけが協力なら、戦争の間は、最も大幅に協力があったことになる。兵営と前線生活では婦人のすることがすべて不幸な召集された男の手によってされていた。銃後では、家庭を破壊されたすべての哀れな女性が、軍の労働者に代って武器製造をした。これがどんな人間らしくない、不幸の図絵であったかということは今日すべての男女が知っている。いまだに疎開から家族のよびもどせない良人たちは、良人であると同時に、その自炊生活において妻である。そしてこれは全く不自然だと感じられているのである。
そうしてみると、良人の協力ということは、今あるままの労力のひどい台所仕事をそのまま男もやってやるということではなく、台所家事仕事そのものにしろ、もっと時間をとらない合理的なものにしてゆくそのことに協力することであるとわかって来る。男と女とが、互にほんとに男らしく、ほんとうに女らしく、安心して自分たちの性の人間らしい開花をたのしみながら、めいめいの特色による職能の特徴も生かしてゆく状態であることがわかる。性別いかんにかかわらず法律のまえに平等である、という憲法の実現のあらわれは、男も女も、自然な男女そのものとして生きられるものとして法律の前に平等である、という意味でしかない。不自然な条件におかれる男と女とを合わせて半分にされた状態での平等では決してない。現在の、妻に疎開されている夫たちの状態が、人間らしい男女平等の状態ではあり得ないのである。
こう理解して来ると、わたしたちの人間らしい協力において、男が男らしく活溌に生き、女が女らしい全能力を発揮して生きるためには、先ずそういう協力の可能がある社会条件をつくってゆくということが、協力の第一項にあらわれて来る。女が女らしく生きるためには、すべての職場で女性の性は保護されなければならない。女性の性が保障されない社会では、男性の性も守られず、つまり恋愛も結婚も家庭生活における父母としての経済上の安定も保たれず、従って人間性も健やかにあり得ない。刑法で姦通罪において婦人には手落だった過酷さが改正されたとしても、私たちの日々の生活のなかの現実で経済危機が、市民生活のモラルの根柢をゆすぶっているとき、刑法の改正だけで人民の堕落と悲劇とはなくならない。
職場の組合の中では、この問題が実に微妙に悲喜劇的に現われる。わかった人は実によくわかっている。だけれども、所によっては憲法がかわろうが民法がかわろうが、男は男だという「見識」を強くもっていて、やはり命令者としての感情を捨てきらない若い男子たちもある。中には折角組合が自分たち働く者の全体としての条件の一つとしてかちとった婦人の生理休暇について、婦人たちを恥かしがらせるような批評をする人さえもある。実際今日組合は、婦人のために、つまり未来の妻と母のために、女性を保護する大切な生理休暇をかちとったのに、働いている仲間である男の人があまり若い娘を恥かしめる眼でこの問題を扱うために、婦人たちはちっともその休暇を利用できずにいるということさえもある。婦人が男と同じ労働、同じ時間に対して同じ賃金をとらなければならないということは、これは婦人のためばかりではなく男のためでもある。婦人の安い労働賃金、青少年の安い労働賃金、それはいつも成年男子の賃金の安定を脅かして来た。失業の予備軍となっている。しかしそういう点で共通の幸福を守ること、その協力の意味を理解しない男の人たちは、組合が要求するから仕方がないようなものの、女のくせに生意気だという感情を捨てきっていない。組合の中で婦人部と青年部とはよく調和して活動できるけれども、大人の男子組合員とは役員の選出の点でも、議題を出す分量でも、いろいろなことで女の人がまだまだ不満をもった状態におかれているところがある。そして、そういう職場の気分は巧に傭主につかまれ、利用され、働くものの一致を裂かれ、要求を力よわいものにしてしまう。