時間的に四五年といえば短かいがその間急速に激化した闘争は、広い範囲で運動内における女の活動家をも増大させ、実際の感情として、個人の感情利害と階級の感情利害とは、一致せざるを得ないところまで具体的な条件において高められて来ている。かつて長谷川如是閑氏は、個人的感情を階級の義務の前に殉ぜしめることを主題としたプロレタリア文学に対して、「新しいつもりか知らぬが、義理のしがらみに身をせめられる義太夫のさわりと大差ない」という意味の評をしたことがある。私はその言葉を心に印されて今なお記憶しているのであるけれども、そのような批評を可能ならしめた、階級感情の小市民的分裂は、この二三年間の画期的鍛錬によって、一般的に統一の方向にむかい、もとの低さに止ってはいないのである。
先月号の『行動』に婦人詩人中河幹子さんが、婦人作家評を執筆された。中で、私のことにもふれられ「獄中の人と結婚せられた心理はわかるようで不可能である。ああいうことはオクソクの他であるが、私は無意味であると思っている」と結論しておられる。
私はその文章をよんで、女同士の共感というものも歴史性の相異によっては、全く裂かれているものだという事実を面白く思った。そして自分に即さず一つの社会的な事実としてこの事を観察すると、私は、日本の現在の階級対立のけわしさや、そのきびしい抑圧の中からも何かの可能性をひき出し、たとえ半歩たりとも具体的に前進しようとする階級の、いよいよ強靭にされる連帯性、積極性の大小さまざまの情熱的な現実の内容は、遙に歌人中河幹子氏の感情と芸術とを超えたものであることを痛感したのであった。
日本の現実は、階級的に共通な立場において結ばれた男女を日々夜々実にきびしく鍛錬しつつある。活動と抑圧との実際は、ますます深められ、ひろめられる階級的連帯性の上に立って、屈伸きわまりなく発動する男女の結合を教えている。いわば連帯性の薄弱な愛情は永年にわたって持ちこしてゆけない。それほど、風雨はきついのである。あるときはちりぢりとなって、あるときは獄の内外に、あるときは一つ屋根の下に、それぞれの活動に応じ千変万化の必要な形をとりつつ階級の歴史とともにその幸福の可能性をも増大させつつ進んでゆく一貫性は、もはや単に希望されているところの理想に止ってはいないのである。
目さきの気分にまぎらわされ、スクリーンの上で、新しい恋愛や結婚の夢を夢と知りつつ描いている実に多くの若い男女も、一度、真に愛さんと欲する熱情に燃え、真に幸福を追求すれば、現実は、おのずから社会の矛盾をそれらの人々の前にさらし、希望するとしないにかかわらず、何かの形でその桎梏との決戦をよぎなくさせる。真によく愛すことと、真によく闘うことは、今日のような階級対立の鋭い大衆の不幸な社会にあって、全く同義語のような歴史的意義をもっていると私は思うのである。
〔一九三五年五月〕