女の性の自然と社会事情から必然とされる勤労とを考えあわせれば、男女同一の労働条件ということでは、まだ性の本来が守られ得ない。女が男と同じ賃銀をとることができても、その上に母性が必要とする生理的休暇、健康相談、托児所がなければ、婦人の勤労者として自然にしたがった生活はあり得ないのである。
しばしば例に引く科学主義工業の主唱者は、高賃銀低コストを目標としているのであるが、本年の春、ある村で作業場の賃銀が村の労銀の水準に対して高すぎるという苦情が出たことが報告されている。村の労銀というのは恐らく従来の救済工事の日当や日傭労働賃銀(女三十五銭ぐらい)を標準にしてのことであったろう。むしろ意外な苦情を受けた専門家たちは「労銀が多すぎる為に起る弊害について大いに考えさせられた。副業が本業になることを恐れるためである」その問題は、それらの純朴な村の娘たちが一心に精密加工をする作業場を村営とするか、個人に対して多すぎる分は村へ寄附すればよいと解決されたのであった。
この間の消息を詳細に眺めると、やはりそこには無量の感慨を誘うものが横わっている。作業場の設置者、技術指導者は、きわめて公平といえばいえる率直さで娘たちが立派に男の熟練工なみどころか、外国の技術者の五倍もの能力をもっていることを承認している。ところが、それに対する賃銀となると村の標準、しかも村の女の労銀との比較で問題になって、結局彼女たちの労力に対する報酬としては全く未熟練な日傭娘に等しいものを受けなければならなくなって来る。これを、一つの社会的な矛盾と見るのは誤りであると何人がいい得るであろうか。この矛盾的な賃銀問題の落着を可能にしている根拠は、科学主義工業がどこまでも農村生活の現状を保守して、副業にとどめて置こうとしているところにひそんでいるのである。強請して小規模で分散的な副業に止めておこうとする理由は「集団作業の心理状態には被傭人の気持が多く、共同作業場あるいは家庭工業には農業精神が横溢している」とされているのである。
これまでも、日本の女は、実に労を惜しまず、雑多な歴史の荷を足くびに引きずりつつ働き、かせぎして来た。今日はさらに一歩すすめて、この複雑な諸条件はそのままで、いっそうの刻苦精励に向ってふるい立たされているのである。生活の新しい必要は、女に新たなたくましさを与えるであろう。新たな社会的な自覚をも与え、人間としての鍛錬をも加えるだろう。しかしそれは、十文字女史のいうように、ただ、働けば人間ができる、式の簡単な手順のものであろうか。人生とは、そのように、働きかける人間の意志や努力にかまいなく、ひとりでに人間ができ上れる仕組みのものであろうか。
新たな生活条件、古い生活条件、その間の摩擦そのものは、現実的には新たなねうちを生み出す可能性としてのみ存在するものである。一層生産面に結ばれなければならなくなった若い婦人たちが、今日の中から何を身につけて来るか、何を学んで来るかによって、その人々の経験の社会的な価値と、女の歴史とは変って来るのである。婦人が生産面により多く参加しつつあるということが、いきなり婦人の社会的条件の向上を意味しないことは明らかである。現代に処する女としての新しい義務は、今日欲する欲しないにかかわらず新しく増大され、拡大されつつある女の生活経験と、すくなからぬ犠牲との中から、やがて婦人全体の幸福を増す何ものかをつかんで来ようとする根強い努力にあるのである。
〔一九三七年十二月〕