あとがき(『作家と作品』)
宮本百合子
わたしたちが文学を愛するこころもちの最も純粋な情熱は、いつも、その作品をよみ、それを書いた作家に心をひかれる人々自身の、いかに生きるか、の課題に関連している。過去の文学作品、また今日かかれている作品をよみ、作家について研究するとき、私たちは決してそれをただ昔のものとし、ただ今日偶然あるものとして見るのではない。きょうに生きている自分たちは、どのような人間社会の歴史の到達点にたって、更にそれぞれの可能を将来に実現してゆこうとしているのか、よりよい明日はそのうしろにどんな今日をもちきのうをもっているか。それを生きる現実の姿で味い、学ぶところにこそ文学のつきない面白さ、厳粛さがある。
ここに集められている作品と作家研究は、どれもそこから、明日のためにうけとるべき教訓と価値とを発見しようとして書かれた。従って、それぞれの作品のもっている歴史的な、また階級的な限界というものも、はっきり知ろうと努力されている。
戦争中の日本政府のとりしまりは法外に苛酷非条理であったから、ツルゲネフやマクシム・ゴーリキイについて書かれた文章は、これまで、どっさり伏字があった。それらの伏字はこんどすっかり埋められた。その点から云えば、これらの文章も今度はじめて本来の体裁をもってあらわれたと云える。
ゴーリキイについていくとおりもの文章が集められているが、これは重複していない。マクシム・ゴーリキイという一人の真に人民中の人民が、その野蛮と穢辱にみちた境遇からロシア人民の歴史の発展とともに、どんなに成長しぬいて行ったという足跡は、わたしたちに深い感動と激励を与えずにはいない。わたしたちは、克服しなければならないおびただしい不幸と偽瞞との中に生きて、それとたたかっているのだから。そして、文学の作品とそのつくりてである作家とは、明日の可能に向って、最も重大な責任を帯びる立場に立たされている。文学は、今日もう単なる個人の業績の問題ではなくなった。文学が歴史の鏡であるという事実はいよいよ明白である。
一九四七年十月
〔一九四七年十二月〕