あとがき(『宮本百合子選集』第三巻)
宮本百合子
「美しき月夜」は一九一九年の夏アメリカのレーク・ジョウジという湖畔に暮したころに書かれた。この作品は、われわれの人生に災難という形であらわれる偶然の力につよく印象づけられたことがあって、それが題材にされた。それから数年後に書かれた「顔」も、またちがった意味で偶然が人生に与える影響ということについて深く動かされたためであった。南ドイツであったかある地方に毎年キリスト受難劇が行われる習慣があり、その年主役キリストを演じる農民の写真が当時の新聞にのった。世間で偉いと思われている人物とそっくりの顔立ちに生れついているなどという偶然は、ある種の人間にとって、何と皮肉で腹立たしいことだろう。不肖の息子が、顔立ちばかりは卓越していた父親そっくりであるという自然の冷厳なしきうつしとともに。不幸にもキリストなどに似て生れたことが、ほんとにその男のその男らしい生きかたに、どんな作用も及ぼさないとは思えない。自分というものを、外形の偶然からきめられる、丁度境遇の偶然で、自分の生きかたをきめられる場合が多いように。
「顔」は、様々な偶然とそれに対して自主的であるはずの自分の生涯という問題にふれている。しかしこの作品の範囲では、少年である主人公が、厄介な偶然を自覚して苦しみを感じはじめるこころまでがかかれた。
「我に叛く」は、その後にかかれた長篇「伸子」の短く途絶えた序曲のような性質をもっている。あるいは、嵐がおそって来る前の稲妻の閃きのような。「白い蚊帳」は時期から云えば「我に叛く」より数年あとになるが、これも或る意味では「伸子」に添えてよまれるべき性質の作品と云える。
「伊太利亜の古陶」には、上流社会ずきの中流人の諷刺がある。中流といっても「牡丹」に描かれたような日かげの、あわれはかない人々の人生の姿もある。「牡丹」は、駒沢の奥のひっそりした分譲地の借家に暮していたころ、その分譲地のいくつかの小道をへだてたところにある一つの瀟洒たる家におこったことであった。
「小村淡彩」「一太と母」「帆」「街」はどれも一九二五年から二六年ごろにかかれた。日本の文学には無産派文学運動が擡頭していて、アナーキズムとボルシェビズムの対立のはっきりしはじめた時代であった。蔵原惟人・青野季吉その他の人々によって、芸術の階級性ということが主張され、文学の社会性の課題がとりあげられていた。文学様式としては、第一次大戦後のドイツにおこった表現派、ダダイズムが流行的であった。
無産派文学の運動――すべての国で人民の多数を占める勤労階級の生活とその感情を表現する文学が、従来のブルジョア階級の文学にかわるべきであるという考えは、第一次ヨーロッパ大戦の後、旧い権威の崩壊と中流社会のプロレタリア化を経験したすべての国々で常識の一部となった。しかし、この運動は決して摩擦なしには発展せず、日本では、中村武羅夫、菊池寛その他の人々が文学の芸術性という点から、どこまでも無産派の文学運動に反対した。旧いブルジョア文学にはあき足らず、しかし、無産派文学には共感のもてない小市民的要素のきつい若い作家たちが、新感覚派や新興文学派のグループにかたまった。
文学におけるリアリズムの歴史としてみれば、この時代から、日本のブルジョア・リアリズムはこれまでの落つきを失った。そして、その限界をのりこえてより社会的に発展するか、またはより主観的なものに細分され奇形で無力なものになってゆくかの岐路に立った。この極めて興味のある文学上の課題はすべての人々がみているとおり今日またちがった歴史の段階に立って、解決され切らない課題として複雑な波瀾のうちにおかれているのである。
当時のわたしは、無産派の文学運動の本質をよく理解していなかった。無産派の人々が当時の未熟な試案の下でこの社会と文学との上に主張した「出生」の問題――貧乏人でなければ、或は労働者でなければ新しい社会の建設やその文学に参加出来ないものであるという風な考えかたが、わたしに納得ゆかなかった。納得ゆかなくてもそれを発展させるような理論はもっていなかった。無産派の運動にとってわたしとわたしの文学とは無きに等しいものなのであった。
わたしは、自分として書かずにいられなかった長篇「伸子」をこれらの期間にかいた。そして、それと平行して、この第三集にあつめられた「小村淡彩」「一太と母」「帆」「街」などをも書いた。
一九四七年九月