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《一个女人》读书笔记(4)

时间: 2021-07-29    进入日语论坛
核心提示:「或る女」の第二章はその部分だけを取扱って十分一つの長篇を描き得るものである。この部分の価値を若し作者が十分理解して少く
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「或る女」の第二章はその部分だけを取扱って十分一つの長篇を描き得るものである。この部分の価値を若し作者が十分理解して少くとも前篇を構成していたら、「或る女」は一つの古典として読まれるに堪えるものになったであろう。
 葉子が自分の乳母のところで育てさしている娘定子に執着し、愛している情は筆をつくして描かれている。葉子の優しい心、女らしさ、母らしさの美を作者はここで描こうとしている。
 定子を見ていると、その父であった木部に対して恋心めいたものさえ甦える場面は、ある種の読者を魅するであろうが、真にある男を愛し、やがてそれを憎悪したという痛烈な経験をもっている女の読者がその部分を読んだとしたら、果して共感を胸に感じるであろうか。
 木部に対して、葉子はその貧弱な肉体と一人よがりの気質を軽蔑憎悪している。定子が生れた時、葉子は自分が木部のような者の子を生むという屈辱に堪えないで、他の男との間に出来た赤児であると母にさえ話した。そのような劇しい憎しみを持っている男の俤を伝えている定子が、無条件に可愛いということがあるだろうか。まして葉子のような気質の女である場合。――
 母性は非常に本源的なものであるが、それだけに無差別な横溢はしないものであると感じられる。しんから打込んだ男の子こそ生みたいのが母性の永遠の欲求である。過去の日本における結婚が女の生涯を縛りつけた重みの中には、生まされた子を育てるという悲しむべき受動性も勘定に入れられなければならないだろう。
 葉子の鋭い感情の中でこの生々しい部分は何か安易にまとめられて描かれている。葉子自身が母の心というような通俗的な定形に従って解決していたのであろうか。作者は「或る女」の広告として「畏れる事なく醜にも邪にもぶつかって見よう。その底には何があるか。若しその底に何もなかったら人生の可能は否定されなければならない。私は無力ながら敢えてこの冒険を企てた。」といっている。その「人生の可能」の一つとして定子に対する葉子の曇りない愛情を押したてているのであろうか。
 作者は性は善なりという愛の感情を人間の全般に対して抱こうとした人であった。それ故葉子の定子に対する愛をもあのように描いたのであったろう。しかし今日の眼で真に人生の可能を探ろうとすれば、却って軽蔑を押えられない木部の俤を伝えている定子に対する自身の女として堪え難い苦しい感情、子供には告げることの出来ない複雑な愛憎の陰翳を勇気をもって突きつめて自身に究明することによって、葉子の人生には苦悩を通しての新たな可能性が見出されたのであったろうと思われる。
 直接「或る女」には関係ないことであるが、書簡集の中に、ある親密な若い女の人に宛てて作者が送った手紙がある。こう書かれている。「とにかく張りのあるあなたにお会いするのが気持がよい。(中略)張り……それはあなたの身上です。ピンと来るようなところが全く気持がいい。あれであなたから都会人の感傷性とをマイナスすれば当然ソシアリストになる人柄です……と云うと胸が悪くなりますか。」
 女の掠があった時代の書簡であるから、胸が悪くなる云々の言葉は今日にあっては、その時代の背景の前に解釈されなければなるまい。けれども、水野仙子氏の遺著の序文に書かれている文章を見ても、作者が婦人の生活力の高揚ということについては、唯心的に内面的にのみ重点を置いて見ていたことが感じられる。私には、作者有島武郎が自身の内にあった時代的な矛盾によって、一見非凡であって実は平凡な葉子の矛盾に興味を引かれながら、まぎれもないその理由によって芸術の対象としての葉子の現実を徹底的には解剖も解決もし得なかったということを感じるのである。

〔一九三六年十月〕

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