縞の小さいエプロンをかけた彼女が食器を積んだ大盆を抱えて不本意らしく台所に出てゆく姿を見送ると、彼は思わず眉を顰めて頭を振った。
都合の悪いのは今朝に限って、寝室にいる彼に明るい夜の台所の模様がはっきり、手にとるように判ることであった。
今、彼女は流しの洗い桶に熱い湯をあけているだろう。ブラシュで面倒そうにくなくなと皿を洗い、小声で歌をうたいながら、側の台に伏せて行くだろう姿がありあり見える。何処かの戸が開いているのか、或は故意と閉めずにあるのか、実際彼の耳には、時々瀬戸物の触れ合う音に混って彼女の声が聴えて来た。
其晩迄、彼は若い妻の声に特殊な注意を牽かれたことはなかった。其那に朗らかとも美麗とも思ったことはなかったのだが、ああやって台所から聞くと、何か一種可憐な趣があった。誰の胸の奥にでも必ずぽっちりはある感傷癖を誘い出すように聞えるのだ。
まして彼は生れつき其傾向を多分に持ち合わせていた。彼はメランコリックな表情を浮べた。そして、仰向き眼をしぱしぱさせながら何かを考え出した。
やがて、彼は側の小卓子の引き出しから一枚の白紙と鉛筆をとり出した。
さほ子が小一時間の後、手を拭き拭き台所から戻って来ると、彼は黙って其紙片を出して見せた。彼女は莞爾ともしないで眼を通した。彼が新聞に出そうと思った広告の下書きであった。
『女中雇入れたし。家族二人。余暇有。十八歳以上。給。面談。』
広告は幸応えられた。
二日経って広告が掲載されると其朝、さほ子は、間誤付をかくした真面目な顔付で、一人の娘を食事部屋に案内した。
広告を見て来た其娘は、二十前後で、細そりした体つきをしていた。念を入れた化粧をし、メリンス友禅の羽織を着、物を云うとき心持頭を左に曲げながら、何故か苦しそうに匂やかな二つの眉をひそめて声を出すのであった。
少し荒れた赤い小さな唇を見「さようでございますの」と云う含声をきいた時、さほ子は此娘をお前と呼ぶべきなのか、貴女と云うべきなのか、心を苦しめた。
「国は何処?」
彼女は、優しく前髪を傾けて答えた。
「越後でございます」
「東京には、其じゃあ、親類でもあるの?」
娘は、唇をすぼめ、悩ましそうに一寸肩をゆすった。
「――親戚はございませんですが……」
黒目がちの瞳で顔をじっと見られ、さほ子は娘の境遇を忽ち推察した。
「じゃあ、友達のところにいるの?」
「――はあ」