その佐清が問題なのだ。その佐清はいまや昔日の佐清ではない。あのたぐいまれな美貌
は、いまは、見るかげもなく|毀《き》|損《そん》されて。……
金田一耕助はいつか見た、くちゃくちゃにくずれた、あのいやらしい肉塊を思い出すと、
ゾッとするような恐ろしさとともに、なんともいいようのない、|暗《あん》|澹《たん》
たる思いにとざされたのである。
しかし、金田一耕助の|瞑《めい》|想《そう》は、いつまでも袋小路をさまよってい
ることを許されなかった。しばらく言葉をきっていた、珠世がまた、|縷《る》|々《る》
として語りはじめたからである。
「その時計は戦争中に、狂ってしまったのでございますが、もうそのころには、それを直
してくださる佐清さんは、このお屋敷においでではございませんでした。兵隊にとられて、
遠く南方の戦線へ。……」
珠世はそこで、ちょっと声をくもらせたが、すぐ、のどにからまる痰をきると、
「あたしにはその時計をどうしても、時計屋へ出す気にはなれませんでした。それという
のがひとつには、その時計、うっかり時計屋へ修繕に出すと、なかの機械をとりかえられ
てしまうというようなことを、ちょいちょい聞いておりましたので、それをおそれたから
でございますが、もうひとつには、その時計を直すのは、佐清さんをおいてほかにないと、
いつか、そんなふうに思いこんでおりましたので、たとえわずかのあいだでも、佐清さん
以外のひとに、それを渡すのがいやだったのでございます。それですから、時計はずっと
狂ったままだったのでございますが、そこへちかごろ佐清さんが復員してこられたの
で……」
珠世はそこで、ちょっと言いよどんだが、すぐにみずからはげますように、
「これ幸い……と、いってはおかしゅうございますけれど、佐清さんもだいぶ落ち着かれ
た御様子なので、四、五日まえ、お話にうかがったとき、時計を出して、修繕をお願いし
たのでございます」
金田一耕助は急に興味を催した。興味をおぼえたときのかれのくせで、にわかにバリバ
リ、もじゃもじゃ頭をかき出した。
耕助にはまだ、珠世がいおうとするところが、よくのみこめていない。珠世の胸中に、
いったいどのような考えが宿っているのか、それもわかっていないのである。しかし、な
にかしら、痛切にかれの心を刺激するものがあって、耕助は夢中でバリバリ、もじゃもじ
ゃ頭をかきつづけた。
「そ、そ、それで、す、す、佐清君は、そ、そ、その時計を直してくれましたか」
珠世はゆっくり首を左右にふると、
「いいえ、佐清さんはその時計を手にとって、しばらくごらんになっていましたが、いま
は気が向かないからそのうちにとおっしゃって、時計はあたしにかえしてくださいました」
そこまでいうと、珠世はピタリと口をつぐんでしまった。まだあとがあるかと思って、
署長と金田一耕助は息をのんで、珠世の顔を見つめていたが、珠世は湖水のほうを向いた
きり、そのくちびるは容易にひらきそうに見えなかった。
署長は困惑したように、小指で|小《こ》|鬢《びん》をかきながら、
「なるほど。……ところでそのお話と、昨夜の話と、いったい、どんな関係があるんです
か」
珠世はしかし、それには答えず、突然、別のことを話しはじめた。
「昨夜、このお屋敷でどんなことがあったか、おふたりともご存じでしょう。佐武さんと、
佐智さんが、那須神社から持ってかえった、佐清さんの……奉納手型を証拠にして佐清さ
んの……なんといいましょうか、正体……」
珠世はそこで、ちょっと肩をふるわせると、
「いやな言葉ですけれど、そうですわね。その正体をたしかめようというので、ひと騒動
ございました。松子|小《お》|母《ば》さまはどういうわけか、佐清さんに手型をおさ
せることを頑強におこばみになりました。そこで、せっかくの佐武さんや佐智さんの試み
も、うやむやになってしまいましたが、そのとき、あたしふと思いついたのでございます。
このあいだ、佐清さんのところへ、時計の修繕をお願いにあがって、断わられたことはい
まもお話ししましたけれど、そのとき、自分の部屋へかえって何気なく時計のふたをひら
いてみると、その裏側にくっきりと佐清さんの右の|母《ぼ》|指《し》|紋《もん》が
ついていたことを」
金田一耕助は、突然、雷にうたれたように、ピリリと体をふるわせた。
ああ、これなのだ、さっきから痛切に、かれの心を刺激していたもの。――すなわち、
それがこれなのだ。
金田一耕助は、またもやバリバリ、ガリガリと、めったやたらに、頭の上の雀の巣を、
五本の指でかきまわしはじめる。
橘署長はあきれたように、しばらくその様子を見守っていたが、やがて珠世のほうへ向
き直ると、
「しかし、それが佐清君の指紋だと、どうしてわかりましたか」
ああ、愚問愚問! そんなことはわかりきったことではないか。珠世は偶然、そこに佐
清の指紋がおされ、偶然、彼女がそれを発見したごとく語っているが、おそらくそれは事
実ではあるまい。彼女はきっとはじめからそのつもりで、佐清を|罠《わな》におとした
にちがいない。彼女ははじめから時計のどこかに、佐清の指紋をとるつもりだったにちが
いないのだ。
耕助の心を痛切に刺激するのはすなわちそれ――珠世がいかに賢であり、かつまた同時
に、いかに|狡《こう》|猾《かつ》な女性であるかということである。
「それは……たぶんまちがいないと思います。佐清さんのところへ持っていくまえに、あ
たしは時計に、すっかり|拭《ぬぐ》いをかけておきましたし、それに、その時計に手を
ふれたのは、あたしと佐清さん以外になかったのに、その指紋はあたしのではありません
でしたから……」
そうら、やっぱりそのとおりではないか。珠世ははじめからそのつもりで、時計に拭い
をかけておいたのだ。それにしても、時計のふたの裏側とは、なんといううまい思いつき
だろう。指紋を保存するためには、これほど格好な場所はない。
署長もやっと納得したらしく、
「なるほど、それで……?」
「はあ、それで……」
と、珠世はさかんに口ごもりながら、
「昨夜の、権幕では、当分佐清さんの手型をとろうなどということは、とても望めそうに
ございません。と、いってこのまま捨てておいては、佐武さんや佐智さん、それからあの
ひとたちの御両親の疑いは、いよいよ、深くなるばかりです。そこで、ふと思いついたの
が時計についた佐清さんの母指紋、少し差し出がましいようには思いましたけれど、こん
なこと、一刻も早くハッキリさせておいたほうがよいと思ったものですから、佐武さんに
時計の指紋と、巻き物の手型とを、くらべてもらったらと思いまして……」
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