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医院坡上吊之家-序 詞

时间: 2022-05-31    进入日语论坛
核心提示:搜索复制序 詞いま私の机上には東京都区分詳細図、全二十三区のうち港区の地図が二葉ならんでいる。古いほうは昭和二十八年に発
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序 詞
 
いま私の机上には東京都区分詳細図、全二十三区のうち港区の地図が二葉ならんでいる。
古いほうは昭和二十八年に発行されたもの、新しいほうはおなじ地図出版社から発行され
た、昭和四十八年度版によるものである。
この二葉の地図を比較してみると、戦前から戦後、さらに戦後から現代へかけての東京
都の変《へん》貌《ぼう》が、いかに激しいものであるかが一目瞭然《りょうぜん》
である。だいいち戦前には港区などという区はなかったように思う。私の記憶がもうひと
つ定かでないのだけれど、そこに編入されている赤《あか》坂《さか》××町や麻
《あざ》布《ぶ》××町、芝《しば》××町などというのは、戦前それぞれ独立して、
赤坂区、麻布区、芝区と呼ばれていたのではないか。
私は大正十五年、即《すなわ》ちのちの昭和元年に上京してきて、それ以来、九年か
ら十四年までの信州上《かみ》諏《す》訪《わ》における闘病生活時代、二十年か
ら二十三年へかけての岡山県への疎《そ》開《かい》時代をのぞいては、引きつづき
東京都に住んでいるのだが、昔の赤坂、麻布、芝方面へかけての知識はまことに浅かった。
それというのが上京以来私の勤めていた出版社は小《こ》石《いし》川《かわ》に
あり、その縁で私も小石川からのちに闘病生活に入るまで吉祥寺《きちじょうじ》に住
んでいたので、現在の港区方面は私にとっていたって無縁の土地であった。神戸生まれで
神戸育ちの私にとって、東京という都市はあまりにも広過ぎたのだ。
だから戦前私の持っていたその方面に関する知識といえば、赤坂は軍人相手の花柳《か
りゅう》界のあるところ、麻布といえば練兵場、芝といえば高《たか》輪《なわ》の
泉《せん》岳《がく》寺《じ》くらいのものだが、私は七十三歳になるこの年まで、
いまだに泉岳寺さえしらないくらいだから、広い東京でもこれほど私にとって縁のない土
地も少ないだろう。
だが、私がなぜこのようなことをくだくだしく書いているかといえば、これからお話し
ようとしている、あの世にもおぞましき事件の舞台となった、いわゆる「首《くび》
縊《くく》りの家」のある病院坂というのは、麻布と芝との境目《さかいめ》にあたっ
ているからである。その辺はやたらに坂の多いところで、いま眼のまえに並んでいる二枚
の地図をみても、魚《ぎょ》籃《らん》坂とか伊《い》皿《さら》子《ご》坂、
名《めい》光《こう》坂とか三《さん》光《こう》坂、蜀江《しょっこう》坂。
義士外伝で有名な南《なん》部《ぶ》坂《ざか》雪の別れの南部坂なども、ほど遠
からぬところにあるらしい。ほかに仙《せん》台《だい》坂、明《めい》治《じ》
坂、新《しん》坂、奴《やっこ》坂、狸《たぬき》坂等々々、枚《まい》挙《き
ょ》にいとまあらずだが、なかには暗《くら》闇《やみ》坂などという物騒な名前の
坂もある。
私がこれからお話しようとしている問題の坂は魚籃坂のちかくにあり、この坂にも江戸
時代から呼びならわされた、由《ゆい》緒《しょ》正しき名前があるのだけれど、坂
の途中に大きな病院があるところから、いつのほどよりか病院坂と呼ばれるようになって
いたので、私もこのまがまがしい物語のなかではその名を踏襲《とうしゅう》すること
にする。その病院こそはこの物語のなかで、大きなウエ゗トを占めているのだから。
いったい病院坂という名はあちこちにあるらしく、げんに私がいま住んでいる成城《せ
いじょう》の町にもおなじ名の坂がある。しかも、成城の病院坂は坂の名の由来となった
病院が、いまや跡形もなくなっているのに反して、これからお話しようとしている病院坂
には、いまもなおその坂の名のいわれとなった、法《ほう》眼《げん》病院という大
きな総合病院が繁栄しており、昭和四十八年度版の地図にはその名が記入されているくら
いである。
それにしても、これは東京都の他の二十二区にもいえることだが、いま二枚の地図を比
較してみるに、なんという大きな変貌がそこに看取できることだろう。だいいち町の名前
からしてずいぶん変わってしまったものだ。
なるほどこうして町名を整理し、区画を整備していくと、郵便物の配達などには便利な
のだろうが、いたって懐古趣味的な私には、古い由緒ある地名が、つぎからつぎへと消え
ていくのが惜しまれてならぬ。
それにまた道路の広くなったのはどうだろう。そういえば昭和二十八年の地図でみると、
復興計画路線と称して、いたるところに三〇メートル、五〇メートルの予定路線が点線で
示してあり、それは町であろうが、墓地であろうが、公園であろうが、遠慮容赦もなく引
き裂き、引きちぎっている。なるほどこうしたほうが合理的であり、万一有事のさいの避
難手段になるのかもしれないけれど、町というものが成立しているには、それ相当の事
《じ》由《ゆう》がなければならぬ。それをこう情け容赦もなく分断するのはどうであ
ろうかと、いつか心の寒くなる思いをしたことがあるが、いま四十八年の地図でみると、
それらの予定路線は大半実現しているらしい。ここいらに日本人の旺盛なエネルギーを
窺《うかが》い知ることができるのかもしれないが、さて立ち退《の》きを命じられた
ひとびとはその後どこへいったのか。またこの広い道路の沿道に住むひとたちの生活は、
果たして快適といえるだろうか。
さらに二十八年の地図と現代のそれを比較してみて気がつくことは、路面電車が姿を消
して、地下鉄が縦横に走っているらしいこと、それと新幹線と東京タワーとモノレールの
出現である。新幹線はいまや日本の誇りになっているらしいし、東京タワーは東京名物で
ある。地方に住んでいる私の孫は、上京してくるとわざわざモノレールに乗りにいくので
ある。すべては戦後三十年におけるわが国の驚異的発展の象徴かもしれないけれど、年老
いて、万事につけて退《たい》嬰《えい》的になり、みずから砧《きぬた》の隠居
と称している私にとっては、あの虚《むな》しい高度成長の落とし子としか思えない。
それにしても私がなぜ昭和二十八年の地図と、現代のそれを比較してお眼にかけたかと
いうと、これからお話しようとしているこの恐ろしい物語は、じつに昭和二十八年の八月
二十八日にはじまって、昭和四十八年の四月三十日に、やっと解決したという、金田一耕
助の扱った事件としては、他に類を見ないほど長年月を要した事件なのである。その間じ
つに十九年と八か月、金田一耕助の手腕をもってしても、それだけ長い歳月を必要とした
のは、それはそれなりの事情があったにせよ、これは世にも驚くべき事件であった。
こういう書きかたをすると、また金田一耕助に叱られるかもしれない。私はいつかかれ
からこういう注意をうけたことがある。ついでにいっておくが、いま私の住んでいる成城
という町は、昔砧村とよばれていたそうな。そこでいたって懐古趣味的である私は、自分
のことを砧の隠居とよんでいるのだが、そういう私をつかまえて、かれは成城の先生とよ
ぶのである。
「先生は私の功名談をお書きになるとき、よく発《ほっ》端《たん》とか大《だい》
団《だん》円《えん》とかいうことばをお使いになる。発端ということばはまだよいと
して、大団円というのはどうでしょうか。私はその文章を拝見するたびに、いつも抵抗を
感じずにはいられないのです。大団円ということばは終局を意味しています。わたしの扱
った事件「事件」に傍点に関するかぎり、わたしの解決がまちがっていたとは思え
ない。しかし、それだからってすべてが終わったとも思えないのです。よく始めあれば終
わりありといいますが、わたしはそのことばを信じない。事件「事件」に傍点その
ものは解決しても、その瞬間、そこからまた新しいドラマが出発するのではないかと思う
と、わたしはいつも不安でもあり、怖《こわ》くてたまらなくなることがあるんですよ」
金田一耕助は暗い眼をして、いつか私にこう訴えたことがある。
私は私でかれの功名談を記録にのこすとき、つぎのようなことばをよく使っている。
「かれの脳細胞のなかで事件が解決にちかづいたとき、金田一耕助は救いようのない孤独
の影におおわれていく」と。
おそらくかれは事件そのものは解決しても、それですべてが終わったのではないという
ことを知っているのだろう。いや、それのみならず、そこからまた新しいドラマ、かれが
解決した事件よりもっと恐ろしい事件が、展開していくのではないかということを怖れて
いるのだろう。
 これからお話しようとしている「病院坂の首縊りの家」の事件などまさにそのいい例な
のだ。昭和二十八年の夏にはじまったこの事件は、十九年八か月という長い歳月を経て昭
和四十八年の四月三十日に解決をみたと思われているのだが、果たしてそれですべてが終
わったのであろうか。二度あることは三度あるとよくいうが、そこからまた恐ろしい血み
どろの事件が進展していくのではないかと思えば、私はいまこうして筆を執《と》って
いても、背《せ》筋《すじ》が寒くなるような戦《せん》慄《りつ》を禁じるこ
とができないのである。
閑話休題《かんわきゅうだい》。
それではいよいよこのおぞましき事件にむかって筆を進めようと思うのだが、そのまえ
にどうしても紹介しておかなければならないのは、この事件の中心となった法《ほう》
眼《げん》病院の創始者、法眼鉄《てつ》馬《ま》とその一族に関する記録である。
これはもちろん昭和二十八年の夏に起こった、あの世にも奇妙な事件の調査に着手する
に当たって、金田一耕助が作成しておいた調査資料にもとづくものだが、金田一耕助のそ
れがそうとう厖《ぼう》大《だい》なものであったのを、私が適当に圧縮して、この
物語に必要と思われる事実だけにダ゗ジェストしたものである。
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