返回首页

医院坡上吊之家-第一部 第一編(1)

时间: 2022-05-31    进入日语论坛
核心提示:第一部 輪《りん》廻《ね》の章第一編#ここから4字下げ法眼鉄馬とその一族のこと法眼五十嵐三重の縁のこと#ここで字下げ終わり
(单词翻译:双击或拖选)

第一部 輪《りん》廻《ね》の章

第一編

#ここから4字下げ

法眼鉄馬とその一族のこと

法眼五十嵐三重の縁のこと

#ここで字下げ終わり

法眼鉄馬、文久《ぶんきゅう》二年東北のさる大藩の典医、法眼琢《たく》磨《ま》

の長子としてうまれ、幼名を銀《ぎん》之《の》助《すけ》といったという。たっ

たひとりの妹に千《ち》鶴《づ》というのがあり、明治三年うまれだというから、銀

之助より八つ年下だったが、銀之助とは母を異《こと》にしていたという。

さて銀之助だが、明治五年父琢磨にともなわれて上京、本《ほん》郷《ごう》の

進《しん》文《ぶん》学《がく》舎《しゃ》にはいりド゗ツ語を学んだ。いまにし

て思えば当時は文明開化の声がさかんな時代であった。おそらく琢磨はおのれの倅《せ

がれ》をもって、父祖伝来の家業を継がせようと思ったのだろうが、自分がうけた教育で

は、いまや新時代に通用しなくなっていることをしっていたのであろう。その点に関して

鉄馬は終生父の恩を肝に銘じていたという。しかもかれもまたよく父の期待にこたえたの

である。明治十年、十六歳にして東京大学医学校の本科生となったというのだから、いか

に早熟な時代だったとはいえ、やはり栴《せん》檀《だん》は双葉より芳《かんば》

しかったというべきであろう。

さて、十六歳といえば昔の元《げん》服《ぷく》である。銀之助は医科大学の本科

生となると、父に請うて鉄馬と改名することを許された。それからのちの法眼鉄馬は文字

どおり、秀才という名を地でいったようなものである。十四年、二十歳で学校を出ると陸

軍軍医となり、十七年、二十三歳にしてお定まりのド゗ツ留学、ラ゗プチヒ、ドレスデン、

ミュンヘン等に学び、二十年にベルリン大学へ入ったが、翌年帰朝、軍医学校教官に任ぜ

られ、かたわら陸軍大学の教官をかねた。ときに二十七歳、二十四年には医学博士の称号

をえているが、その年に父琢磨をうしなっている。おそらくかれはわが子の俊才ぶりに満

足して眼を瞑《つむ》ったことだろう。かれは九段で医家として開業し、かなり流行す

る医者だったそうだが、倅鉄馬の謹直いっぽうの性格なのに反して、豪放磊《らい》

落《らく》をとおりこして、奔《ほん》放《ぽう》逸《いつ》脱《だつ》の気味

があり、つきあいなどにもそうとういかがわしい人物が多く、そのことが父を尊敬するこ

とあまりにも深かった鉄馬のうえに、黒い影を落としたのであろうといわれている。

さて鉄馬のほうだがその後も順調に出世街道を突っ走った。いってみればこのひとは明

治医学界の先覚者でもあり、先駆者でもあった。巷《こう》間《かん》伝うるところ

によると、このひとは当然軍医総監になるものとばかり思い込まれていたそうだが、そこ

にどういう事情があったのか、明治四十年とつぜん職を辞し、それからまもなく現在の場

所に法眼病院を設立した。ときに明治四十二年、法眼鉄馬四十八歳であったという。

軍医総監を目前にして、かれがなぜ陸軍から身を退《ひ》かねばならなかったのか、

その間の事情は詳《つまび》らかでないが、巷間ひそかに伝うるところによると、日露

戦争当時陸軍に納入された医療物資について、不正が発覚したのだろうといわれている。

つまり、いまのことばでいえば汚職の中心人物と目され、周囲からよってたかって詰め腹

を切らされたのだろうといわれているが、しかし、こと軍の威信にかかわることだから、

結局事件はヤミからヤミへと葬られ、法的な刑事事件の犠牲者はひとりも出なかった。だ

から法眼鉄馬ひとりが貧乏クジをひいて、この疑獄は幕を閉じたのだといわれている。

しかし、この事件に関する限り、法眼鉄馬に責任なしとはいえなかった。

それよりさき、法眼鉄馬は二十一年に帰朝するとまもなく結婚している。妻の朝《あ

さ》子《こ》は鉄馬の父琢磨の盟友五十嵐《いがらし》剛《ごう》蔵《ぞう》の

娘で、この結婚はもちろん琢磨の強く希望するところであった。

さて、鉄馬の舅《しゅうと》となった五十嵐剛蔵なる人物だが、琢磨と同郷の出身で

年齢もおっつかっつ、明治の初年に琢磨と相前後して東京へ出てくると、どこからどうい

うつてを求めたのか、要路の大官にとりいり、当時押しも押されもせぬ政商にのしあがっ

ていた。したがってずいぶんゕクの強い人物だったらしく、鉄馬としてはそういう人物と

婿舅《むこしゅうと》の縁を結ぶことには、あまり気がすすまなかったらしいのだが、父

に強要されるとあえて反対することはできなかったらしい。琢磨としてはどちらかといえ

ば学究肌の倅《せがれ》に、こういうゕクの強い、生活力の旺盛な後ろ楯《だて》を

つけておきたかったというのも、無理からぬ親心だったかもしれないが、あとから思えば

そのことが、法眼一家に暗い影をおとしはじめたのである。

さて、鉄馬の妻となった朝子だが、これは毒にも薬にもならない女性だったので、その

点鉄馬も気が楽だったろうといわれている。ただ困ったことには、この夫婦には子供がな

かったので、明治三十六年、即ち鉄馬が四十二歳に達したとき、養子縁組の話がもちあが

った。候補者は宮《みや》坂《さか》琢《たく》也《や》といって、当時東京帝

国大学医学部在学中の秀才だったが、琢也という名からしてもわかるとおり、かれはじつ

に鉄馬のかくし子であったという。

 法眼鉄馬は明治十四年、二十歳にして学校を出ると十七年にド゗ツ留学を命じられるま

で、陸軍の軍医をしていたが、その間にふかく契《ちぎ》った女に宮坂すみなる女性が

いた。その腹にうまれたのが琢也で、明治十五年うまれだったという。

しかし、この結婚は琢磨がぜったいに許さなかった。倅の将来に賭《か》けていた琢

磨を納得させるには、鉄馬はあまり若過ぎたし、すみの氏素性《うじすじょう》も賤

《いや》しかった。彼女は旧幕時代の身分のひくい御《ご》家《け》人《にん》の

娘だったというし、家も貧しかった。当然ふたりは生《な》ま木をさかれたが、鉄馬は

琢也をじぶんの子として認知していたのみならず、ド゗ツ留学中も琢也の養育費を仕送っ

ていたらしい。

そればかりではなく、帰朝後朝子と結婚してからもすみを池《いけ》の端《はた》

のほとりにかこい、おりおりそこへ通っており、琢也の将来などもいっさい鉄馬の指導に

よるものであったという。それに対して、正妻の朝子がどういう感情をもっていたか定か

ではないが、すみは明治の女にまま見られるような、ひたすら男の愛情にすがって、生涯

を日蔭の身で甘んじているようなタ゗プの女性だったらしい。

明治三十六年鉄馬が琢也を養子にといい出したのは、その前年舅《しゅうと》の五十

嵐剛蔵が亡《な》くなっていたからである。この口やかましい舅亡きあとは、琢也を養

子に迎えることに、どこからも苦情の出るべきはずはないと思いのほか、剛蔵の倅猛《た

け》蔵《ぞう》から厳重な抗議がもちだされた。

轻松学日语,快乐背单词(免费在线日语单词学习)---点击进入
顶一下
(0)
0%
踩一下
(0)
0%

热门TAG:
  • 上一篇:暂无
  • 下一篇:暂无
[查看全部]  相关评论