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医院坡上吊之家-第一部 第一編(2)

时间: 2022-05-31    进入日语论坛
核心提示:猛蔵は剛蔵の長子で朝子の弟である。明治元年のうまれというから鉄馬より六つ年少であった。その猛蔵がなぜ法眼家の内情に強い発
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猛蔵は剛蔵の長子で朝子の弟である。明治元年のうまれというから鉄馬より六つ年少で

あった。

その猛蔵がなぜ法眼家の内情に強い発言権をもっていたかというと、かれはたんに朝子

の弟であるのみならず、もっと複雑な縁で法眼鉄馬にからみついていた。

法眼鉄馬に千鶴という腹ちがいの妹があることはまえにもいっておいたが、千鶴は明治

三年のうまれだから鉄馬とは八つちがい、猛蔵とは二つちがいであった。千鶴は明治二十

年、十八歳にして桜井健一《さくらいけんいち》なるものと結婚して、弥生《や よ い》

という娘をもうけた。当時桜井健一は陸軍少尉であったという。ところが不幸にも千鶴の

夫桜井健一は明治二十八年日清戦争のさい、澎《ほう》湖《こ》島で散《さん》

華《げ》した。ときにひとり娘の弥生は七歳であった。

当時の日本女性のかんがえかたとして、千鶴も夫のわすれがたみ弥生の成人を楽しみに、

生涯未亡人で過ごすつもりであった。しかし、いっぽうまだ多分に封建色の濃厚な時代で

あり、家長の命令は絶対であった。

千鶴はひじょうな美人であったという。それに懸《け》想《そう》したのが五十嵐

猛蔵であった。

猛蔵は学歴らしい学歴もなく、幼時から父の同業者に預けられ、商売往来のうら表、ヤ

ミからヤミへとくぐっていく、四十八手の奥の奥を、骨の髄まで叩き込まれて育った男で、

したがって父剛蔵よりはるかにゕクの強い、エゲツない人物だったという。

当然かれは道楽者だった。十代の半ばより女性の味をおぼえたかれは、さんざん道楽を

やってのけたのち、二十代の初期に妻を娶《めと》ったが、三年にして子なきは去るを

理由に叩き出し、その後は定まった妻もなく、したい放題のことをしていたのが、ふとし

た機会に千鶴を見染めたのである。

この恋には異常なほど執《しつ》拗《よう》なものがあり、かれは姉朝子を口説き、

義兄鉄馬に哀訴歎願し、当時まだ生きていた実父剛蔵を動かし、ついに目的をとげたのが

明治三十二年、ときに猛蔵は三十二歳、千鶴は二つ年下だから三十歳、連れ子として猛蔵

のもとに引きとられた弥生は十一歳であったという。

 夫の妹と妻の弟が結ばれるということは、世間に例のないことではないが、この結婚は

おそらく千鶴にとっては心に染まぬものであったろう。しかし、さきにもいったとおり、

当時にあっては家長の命令は絶対であり、ことにわずかの恩給では立てすごしかねていた

千鶴は、兄鉄馬の庇《ひ》護《ご》をこうむることも多かったであろうから、その兄

の説得を拒否することは不可能であった。

それにしても鉄馬はこの義弟猛蔵をどう思っていただろうか。鉄馬自身学者としてはそ

うとうゕクの強い人間らしかったが、それでも新時代の高い教育をうけてきた人物である。

猛蔵のような俗物中の俗物と肌が合ったとは思えない。それにもかかわらずこの縁談を妹

千鶴に押しつけたのは、妻の朝子や義父剛蔵の圧迫もさることながら、自分のほうにもす

みと琢也という引け目があったからであろう。こうして法眼家と五十嵐家は二重の縁に結

ばれていき、鉄馬はしだいに五十嵐家の吐き出す黒い霧のなかに、埋没していったのであ

ろうといわれている。

それにしても健《けな》気《げ》なのは千鶴であった。彼女は忍従ということばを

地でいったような女性だったらしい。彼女はおのれの不平や不満をオクビにも出さず、こ

の我執の強い俗物の夫によく仕え、泰《やす》蔵《ぞう》という一子をもうけた。結

婚後もやまぬ夫の浮気沙汰にたいしても、嫉妬めいたことばはいちども吐いたことはない

という。

さて、この場合連れ子の弥生はどういう態度をとっていたであろうか。彼女が母ととも

に猛蔵のところへ引きとられたのは十一歳の年であった。その年頃で母が再婚するといえ

ば、拗《す》ねたりふくれたり、反対の意思表示をするのがふつうだのに、弥生にはみ

じんもそのふうがなく、かえって母に猛蔵との再婚をすすめたという。

それには結婚まえからさかんに千鶴のもとへ出入りしていた猛蔵の、将《しょう》を

射《い》んとすればまず馬を射よとばかりの、弥生への高価な手土産《み や げ》戦術

が功を奏したのだろうと、口の悪い連中はいうが、考えてみると弥生が実父桜井健一とい

っしょに暮らした日々は、ひじょうに短かったにちがいない。

日清戦争の勃《ぼっ》発《ぱつ》したのは彼女が六つの年である。父はもうそのま

えから出征していた。それまでだって千鶴は軍人の妻として、弥生とともに留守宅を守る

ことが多かったにちがいない。しかも、その翌年父は異郷の地で散華しているのだから、

弥生の父にかんする思い出というのはまことに少なかったにちがいない。おぼろげな彼女

の記憶にある父は、ただ厳格できびしいひとだった。膝《ひざ》のうえに抱かれた記憶

もない。現代のことばでいえば、この父と娘のあいだにはスキンシップが欠けていたので

ある。

それに反して猛蔵は本郷の伯父さま……と、彼女がよんでいたのは法眼鉄馬のことであ

る。そしてこの伯父こそ幼い弥生にとっては神聖にして冒《おか》すべからざる偉大な

る偶像であったらしい……などとくらべると容貌もみにくく、態度や口のききかたなどに

も、鼻持ちならぬほど下品で賤《いや》しいものがあったけれど、むやみに陽気で、

賑《にぎ》やかで、如才がなかった。かれはそういう境遇におかれたその年頃の少女の心

の動きなど、手にとるようにわかるらしかった。

ある日、とつぜん彼女は猛蔵の膝のうえに抱きあげられた。母のいない席だった。弥生

もはじめはおどろいて身をかたくしていたが、耳もとで猛蔵のならべる甘いささやきや、

野《や》卑《ひ》なことばでつづる母への思慕の情をきいているうちに、彼女の硬さも

おいおいほぐれ、

「おじさまはお母さまをだいじにしてくださる」

と、ませた調子できいたりした。

「それはもちろん。ほんとをいうとお母さんの気持ちはきまっているんだ。お母さんはこ

のおじさんが好きなんだ。おれに惚《ほ》れてるんだ。ただお母さんは弥生ちゃんに遠

慮してるんだ。弥生ちゃんさえうんといってくれたら……」

「じゃ、考えとくわ」

弥生は猛蔵の腕からのがれると、うっふっふと笑ってそのまま障子の外へとび出した。

弥生はそこにはじめて父の候補者である男とのあいだに、スキンシップを感じたのかもし

れない。

それからのち弥生はちょくちょく猛蔵の膝に抱かれることがあった。どうかすると弥生

のほうから甘ったれて、趺坐《あ ぐ ら》をかいた猛蔵の膝に馬乗りになり、肌くつろ

げた男の胸毛をいじくったりしたこともあったらしい。ふしぎに母のいない席だった。そ

んなことのあったつぎの猛蔵の訪問のさい、彼女が目の玉のくり出るような高価な手土産

をせしめたことはいうまでもあるまい。

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