わしは、川村が降りて来るのと、引違いに、岩の頂へよじ昇った。そして、そこに突っ立って、下の瑠璃子に、さも自慢らしく声をかけたものだ。アア、わしは何という馬鹿者であったろう。それが、彼女の見納めになろうとは、夢にも思わないで。
「そこから遠くを眺めるのもいいが、もっと突端へ出て、下の流れを見下すと、又格別だぜ」
川村が、わしをそそのかす様に、呼びかけた。この何気ない言葉の裏に、どんな恐ろしい意味が隠されていたか、神ならぬ身のわしは知る由もなかった。ただ、川村奴、自分では用心をして踏まなかった、突端の小岩の上へ、わしに出て見よとは、意地の悪い奴だと思ったが、そう云われて、尻ごみするのも癪であった。わしは、痩我慢で、さも平気らしく、突端につき出た小さな岩の上に歩み出た。
歩み出たかと思うと、わしは天地がひっくり返る様な衝撃を感じた。足の下の抵抗がなくなってしまったのだ。もろくなっていた小岩が折れて、砲弾の様な勢いで、数十丈の脚下へ落て行ったのだ。
わしは一瞬間、何もない空中に立っている様な感じがした。
無論悲鳴を上げたに相違ない。併し、わしの耳は已につんぼになっていて、我声を聞く力もなかった。
空中に突っ立ったかと思う次の瞬間には、わしの身体は鞠の様に、崖にはずみながら転落していた。
皆さん、これはわしの実験談だから信用してもよい。死ぬなんて訳のないことだ。痛さも怖さも、ただ一瞬間で、その高い崖を落て行きながら、わしはもう夢を見ていた。あれが気が遠くなるというのじゃろう。目も耳も皮膚も、無感覚になってしまって、頭の中丈けで、墜落とは全く別の、薄暗い夢を見続けていた。
しかも一方では、底なしの空間を、無限に墜落して行く感覚が、幽かに幽かに残っているのだ。例えて見れば、我々が眠りにつく瞬間、人の話声を聞きながら、夢を見ていることがある。丁度あれだ。墜落の意識と頭の中の夢とが、二重焼付けの活動写真の様に、重なって感じられるのだ。
で、頭の中では、何を夢見ていたかと云うと、わしの生涯の主な出来事が、次から次と、フラッシュ・バックみたいに、見えて来るのだ。父の顔、母の顔、祖父の姿、自分の幼時のおもかげ、小学時代のいたずら、東京の学生生活、川村を初め親しい友達の影像、瑠璃子との愛の生活の数々の場面、おできの出来た彼女の顔の大写し、産毛の生えた瑠璃の様な肌の顕微鏡写真。という様な数限りもない夢の連続だ。
無論それは墜落中の数秒間の出来事だ。どうしてその短い間に、あんな沢山の夢が見られるのかと、今考えても不思議で仕方がない。
夢を見続けている内に、わしの身体が、何か地面の様なものに、ゴクンとぶつかったのを、幽かに幽かに感じたかと思うと、わしの意識は、漠々たる空に帰してしまった。一切合切、何もないのだ、自分もなければ、世界もない。第一存在の感じがない。ただ無、ただ空である。例えば我々が夢も見ず熟睡している時と同じことだ。
わしは死んでしまったのだ。
どれ丈けの時間が経ったかは、無論分らぬ。死人には空間も時間もありはしないのだ。だが、その漠々たる絶無の中に、何かしらある様な感じが生れて来た。わしは甦り始めたのだ。
初めは身体がなくて、ただ心丈けがある様な気持、次には何もないのに、ただ重さ丈けがある様に感じられて来た。この重い感じは一体何だろう。自分か他人か、考えようとしても考える力がまだないのだ。
「そこから遠くを眺めるのもいいが、もっと突端へ出て、下の流れを見下すと、又格別だぜ」
川村が、わしをそそのかす様に、呼びかけた。この何気ない言葉の裏に、どんな恐ろしい意味が隠されていたか、神ならぬ身のわしは知る由もなかった。ただ、川村奴、自分では用心をして踏まなかった、突端の小岩の上へ、わしに出て見よとは、意地の悪い奴だと思ったが、そう云われて、尻ごみするのも癪であった。わしは、痩我慢で、さも平気らしく、突端につき出た小さな岩の上に歩み出た。
歩み出たかと思うと、わしは天地がひっくり返る様な衝撃を感じた。足の下の抵抗がなくなってしまったのだ。もろくなっていた小岩が折れて、砲弾の様な勢いで、数十丈の脚下へ落て行ったのだ。
わしは一瞬間、何もない空中に立っている様な感じがした。
無論悲鳴を上げたに相違ない。併し、わしの耳は已につんぼになっていて、我声を聞く力もなかった。
空中に突っ立ったかと思う次の瞬間には、わしの身体は鞠の様に、崖にはずみながら転落していた。
皆さん、これはわしの実験談だから信用してもよい。死ぬなんて訳のないことだ。痛さも怖さも、ただ一瞬間で、その高い崖を落て行きながら、わしはもう夢を見ていた。あれが気が遠くなるというのじゃろう。目も耳も皮膚も、無感覚になってしまって、頭の中丈けで、墜落とは全く別の、薄暗い夢を見続けていた。
しかも一方では、底なしの空間を、無限に墜落して行く感覚が、幽かに幽かに残っているのだ。例えて見れば、我々が眠りにつく瞬間、人の話声を聞きながら、夢を見ていることがある。丁度あれだ。墜落の意識と頭の中の夢とが、二重焼付けの活動写真の様に、重なって感じられるのだ。
で、頭の中では、何を夢見ていたかと云うと、わしの生涯の主な出来事が、次から次と、フラッシュ・バックみたいに、見えて来るのだ。父の顔、母の顔、祖父の姿、自分の幼時のおもかげ、小学時代のいたずら、東京の学生生活、川村を初め親しい友達の影像、瑠璃子との愛の生活の数々の場面、おできの出来た彼女の顔の大写し、産毛の生えた瑠璃の様な肌の顕微鏡写真。という様な数限りもない夢の連続だ。
無論それは墜落中の数秒間の出来事だ。どうしてその短い間に、あんな沢山の夢が見られるのかと、今考えても不思議で仕方がない。
夢を見続けている内に、わしの身体が、何か地面の様なものに、ゴクンとぶつかったのを、幽かに幽かに感じたかと思うと、わしの意識は、漠々たる空に帰してしまった。一切合切、何もないのだ、自分もなければ、世界もない。第一存在の感じがない。ただ無、ただ空である。例えば我々が夢も見ず熟睡している時と同じことだ。
わしは死んでしまったのだ。
どれ丈けの時間が経ったかは、無論分らぬ。死人には空間も時間もありはしないのだ。だが、その漠々たる絶無の中に、何かしらある様な感じが生れて来た。わしは甦り始めたのだ。
初めは身体がなくて、ただ心丈けがある様な気持、次には何もないのに、ただ重さ丈けがある様に感じられて来た。この重い感じは一体何だろう。自分か他人か、考えようとしても考える力がまだないのだ。