暫くすると、心持が少しずつハッキリして来た。重い感じが益々重くなり、漸く我が身体の内で、喉丈けはあることが分って来た。心も重さも喉にある。何物かがわしの喉をしめて、息をとめようとしている感じだ。
「放してくれ、俺の喉からその手を離してくれ」
心で叫び続けている内に、何か訳の分らぬ極微の分子が、四方八方から集まって来る様に思うと、それが段々に安定して、自分というものが、ハッキリ意識された。
だが、まだ何が何だか少しも分らぬ。あやめも分かぬ暗闇と、死の様な静けさの中に横たわっている一物は、わしの身体だ。縦か横か。どちらが上でどちらが下かも分らなかったが、やがて、背中に固いもののあるのが感じられて来た。
「アア、俺は仰向きに寝ているのだな。眼をパチパチやっても、何も見えぬ所を見ると、俺は、今真の闇の中に寝ているのだな」
そこで初めて、わしはありし次第を思い出すことが出来た。瑠璃子と川村と三人で地獄谷へ遠足したこと、わしが痩我慢を出して、地獄岩に昇ったこと、その突端へ出たかと思うと、突然足の下の抵抗がなくなったこと。
「すると俺は今、あの崖の下の岩の上に寝ているのかしら。いつの間に夜になったのだろう。いくら夜でも、星の光り位は見え相なものだが」
わしは不審に耐えず、先ず両手を触れ合って見るのに、手には温味がある。胸を探ると、張裂くばかりに動悸がしている。
「だが、この息苦しさは、どうしたというのだろう。誰かが口を押さえて、空気を入れぬ様にしているのかしら。アア、空気がほしい。空気がほしい。何とかして、空気を掴みとって、むさぼり啖わねば、死んでしまう。助けてくれ!」
わしはもがきながら、思わず手を伸ばしたかと思うと、余りのことに「キャッ」と叫ばないではいられなかった。
手に触ったのは堅い板であった。さぐって見ると、右も左も上も下も、狭い板で囲まれていることが分った。一刹那、わしは何もかも悟ってしまった。悟りは悟りながら、それと我心に知らせるさえ恐ろしい程の、惨酷な事実だ。
皆さん。わしは埋葬されたのだ。生きながら埋葬されたのだ。四方を囲む板は棺であったのだ。
皆さんはポオの『早過ぎた埋葬』という小説を読んだことがありますか。わしはあれを読んで、生き埋の恐ろしさをよく知っていたのだ。
あの小説には、様々の不気味な事実が羅列してあったが、中でもわしの記憶に残っているのは、土葬をした棺を、数年の後開いて見たところが、骸骨の姿勢が、棺に納めた時とまるで違っていた。その骸骨は足をふんばり、腕を曲げ、指の爪を棺の板に突立てて、無残にも、もがき廻った恰好をしていた。これは、死人が棺の中で蘇生し、棺を破ろうと、苦しみもがいた跡でなくて何であろう。アア、世にかくの如き大苦悶が又とあるだろうか。という一節だ。
わしは又、別の本で、もっと恐ろしい記事を読んだこともある。
それは、姙み女が埋葬されてから、棺内で蘇生し、蘇生すると間もなく、腹の子供を生み落したというのだ。想像した丈けでも総毛立つではないか。彼女は暗闇の中で、空気の欠乏と闘いつつ、再び世に出る望みはないと知りながら、悲しい母親の本能で、出もせぬ乳房を、その赤ん坊に含ませはしなかったか。アア、何という恐ろしい事実であろう。
わしは、棺内にとざされていることを自覚すると、咄嗟に、これらの恐ろしい先例を思い浮べ、身体中に油汗を流した。
だが、皆さん、その様に恐怖すべき生き埋ではあったが、その生き埋さえも、それから、わしが経験した、歴史上に嘗て前例もない様な、苦悶、恐怖、驚愕、悲愁に比べては、物の数ではなかった。さて、それが、どの様に恐ろしい地獄であったかを、これからお話しようとするのだ。