わしはこの隙見によって、川村の奴が、どれ程深く瑠璃子に溺れているかを知ることが出来た。彼は姦婦の柔かい指先の一触によって、たちまち水母の様になってしまった。
「それならいいけれど、じゃ結婚の話は帰ってから極めることにしよう。その時はキット承知させて見せるよ。ね、まさかいやとは云わないだろうね」
川村めさっきの意気込はどこへやら、よしよしとばかり譲歩してしまった。
「エエ、いいわ。その事はあんたが帰ってからゆっくり相談しましょうね。それよりも、そんなことよりも、ね、暫くお別れじゃありませんの。ね、ね」
瑠璃子の目が細くなって、赤い唇が美しく半開になって、何とも形容の出来ない愛らしい表情に変った。そして、その顔がソロソロと上を向き、なめらかな喉の曲線をあらわにして、忍びやかに、川村の唇の下へと迫って行った。
川村の奴、それを見ると、最早耐え得ないという様子で、いきなり両手を相手の背中に廻し、異様なうめき声と共に、瑠璃子の身体をわしの眼界から隠してしまった。
わしは再びそれを見たのだ。嘗ての日、墓穴を抜け出して来た夜、本邸の洋室のガラス窓の外に忍んで見たものを、再び見たのだ。姦夫姦婦の情痴の限りを目撃したのだ。
わしは決して売女の如き瑠璃子に愛着を感じていた訳ではない。彼女こそ憎みても憎み足らぬ仇敵なのだ。だが、アア、あの愛らしい笑顔! あの笑顔がわしのはらわたを抉るのだ。
わしは全身総毛立ち、毛穴という毛穴から、血の様な油汗の流れ出すのを感じた。
姦婦め! 売女め! このわしは、嘗ての大牟田敏清は、白髪の復讐鬼と変り果てた今でさえ、貴様のその笑顔を見ると、総身の血が湧き返るのだ。それ程も、わしは貴様の様な人非人に溺れ切っていたのだ。それ故にこそ――貴様の笑顔が耐え難く愛らしければこそ、貴様達両人に対するわしの恨みは燃えるのだ。三千世界を焼尽す焔となって燃えるのだ。
畜生めら、今に見ろ、地獄の底から這い出して来た白髪の鬼の執念の恐ろしさを、思い知る程見せてやるぞ。ウフフフ、……その時こそ、貴様達、どんな顔をして、悶え苦しむことだろう。アア、わしは、それを待ちこがれているのだ。だが、もう長い事ではないぞ。貴様達のむごたらしい最後も、もう遠い事ではないぞ。
わしは姦夫姦婦の痴戯を見るに耐えず、油汗でニチャニチャする拳を握りしめ、それを空に打ちふり打ちふり、大牟田家の別邸を走り出し、激情の余り、どこをどう歩いたかも知らず、長い時間を費して、我宿に帰りついた。
帰って、一人部屋にとじこもり、気を静めていると、やがて、ボーイが来客を知らせた。川村義雄だ。彼奴め大阪行きの暇乞いにでも来たのだろう。
ここへ案内せよと命じると、川村め這入って来るなり、案の定、姦婦との接吻のしめりも乾かぬ唇で、男には赤すぎる唇で、ペロペロと暇乞いの挨拶を述べた。
「それは定めし御心配じゃろう。どうか充分看病して上げて下さい」
わしが挨拶を返すと、川村は伯父の病気など少しも気掛りではないらしくニコニコしながら、
「イヤ、伯父も年が年ですから、残念ながら今度はいけますまい。それは残念ですが、実を云うと、伯父は仲々財産家なのです。そして、この僕の外には身寄りもないのです。つまり、今度大阪へ行くのは、その伯父の虎の子の財産を譲り受けに行く様なものですよ。つまり、素寒貧だった僕が、一人前の男になれるという訳です。日頃殆ど無心も聞いてくれなかった頑固親爺ですが、やっぱり伯父さんというものは有難いですね」
揃いも揃った人非人。瑠璃子が瑠璃子なら、川村も川村だ。親身の伯父に対してよくもこんな口が利けたものだ。わしはいきなり彼の横面をはり倒してやり度い程に思ったが、イヤ待て待て、今にこいつの断末魔の苦悶を見て嘲笑ってやる時が来るのだと、じっと心をおし静めた。
「それには、実はもう一つ嬉しいことがあるのです」
川村は益々相好をくずして、さも幸福そうに話しつづける。
「里見さん、あなたは僕等の関係を大方察していらっしゃる様だし、それに、あなたを僕は兄さんの様に思っているので、こんなことも打ちあけるのですが、実は、あなたのご存知の婦人が、僕の申込を、承知してくれたのです。最初は外聞がどうのこうのと云ってましたが、とうとう僕の熱情にほだされて、外聞を捨てて僕と結婚することを承諾したのです」
ナニ、承諾するものか、わしは立聞きをしてチャンと知っている。それは川村が大阪から帰ってからゆっくり相談しようと話が極まったことを知っている。川村の奴、ゆっくり相談するというのは承諾したも同然だと、独合点をしているのだ。瑠璃子がハッキリと承知する筈はない。承知の出来ない訳があるのだ。
だが、わしは何食わぬ顔で、
「ホホウ、それはお目出度い。婦人というのは、云わずと知れた瑠璃子さんのことだ。ね、そうだろう。財産は転がり込む、婚約は成立する、君も飛んだ果報者だね」
と、おだて上げると、川村めもう有頂天になって、
「そうですよ。僕自身でさえ、こんな果報が待っていようとは夢にも思わなかった位です。死んだ大牟田が、瑠璃子さんを探し出した時の喜び様というものは、それは大変でしたが、今こそ、僕は彼の気持が分りますよ。日本一の美人を誰はばからず独占する嬉しさというものが、ハッキリ分りますよ。だが、それも今迄の様な貧乏絵描きではどうすることも出来なかったのです。全く伯父のお蔭です。伯父の財産のお蔭です」
悪人も痴情の為にはこんなになるものか。子供の様に喜んでいる。だが、この無邪気な美しい青年が、二度も人殺しの大罪を犯したのかと思うと、ゾッとしないではいられぬ。恋の前にはあの恐ろしい旧悪も気がかりにはならぬのか。イヤイヤ、こいつは人殺しなど旧悪とも思わぬ、稀代の大悪人だ。生れついた殺人鬼だ。この美しい肉体の中に、まるで常人と違った毒血が流れているのだ。人間ではないのだ。一匹の美しいけだものなのだ。人殺しを罪とも思わぬけだものなのだ。
彼は今、瑠璃子と結婚した時の大牟田の気持が分ると云った。如何にもそうだろう。けだものとて、痴情に変りはない筈だ。
皆さん、姦夫は今有頂天になって喜んでいる。幸福の絶頂に微笑んでいる。これがわしの思う壺なのだ。彼奴を真から思い知らせてやる為には、一度幸福の絶頂に押し上げて置いて、それから奈落の底へつき落してやるのでなくては効果がないではないか。奈落の深さ恐ろしさが引立たぬではないか。
「それならいいけれど、じゃ結婚の話は帰ってから極めることにしよう。その時はキット承知させて見せるよ。ね、まさかいやとは云わないだろうね」
川村めさっきの意気込はどこへやら、よしよしとばかり譲歩してしまった。
「エエ、いいわ。その事はあんたが帰ってからゆっくり相談しましょうね。それよりも、そんなことよりも、ね、暫くお別れじゃありませんの。ね、ね」
瑠璃子の目が細くなって、赤い唇が美しく半開になって、何とも形容の出来ない愛らしい表情に変った。そして、その顔がソロソロと上を向き、なめらかな喉の曲線をあらわにして、忍びやかに、川村の唇の下へと迫って行った。
川村の奴、それを見ると、最早耐え得ないという様子で、いきなり両手を相手の背中に廻し、異様なうめき声と共に、瑠璃子の身体をわしの眼界から隠してしまった。
わしは再びそれを見たのだ。嘗ての日、墓穴を抜け出して来た夜、本邸の洋室のガラス窓の外に忍んで見たものを、再び見たのだ。姦夫姦婦の情痴の限りを目撃したのだ。
わしは決して売女の如き瑠璃子に愛着を感じていた訳ではない。彼女こそ憎みても憎み足らぬ仇敵なのだ。だが、アア、あの愛らしい笑顔! あの笑顔がわしのはらわたを抉るのだ。
わしは全身総毛立ち、毛穴という毛穴から、血の様な油汗の流れ出すのを感じた。
姦婦め! 売女め! このわしは、嘗ての大牟田敏清は、白髪の復讐鬼と変り果てた今でさえ、貴様のその笑顔を見ると、総身の血が湧き返るのだ。それ程も、わしは貴様の様な人非人に溺れ切っていたのだ。それ故にこそ――貴様の笑顔が耐え難く愛らしければこそ、貴様達両人に対するわしの恨みは燃えるのだ。三千世界を焼尽す焔となって燃えるのだ。
畜生めら、今に見ろ、地獄の底から這い出して来た白髪の鬼の執念の恐ろしさを、思い知る程見せてやるぞ。ウフフフ、……その時こそ、貴様達、どんな顔をして、悶え苦しむことだろう。アア、わしは、それを待ちこがれているのだ。だが、もう長い事ではないぞ。貴様達のむごたらしい最後も、もう遠い事ではないぞ。
わしは姦夫姦婦の痴戯を見るに耐えず、油汗でニチャニチャする拳を握りしめ、それを空に打ちふり打ちふり、大牟田家の別邸を走り出し、激情の余り、どこをどう歩いたかも知らず、長い時間を費して、我宿に帰りついた。
帰って、一人部屋にとじこもり、気を静めていると、やがて、ボーイが来客を知らせた。川村義雄だ。彼奴め大阪行きの暇乞いにでも来たのだろう。
ここへ案内せよと命じると、川村め這入って来るなり、案の定、姦婦との接吻のしめりも乾かぬ唇で、男には赤すぎる唇で、ペロペロと暇乞いの挨拶を述べた。
「それは定めし御心配じゃろう。どうか充分看病して上げて下さい」
わしが挨拶を返すと、川村は伯父の病気など少しも気掛りではないらしくニコニコしながら、
「イヤ、伯父も年が年ですから、残念ながら今度はいけますまい。それは残念ですが、実を云うと、伯父は仲々財産家なのです。そして、この僕の外には身寄りもないのです。つまり、今度大阪へ行くのは、その伯父の虎の子の財産を譲り受けに行く様なものですよ。つまり、素寒貧だった僕が、一人前の男になれるという訳です。日頃殆ど無心も聞いてくれなかった頑固親爺ですが、やっぱり伯父さんというものは有難いですね」
揃いも揃った人非人。瑠璃子が瑠璃子なら、川村も川村だ。親身の伯父に対してよくもこんな口が利けたものだ。わしはいきなり彼の横面をはり倒してやり度い程に思ったが、イヤ待て待て、今にこいつの断末魔の苦悶を見て嘲笑ってやる時が来るのだと、じっと心をおし静めた。
「それには、実はもう一つ嬉しいことがあるのです」
川村は益々相好をくずして、さも幸福そうに話しつづける。
「里見さん、あなたは僕等の関係を大方察していらっしゃる様だし、それに、あなたを僕は兄さんの様に思っているので、こんなことも打ちあけるのですが、実は、あなたのご存知の婦人が、僕の申込を、承知してくれたのです。最初は外聞がどうのこうのと云ってましたが、とうとう僕の熱情にほだされて、外聞を捨てて僕と結婚することを承諾したのです」
ナニ、承諾するものか、わしは立聞きをしてチャンと知っている。それは川村が大阪から帰ってからゆっくり相談しようと話が極まったことを知っている。川村の奴、ゆっくり相談するというのは承諾したも同然だと、独合点をしているのだ。瑠璃子がハッキリと承知する筈はない。承知の出来ない訳があるのだ。
だが、わしは何食わぬ顔で、
「ホホウ、それはお目出度い。婦人というのは、云わずと知れた瑠璃子さんのことだ。ね、そうだろう。財産は転がり込む、婚約は成立する、君も飛んだ果報者だね」
と、おだて上げると、川村めもう有頂天になって、
「そうですよ。僕自身でさえ、こんな果報が待っていようとは夢にも思わなかった位です。死んだ大牟田が、瑠璃子さんを探し出した時の喜び様というものは、それは大変でしたが、今こそ、僕は彼の気持が分りますよ。日本一の美人を誰はばからず独占する嬉しさというものが、ハッキリ分りますよ。だが、それも今迄の様な貧乏絵描きではどうすることも出来なかったのです。全く伯父のお蔭です。伯父の財産のお蔭です」
悪人も痴情の為にはこんなになるものか。子供の様に喜んでいる。だが、この無邪気な美しい青年が、二度も人殺しの大罪を犯したのかと思うと、ゾッとしないではいられぬ。恋の前にはあの恐ろしい旧悪も気がかりにはならぬのか。イヤイヤ、こいつは人殺しなど旧悪とも思わぬ、稀代の大悪人だ。生れついた殺人鬼だ。この美しい肉体の中に、まるで常人と違った毒血が流れているのだ。人間ではないのだ。一匹の美しいけだものなのだ。人殺しを罪とも思わぬけだものなのだ。
彼は今、瑠璃子と結婚した時の大牟田の気持が分ると云った。如何にもそうだろう。けだものとて、痴情に変りはない筈だ。
皆さん、姦夫は今有頂天になって喜んでいる。幸福の絶頂に微笑んでいる。これがわしの思う壺なのだ。彼奴を真から思い知らせてやる為には、一度幸福の絶頂に押し上げて置いて、それから奈落の底へつき落してやるのでなくては効果がないではないか。奈落の深さ恐ろしさが引立たぬではないか。