わしは何気なくその鏡の前へ歩いて行って、そこに映る我姿を眺めると同時に、ゾッとして立ちすくんでしまった。
鏡に映っているのは、わしではない。見るも恐ろしい怪物だ。わしは、若しやどこかにその様な怪物が立っていて、それが鏡へ映っているのではないかと、思わずあたりを見廻したが、無論誰もいる筈はない。
わしは試しに右手を上げて、頭に触って見た。すると、どうであろう。鏡の中の怪物も、同じ様に手を上げたではないか。アア、その怪物こそわしの変り果てた姿であったのだ。
二つの洞穴の様に、物凄く落ち窪んだ目、痩せ衰えて、頬骨が飛び出し、醜い筋だらけになった、むごたらしい容貌、そこへ持って来て、何よりもゾッとするのは、日頃自慢の濃い黒髪が、一本残らず銀線を並べた様な白髪に変っていたことだ。何のことはない。地獄の底から這い出して来た、一匹の白髪の鬼だ。子供が見たら泣き出すであろう。町を歩いたら、往き来の人が逃げ出すであろう。アア、この恐ろしい白髪の鬼が、わしの顔であろうか。
思い出されるのは、昔ナイヤガラの大瀑布を、小さな鉄製の樽に入って流れ下った男の話だ。莫大な賭金を得る為の命がけの冒険であった。彼は首尾よく滝を下って、賭金をせしめたが、瀑布の下流で、救いの舟に拾い上げられた樽の中から、ヘトヘトになって這い出して来た男を見ると、人々はアッと驚きの叫声を立てないではいられなかった。ついさっき滝の上流で樽へ入る時までは、房々とした赤毛の若者であったのが、滝を落ちる一瞬間に、すっかり、白髪になってしまっていたからだ。
世の常ならぬ恐怖が、瞬く間に人の髪を白くする一例として、わしはその話を読んだことがある。
それだ。わしの場合がやっぱりそれなのだ。あの墓穴の中での、わしの苦悶恐怖は、決して決して、ナイヤガラを飛下った男のそれに劣るものではない。実に歴史上に前例もない様な、恐ろしい経験であった。相好の一変したのも無理ではない。髪の毛が真白になってしまったのも尤もだ。
それにしても、アア、何という情ない姿であろう。これが昨日までの大牟田子爵その人かと思うと、あまりのみじめさに、泣かずにはいられぬのだ。
さっき墓穴を抜出した時の喜びは、忽ちにして、底知れぬ絶望と変ってしまった。わしはこの顔で、この姿で、瑠璃子に対面する勇気はない。彼女は一目見てあいそをつかすだろう。イヤ怖がって側へよりつかぬかも知れぬ。仮令又、彼女の方ではあいそをつかさずとも、この醜い老人が、あの美しい瑠璃子の夫として、平気で同棲していられるものか。それでは、あれがあんまり可哀相だ。わしが鏡の前に立ったまま、いつまでもじっとしているものだから、古着屋の主人はもどかしがって、
「お客さん、どうですね。この袷じゃ気に入りませんかね」と声をかけた。
わしはハッとして我に返って、どぎまぎしながら、
「いいとも、丁度わしに似合いだよ。それで結構だよ」
白髪の老人が、あの縞柄を地味だと不平を云ったかと思うと、わしは気恥かしくなって、泣き出し度い様な気持で答えた。
主人から古袷を受取って、経帷子の上に重ね、序に帯も一本出して貰って、それを締めると、わしはもう一度鏡の前に立った。まるで刑務所から放免されて、差入れ屋で着換えをしたという恰好だ。アア、この姿では、どんな親しい友達だって、わしを大牟田子爵と思うものはあるまい。川村でも、妻の瑠璃子さえも、よもやこの老人がわしだとは見破り得まい。
わしはふと試して見る気になって、老主人に尋ねた。
「お前さん、大牟田子爵をご存じかね」
すると老人は、やっぱり以前のわしを知っていたと見え、
「知らないでどうしましょう。元の殿様の若様ですからね。大変評判のよい方でしたが、惜いことをしました」
と答えた。
「惜いことと云って、どうかなすったのかね」
わしは何食わぬ顔で尋ねて見た。
「地獄岩から落ちて、おなくなりなすったのですよ。あなたは他国の方と見えますね。それとも新聞をごらんなさらないのですか。それは大変な騒ぎでしたよ」
「ヘエ、そうかね。で、そのなくなられたのは、いつのことだね」
「今日で五日になります。アア、ここにその日の新聞が取ってあります。これをごらんなされば、詳しく分りますよ」
老人は云いながら、一枚の地方新聞を取って呉れた。見ると驚いたことには、三面の半分ばかりわしの記事で埋っている。妻と並んで写した大きな写真ものっている。アア、何ということだ。わしの死亡記事を、わしが読んでいるのだ。しかも、そこにはわしの写真がデカデカとのっているのに、古着屋の主人は、その写真の主がこのわしであることを、少しも気づかぬのだ。こんな不思議な境遇が又と他にあるだろうか。
鏡に映っているのは、わしではない。見るも恐ろしい怪物だ。わしは、若しやどこかにその様な怪物が立っていて、それが鏡へ映っているのではないかと、思わずあたりを見廻したが、無論誰もいる筈はない。
わしは試しに右手を上げて、頭に触って見た。すると、どうであろう。鏡の中の怪物も、同じ様に手を上げたではないか。アア、その怪物こそわしの変り果てた姿であったのだ。
二つの洞穴の様に、物凄く落ち窪んだ目、痩せ衰えて、頬骨が飛び出し、醜い筋だらけになった、むごたらしい容貌、そこへ持って来て、何よりもゾッとするのは、日頃自慢の濃い黒髪が、一本残らず銀線を並べた様な白髪に変っていたことだ。何のことはない。地獄の底から這い出して来た、一匹の白髪の鬼だ。子供が見たら泣き出すであろう。町を歩いたら、往き来の人が逃げ出すであろう。アア、この恐ろしい白髪の鬼が、わしの顔であろうか。
思い出されるのは、昔ナイヤガラの大瀑布を、小さな鉄製の樽に入って流れ下った男の話だ。莫大な賭金を得る為の命がけの冒険であった。彼は首尾よく滝を下って、賭金をせしめたが、瀑布の下流で、救いの舟に拾い上げられた樽の中から、ヘトヘトになって這い出して来た男を見ると、人々はアッと驚きの叫声を立てないではいられなかった。ついさっき滝の上流で樽へ入る時までは、房々とした赤毛の若者であったのが、滝を落ちる一瞬間に、すっかり、白髪になってしまっていたからだ。
世の常ならぬ恐怖が、瞬く間に人の髪を白くする一例として、わしはその話を読んだことがある。
それだ。わしの場合がやっぱりそれなのだ。あの墓穴の中での、わしの苦悶恐怖は、決して決して、ナイヤガラを飛下った男のそれに劣るものではない。実に歴史上に前例もない様な、恐ろしい経験であった。相好の一変したのも無理ではない。髪の毛が真白になってしまったのも尤もだ。
それにしても、アア、何という情ない姿であろう。これが昨日までの大牟田子爵その人かと思うと、あまりのみじめさに、泣かずにはいられぬのだ。
さっき墓穴を抜出した時の喜びは、忽ちにして、底知れぬ絶望と変ってしまった。わしはこの顔で、この姿で、瑠璃子に対面する勇気はない。彼女は一目見てあいそをつかすだろう。イヤ怖がって側へよりつかぬかも知れぬ。仮令又、彼女の方ではあいそをつかさずとも、この醜い老人が、あの美しい瑠璃子の夫として、平気で同棲していられるものか。それでは、あれがあんまり可哀相だ。わしが鏡の前に立ったまま、いつまでもじっとしているものだから、古着屋の主人はもどかしがって、
「お客さん、どうですね。この袷じゃ気に入りませんかね」と声をかけた。
わしはハッとして我に返って、どぎまぎしながら、
「いいとも、丁度わしに似合いだよ。それで結構だよ」
白髪の老人が、あの縞柄を地味だと不平を云ったかと思うと、わしは気恥かしくなって、泣き出し度い様な気持で答えた。
主人から古袷を受取って、経帷子の上に重ね、序に帯も一本出して貰って、それを締めると、わしはもう一度鏡の前に立った。まるで刑務所から放免されて、差入れ屋で着換えをしたという恰好だ。アア、この姿では、どんな親しい友達だって、わしを大牟田子爵と思うものはあるまい。川村でも、妻の瑠璃子さえも、よもやこの老人がわしだとは見破り得まい。
わしはふと試して見る気になって、老主人に尋ねた。
「お前さん、大牟田子爵をご存じかね」
すると老人は、やっぱり以前のわしを知っていたと見え、
「知らないでどうしましょう。元の殿様の若様ですからね。大変評判のよい方でしたが、惜いことをしました」
と答えた。
「惜いことと云って、どうかなすったのかね」
わしは何食わぬ顔で尋ねて見た。
「地獄岩から落ちて、おなくなりなすったのですよ。あなたは他国の方と見えますね。それとも新聞をごらんなさらないのですか。それは大変な騒ぎでしたよ」
「ヘエ、そうかね。で、そのなくなられたのは、いつのことだね」
「今日で五日になります。アア、ここにその日の新聞が取ってあります。これをごらんなされば、詳しく分りますよ」
老人は云いながら、一枚の地方新聞を取って呉れた。見ると驚いたことには、三面の半分ばかりわしの記事で埋っている。妻と並んで写した大きな写真ものっている。アア、何ということだ。わしの死亡記事を、わしが読んでいるのだ。しかも、そこにはわしの写真がデカデカとのっているのに、古着屋の主人は、その写真の主がこのわしであることを、少しも気づかぬのだ。こんな不思議な境遇が又と他にあるだろうか。