巨人の目
さて、Y温泉を訪ねてから、一週間目の話である。瑠璃子は、いくら誘ってもわしが訪問せぬものだから、じれて、その夜彼女の方から川村と連れ立ってわしのホテルを訪ねて来た。
わしは毒婦の顔を見てやり度くて、ウズウズしていたのだ。瑠璃子の様な姦婦を手なずけるには、態と冷淡に見せかけて、相手をじれさせるのが一つの骨である。(アア、大名華族の若さまが、こんなさもしいことを考える様になったのだ。それも誰故であろう)案の定彼女はじれて、待ち切れなくて、先方からわしが拡げた網の中へ這入って来た。
電話でこちらの都合を聞合せて来たので、お待ちしますと答えてちゃんと用意(それがどんな用意であったと思います)をととのえて置いたのだけれど、併し、いざ対面となると、流石に胸が踊った。
美々しく飾った専用の客間で待っていると、仕立て卸しの洋服を着た川村義雄を先に立てて、愈々嘗つてのわしの愛妻瑠璃子が這入って来た。しずしずと這入って来た。
川村の紹介の言葉につれて、彼女はしとやかに挨拶した。
見覚のある、わしの好きな柄の和服姿、頭に指に、光り輝く宝石、薄化粧の匂やかな頬、赤い唇。アア、何たる妖婦であろう。夫を殺し、我が産み落した子供をさえしめ殺して悔ゆる所なき極悪人でありながら、このなよなよとした風情はどうだ。この顔の美しさはどうだ。美しいよりも、寧ろ艶かしいのだ。
わしは思わずゾッと身震いを禁じ得なかった。この愛らしい顔をした女が、果して最後まで憎み通せるだろうか。如何なる鉄石心もこの妖婦にあっては飴の様にとろけてしまうのではあるまいか。ドッコイ狐につままれてはならぬぞ。しっかりしろ、お前は復讐の神に捧げた身ではないか。
わしはグッと心を引きしめ、例の練りに練った作り声で適当に挨拶を返した。
瑠璃子は無論このわしが、嘗つての夫であろうとは少しも気がつかぬ。変り果てた白髪白髯、それに肝腎の両眼は黒眼鏡で覆われているのだ。いくら昔の女房だとて、これが見分けられるものではない。
三人は思い思いにソファや肘掛椅子に腰を卸して、お茶を啜りながら、よも山の話を始めた。
瑠璃子は、やがて子爵家の跡目相続をした近親のものが邸へ乗り込んで来ること、そうなれば親族会議の結果定められたあてがい扶持で別邸に住まねばならぬこと、それにつけても、あなたは子爵家の遠い縁者に当るのだから、何分のお力添えが願い度いなどと、しんみりした打開話さえしたものだ。高価なわしの贈物が、よくよく彼女の心を捉えたものと見える。
それにしても、おかしいのは、あの慾ばりの瑠璃子が、恋の為とは云え、子爵家の財産を棒に振ってしまったヘマなやり口だ。わしを殺す前になぜ相続者を産んで置かなかったのだ。そこへ気のつかぬ女でもあるまいに。
イヤ、産むことは産んだ。川村との間の隠し子を産んだ。併し、流石の姦夫姦婦も大手違いをやって、わしの病気入院中に子供を拵えてしまったものだから、如何に図々しい彼等でも、それをわしの種だと云いくるめる術はなく、全身の腫物という奇想天外の口実を作って、やっとわしの目を逃れ、Y温泉の別荘でその子を産み落した。そして殺してしまった。何も殺さなくても、外に手段もあったろうが、そこは鬼の様な姦夫姦婦のことだ。我子に対する愛着など微塵もなく、ただ自分達の罪の発覚を恐れたのだ。
折角産みは産みながら、飛んだ手違いで、あわよくば、子爵家のあと取りにもなれる子を、あと取りどころか、命さえも奪わねばならなかったとは、悪事の報いは、わしの復讐を待たずとも、早そこにも現われていたというものだ。
それから又、相続者のことも考えないで、なぜこのわしを殺す様なヘマをやったか。これは恋に狂った川村のあと先考えぬ独断であったのだ。そのことでは、姦夫姦婦の間に悶着が絶えぬということが、あとで分った。瑠璃子にしては、いやな大牟田敏清を殺してくれたのは有難いが、その為に子爵家の実権を失うのが口惜しかった。あの財産を我がものにして、栄耀栄華が出来ぬのが残念だった。
だが、何が幸いになるか、姦夫姦婦の間にこの悶着があったればこそ、瑠璃子が子爵家の財産を失ったればこそ、わしの復讐計画があんなにも見事に成功したのだ。何ぜといって、瑠璃子が若し、元の様に子爵家の実権を握っていたなら、仮令わしがどれ程の資産を以て誘惑したところで、あの様にたやすくなびかなんだであろうから。
それはさて置き、そうして話し合っている内に、定めの時間が来た。午後八時という定めの時間が近づいて来た。誰と誰との間に定めた時間だか、それは今すぐ申上げる。
そこで、わしは洗面所へ立つ振りをして、次の室へ這入った。無論そこもわしの借り切りになっているのだ。そして、ドアを締めると鍵穴に眼を当てて、今か今かと事の起るのを待ち構えた。